2018-04

2018・3・20(火)狂言風オペラ「フィガロの結婚」 

      観世能楽堂  3時

 銀座にある「二十五世観世左近記念・観世能楽堂」で上演されたのは、モーツァルトのオペラ「フィガロの結婚」を狂言風に仕立てた出しもの。

 オペラからは、管楽八重奏に編曲した12曲ほどを抜粋、これをルツェルン音大の教授陣のアンサンブルという「クラングアート・アンサンブル」(管楽八重奏&コントラバス)が橋掛りに並んで演奏した(失礼ながらこれは、お上手だったとは言い難い)。

 さて、本舞台で演じられたのは、藤田六郎兵衛の脚本演出により、能と狂言に仕立てられた「フィガロの結婚」の縮小ストーリー版である。
 登場人物は、好色な中将・在原業平ならぬ「在原平平(アリハラノヒラヒラ)」(アルマヴィーヴァ伯爵)は人形だが、「北の方・橋の上」(ロジーナ、奥方様)は赤松禎友、「随身家路」(フィガロ、太郎)は野村又三郎、「女房梅が枝」(スザンナ、お花)は茂山茂、「小舎人童光丸」(ケルビーノ、蘭丸)は山本善之、樋洗童春菜「バルバリーナ、おあき」を茂山あきらがそれぞれ演じていた。
 邦楽部分の演奏は、太夫を豊竹呂太夫および三味線を鶴澤友之助。芸術監督は大槻文藏、音楽監修は木村俊光。

 アイディアは秀逸である。大いに推進していただきたいとは思う。
 とはいえこの種の試みの場合、泰西の原作と日本風アレンジとの兼ね合いは、常に議論の対象になるだろう。今日の上演を見ても、かなり練り上げていることは解るけれども、それでも両者の融合までには、もう一つ未だ距離があるような気がするのだが・・・・。

 今回はこの観世能楽堂での2日間の昼夜2回公演のあと、京都(けいはんなホール)と大阪(いずみホール)で1回ずつ上演の由。
 4時50分頃終演。地下鉄銀座線で上野に向かう。

2018・3・19(月)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢

      サントリーホール  7時

 2日前に金沢で音楽監督在任最後の定期公演を指揮した井上道義。そして、同じプログラムによる本日の東京公演が、音楽監督としてこのオケを指揮する最後のステージである。
 演奏されたのは、プーランクの協奏曲「オーバード(朝の歌)」(ピアノ・ソロは反田恭平)、ハイドンの交響曲第6番「朝」、第7番「昼」、第8番「夜」。アンコールは武満徹の「他人の顔」の「ワルツ」だった。コンサートマスターはおなじみ、アビゲイル・ヤング。

 ハイドンの交響曲では、各パートのソロの部分が多いが、井上道義の指揮でこれを演奏するOEKの弦の各パートの首席奏者のソロが、また実に見事である。井上もまた、彼ら奏者たちを全面的に信頼し、楽しみつつ指揮しているかのように見えた。

 ステージにあふれたその雰囲気は、2007年1月以来11年におよんだ彼とOEKの共同作業の締め括りとして、実に相応しいものであったと言えよう。それは、昨年2月、僅か3年で首席指揮者のポストに終止符を打った大阪フィルとの最後のステージでの光景とは、まさに格段の違いがあった。今日の井上は、OEKとの温かい告別を東京の聴衆の前で存分にアピールしつつ、演奏会を終えて行ったのである。

 なお、反田恭平のソロ・アンコールはシューマン~リストの「献呈」だったが、この音色の澄んだ美しさは絶品であった。

2018・3・18(日)大友直人指揮群馬交響楽団東京公演

     すみだトリフォニーホール  3時

 同時間帯にサントリーホールでは、小泉和裕と名古屋フィルが東京公演をやっている。
 時間がずれていれば、両方聴けたものを。せっかくそれぞれのオーケストラが腕に縒りをかけて、年に一度の東京公演をやるという貴重な機会なのに、もったいない話ではある。
 私も最初は名古屋フィルを聴きに行くことにしていたのを、「音楽の友」から演奏会評を依頼されたため群響に転換したわけだが、出来れば両方聴きたかったところなのだ。
 もっともこれは、オーケストラを責めても始まらない。スケジュールを決めたのは1年も2年も前のことだろうし、その時点で他のオケの動向などを調査するのは、まず不可能な業だからである。

 ともあれ、こちら群響の方は、プログラムが珍しい。
 エルガーの序曲「コケイン」、ラヴェルの「ピアノ協奏曲ト長調」(ソロは小川典子)、ヴォーン・ウィリアムズの「ロンドン交響曲」、という選曲。
 英国作品は、音楽監督・大友直人の得意のレパートリーである。期待に違わず、見事な演奏だった。

 大友は、ロンドン市街の雑多な光景を描く序曲「コケイン」と「ロンドン交響曲」で、時に雑然と入り乱れるさまざまな主題や楽想や音型を鮮やかに整理し、「雑踏と混乱の都ロンドン」に陥らせることなく、むしろヒューマンで生き生きした都というイメージさえ感じさせる演奏につくり上げていた。このあたりの音構築の巧みさは、彼のお家芸であろう。
 「コケイン」での、ホルン群がいっせいに咆哮し始めるあたりにかけての演奏の流れの良さは、聴いていて快くなるほどだったし、「ロンドン交響曲」でも「ビッグ・ベン」の音型や、それに続いて「オペラ座の怪人」のテーマを先取りするような物々しいモティーフなどが流れて行くくだりのパノラマ風の音の流れなど、実にいい。
 そして群響も、演奏水準の髙さを引き続き保っているのが嬉しい。コンサートマスターは伊藤文乃。

 ラヴェルの協奏曲では、その群響の豊麗な響きの中を、小川典子の毅然とした意志に貫かれた明晰な生々しいソロが切り裂くように進んで行くさまが、これも実にスリリングだった。彼女の演奏は、ある意味では硬質な鋭さを持っているが、無機的なところは全くなく、透明な明るさにあふれて、しかもスケールが大きい。このピアノ・ソロとオーケストラとのせめぎ合いの面白さも、今日のラヴェルでの聴きものの一つだったであろう。
   別稿 音楽の友5月号 演奏会評

2018・3・17(土)ベッリーニ:「ノルマ」(セミ・ステージ形式上演)

      Bunkamuraオーチャードホール  5時

 東京二期会オペラコンチェルタンテ・シリーズと銘打たれた公演。こういうシリーズ、聴いたことがないな、と思ったら、今回の「ノルマ」が第1回なのだとか。
 指揮はリッカルド・フリッツァ、東京フィルハーモニー交響楽団と二期会合唱団。歌手は明日とのダブルキャストで、今日は大村博美(ノルマ)、城宏憲(ポリオーネ)、小泉詠子(アダルジーザ)、妻屋秀和(オロヴェーゾ)、成田伊美(クロティルデ)、前田健生(フラーヴィオ)という顔ぶれ。

 合唱は舞台後方に板付きだが、その合唱団とオーケストラの間の高所にソロ歌手たちの動くスペースがある。此処で菊池裕美子の演出により、小道具や持道具等は一切無いものの、象徴的なシンプルな演技が行われる。
 舞台背景には映像(栗山聡之が担当)が投映されるが、これは序曲の間は写実的な光景(この個所での映像の変化は、音楽の変化とよく合っていた)が、本編の中ではやや抽象的な映像が写され、気分的な変化を生み出していた━━大詰は「炎」という予想通りの映像。

 歌手陣が揃って見事な出来を示す。
 大村博美は、ドルイドの巫女ノルマとしてはどうも温かすぎるような感があるが、安定した歌唱と演技を示してくれた。ポリオーネの城宏憲を聴くのは、4年ほど前に「明日を担う歌手たち」を集めた演奏会で素晴らしく張りのある歌唱に接して感心して以来のことになるが、ローマの将軍役にしては少し線の細い感はあるものの、明るい伸びのある声に魅力を感じさせる。

 アダルジーザ役の小泉詠子は、昨年秋の日生劇場での「ルサルカ」における「料理人の少年」での闊達さが印象に残っているが、今回のシリアスな役柄もなかなかよく、ノルマに友情を捧げる場面でのひたむきな演技表現といい、ノルマとの二重唱での表情豊かな歌唱といい、これは楽しみな人だ。
 オロヴェーゾ役の妻屋秀和は、これはもう、舞台を引き締めるには欠かせない歌手であり、歌唱の面でも演技の面でも、彼がいるだけで安心するという存在感の持主である。脇役の成田伊美、前田健生も好演。

 指揮はリッカルド・フリッツァ。この人の指揮はこれまでにも何度か聴いたが、非常に緊迫度の強い引き締まった指揮をする時と、きちんとまとまってはいるが生気のない平板な指揮をする時とがある。新国立劇場の「オテロ」などでは、その両方の特徴が示されていたはずだ。2013年秋にMETで聴いた「ノルマ」も、これほどやる気のない「ノルマ」の演奏は聴いたことがないという出来だったくらいである。
 が、しかし今日の東京フィルハーモニー交響楽団を指揮した「ノルマ」は━━1階15列という、舞台への至近距離で聴いたせいもあってか、劇的にも引き締まり、オケのバランスもよく、また歌手の声とのバランスも安定していて、旋律の美しさを充分に堪能させてくれる演奏に感じられた。そのわりに、歌手たちに比べ、彼へのブラヴォーの声が少なかったのは残念だが・・・・。
 東京フィルも、ステージに乗ると往時の「オペラの東フィル」の名声を取り戻す。

2018・3・17(土)高関健指揮東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 「バーンスタイン生誕100周年記念プログラム」と銘打った定期。
 「キャンディード」序曲、「セレナーデ(プラトンの饗宴による)」(ヴァイオリンのソロは渡辺玲子)、「ウェストサイド・ストーリー」の「シンフォニック・ダンス」、「ディヴェルティメント」というプログラムが組まれていた。

 今日は、お客さんの入りが非常にいい。このくらい入れば御の字、やはりバーンスタイン・プロの所為かと思ったが、聞けば高校生の団体鑑賞を入れたとのこと。まあ、だれが聴きに来ようと客席が埋まるのは大変結構。それにこの世代に楽しんでもらえれば、何らかの形で将来の聴衆の増加に結びつくだろうし。

 「ウェストサイド・ストーリー」の演奏の前に、マエストロ高関が面白い話をして客席を盛り上げた。
 「シンフォニック・ダンス」にはバーンスタイン自身による三つの版があり、少なくとも最初の二つの版では、「マンボ!」の掛け声はスコアに書いてないこと(バーンスタインがニューヨーク・フィルを指揮した初期の録音では「マンボ!」の声は入っていない)、だが1981年のタングルウッド音楽祭で演奏された際には、ここで聴衆から自然発生的に「マンボ!」の掛け声が起こったということ。

 「なので今日は皆さんにこの『マンボ!』をお願いします」と高関が客席に向かって言う。
  「まず練習しましょう。私が合図をします・・・・はい、ちょっと元気がないですね(客席から笑)。はいもう一度!(今度は客席の声も大きくなる)・・・・いいですけど、ちょっと(タイミングが)遅れてますよ」(客席から爆笑)などという一幕があって、さて本番では、オーケストラに負けない盛大な2回の掛け声が客席から勢いよく飛んだ。もしこれに高校生たちが大勢参加していたのなら、団体鑑賞を企画した事務局の作戦は図に当たったということになるだろう。

 「セレナーデ」では、渡辺玲子のソロも張りがあった。そして最後の「ディヴェルティメント」は華やかな盛り上がりなので、お客の反応も上々。高関とシティ・フィルはアンコールとして最後の陽気なマーチの部分だけをもう一度演奏し、幕切れでは「のだめカンタービレ」さながらにオーケストラ全員が立ち上がって、それぞれ派手な身振りをしながらフォルティッシモをとどろかせ、客を沸かせたのだった。

 今年はバーンスタイン記念プログラムが少なくないが、この選曲と演奏もいい。ノリを優先した、些か八方破れの演奏というところもあったが、シティ・フィルの定期でこれだけ客を巻き込んだのは素晴らしいことである。
 4時終演。山手通りでタクシーを拾い、渋谷のオーチャードホールへ向かう。

2018・3・16(金)TOKYO カンマー アカデミー コンサート

      TOKYO FM Hall  7時

 クラリネットの近藤良、チェロの茂木新緑、ピアノの白澤暁子のトリオを聴きに行く。これは近藤良が昨年立ち上げた「一般社団法人 東京カンマー アカデミー」のお披露目演奏会である由。

 近藤氏は、現在FM鹿嶋の社長さん(エフエムかしま市民放送株式会社代表取締役社長)を務めているが、「放送局の社長がクラリネットを吹く」のではなくて、「クラリネット奏者が放送局の社長になった」と謂う方が正しい。デトモルト音大のクラウス教授やアマデウス弦楽四重奏団に師事し、室内楽を中心に活動しているベテランだ。
 白澤さんも東京芸大からシュトゥットガルト音大に学んだ室内楽の名手だし、茂木新緑さんは元N響の奏者。

 とにかくこのトリオの演奏には、歴戦の名手の味とでもいうべきか、たとえ気鋭の若手であろうと新進の演奏家には出せない独特の温かさというものがあふれているのには感心させられた。
 今日のプログラムは、フェルディナント・リースの「変ロ長調作品28」、ツェムリンスキーの「ニ短調作品3」、ブラームスの「イ短調作品114」━━という3つの「三重奏曲」。
 随分渋くて、重厚で、長大な、気負った選曲だが、こういう生真面目な独墺系の作品集で勝負に出るところが、如何にもこういう経歴を持つ人たちの演奏会らしくて、これも面白かった。

2018・3・15(木)トゥガン・ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団

     サントリーホール  7時

 私の贔屓の指揮者ソヒエフが、彼にとって最も相性が良いと思われるトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団と一緒に、またやって来た。これが4度目の来日である。
 21日までの一連の来日演奏会の今日は初日で、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ハチャトゥリアン~ランパル編の「フルート協奏曲」(ソリストはエマニュエル・パユ)、チャイコフスキーの「白鳥の湖」抜粋(12曲)。

 今回もまた、演奏が華麗だ。「ルスラン」の序曲における、トゥールーズのオケの管楽器群が実にきらきらと輝いているのがいい。色彩感のない音で真面目くさって演奏された時ほど、この曲がつまらなく聞こえることはないのだから。

 替わってエマニュエル・パユが登場。ハチャトゥリアンの協奏曲は、このようにフルート用に編曲されてしまうと原曲の「ヴァイオリン協奏曲」の野性味が薄められてしまうので私は好きではないのだが、パユの超絶技巧的な演奏なら、まあそれなりに楽しめるだろう。ただ今日は、彼がアンコールとして吹いたドビュッシーの「シランクス」の静謐な美しさがあまりに見事で、これが完全に毒消しのような役目を果たしてくれたような感。

 「白鳥の湖」を外来のオーケストラがこのような形で演奏するのは、招聘マネージャーのI氏も言っていたように、非常に珍しいと言えるだろう。世の中には、この種のプログラムを、何となくバカにする風潮がないではない。
 しかし、ソヒエフと彼のオーケストラによるこういう演奏を聴けば、この作品が如何に色彩的な管弦楽法に富んでいるか、チャイコフスキーの音楽の「持って行き方」が如何に巧いか、などということも理解されるのではないか。

 「4羽の白鳥の踊り」でのバス―ンの洒落たリズム感、「ハンガリーの踊り」や「スペインの踊り」でのオーケストラの多彩な音の変化などの見事さ。憂愁に満ちた個所では、ロシアの冬の澄み切った静けさを思い出させる。
 「終曲」の結尾部分の壮大な昂揚個所が意外にあっさりしていたことだけは少し物足りなかったが(ここはいつかのN響との演奏の方がダイナミックだったかもしれない)、「白鳥の湖」の音楽がこれだけ生き生きと表情豊かに演奏されてくれれば、チャイコフスキー愛好者を公言する私としては嬉しい限りではある。

 オーケストラのアンコール曲は、またビゼーの「カルメン」第1幕前奏曲の前半部分(毎回こればかりやっている)。
     →別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2018・3・14(水)新国立劇場 ドニゼッティ:「愛の妙薬」

     新国立劇場オペラパレス  7時

 チェーザレ・リエヴィの演出、ルイジ・ペーレゴの舞台美術、マリーナ・ルクサルドの衣装により2010年4月にプレミエされたプロダクション(4月23日の項)。その後2013年にも再演されているが、その時は、私は観ていない。今日は再演の初日で、このあと16、18、21日にも上演される。

 舞台はもちろん、同じだ。冒頭でアディーナが読んでいる「トリスターノとイゾッタ(トリスタンとイゾルデ)」の書物の形および妙薬「ELISIR」の文字をモティーフにした装置と、登場人物たちの服や髪の色などを含め、極めてカラフルな光景の中で繰り広げられる。
 舞台としてのまとまりはいい━━はずなのだが、この新国立劇場特有の不思議な雰囲気の所為か、それとも初日公演の所為か、何か一つ熱気というか、活気というか、沸き立つものが感じられないのが問題である。小奇麗につくられてはいるし、何処と言って破綻はないのだが、何か「燃えない」のだ。
 新国立劇場のプロダクションには、何故いつもこういう雰囲気が付きまとうのか、謎である。今日はその上、フレデリック・シャスラン指揮する東京フィルの演奏からして、弾むような楽しさというものが希薄な、平板な演奏と来ている。

 歌手たちは、精一杯やっている。アディーナ役のルクレツィア・ドレイと、ネモリーノ役のサイミール・ピルグが明るく伸びのある声で聴かせていた。他にレナート・ジローラミ(ドゥルカマーラ)大沼徹(ベルコーレ)、吉原圭子(ジャンネッタ)、新国立劇場合唱団。
 9時35分頃終演。
       →別稿 音楽の友5月号 演奏会評

2018・3・13(火)ヤープ・ヴァン・ズヴェーデン指揮NYフィル

      サントリーホール  7時

 ニューヨーク・フィルハーモニックが演奏するストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴くのは、思えば57年ぶり(!)のこと。1961年5月、気鋭の「若手」指揮者レナード・バーンスタインとの初来日の時だった。
 あれは東京文化会館の杮落し演奏会の一環だったが、当時の日本では彼の名は未だ広く知られていなかった(映画「ウェストサイド・ストーリー」が日本で公開されたのはその年の暮になってからだ)ため、客はガラガラ。半分くらいしか入っていなかった、そんな時代だった。

 今回は、満席の聴衆の中で、ヤープ・ヴァン・ズヴェーデンが指揮した。今秋からこのオケの音楽監督に就任することになっているオランダ出身、58歳の指揮者である。
 演奏したのは、ブラームスの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはユジャ・ワン)と、その「春の祭典」と、アンコールにワーグナーの「ワルキューレの騎行」━━というプログラム。

 ヴァン(ファン)・ズヴェーデンの個性はたしかにオケにも既に反映されていて、ニューヨークのオケというより、ヨーロッパのローカル・オケのような色合いを感じさせていたが━━演奏の呼吸が真に合うようになるのは、未だこれからだろう。
 特に「春の祭典」では、ヴァン・ズヴェーデンは、突然急激なアッチェルランドをかけたり、また妙に慌しく前のめり的に次の主題やフレーズへ突っ込んで行ったりすることがあり、そういう際にはオーケストラのアンサンブルが乱れることが多い。合わなくなるのを構わず、猛烈なテンポで突き進むことも多い。

 アンサンブルの「合う・合わない」などという問題は、音楽が昂揚さえしていれば、必ずしも重要なものではないというのが私の考えだが、それにしても今日の演奏は、ニューヨーク・フィルにしては随分ガタガタしていて、あまり練習していなかったんじゃないかとも思わせた。
 その一方で、演奏の密度という点においても、さほど濃さを感じさせなかったのである。ブラームスの協奏曲では、その緊張感の低さが特に目立ったのではないか。ソリストのユジャ・ワンとの交流もあまり密なるものを感じさせず、指揮者はソリストに構わずどんどん進んで行くという趣で、全曲最後の個所など、まさにそんな雰囲気であった。
 「ワルキューレの騎行」の方は、猛烈に威勢よく、威圧的に鳴り響いた。

 ニューヨーク・フィルは、ズービン・メータ以降、音楽監督の選定においては意外な方向を打ち出す傾向がある。このヴァン・ズヴェーデンも、今後どのような関係をこのオケと築いて行くのか、注視したいところである。

 そういうわけで、あのユジャ・ワンも、今日はいつもと全く雰囲気が違った。演奏が何か暗く、几帳面で共感に乏しいように聞こえたのは、彼女とブラームスとの相性のためか、それとも今日の指揮者とオケとの相性のためなのか? いずれにせよ、この曲が今日は不思議に無表情な曲に感じられたのである。
 それゆえ、彼女がアンコールで弾いたシューベルト~リスト編の「糸を紡ぐグレートヒェン」とメンデルスゾーンの「失われた幻影」の方がずっと彼女らしく、澄んだ表情で瑞々しく、気持のいい演奏だった━━但し2曲やるのは多すぎるだろう。
 彼女が2曲目を弾き終って、拍手のうちに「快速答礼」をした途端に、コンサートマスターや他の楽員たちが、もう充分、とばかりサッと立ち上がって引き上げはじめたのも、少々露骨で、あまり感じのいいものではなかった。どっちもどっち、というところか。

2018・3・11(日)宮本亜門演出 モーツァルト:「魔笛」

     よこすか芸術劇場  2時

 リンツ州立劇場と東京二期会の共同制作で、2013年にリンツでプレミエされ、2015年7月(19日の項)に東京でも上演されたプロダクションの再演。

 仕事の行き詰まりが原因で自棄的になり、一家の崩壊を招いた男が、「魔笛」という「誰でも英雄になれるドラマ」のゲームを体験することにより自信を取り戻し、健全な家庭を取り戻す━━という設定の、宮本亜門のあの演出である。プロジェクション・マッピングを活用した舞台として、当時話題になったものだ。
 今回の上演は、「神奈川県民ホール巡回事業」の一環で、「神奈川県民ホール・オペラ・シリーズ2018 出張公演」となっている。ホールが改修中なので、ここ横須賀の劇場が使われた由。今月18日には相模女子大グリーンホールでも上演されるとのこと。

 今回の出演は、鈴木准(タミーノ)、幸田浩子(パミーナ)、萩原潤(パパゲーノ)、大塚博章(ザラストロ)、鹿野由之(弁者)、安田麻佑子(夜の女王)、高橋淳(モノスタトス)、九嶋香奈枝(パパゲーナ)、その他の皆さん。二期会合唱団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、指揮が川瀬賢太郎。

 まず第一に、川瀬賢太郎の指揮がいい。神奈川フィルを引き締まった音で響かせ、歯切れよくたたみ込み、盛り上げる。全体にすっきりとした自然な端整さを湛えているが、テンポやデュナミークにも極めて細かい神経を行き届かせているといった指揮だ。
 ごく一例だが、序曲の途中と第2幕の最初で繰り返される有名な和音で、最初の16分音符に続く二つ目の2分音符と三つ目の2分音符を、巧く有機的な関連を持たせて響かせている━━喩えれば、三つ目の2分音符が、二つ目の2分音符に対するエコーのような色合いで響く━━ことにはなるほどと思い、不思議な快さを味わった次第なのである。この人の指揮するモーツァルトを、もっと聴いてみたい気がする。
 神奈川フィルも、透明な爽快さで鳴りわたっていたし、最近のこのコンビの快調さを示しているようであった。

 歌手陣。
 鈴木、幸田、高橋ら、前回に引き続いて出演している人たちは、演技も歌唱もさすがに慣れたもの。安田も夜の女王役を、やや力づくといった感ではあったものの、良く歌っていた。パパゲーノの萩原潤は、軽快な味を出していたが、他の主役たちとのコントラストという意味で、もう少し「濃い」表現があれば、と思う━━つまり鈴木と幸田が所謂すっきり型の個性なので、前回の黒田博のようにパパゲーノが狂言回し的な強い存在感を出さないと、この舞台全体が軽くなってしまうのである。萩原さんが悪いという意味では全くないが、個性のバランスの点で、他の共演の人たちも含め、今回のキャスティングには、もう一工夫あってもよかったような気がする。

 演出はもちろん前回の上演と同じはずだが、━━しかし、「魔笛」のドラマの本編と、序曲の中で繰り広げられる夫(本編ではタミーノ)の横暴、妻(本編ではパミーナ)の家出などの寸劇、及びラストシーンにおける一家の大団円の光景などとの関連性が、前回はもっと明確に感じられた記憶があるのだが、こちらの錯覚か? プロジェクション・マッピングの映像も、前回はもう少し絢爛としていたように思うのだが・・・・。
 5時少し過ぎ終演。
     別稿 音楽の友5月号 グラビア

2018・3・10(土)井上道義指揮大阪フィルハーモニー交響楽団

     フェスティバルホール  3時

 バーバーの「ピアノ協奏曲」、ショスタコーヴィチの「交響曲第2番《十月革命に捧げる》」と「交響曲第3番《メーデー》」。
 ピアノはアレクサンデル・ガジェヴ、合唱は大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮・福島章恭)。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 大阪フィルの定期では、毎回必ず福山修・演奏事業部長兼事務局次長が開演前にホワイエで小規模なプレトークを行なうが、これは結構な人気のようだ。最近はスピーカーの音量もやや上がったので声が聴きやすくなったこともあり、数十人の客が演壇を囲むようにして耳を傾けている。
 質問コーナーでは熱心な質問も飛ぶが、これはいかにも関西ならではの雰囲気だろう。今日も「演奏会のプログラムはどういう手順で決めるのか」「井上さんは(今後)ショスタコーヴィチの交響曲を全部やるのか」などをはじめ、「大阪フィルの演奏が日によってガタッと違うのはどうしてか」というきわどい質問までぶつけられていた。
 東京の演奏会でこの種のトークをやっても、こういう開放的な質問はまず出ないだろうと思う。面白い。

 ところで私は、昨年4月から1年契約で、大阪フィルの定期公演のプログラム冊子の解説を担当させていただいていたが、最後の回に当たる今月の定期分で、ショスタコーヴィチの「第2交響曲」に関する一文の中にあり得ないようなミスを生じさせてしまい━━根拠の全くない余計な一語を混入させたままにして、しかもそれを著者校正の際にもうっかり見逃してしまったため、お客さんにご迷惑をかけたことを、せめてこの場でお詫びしておきたい。
 もっとも会場では、マエストロ井上みずからトークで、2千人のお客さんの前でご丁寧にも私の名を挙げ、間違いをわざわざ詳しく説明してみせて笑いのネタにし、「今日は東条さんもここにお見えになっているそうだけど」と、何ともまァ念の入った扱いをして下さったが。

 それは別として、公正に言えば、演奏の方は、見事な出来であった。
 井上道義は、昨年2月の首席指揮者在任最後の定期でも「第11番」と「第12番」を一夜に演奏するというプログラムを組んでいたが、今回の「2番」と「3番」を一緒にやるというプログラムも、演奏時間こそ短いとはいえ、やはり大変な重量感であることは間違いない。
 彼は2007年に日比谷公会堂でショスタコーヴィチの交響曲全15曲をツィクルスで演奏したことがあり、その初日(11月3日)に、「第1番」とともにこの「第2番」と「第3番」を取り上げたことがあるが、演奏の印象という点から言えば、今回は格段の充実が感じられた。大阪フィル、大阪フィル合唱団ともに、極めて熱気のこもった、昂揚感にあふれた演奏だったのである。彼がもっと長く大阪フィルの首席指揮者を続けられていたら、彼のショスタコーヴィチの集大成が実現できたかもしれないのに、惜しいことであった。

 なお今日は邦訳歌詞(一柳冨美子訳)が舞台正面の反響版上方に映されていた。これも、この演奏をより身近なものとするのに役立っていただろう。

 話が前後したが、第1部ではバーバーの「ピアノ協奏曲」が演奏され、ガジェヴが明晰かつスケールの大きな演奏を聴かせてくれた。滅多に聴ける機会のない曲だが、ナマでこういう優れた演奏で聴くと、更にいい曲に感じられる。彼のソロ・アンコールはショパンの「前奏曲 作品45」だったが、これまたすこぶる透徹した美しさに富んでいた。2015年暮の浜松国際コンクール(優勝)以降、素晴らしい進境を示しているようである。

2018・3・8(木)下野竜也指揮広島交響楽団

         すみだトリフォニーホール 7時

 「すみだトリフォニーホール開館30周年記念」および「すみだ平和祈念コンサート2018《すみだ×広島》」と題された演奏会。1945年3月10日の所謂「東京大空襲」の惨禍に因んだ平和を祈念する音楽の催事は既に1997年から━━毎年必ずというわけではなかったが━━行われて来ており、今年は規模を拡大し、関連イベントも交えて開催されている。

 さて、国際平和文化都市・広島から参加した広響とその音楽総監督・下野竜也によるプログラムは、先日の日本フィルとの演奏会におけるものと同様、いかにも下野らしい選曲配列で、心に訴える効果を生む。
 最初にゼレンカの「ミゼレーレ」(下野編曲)とベートーヴェンの「英雄交響曲」の第2楽章(葬送行進曲)がアタッカで演奏されたが、悲痛な慟哭にあふれた1曲目から切れ目なしに深々とした追悼の音楽へ続くこの流れは、非常に感動的だ。そのあと、藤村実穂子をソリストに迎えてマーラーの「亡き子をしのぶ歌」が演奏され、第1部が終る。

 この悲しみの世界を振り払い、未来への希望を歌うのが第2部の━━何だかPRチラシのコピーみたいな書き方で気が引けるが━━シューマンの「第1交響曲《春》」というわけで、ここではすべてが一転、第2楽章こそ絶妙な叙情美の世界とはなっていたが、他の3つの楽章は、すこぶる開放的で奔放なエネルギーにあふれた演奏になった。
 それは前任の音楽監督・秋山和慶時代の緻密な音づくりとはかなり異なる特徴を示すもので、活気は充分ながらおそろしく荒っぽいところはどうかな、と思わないでもなかった。ただし、第4楽章終り近くでホルンが一瞬不安定さを見せると、その直後からはオーケストラ全体が突然慎重になり、バランスを整えたおとなしい演奏になってしまった(少なくともそう聞こえた)のは予想外。

 しかし、こういうハプニングがあるからこそ、ナマの演奏会というのは人間味があって面白いのである。
 アンコールは、下野自身がまたマイクを執ってスピーチしながら、シューマンの「天使の主題による変奏曲(最後の楽想による幻覚の変奏曲)」からの「主題」(野本洋介編曲)を演奏。

2018・3・6(火)ロンドン交響楽団パーカッション・アンサンブル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 9月のラトルとの来日公演に先立ち、ロンドン響の打楽器奏者を中心とする6人のアンサンブルがやって来た。
 この6人のうち、ロンドン響の打楽器奏者はニール・パーシー、デイヴィッド・ジャクソン、サム・ウォルトンの3人。他に元ロンドン響奏者で現在はロンドン・フィルの首席奏者であるサイモン・キャリントン、それにゲスト(?)のフィリップ・ムーアとジョセフ・ハヴラットが加わっている。

 プログラムは、チック・コリアの「デュエット組曲」、ジョー・ロックの「Her Sanctuary」,ジョン・アダムズの「ロール・オーヴァー・ベートーヴェン」、小曽根真の「Kato’s Revenge」、スティーヴ・ライヒの「木片のための音楽」および「六重奏曲」。うちチック・コリアと小曽根の作品には、キャリントンの編曲の手が加えられている由。

 ヴィブラフォンやマリンバ、ドラム、タムタム他の打楽器にピアノまで入って来るサウンドの豊かさは、そのかみの有名なストラスブール・パーカッション・アンサンブルとはまた異なり、鋭角的で複雑なリズムの饗宴というよりも、甘美で陶酔的なモアレ・ミュージック(古いネ)のような効果を生み出す。ナマ音と小型スピーカーによる拡声音とがミックスされて舞台一杯に柔らかく拡がるハーモニーも、何とも言えぬ快感を呼び起こすのである。

 ピアノ2台によるジョン・アダムズの作品は意外につまらなかったが、ジョー・ロックの「Her Sanctuary」など実に豊麗であり、第2部でのライヒの作品2曲の音色の多彩さも魅力的だった。
 「木片のための音楽」は、6人の奏者がそれぞれ音程の異なるウッドブロックをたたいて演奏する曲なのだが、このリズムの中に日本の祭囃子のようなものが二つ三つ現われるのは笑えるし、演奏にはあのテリー・ライリーの「in C」に似た手法が応用されていたのも興味深い。

2018・3・6(火)N響の「ウェストサイド・ストーリー」演奏会形式上演

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 レナード・バーンスタイン生誕100年記念として、パーヴォ・ヤルヴィとNHK交響楽団が「ウェストサイド・ストーリー」を演奏会形式で上演した。「シンフォニー・コンサート版」とクレジットされている。

 主な出演者は、ジュリア・ブロック(マリア)、ライアン・シルヴァーマン(トニー)、アマンダ・リン・ボトムス(アニタ)、ティモシー・マクデヴィット(リフ)、ケリー・マークグラフ(ベルナルド)。脇役として竹下みず穂、菊地美奈、田村由貴絵らも華を添え、ジェッツ団とシャークス団には東京オペラシンガーズが、「ガールズ」には新国立劇場合唱団が出演した。

 「ウェストサイド・ストーリー」を演奏会形式で、しかもセリフを最小限として音楽中心で上演するというのは、かなり難しい業だろうと思う。今回の上演でも、音楽の演奏は充分に愉しめるのだが、ミュージカルの原作のストーリー(映画とは少し異なる)を詳しく知っていればともかく、プログラム冊子の解説を読んだだけでは、それがどのようなシチュエーションで歌われ演奏されているのか、しかと判りにくい個所がある。字幕のスクリーンでいいから、簡単に場面説明でも入れておいたら、更に多くのファンが愉しめたのではないか。

 パーヴォ・ヤルヴィが指揮するN響の演奏は、冒頭は何となくリズムが甘く重く、メリハリに欠ける向きもあったが、これはこのホールの残響の所為だったかもしれない。とにかくN響は、上手い。米国のオケのようなスウィングに不足するのはやむを得ないが、熱気は充分で、「アメリカ」や「ランブル」など見事に盛り上がっていた。

 主役ソロ陣はPAを使用しているが、特にトニー役とマリア役の歌手は雰囲気がある。日本人男声の脇役も━━妙に「不良少年」っぽく見せるジェスチュアが何ともクサかったけれども━━英語の歌唱で頑張った。この合唱は、ほぼPAなしか?「アメリカ」では、ガールズのコーラスがほとんど聞こえなかったが・・・・。
 上演時間は、休憩30分を含み約2時間5分で、5時10分には終った。続いて新宿はオペラシティに移動。

2018・3・5(月)英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマ「リゴレット」

     東宝東和試写室  6時

 1月16日ロイヤル・オペラ上演のライヴ中継映像。
 演出がデイヴィッド・マクヴィカー、指揮がアレクサンダー・ジョエル。主演歌手は、ディミトリ・プラタニアス(リゴレット)、ルーシー・クロウ(ジルダ)、マイケル・ファビアーノ(マントヴァ公爵)、アンドレア・マストローニ(スパラフチレ)。

 米国のMETと違い、英国のロイヤル・オペラはやることが結構過激だから、ステージにはかなり露骨な光景も繰り広げられる。
 マクヴィカーのこの演出は、オーパス・アルテから出ている2001年のライヴ映像DVDにおけるものとほぼ同じ(但し映像はDVDの方が明るい)で、宮廷と廷臣たちの頽廃、狂態、無法ぶりが、非常に「いやらしく」浮き彫りにされている舞台だ。

 その上、ジルダを歌い演じているクロウが箱入り娘的な性格表現を巧く出しているので、その放埓な世界との対比が鮮やかに描かれているとも言えよう。ファビアーノもプラタニアスもそれなりに好演だし、まずは満足できる「リゴレット」であると言える。ほぼノーカットで演奏されているのも有難い。

 この「英国ロイヤル・オペラ・ハウス シネマシーズン」のシリーズは、休憩時間に指揮者がピアノを弾きながら音楽解説をする映像を入れているのが売りものの一つだが、今回のジョエルの解説もなかなか参考になる。
 なお今回の上演は、昨年世を去った名歌手ディミトリ・フヴォロストフスキーに捧げられており、彼の映像も挿入されていた。本当に惜しい歌手を喪ったものだと、改めて胸がいっぱいになる。
 上映時間は約3時間。今月9日から15日まで、東宝東和の配給により一般上映の由。

2018・3・4(日)びわ湖ホールプロデュースオペラ「ワルキューレ」2日目

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 ダブルキャストの2日目は、望月哲也(ジークムント)、田崎尚美(ジークリンデ)、山下浩司(フンディング)、青山貴(ヴォータン)、池田香織(ブリュンヒルデ)、中島郁子(フリッカ)。ワルキューレたちは、基村昌代、小川里美、澤村翔子、小林昌代、岩川亮子、小野和歌子、森季子、平館直子。昨日の組もそうだったが、ワルキューレたちの中には主役を張る人たちも混じっている。

 予想通り、今日は第1幕からオーケストラが快調に飛ばし、鳴り響いた。昨日の演奏は何だったのかと思わせるような、良い出来であった。
 第1幕のあとの休憩時間、われわれワグネリアン・ロビー雀どもも、口をそろえて「昨日よりいいよね」「うん、今日はいい」と盛んに囀る。
 第3幕では、いい演奏でワーグナーを聴いた時に湧き起こる、あの独特の陶酔感も久しぶりに蘇ったのである。「ヴォータンの告別」のシーンでは、父と娘が強く抱きあうタイミングが音楽の動きに対して多少ずれ気味だったけれども━━昨日は見事に合っていた━━舞台構図と併せて、すこぶる感動的であった。知人から聞くところでは、涙を流していた人もいたとのこと。
 沼尻竜典と京都市響、これで昨年の「ラインの黄金」に続いて、今年も評価を確立したことになる。

 歌手陣。
 青山貴のヴォータンを聴くのは、もう何度目か。今や完璧な嵌り役の、立派なヴォータンである。一方、ジークリンデの田崎尚美が、上品で可憐な妹といった感で、いい味を出した。
 そして期待の池田香織は予想に違わず素晴らしく、所謂女傑的でないブリュンヒルデを見事に表現した。第2幕冒頭の「ホ・ヨー・トー・ホー」からして若々しく澄んだ声で魅力充分、フリッカの場面の終りに遠方から響いて来る彼女の声は、初々しい少女戦士の雰囲気に富んでいて、ハッとするほど美しかった。
 ただ、第3幕前半の大勢のワルキューレらとの場面のみ、何故か声が異様に鋭かったのは━━彼女だけではなく、ほぼ全員がだが━━PAでも使っていたのだろうか? PAがどの程度使われているのかなどについては、私は一切承知していないが、第3幕冒頭でのヘルムヴィーゲの最初の声だけが━━昨日も同じ個所でそうだったのだが、入力過剰気味に響いていたのが解せない。これはPAの失敗ではないのか。
 山下浩司、中島郁子らもそれぞれの持ち味を出した。望月哲也も、もちろん力はあるのだが、最近の彼はますますヴィブラートが強くなり、物々しい歌い方になって来ているような気がするのだが・・・・。

 演出と演技は、前日とほとんど変わらない。ダブルキャストとなれば、たいてい、歌手によって少し違いが出るものだが、今回はハンぺ先生の指示が徹底していたのだろうか。目立った大きな違いと言えば、ジークムントが最後にジークリンデに向かって手を差し伸べるという昨日の演技が、今日は見られなかったことくらいかもしれない。

 カーテンコールでは昨日と同様、大拍手とブラヴォ―に交じって、ハンぺ、ギールケらの演出チームに僅かながらブーが飛んだ。このような「保守的な」演出に対しては、異論のあるファンがいても不思議ではない。関西のファンか、それとも東京あたりから来た人によるものか、昨日と同じ観客によるものかどうかは、判らない。が、びわ湖ホールではまだブーイングをする元気のいいファンがいるのにはちょっと安心した。当節、東京では新国立劇場にせよ、東京二期会公演にせよ、ブーイングというものがほとんど聴けなくなっているからである。

 新国立劇場でも、開館初期の何年間かは随分賑やかな雰囲気だったが、オペラ部門のある芸術監督が客席を駆け回り、ブーを飛ばした客をつかまえ、「ブーブー言うのは止めなさい!」と怒鳴りつけたという噂が広まって以降、客席の雰囲気は変わってしまった。同芸術監督は、私が「グランドオペラ」誌でインタヴュ―した際にも、「ブーイングなんて、歌手に対して失礼ですよ」と、憤然たる面持で明言していたくらいだから、その噂も、さもありなんと思われる。もっとも、ブーイングする客がいなくなったのには、他にも理由があるだろうが。

 先日の深作健太演出の「ローエングリン」など━━ああいう演出の場合、もっと反対意見のブーイングが盛大に起こり、ブラヴォーの声と拮抗するくらいの熱気がないものだろうか? 
 私は、ブーイングをすること自体がいいなどと言っているわけではない。
 だが、特に演出の場合には、全員が賛成意見(ブラヴォー)ばかりでは、まるで独裁国家か、戦時中の大政翼賛会のようで、むしろ異常である。こういう調子では、オペラの将来はあまり明るくないだろう。もっと喧々諤々の議論が欲しいのである。

 以前、ラッヘンマンの問題作「マッチ売りの少女」がサントリーホールで初演された際、客席からはブラヴォーの声ばかりが飛んだが、それを聞いたラッヘンマンは「日本の聴衆は本当にこの曲を解ってくれたのだろうか」と不安げに語ったそうである。
 また、ある政治家だったか、誰だったが言ったという名文句がある。「おれは、お前の意見には絶対反対だ。だが、お前がその意見を言える権利と自由は、絶対に守ってやるぞ」。もちろんその「意見」は、口汚い感情的なものでなく、筋の通った理性的なものでなければならないが。
      →別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2018・3・3(土)びわ湖ホールプロデュースオペラ「ワルキューレ」初日

     滋賀県立劇場びわ湖ホール  2時

 びわ湖ホールが昨年から開始したワーグナーの「ニーベルングの指環」ツィクルスの第2年「ワルキューレ」。芸術監督の沼尻竜典が指揮する京都市交響楽団、ミヒャエル・ハンぺ(演出)、ヘニング・フォン・ギールケ(舞台美術・衣装)、齋藤茂男(照明)。

 歌手陣は、ワルキューレ全員を含めてダブルキャストである。今日は初日で、アンドリュー・リチャーズ(ジークムント)、森谷真理(ジークリンデ)、斉木健司(フンディング)、ユルゲン・リン(ヴォータン)、ステファニー・ミュター(ブリュンヒルデ)、小山由美(フリッカ)。他のワルキューレは、小林厚子、増田のり子、増田弥生、高橋華子、佐藤路子、小林紗季子、八木寿子、福原寿美枝。

 あふれんばかりの期待のうちに上演が始まったが、━━沼尻竜典と京都市交響楽団の演奏が、第1幕ではどういうわけか、例年のこのコンビの演奏からは想像できないくらい、熱気に乏しい。つまり、ノリが悪かったのである。
 沼尻の指揮の設計にも、疑問を呈したいところがなくはなかった。暗鬱な前半(フンディングとジークムント兄妹の場面)と、明るさが生まれる中盤(兄妹の愛の場面)との演奏において、テンポや音色などに対比が全く感じられず、最初の重く沈んだ雰囲気がずっと続いて行ったのである。この2人がいくら悲劇的な運命に支配されているからといっても、音楽の構成には、常に明暗・緩急の対比が盛り込まれているはずだと思うのだが・・・・。

 その上、歌手たちの歌唱も演技も、何となく密度が薄い。ジークムントのリチャーズが、聴かせどころの「ヴェルゼ! ヴェルゼ!」の1回目のフェルマータを全然利かせなかったのはどういうわけか? ジークリンデ役の森谷真理も歌詞と歌唱になぜかメリハリが不充分。フンディングの斉木健司は、もともと不愛想な役柄だから、それなりの暗さを聴かせていたけれども。

 休憩時間に話したワグネリアンの知人たちも、私と同様、みんな首をひねる。「おかしいですねえ」「全然盛り上がりませんねえ」という具合だ。
 だが幸いにも、第2幕での演奏は、中盤以降から次第に上向いて来た。
 次の休憩時間での「室内楽的な綺麗さはありましたねえ」という意見は、好意的な表現かもしれなかったが、私もさしあたりは同感である。「でも第3幕は、もう少し壮大になってほしいよねえ」「なんたって、ワーグナーなんですからねえ」

 そうして始まった第3幕の「ワルキューレの騎行」の最初の弦の閃きが、あまりに機械的で表情に乏しかったので、今日はやっぱり駄目か、と一瞬落胆させられたものの、それは幸いにも杞憂に終る。「騎行」の途中からは、演奏はみるみる熱気を帯びて行った。これこそが、例年の沼尻と京都市響の音楽である。

 「ジークフリートの動機」が初めて登場した後、それが繰り返される後半部分のヴィオラとチェロが、これだけ優しく、救いを感じさせるように演奏されたのを、私は聴いたことがない。
 怒りに燃えたヴォータンが登場するあたりの京都市響の怒号も凄まじく、一転してヴォータンの「もはやお前に口づけしてやることもない」の歌詞の背景に流れる音楽の中で、哀愁をこめてオーボエが上昇し、大神の内心にある悲しみの念を描くあたりの叙情的な演奏も、期待通りのものがあった。また「ヴォータンの告別」の音楽は、厳上に佇立する父娘の美しい姿と合致して深い情感を沸き上がらせ、絶品であった。
 
 こういう━━第3幕に、それも第3幕だけに頂点を持って来る演奏構築は、最初から指揮者の意図だったのかもしれないが、それにしても程度によるだろう。客の立場から言うと、あまり嬉しくはない。
 この各幕の演奏の出来に対し、今日の観客の反応は、ブラヴォーの声の量を含めて、まことに正直なものがあった。

 ミヒャエル・ハンぺの演出は、ヘニング・フォン・ギールケの舞台美術とともに、予想通り基本的に台本に忠実で、ただありのままに、というスタイルだ。これくらい、写実的で解り易い演出はない。
 しかしそれは、「何もしない」という、所謂アイディア不足の演出では決してないことは、明言していいだろう。登場人物の演技には、両手を広げて客席を向いて歌うだけ、などという陳腐な手法はもう見られない。すべての場面で、それなりの微細な表情が徹底されているのである。

 とりわけヴォータンの、ジークムントやブリュンヒルデへの愛と、それを貫く自由さを持てぬ悲哀の感情を、ハンぺの演出が、実に詳細に描き出していたのを見逃してはならないだろう。
 第3幕でのヴォータン(ユルゲン・リン)の演技は極めて微細で、ブリュンヒルデを威嚇し、怒号する場面でさえも、その表情には時に秘かな苦悩の表情が浮かんでいた。「ヴォータンの告別」のシーンはもちろん、「この槍を恐れる者は火を踏み越えてはならぬ」と宣言した後でもなお厳上に立ち尽くし、娘の上に愛し気に手をかざして見つめているといった深い情感に富んだ演技は、他の演出ではあまり見られないものだ。第2幕で、非業の死を遂げた息子ジークムントの眼を閉じてやるといった演技も同様である。

 ただし、その場では、よくあるような、ジークムントが死の間際に懐かしい父を認めるといった演技は、今日の舞台では見られなかった。ジークムントはむしろ、フンディングを憎々しげに睨みつけ、最後の力を振り絞ってジークリンデの方に手を差し伸べるという動作を行なっていた。これは珍しい演出だろう。
 そしてその幕切れでは、ヴォータンはブリュンヒルデを追って早めに舞台から去り、あとには2人の男の亡骸だけが残っている光景が通常より長く続く。これも感動的だった。

 歌手陣は、今日はよく言えば実に「さまざま」で、舞台としてのバランスには多少問題があったように感じられた。ユルゲン・リンは、やはりトシ取ったかなという雰囲気だったが、滋味はある。今回の演出では、横や斜めを向いて歌うシーンが多いので、声の点では多少損をしているところもあったかもしれない。リチャーズと森谷真理は尻上がりに調子を出して行き、特に後者は第3幕で力を全開したといった印象。ステファニー・ミュターと斉木健司と小山由美は、責任を果たしていた。

 ギールケの舞台装置は、流行のプロジェクション・マッピングを主体としたものだ。森の中だろうとフンディングの館だろうと、桜の園だろうと、瞬時に切り替えられるこの技術的システムは、実に便利である。ただ、今回は思ったよりは控えめな使用であった。
 「ワルキューレの岩山」は、岩が下手に向かって船の舳先のように突き出した形状で、それは1930年代のバイロイトで有名だった、エミール・プレトリウスの舞台装置に酷似している(そこまで似せていいのか?)。
 第3幕で、馬に乗ったワルキューレたちの映像が空を飛んで行くといった趣向は、甚だマンガチックではあるが、こういうのはむしろ、挿入されたユーモアととらえておいた方がよかろう。ラストシーンの「魔の炎」は、舞台手前の紗幕と背景とに映写される「火」の映像だが、これはすこぶる盛大だったものの、些か魔性的な雰囲気を欠くタイプのものであった。

 ともあれ、このように、今日では希少な存在となった演出スタイルをも大切にしておきたいというのがびわ湖ホールの━━というより、沼尻芸術監督の方針のようである。それはそれで一つの存在意義を持つだろう。

 字幕は故・三宅幸夫氏のもの。時に大時代がかった演歌的(?)な表現も見られるのは事実だが、実に明快で読み易く、解り易い。ドラマの緊迫感をかき立て、音楽と一体になって劇的興奮を盛り上げる力を持っている訳文である。
 30分の休憩2回を含み、7時終演。
      →別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2018・3・2(金)下野竜也指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 スッペの「詩人と農夫」序曲、尹伊桑(ユン・イサン)の「チェロ協奏曲」、マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」、ブルックナーの「弦楽五重奏曲」からの「アダージョ」(スクロヴァチェフスキ編)というプログラム。

 いかにも下野竜也の指揮する演奏会らしいヘンなプロ━━ではない、ユニークで斬新的な選曲と配列だが、実はこれがよく考え抜かれた、一貫性のある、よく出来たプログラミングであることは、聴いてみればすぐ理解できる。

 スッペの序曲集は、下野が最近広響でシリーズとしてやっているもので、それだけに一家言あるのだろう。事実、今日の彼と日本フィルの「詩人と農夫」序曲の演奏を聴くと、序奏冒頭の金管のファンファーレからしてシリアスで堂々としていて立派だし、そのあとのチェロのソロ(辻本玲)が、これまた見事に、きりりと引き締まって美しい。スッペをなめたらいかんぞ━━と言わんばかりの演奏で、まあそのあとの賑やかな部分の方はともかく、少なくともこの序奏に関する限り、スッペの作品に対する偏見を払拭させる力を持った新鮮な演奏だったのである。

 そのチェロのソロが、次の尹伊桑の「チェロ協奏曲」と結びつき、そして曲想も「田園的明るさ」の序曲から「魂の苦悩の叫び」の協奏曲との強烈な対照をつくる、とマエストロ下野は言う。
 協奏曲でのソリストはイタリアの若手ルイジ・ピオヴァノ。尹伊桑の綿密なスコアを正確に弾き、作品との見事な一体化を示した。だがここでも、下野と日本フィルの雄弁かつ多彩な演奏がものを言い、長大な全曲を一瞬の弛みもなく聴かせたのだった

 休憩後の2曲は、さらに圧巻である。
 マクミランの「イゾベル・ゴーディの告白」は、激しい起伏の繰り返しだ。何度も襲って来る、耳を聾せんばかりの大強奏は、「魔女裁判」を題材にしたこの作品を、恐怖感を以って響かせるが、その痙攣的な絶叫の終結のあと、アタッカでブルックナーの深々とした情感に富む「アダージョ」が開始された瞬間の安息感は、筆舌に尽くし難い。「・・・・告白」前半の、弦楽器を中心とした部分(後半で再現されるが)と、ブルックナーの弦楽合奏とが、大きく弧を描くような感をも与える。
 しかも「・・・・告白」の中間でチェロ群が特殊な動きをするという点でも、今日のプログラム全体に共通したある種のモティーフのようなものを連想させるだろう。

 マエストロ下野は、プログラム冊子掲載のインタヴュ―でも、マクミランの作品が好きだ、と語っている。そういえばつい最近も、兵庫芸術文化センター管でマクミランの「ブリタニア」という風変わりな作品を取り上げていた。彼の演奏構築の堅固さと明快さは、この作曲家のコラージュ的な性格の音楽を極めて解り易く聴かせてくれる。

 なお、ピオヴァノは、ソロ・アンコールとして、故国イタリアの「アブルッツォ地方の子守歌」という小品を、自ら静かに歌いながら弾いた。なかなかの温かい雰囲気があった。

 これは、傑出したプログラムであった。下野と、日本フィルの企画担当スタッフとを讃えたい。経済的に苦しい自主運営のオーケストラがこのような企画を試みるという姿勢もまた、称賛されてしかるべきである

2018・2・28(水)藤村実穂子リーダーアーベントⅤ

     紀尾井ホール  7時

 紀尾井ホール恒例の、藤村実穂子(メゾ・ソプラノ)のリサイタル。と言っても、これは4年ぶりのものだ。
 プログラムは、最初にシューベルトの歌曲「ガニュメート」「糸を紡ぐグレートヒェン」など5曲、続いてワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」。
 第2部ではブラームスの歌曲「セレナーデ」など5曲、最後がマーラーの「リュッケルトの詩による5つの歌曲」。アンコールはマーラーの「原光」と、R・シュトラウスの「明日の朝」。

 どちらかといえば沈潜した曲想のものが多く、聴いていて少々ヘヴィな気分になったのは事実だが、それよりもやはり、彼女の歌の毅然たる風格、厳しい緊張感、深々とした情感など、いつに変わらぬ素晴らしさには、感動させられる。

 とりわけ第1部のワーグナーの歌曲集が、深く神秘的な、しかも温かい情感にあふれた歌唱で終ったあとを受けて、第2部のブラームスの「セレナーデ」では雰囲気がぱっと軽快になり、さらに次の「日曜日」の「とってもきれいなお嬢さん、とっても可愛い娘さん」(藤村実穂子訳)がまさに可愛く無邪気に、少年らしい甘美な思いを表現するように歌われた時には━━その瞬時に変化する表情の見事さには、本当に舌を巻いた。
 決して崩れを見せない、堅固で安定した深みのある声の力はもちろんだが、何よりこの豊かな表現力こそが、彼女をしてドイツとオーストリアの歌劇場で主役を張る存在にのぼらせたのではなかったか、と━━。

 ピアノはヴォルフラム・リーガー。思い入れたっぷりの演奏だが、ふっくらとした温かさを感じさせて、なかなかいい。

2018・2・27(火)マルク・ミンコフスキのメンデルスゾーン

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルを率いての今回の日本公演は、東京と金沢での各1回のみ。ホールは文字通り満席となった。
 プログラムは、メンデルスゾーン特集で、「フィンガルの洞窟」、「交響曲第4番《イタリア》」、「交響曲第3番《スコットランド》」。

 メンデルスゾーンの作品は、作曲者自身による改訂が数多いところへ、特に最近は研究が進んで、ますますややこしくなっているようである。先年発売されたリッカルド・シャイー指揮ゲヴァントハウス管の「フィンガルの洞窟」や「スコットランド」の早期稿による演奏でも、今日一般に演奏される版とのあまりの違いに唖然とさせられたほどだ。この曲、最初はこんなふうになっていたのか!と。
 そんな旧いものを引っ張り出されて演奏されて、作曲者はあの世でどう思っているか分からないけれど、私たちにとっては非常に興味深いことなのだ。

 そして、今日の演奏会である。レ・ミュジシャン・デュ・ルーヴルという、世界に名の轟くピリオド楽器オーケストラが響かせるメンデルスゾーン━━という興味はあるにしても、まずは「稿」の問題が、好事家の話題になっていた。
 実際に聴いた感じで言えば、「フィンガルの洞窟」は、現行版とはかなりの相違があるけれど、シャイー盤のそれとも大きく異なる稿である。だが他の2曲は、残念なことに(!)基本的に現行版と同じだ、という印象であった。

 そこで、シャイー盤のブックレットにおける巻末の制作クレジット表示と星野宏美さんの解説、今回のプログラム冊子における相場ひろさんの解説、それにオペラシティを通じて教えてもらったオーケストラからの使用楽譜情報などを総合して対比させてみると、以下のようになる。

 「フィンガルの洞窟」は、シャイーが演奏しているのは、ベーレンライター版のホグウッド校訂譜「ローマ稿Ⅰ」だが、今回ミンコフスキが指揮したのは、同じホグウッド校訂のベーレンライター版の「ロンドン稿Ⅰ」。
 また「スコットランド」は、シャイーがトーマス・シュミット=ベステ校訂のブライトコップ&ヘルテル版による1842年ロンドン稿を使用していたのに対し、今回のミンコフスキは、ホグウッド校訂ベーレンライター新版による1843年「決定稿」を演奏。
 そして今回の「イタリア」は、ホグウッド校訂ベーレンライター新版による1833年版(基本的には現行版)が使用されていた。

 という次第で、「フィンガルの洞窟」(ヘブリディース)だけは━━シャイー盤の「別の曲かと紛うばかりの差異」ほどではないにせよ━━途中からみるみる別の楽想に変わって行き、おなじみの主題が見え隠れしつつ、何となくドタバタとした感じで進んで行く面白さが格別であった。こうなると、いっそ「スコットランド」も「ロンドン稿」を演奏してくれれば、どんなにか面白かったろうにと思うが・・・・。

 もちろん、ピリオド楽器のオケでこの3曲を聴くのも、特別な魅力がある。
 何しろこれは、モダン楽器で流麗に演奏される「お上品な」(?)メンデルスゾーンとは違い、各パートの音が荒々しくぶつかり合って、全体に激しく劇的な、時には凶暴なほどの凄味を感じさせる音楽になっているのだ。
 しかし、その荒々しく唸る弦の彼方に舞い続ける木管群は、はっとさせられるほど美しいのである。特に「スコットランド」ではその多彩な構築感が際立っている。
 メンデルスゾーンの木管の扱い方には、とりわけ夢幻的な美しさがあるけれども、モダン楽器オケではすべてが流麗な音になるので、木管のそうした特徴も程々に目立つだけだが、ピリオド楽器オケで演奏されると、その両者の個性が如実に際立って来るのである。
 こういう、新たな話題を投げかける演奏会は、実に素晴らしい。
    別稿 モーストリー・クラシック5月号 公演Reviews

2018・2・25(日)東京二期会「ローエングリン」第4日(最終日)

     東京文化会館大ホール  2時

 先日観たのは初日公演だが、こちらは別キャストの第2日。
 出演は小原啓楼(ローエングリン)、木下美穂子(エルザ)、小森輝彦(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、清水華澄(オルトルート)、加賀清孝(布告官)他。

 今日の組による上演は、初日のAキャストより、「ローエングリン=ルートヴィヒ2世」、「テルラムント=グッデン博士」という構図を非常に強く打ち出していた。
 それは、演技巧者の小森輝彦の存在によるところが大きいだろう。何しろ、第1幕でローエングリンから空手チョップ(?)を食らい、のされてしまう場面からして、派手な演技を見せる彼である。

 そしてそのテルラムントは、冒頭から「グッデン博士」として「ルートヴィヒ2世」を気にし、手を焼いている様子を微細に表現する。
 特に全曲大詰の場面での大きな違いは━━初日には「グッデン博士」があの「傘」を広げて「ルートヴィヒ2世」を静かに奥へ連れて行くだけだったのに対し、こちら小森&小原組は、慇懃無礼に傘を広げて誘う「グッデン博士」を、「ルートヴィヒ2世」が怨み骨髄とばかり、突然その首筋をつかむや、舞台奥の暗黒の彼方に向かって━━おそらくはあの「運命的な湖」に向かって引き立てて行く、という演技に変えられていたのだった。

 あとで事務局に訊くと、これは歌手同士で相談し合ってやったようだ、とのこと。今日の方が劇的で面白いが、やや説明過剰な感もなくはなく、むしろ悲劇的な不気味さから言えば初日の舞台の方に分があるとも思われるが・・・・しかし、どちらが適切なのかは判らない。

 なお、第3幕の結婚式のあとでのローエングリン━━いや「ルートヴィヒ2世」が、憧れのルイ14世のコスプレを施して悦に入る(そういう変な王様だ)個所では、「太陽王ルイ」をイメージするその衣装に、「70年大阪万博」の「太陽の塔」のマークが入っていたのには笑った。
 また第1幕で、ゴットフリートが「矢」で射られた白鳥をかかえているのは今日の演出でも同じ。矢で白鳥を射たのは、ほかならぬローエングリンの父親にあたるパルツィヴァル(パルジファル)なのだから、この物語は「親の因果が子に報い」というやつか。

 準・メルクルの指揮は、今日も速めのテンポで颯爽としていた。第2幕後半近く、エルザとオルトルートの激しい応酬の場面の演奏における強靭な推進性は、特に目覚ましい。
 そのオルトルートを歌ったのは清水華澄。馬力は物凄く、全曲最後の大見得は聴き応え充分であった。

 というわけで、東京二期会としては1979年以来という今回の「ローエングリン」は、深作健太と準・メルクルのコンビによる成功作と呼んでいいのではないか。そして日本人演出家がここまで大胆斬新な解釈を施したオペラの舞台は珍しいと言ってよく、将来に期待を持たせてくれる。
      →別稿 音楽の友4月号 演奏会評
※誤植ご指摘、御礼。修正済。

2018・2・24(土)東京芸術劇場コンサートオペラ 
ビゼー:「真珠とり」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 東京芸術劇場コンサートオペラのシリーズの第5回。
 今回はオーケストラと合唱をスタンダードな形に配置し、歌手陣を舞台前面に並べた、完全な演奏会形式上演。

 簡単な照明演出も加えられていたものの、一昨年の「サムソンとデリラ」のように、オルガンに当てた照明を突然崩壊させて、ト書きにあるような大寺院壊滅を描き出す━━などというド派手な趣向は行なわれていなかった。
 また今回はオルガン近辺にも反響板が設置され、歌手も舞台後方を動き回りながら歌うという演出も行なわれなかったため、声がワンワン響き過ぎて歌詞の明晰さを欠くといったような、以前からの問題点は露呈しなかったようである。演奏面での音のバランスは極めて良かった━━少なくとも2階正面最前列で聴いた感じは、そういうものだった。

 まあ、もともと立派なコンサートホールなのだから、オケでも声楽でも、通常の並び方であれば、バランスよく響くのは当然のことだろうが。

 今回の出演は、鷲尾麻衣(レイラ)、ジョン・健・ヌッツォ(ナディール)、甲斐栄次郎(ズルガ)、妻屋秀和(ヌーラバット)のソロ歌手陣に、佐藤正浩指揮のザ・オペラ・バンド、国立音楽大学合唱団という顔ぶれ。
 鷲尾も中盤から尻上がりに調子を出して行ったが、何といっても圧倒的な存在感は、甲斐栄次郎の素晴らしいズルガだ。友情、嫉妬、怒り、自制の感情を明晰に表現し、最後の大決断を劇的な歌唱表現で鮮やかに決めた。一昨年の「サムソンとデリラ」の大司教といい、これといい、まさに胸のすくような大活躍である。

 指揮の佐藤正浩も、何のけれんもない指揮ながら、作品を実に「聴きやすく」まとめている。

2018・2・23(金)ミハイル・プレトニョフ指揮東京フィル

      サントリーホール  7時

 指揮者プレトニョフのテンポは、近年、ますます遅くなって来る。28年前、自ら創設したロシア・ナショナル管弦楽団を率いて、ブラームスの「第1交響曲」を颯爽としたテンポで演奏していたことを思うと、その変貌ぶりには驚かざるを得ない。この日の「シベリウス&グリーグ」のプログラムでも、その遅いテンポが、ユニークな音楽をつくり上げていた。コンサートマスターは三浦章宏。

 特にシベリウス。1曲目の「フィンランディア」では、前半の「アンダンテ・ソステヌート」における重々しいテンポが悲劇的なイメージを生む。金管群の荒々しいリズムもいっそう凄味を出し、何か不穏な雰囲気が渦巻くといった演奏になっていた。
 「ペレアスとメリザンド」も沈潜の極みで、この曲がこれほど打ち沈んだ表情で演奏された例を、私はこれまでに聴いたことがない。少々鬱陶しかったけれども、この作品を濃厚な悲劇性で覆った演奏として、これは納得が行くものである。
 ただし最後の「第7交響曲」は、重くて濃厚で物々しかったことは事実だが、しかしこれは予想外なほど、ストレートな流れを以って演奏されて行った。

 という具合に、プレトニョフの指揮におけるこの一種の物々しさは、シベリウスでは非常に個性的な面白さを生み出していたのだが、しかしグリーグの「ピアノ協奏曲」では、それがどうやら裏目に出て、作品の抒情的な美しさを薄めたのみならず、曲全体を散漫なものにしてしまったようで、少々腑に落ちぬところがある。
 ソリストの牛田智大の演奏も━━従ってアンコールで弾いた同じシベリウスの「もみの木」の方が、ずっと清らかで透明な、心を打つものになっていたのだった(この若手ピアニストの本領は、今日は疑いなくこの小品で素晴らしく発揮されていた)。

 最後の「第7交響曲」の演奏が始まったのは、すでに9時だった。しかもその24分の交響曲が終ったあとに、プレトニョフと東京フィルは、更にアンコールとして、シベリウスの「ポルカ」(「かわいらしい組曲」という珍しい作品の中の1曲)を演奏したのである。

 時間が延びたのはもちろんプレトニョフのテンポ設定の所為だが、ついでに東京フィルの舞台転換作業にも些か苦言を呈したい。前半の「フィンランディア」から「ピアノ協奏曲」へのセット替えなど、もっとスタッフの人手をうまく配分して要領よくやるべきである。ピアノを真中に出す作業に7分もの時間を要するようでは、お客もダレてしまう。そのかみの伝説的な練達のステージマネージャー、マーちゃんこと宮崎隆男さんがもし見ていたら、雷を落としたに違いない。

2018・2・21(水)東京二期会
 ワーグナー:「ローエングリン」初日

       東京文化会館大ホール  6時

 日本の演出家による「読み込んで、捻った」舞台は、久しぶりである。

 演出は深作健太、舞台装置が松井るみ、照明が喜多村貴。準・メルクルが東京都響と二期会合唱団を指揮。
 Aキャストの今日は、福井敬(ローエングリン)、林正子(エルザ)、大沼徹(フリードリヒ・フォン・テルラムント)、中村真紀(オルトルート)、小鉄和広(ハインリヒ国王)、友清崇(布告官)他。それに黙役で円山敦史(青年時代のローエングリン)、黒尾怜央(ゴットフリート)が出る。

 いわゆる読み替え演出というものは、何の予備知識もなしにオペラを観に行って、ただ舞台を眺めて演奏を聴いて、歌劇場から一歩出た途端にすべて忘れ去ってしまうような娯楽的嗜好の紳士淑女のためのものではない。今回の深作健太の演出も然りだ。

 つまりこれは、ワーグナーの活動を資金的に援助したバイエルン王ルートヴィヒ2世が、巨匠の作品を愛するあまり、贅を尽したノイシュヴァンシュタイン城に幻想的な洞窟を作り、自らタンホイザーやローエングリンなどに扮して空想に耽っていたことや、精神科医グッデン博士とともに近くの湖で謎の水死を遂げたことなどの歴史的事実を予め承知していないと、理解し難いかもしれない舞台なのだ。
 舞台には、ルートヴィヒ2世の小さい肖像画、あるいはノイシュヴァンシュタイン城のミニチュア模型などがあるが、それらと雖も、その歴史的事実を心得ていなければ、何だか意味の解らぬ存在になるだろう。だが、いったん承知してしまえば、なかなか面白い。

 今回の演出では、「ローエングリン」のスコアを見ながら(つまり音楽を聴きながら)感動し、登場人物の動きを観ながら感動し、ウロチョロとそこらを歩き回っていた冴えない胡麻塩頭の初老男が、いつの間にか自らローエングリンと同化してしまい、それを演じる側に回ってしまう。
 これにはしかし、微苦笑を抑えきれない。考えてみると、その老人を、かりにルートヴィヒ2世でなく、一般の音楽ファンに置き換えても話が成立するだろうと思われるし、「今日のこのローエングリンはあなた自身かもしれませんよ」というメッセージにもなり得るからである(但し私はまだ、そのような空想に耽ったことはない)。

 いずれにせよ、今日の似非(?)ローエングリンは、時に姿を現す本物の(?)凛々しい美形の騎士ローエングリンに温かく、あるいは皮肉気に見守られつつ、物語の主人公を演じて行く。
 その化けの皮(?)が剥がれるのは、第3幕でエルザから氏素性を問い詰められ、敗北した時だ。ここで、悪役のはずのフリードリヒ・フォン・テルラムントが、王の主治医グッデン博士の「正体」(?)を現し、ローエングリンを拘禁する。

 このあたりから幕切れまでの一連の場面を観ていると、あのジャン・デ・カールの著「狂王ルートヴィヒ」に描かれているいくつかの場面━━グッデン博士が看護人たちに命じて「慇懃に」ルートヴィヒ2世を捕縛する場面や、湖から引き揚げられた「ワイシャツ姿の」の王(今日のローエングリンも最後はワイシャツ姿だった)、湖畔で発見されたグッデン博士の「山高帽と傘」(テルラムントはまさにその二つを有していた)などのくだりを思い出してしまう。

 もうひとつ、今回の演出で、多分重要なのは、エルザの弟たるゴットフリート少年の存在なのではなかろうか。
 冒頭、前奏曲のさなかから、中央に彼が座して物思いに耽り、後方のデジタル時計が23時59分45秒から逆行を始めるので、瞬時に「これは回想?」というイメージが頭をよぎる。また「青年時代のローエングリン」という配役表の文字の意味もすぐに判る、という具合だ━━もっとも、実際の舞台の進行は、若干こちらの予想とは違っていたけれども。
 このゴットフリートは、ほぼ全篇にわたり、舞台のどこかに出ずっぱりで、場面を見守る。ラストシーンで彼が舞台中央に屹立し、一同が膝まづくところで、再び現れた時計は0時00分00秒から先へ動き出す━━。

 日曜日には改めてBキャストの上演を観る予定なので、もう一度よく観察してみよう。
 今日の歌手陣もよくやっていたが、最も大きな拍手と多くのブラヴォ―を浴びたのは、指揮の準・メルクルだった。驚異的に速いテンポで押す。第3幕第3場の、ハインリヒ王と兵士たちのくだりなど、声楽アンサンブルが追いつかない個所もあり、いくらなんでも速すぎるという感がなくもなかったが、どちらかといえば私は、遅いテンポより、速いテンポの方が好きである。
 東京都響が好演。合唱団は第1幕の祈りの歌の個所や第2幕の幕切れなど、ゆっくりしたテンポのところでは壮大だったが、第2幕中盤の群衆の速いテンポの個所では、いかにも音が薄かった。

 演奏には、慣習的なカットがある。25分の休憩2回を含み、終演は10時20分頃。
       →別稿 音楽の友4月号 演奏会評

2018・2・20(火)山田和樹指揮東京混声合唱団「音楽で描く世界地図」

      東京オペラシティ コンサートホール  1時30分

 これはなかなか愉しいコンサートだった。
 東京混声合唱団を山田和樹(音楽監督兼理事長!)が指揮、ピアノの萩原麻未が協演して、第1部ではいくつかの国の国歌(オーストラリア、インドネシア、ロシア、イタリア、アメリカ、アルゼンチン、コモロ連合国)とその国に関連した有名な曲1曲ずつを歌い、第2部では日本の歌中心のプログラムを歌う━━という演奏会である。

 これは、現在山田と東混が展開している「アンセム(愛唱歌)プロジェクト」の一環である由。
 ステージでシリアスに歌ったり、客席に降りて歌いながら踊ったり、いろいろ趣向を凝らしながら楽しく進行させるという合唱コンサートなのだが、とにかく合唱の上手いこと。これだけ見事に歌えれば、たとえどんなに羽目を外そうとも、かえってそれがいい余興になるというものである。

 原曲がアフリカン・ポップスだという「ライオン」━━これが私の世代などには懐かしいトーケンズの「ライオンは寝ている」になるのだった━━での編曲の巧さと、踊りながら歌う東混の巧さ。
 あるいは、三善晃が編曲した「虹の彼方に」のハーモニーの美しさと、それを残響の多いこのホールで豊かに響かせ効果を上げた山田和樹の巧みな指揮及び東混の演奏水準の髙さ。
 そして、そのヤマカズのMCの明るい親しみやすさ・・・・等々、どれをとってもぴったり決まった演奏会だった。

 但し、ほんの僅かながらちょっと「弱かった」ような印象を受けたのは、ヴェルディの「ナブッコ」からの「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」での合唱で、これに関する限りは、やはり歌劇場の大合唱団の豊麗さに一歩を譲らなくてはなるまい。

 ホワイエでは、マエストロ・ヤマカズと東混が山形に行った時に食べて気に入ったという、佐藤屋の「たまゆら」という菓子が売られており、開演前にはほとんど誰も注意を払わなかったのが、本番のステージで彼が「このお菓子は美味しい」とPRしたら、休憩時間には長蛇の列ができ、ついに完売になってしまった。まこと、有名人のPRの影響力は凄まじい。彼はまた第2部で、それをネタにして会場を笑わせ、盛り上げた。客席の雰囲気が更に明るくなったのは言うまでもない。

 ともあれこれは、シリアスなかたちの中にエンターテインメント性を織り込んだ演奏会として、第一級のものである。

2018・2・19(月)METライブビューイング プッチーニ「トスカ」

      東劇  6時30分

 去る1月27日のメトロポリタン・オペラ上演ライヴ映像で、デイヴィッド・マクヴィカーによる新演出。
 四半世紀の間上演されていた、あの豪華なフランコ・ゼッフィレッリ演出版のあとを受け、確か2009年頃に制作されたリュック・ボンディの演出はあまりに地味で演劇的に活気のない舞台だったのに落胆したものだが、今回新制作されたマクヴィカーのは、さすがに見栄えがする。

 映像で見たところでは、まあ適度に豪華な舞台といった印象だが、特筆されるべきは、登場人物たちの細密な演技である。かつてのゼッフィレッリの演出にも劣らぬ表情の細かさで、伏線はすべて生かされ、必要な表現もすべて生かされている(といって、マリア・カラスの舞台映像と比較するのは意味がないだろう)。

 トスカはソニア・ヨンチェヴァ、第1幕では「やきもち焼きの女」をうんざりさせられるほど念入りに表現したが、第2幕と第3幕ではもう少し悲劇性が欲しいところ。カヴァラドッシはヴィットリオ・グリゴーロ、スカルピアは当初予定のブリン・ターフェルに替わりジェリコ・ルチッチ、堂守はパトリック・カルフィツィ、その他。
 指揮は当初予定のジェイムズ・レヴァインからエマニュエル・ヴィヨームに替わっていたが、演奏は何となく微温的だ。

 休憩を含めた上映時間は約3時間。

2018・2・18(日)新国立劇場 細川俊夫:「松風」

      新国立劇場オペラパレス  3時

 日本初演の3日目(最終日)。
 作品名のクレジットが「細川俊夫/サシャ・ヴァルツ 松風」となっているところがミソ。音楽こそ細川俊夫によるものだが、舞台芸術という面から見ると、サシャ・ヴァルツは単なる「演出と振付」担当という枠を超えた、共同作者という存在にまでなるのだろう。オペラと舞踊とが一体となった新しい作品形式を━━というのは細川が目指したところだし、ヴァルツのほうは「コレオグラフィック・オペラ」という形式を確立した人でもある。それゆえ、このような表現になるのだと思われる。

 舞台演技の大半を占める重要なダンスは、これも「サシャ・ヴァルツ&ゲスツ」が受け持ち、舞台美術はピア・マイヤー・シュリーヴァーと塩田千春、ドラマトゥルグはイルカ・ザイフェルト。
 歌手陣は、「松風」をイルゼ・エーレンス、「村雨」をシャルロッテ・ヘッレカント、「旅の僧」をグリゴリー・シュカルパ、「須磨の浦人」を萩原潤。ピットで歌うヴォーカル・アンサンブルを新国立劇場合唱団。デヴィド・ロバート・コールマンが東京交響楽団を指揮していた。

 それにしてもこれは、実に素晴らしい「音楽と舞台」だ。細川俊夫の音楽、音色、響きを、そのまま視覚化したような舞台である。
 ダンスは激しく、精巧複雑を極めるが、それも登場人物の心理を見事に具現化しているように思う。特に日本的な要素はないけれども、そのイメージは底流にあるように感じられる。姉妹役の2人の歌手は、歌唱と同等にダンスをこなさなくてはならないという至難の役柄だが、これがまた見事で、舌を巻いた。

 ストーリーの概要は━━須磨の浦を訪れた「旅の僧」が、「松風」「村雨」という女の名と詩が記された札のついた1本の松に目を留め、土地の浦人に謂れを訊く。やがてその名の潮汲み女の姉妹が現われ・・・・となり、最後は「僧が目を覚ますと、いつのまにか姉妹も姿を消しており、あとには松を渡る風の音が残るのみだった・・・・」という、いかにも日本的な余韻を残す幕切れになる。能の「隅田川」にも似た幕切れだが、私はこういう余韻にたまらなく惹かれる。

 細川俊夫の音楽も、私は以前から好きだった。「海」に関連した作品を集中的に聴いた時にも、その音楽全体のつくりとともに、「自然」の中に溶暗して行くような終結には特に惹かれたものである。
 この「松風」も、最後に「風鈴」の音だけが微かに残って消えて行くところなど、いかにも彼らしい余韻と余情にあふれたエンディングだ。ドラマには、海岸に砕ける大波の音や風の音、水の音など、効果音も使われているが、細川俊夫の音楽そのものにはそうした現実音は含まれていないものの、しかしそのイメージは常に音楽の中に織り込まれているように感じられる。

 「松風」は今回が日本初演ということになるが、実はもう7年も前、2011年5月にベルギーのモネ劇場で初演されていたものだった。細川俊夫のオペラは、すでに完成されているものは6作(「リアの物語」「斑女」「松風」「大鴉」「海、静かな海」「二人静」)、作曲中のものが1作ある(プログラム冊子による)が、そのいずれもが外国の音楽祭や歌劇場や団体から委嘱されたもので、日本からの委嘱作品は一つも無い、ということだ。このあたり、何かおかしい、という気はしないだろうか?

 だが実は私も、これらの中では、過去には「斑女」と「大鴉」しか聴いていない。今回が、三つ目だ。
 その他の作品、「リアの物語」は3年前の1月、広島で上演されたのを観に行く予定だったのを、風邪をこじらせて名古屋から引き返さざるを得なかった。そして「海、静かな海」に至っては、これも2年前の2月、ハンブルク州立歌劇場での初演を観に行こうとチケットまで買っておきながら、やはりある事情のため土壇場で行けなくなったという経緯がある。いずれも痛恨の極みというほかはない。

 今回、新国立劇場がこの「松風」を上演したというのは、実に意義深いものであり、歓迎されるべきものであった。これは、今シーズンの新国立劇場のラインナップの中でも最も意欲的な、しかも調和の取れた完全な作品といえるかもしれない。

2018・2・17(土)日本オペラ協会 團伊玖磨:「夕鶴」

     新宿文化センター 大ホール  2時

 定番の出しもの。主催と制作は日本オペラ振興会。

 園田隆一郎が東京フィルを指揮して、実にまとまりのいい演奏を聴かせてくれた。オーケストラのバランスも響きも上々、全体に仄かな暗い音色で悲劇的なイメージを描き出し、各モティーフを明確に浮き彫りにする。殊更に劇的な激しい起伏を施さない控えめなつくりではあったが、この時代の團伊玖磨独特の抒情性は充分再現されていたと思う。こういう演奏で聴くと、このオペラは、やはりいい。

 歌手陣は、明日とのダブルキャストで、今日は佐藤美枝子(つう)、中井亮一(与ひょう)、柴山昌宣(運ず)、泉良平(惣ど)に、こどもの城児童合唱団、という顔ぶれ。

 演出は岩田達宗、舞台美術は島次郎。この書き割り的な舞台装置には、ちょっと寂しい感もあるが━━近年は鍋も釜も囲炉裏もないシンプルな抽象的な舞台(市川右近演出)や、「雪の幻想」的な舞台(新国立劇場の栗山民也演出)など、所謂「日本の農村風景」から離れた斬新な舞台も現われて来ている時代だし━━まあしかし、岩田達宗らしく温かい演出は随所に観られた。

 特に後半、運ずの与ひょうに対する同情と労わりを前面に強く押し出していたのが印象的だったし、惣どが織り上がった「布」を与ひょうから強奪するなどの手荒い演出がなかったのにもほっとした。幕切れ近く、つうと遊ぼうと集まって来た子供たちが、つうの代わりに奥から惣どがぬっと現われたのを見て、ぎょっとしてたじろぐという演出は、細かいことだが、なかなかよかった。

 所謂「涙もの」の人気定番だけあって、客の入りは上々だが、大半が女性客、そして圧倒的に高齢者という客席である。それはそれで結構ではあるものの、家族連れを除けば若い世代の客がほとんど見当たらないのには暗然とする。
       ☞別稿 音楽の友4月号 演奏会評

2018・2・16(金)ユーリ・テミルカーノフ指揮読売日本交響楽団

       サントリーホール  7時

 これは定期。第1部にチャイコフスキーの「フランチェスカ・ダ・リミニ」と、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」(ソリストはニコライ・ルガンスキ―)、第2部にラヴェルの「クープランの墓」とレスピーギの「ローマの松」。
 かように、ロシアものとラテン系作品とを組み合わせたちょっと風変わりなプログラミング。コンサートマスターは長原幸太。

 しかし、このラテン系の2曲の演奏が結構面白かった。
 「クープランの墓」など、テミルカーノフも読響も思い切り優雅にやっているつもりなのだろうけれど、聴いた印象ではやはり何か骨太で、どっしりしていて、いかつい雰囲気が感じられるラヴェルだったのには微苦笑させられ、これはこれで愉しめたのだった。

 そして、「ローマの松」の方はすこぶるスペクタクルで、「アッピア街道の松」冒頭などのようなミステリアスな個所には重厚なものものしさがある。ラテン系の指揮者が振った時のような開放的な明るさの代わりに、全体に不思議な陰翳が漂うという、そのような「ローマの松」だったのである。なおバンダはP席最後方の両側に配置されていた。

 前半は、ロシアものだから、もちろん予想通りの世界。「パガニーニの主題による狂詩曲」では、ルガンスキーも楽々と弾いていた。
 その昔、NHKの「希望音楽会」というラジオ番組(まだFMも無かった時代)のテーマ曲にこの第18変奏が使われ、「あれ、なんて曲だ?」と大変なセンセーションを巻き起こしたことを記憶している人も、もうだんだん少なくなっているだろう。あまりいい曲なので、「全曲を聴いてみたい」という「希望」が殺到したため、ついに同番組で全曲が演奏されたのだが、「あそこ(第18変奏)はいい曲なんだけど、あそこへ行くまでが長くてつまんないんだよねえ」という人も少なくなかった。今聴けば、全然そんなことはなく、最初から面白い曲だと思えるのだが・・・・やはりそれは、その時代の「耳」というものだったのだろうか?

 「フランチェスカ・ダ・リミニ」は、最近のテミルカーノフの、あまり芝居気のない坦々とした表現がやや物足りないといえば物足りなく━━というより、これは畢竟、作品自体の性格による限界だろう。この曲はやはり、指揮者のある程度の演出の助力なしでは、その力を発揮できないという曲なのではないかと思う。

2018・2・14(水)こんにゃく座公演「天国と地獄」

    俳優座劇場(六本木)  2時

 オペラシアターこんにゃく座(代表&音楽監督・萩京子)の公演。
 こんにゃく座の公演を観に行ったのは随分久しぶりのことになるが、いかにも手作り公演といった温かい雰囲気を感じさせるところは、昔に変わらない。ホワイエに立ち並ぶスタッフからしてそうだ。これがこんにゃく座の良さ、というものだろう。

 「天国と地獄」とは、もちろんオッフェンバックの喜歌劇のこと。今月8日にフタをあけ、18日まで連日上演される。
 ストーリーと音楽は基本的にオリジナルに沿っているが、そこはこんにゃく座ならではの制作、台詞は日本語訳のかなり自由に再編されたものが使われ、音楽も小編成の「楽士」(ピアノ、ヴァイオリン・クラリネット・ファゴット各1、打楽器)たちによる演奏、となっている。
 編曲は萩京子と寺嶋陸也、台詞・訳詞・演出は加藤直、舞台美術は杉山至。歌手陣は大石哲史(ジュピター)、沢井栄次(オルフェ)、高野うるお(プルート)他。その他の人たちは、大半がダブルキャストだ。

 歌唱は、音程の定まらぬ人や、声量の不足する人、歌よりも絶叫になってしまう人━━なども若干いたけれども、所謂ミュージカルの専門と称する某有名団体の上演などとは格の違う水準にある人が多い。
 一方、演技という面ではちょっと野暮ったいところがなくもないが、まあそれは良くも悪くも、今の日本のオペラ歌手さんたちの平均的傾向かもしれない。

 いずれにせよ、自然な笑いを呼ぶためには、舞台にもう少しスムースな流れが欲しいところである。前半、第1幕第2場の天国の場面などは比較的しっくり行っていたものの、後半の、特に第2幕の「地獄の場」後半などでは、クライマックスへの流れに中だるみが生じるところもあった。最後の一押しという場面でも、どちらかといえばドタバタ騒ぎが優先されて、ドラマとしての盛り上げに不足していたのは惜しかった。

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」