2008-05

3・31(月)METライブビューイング「ピーター・グライムズ」

  品川プリンスシネマ

 メトロポリタン・オペラでの上演を生中継あるいはビデオ収録により映画館で公開するシリーズの、今シーズンの5作目。
 たとえ映画でもMETの雰囲気を堪能でき、自分も現場に行きたくなる。私がこの企画を大いに高く評価しているゆえんだ。
 今回は、再生音量も抑制され、聴きやすくなった。昨シーズンのシリーズに比べてオーケストラのステレオ的な拡がりがに不足するのだけが解せないが、今日はなぜか後半で音に拡がりと量感が生まれてきた。

 ドナルド・ラニクルズの指揮は少々アピールに乏しいけれど、この音楽が実に良くできていることを認識させてくれるだけのものは備えている。
 事実これは、いわゆる悪しき群集心理、村八分、悪質ないじめ、被害者を弁護する少数の人々への嫌がらせ、といったものを恐ろしく巧く描いている音楽なのだ。
 ヴィクトル・ユゴーが、自分の戯曲をオペラ化した「リゴレット」を聴き、「4人が同時に自分の考えを喋り、しかもそれが解る、などとは、聴くまでは信じられぬことだった」と驚いたとかいう話があるが、この「ピーター・グライムズ」もまたそうした一例であろう。一人の語ることが瞬時に悪意ある噂と化して村人の間に広まっていく模様を、ブリテンは見事に同時進行で描き出す。

 ジョン・ドイルの演出は、登場人物の心理表現は行なわれているものの、巨大な壁(これが主人公迫害の象徴であり、矮小な群集心理しか生まぬ小さな漁村であることの象徴であることくらいは誰にでも解る)の前だけでの演技では、あたかもホール・オペラかセミ・ステージかといった趣きで、演劇的な面白さは甚だ少なく、単調さを免れない。
 アンソニー・ディーン・グリフェイ(ピーター)、パトリシア・ラセット(エレン)、アンソニー・マイケルズ=ムーア(船長)ら歌手陣は安定した実力だが、ピーターが自暴自棄に追い詰められていく危機的情景を描くには、やはりこの演出では限界があった。
 

3・30(日)地方都市オーケストラ・フェスティバル第4日
飯守泰次郎指揮 関西フィルハーモニー交響楽団

  トリフォニーホール (夜)

 「関西フィル最初で最後のワーグナーですよ! 聴いてください!」と、先日このオケの西濱秀樹事務局長が言って回っていた。
 冗談で言っているのか本気で言っているのか解らぬが、彼は関西のノリというのか、プレトークなどで藤岡幸夫(同団首席指揮者)と組むと、まじめな顔をして何とも面白い話をする人だから、何となく迫真性がある。
 たしかに、ハープ4台、4管編成、ワーグナー・テューバ多数にティンパニも2人、といったような大編成は、基本楽員数50数名のこのオケには負担ではあろう。
 とはいえ、このところワーグナーで乗りに乗っている常任指揮者・飯守泰次郎との絶妙なコンビぶりを誇示するには絶好のプログラムであったことは事実である。

 プログラムは、前半に「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「タンホイザー」「ローエングリン」から計5曲、後半に「ニーベルングの指環」から5曲というラインナップで、関西フィルは実によく鳴りわたった。
 飯守は、いささかもオーケストラに対して妥協せず、ワーグナーの豪壮な響きを追及し実現しようと試みる。しかもそれは、見事に成功したのであった。単に音響が壮大であるということだけではなく、大きな空間的拡がりと深い情感がこめられているために、音楽がこの上もなく豊かになっているのである。それこそがまさに飯守の真骨頂であろう。
 些かの粗い個所を別とすればこの演奏は、いわゆる名曲集としては、これまで彼が東京のいくつかのオーケストラを指揮したものよりも格段にバランスに優れ、しかも勢いが良かった。ソリストは緑川まりと三原剛。

 6団体を集めた今年の「地方都市オーケストラ・フェスティバル」は、これでフィナーレ。
 今年は例年と違って、短時日のうちに集中的に公演が行なわれる方法が採られた。もちろんこれは、各都市のファンも上京してまとめて聴けるよう、また各オーケストラの楽員同士も交流できるようにという目的で組まれたものだったが、一般のお客さんにはどう受け取られたであろうか。
 いずれにせよこれは、この上なく意義のある企画である。今後もいろいろな試みを行ないつつ継続展開していって欲しいと願うこと切なるものがある。
 佃煮やら菓子やら工芸品やら、各地の名産品も売られていた。いいことだが、販売場所が大ホールと別のフロアにあっては、一般のお客さんはあまり気がつなかったのではなかろうか。

3・30(日)地方都市オーケストラ・フェスティバル第4日
小泉和裕指揮 九州交響楽団

 トリフォニーホール (マチネー)

 今日は一転してチャイコフスキー・プロ。「エフゲニー・オネーギン」からの「ポロネーズ」「ヴァイオリン協奏曲」「交響曲第4番」、アンコールで「オネーギン」の「ワルツ」という名曲の組み合わせ。

 現首席指揮者・ミュージック・アドヴァイザーの秋山和慶は、前夜の広島響(音楽監督・首席指揮者を兼任している)の演奏会を指揮したので、今回は元首席指揮者の小泉和裕が振った。
 そうなれば秋山や、前シェフの大山平一郎が指揮する時とは全く異なったタイプのカラーが出るのは当然だが、とにかく朗々とよく鳴る。30年前のこのオケを思うと、うたた感ありだ。それだけ若い優秀な楽員が主力を占めるにいたったのだろう。
 弦の分厚いうねりや、金管の底力ある咆哮は、小泉特有のもの。それに音楽の押しの強さ、クライマックスへのもって行き方の巧さ、壮大志向など、最近の彼の音楽づくりは、ある部分で後期のカラヤンにますます似てきたような気がする。
 もっとも、35年前にカラヤン国際指揮者コンクールに優勝し、その2年後に新日本フィルの音楽監督として華々しくわが国の音楽界に登場した時から、小泉の音楽にはカラヤンの影響を強く受けているような傾向があった。悪いことではない。そのような壮大指向の演奏も、オーケストラ音楽の魅力の一つだからである。

 なお、協奏曲でソロを弾いた矢野玲子は、2004年のジュネーヴ国際コンクール最高位を取り、現在パリ国立高等音楽院在学中だが、濃厚な音色のレガートを駆使し、実にスケールの大きな「歌」をつくる人だ。今日もまた、すばらしいソリストの演奏が楽しめた。
 
 お客さんは比較的よく入っていた。今村晃事務局長・音楽主幹が、「デプリーストのラスト・コンサート(東京都響)じゃなく、こっちを聴きに来てくれた人が、ほらこーんなに」とリストを見せてうれしそう。彼は以前、都響事務局にいた人だ。その気持は解る。

3・29(土)地方都市オーケストラフェスティバル第3日
秋山和慶指揮広島交響楽団

 すみだトリフォニーホール

 昨日(第2日)の大山平一郎指揮大阪シンフォニカー交響楽団と、今日のマチネーの飯森範親指揮山形交響楽団は、いずれも別の会合とかち合ったため、残念ながら聞きのがした。
 もっとも、後者のブルックナーの「第4交響曲」は、すでに昨年1月、山形テルサのホールで聴いていた(ライヴCDも出ている。オクタヴィア・レコード OVCX−00037)。夕方、楽屋で飯森氏に会ったら、「山形の時の演奏とは水準がもう全然違ってますよ。だめですよ聴かなきゃ」と威張られてしまった。

 で、今日聴けたのは夜の公演、秋山和慶指揮広島響の演奏会。
 グリーグの「抒情組曲」、シンディングの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(日本初演とのこと)、スウェンセンの「交響曲第2番」と、ノルウェーの作曲家ばかりを集めた意欲的なプログラムだった。が、さすがに渋さは覆いがたく、お客さんの入りも多くなかったのは痛恨の極み。しかし滅多にナマでは聴けない曲目である。貴重な一夜であった。

 広島響の演奏は、広島の厚生年金会館やアステール・プラザなどでこれまでにも何度か聴いたことはあるが、大きな空間を備えて音響も良いトリフォニーホールで聴くと、さすがにスケールの大きさを発揮する。オーケストラの進境は目覚しい。秋山の指揮が昔とは異なり、明晰さよりはマッスの威力を求めているようなので、音響が飽和状態になる傾向がなくもない。しかし、アンコールで演奏されたグリーグの「過ぎし春」は、見事な透明感にあふれた叙情だった。
 
 さらなる収穫は、ヘンニング・クラッゲルードというノルウェーの若いヴァイオリニスト。清澄な音色と、知的に制御されながらも瑞々しく伸びやかな音楽性で、われわれを魅了した。彼も素晴らしいヴァイオリニストだ。シンディングの協奏曲があれほど美しく爽やかに感じられたのは、ひとえに彼の演奏のゆえである。

3・25(火)井上道義指揮オーケストラ・アンサンブル金沢
 東京定期公演

  サントリーホール

 「今や金沢の名物は兼六園だけではないぞ・・・・」というヘンなナレーションで始まったのは、プログラム後半におかれたドビュッシーのバレエ音楽「おもちゃ箱」。
 井上自ら、いろいろな声で語りつつ、踊りつつ、指揮をする。彼のギャグも昔はクサくて、聞いているこちらが照れくさくなったものだが、今や随分自然体になって、上手くなった。演奏が良いから、その懸命の大芝居も生きる。芝居に参加したオケのメンバーもろともに敢闘賞。

 前半はビゼーの「子供の遊び」、サン=サーンスの「ロンド・カプリチオーソ」、ドビュッシーの「小組曲」第4曲、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」と、ちょっと変ったプログラム。いずれも才気にあふれて色彩的な演奏だった。アンコールでの「シェルブールの雨傘」も同様。井上とオーケストラ・アンサンブル金沢、実にいい音楽をしている。
 
 さらに特筆すべきは、サン=サーンスとサラサーテでソロを弾いたネマニャ・ラドゥロヴィッチだ。旧ユーゴ生まれ、まだ23歳になったかならないか。ロック・ミュージシャンみたいないでたちの青年だが、彼の演奏がまた実に素晴らしい。鮮やかなテクニックに裏打ちされた歯切れの良さに加え、やや細身の音色が驚異的に美しく、何か不思議に優艶な色香のようなものを演奏に感じさせる。この年齢で、これほど聴き手をうっとりさせるヴァイオリニストも稀ではなかろうか。アンコールでのマスネの「タイースの瞑想曲」も含めて、今夜の大収穫。

 ホールの入り口やホワイエに、黒い背広を着たスポンサー関係者たちが無数にずらりと並んでいる光景は、地方都市オーケストラが東京公演を行なう時によく見るものだが、やはり異様だ。しかし今日は、入り口で、法被を着た人たちから輪島塗の箸が客に贈られた。プログラムには金沢の観光マップや情報紙が挟み込まれている。善いことだ。オーケストラといえど、地元の良さを広く知らせて回るという活動は大切である。思えば今日は、あの「能登半島地震」からちょうど1年目。

3・23(日)高関健指揮群馬交響楽団 「戦争レクィエム」

 トリフォニーホール

 「地方都市オーケストラ・フェスティバル2008」初日公演。これは高関健の、1993年以来15年にわたった群馬響の音楽監督としての最後を飾る演奏会ともなった。

 まさにオーケストラともども総力を挙げた演奏で、2週間前にこの同じホールで行なわれたアルミンクと新日本フィルの名演に対して、少しも引けをとるものではない。「サンクトゥス」冒頭など、これぞ彼と群響の15年の結晶と絶賛したくなるほどの見事な音楽だったし、「リベラ・メ」冒頭の壮烈さが次第に弱まってテノール・ソロに引き継がれる個所などでも、高関のリードの巧みさが余すところなくオーケストラに反映されていた。
 群馬交響楽団合唱団と、高崎市立京ヶ島小学校合唱部もすばらしい熱演。ソロは木下美穂子(S)、吉田浩之(T)、福島明也(Br)。英語の発音の不得手らしい方がいるのが気になったが・・・・。
 ともあれ、高関健氏にはお疲れさまを申し上げたい。

3・20(木)旅行日記最終日
ケント・ナガノ指揮「パルジファル」

  バイエルン州立歌劇場

 早朝ハンブルクを発ち、昼前ミュンヘンに着く。こちらもかなり気温が低い。空港から市内に向かう間にも小雪がちらついていたが、ホテルに入った頃からは、晴れたかと思うと、次の瞬間には雪がドッと吹きつけてくるという不思議な天候になった。幸い、オペラが始まる午後4時までには雪も止んだ。

 この時期には、あちこちの歌劇場で「パルジファル」が上演されているが、その中でミュンヘンに立ち寄ったのは、音楽総監督ケント・ナガノがどんな「パルジファル」を指揮するかを実地に聴いてみたいと思ったからだった。
 彼の個性からして、透明で自然で浄化されたような「パルジファル」になるだろうと思っていたが、たしかに「聖金曜日の音楽」のような叙情的な部分では、これ以上は求められないほどの豊麗な音色の快さ、白色の明晰な光の中の陶酔、といったものを感じさせてくれた。
 もっともこう言うと、感覚美だけのワーグナーと思われるかもしれない。もちろんあの第1幕と第3幕の聖杯寺院の場への転換場面のように、暗黒の地底から沸き起こるような音楽のところでも、それなりの凄絶さを聴かせてくれたのは事実である。が、それは背筋が寒くなるような魔性を感じさせる演奏とは、また少し異質なものである。
 
 だからといって、彼のワーグナーがつまらないというのではない。少なくともこれは、以前ここのシェフだったメータのワーグナーよりも、はるかに官能性を備えたものであると私には感じられたのであった。
 なお、ワーグナーが網の目のように織りなしているモティーフ群が時に曖昧に聞こえることがあった(全曲大詰の部分など)のは、彼とオーケストラとの呼吸が完璧に合うにはまだ時間が必要だからかもしれないし、あるいはこちらの席(1階席8列中央)の位置の関係からかもしれない。

 演出は、あのペーター・コンヴィチュニーである。1995年制作のプロダクションで、この劇場では以前からしばしば上演されており、私も数年前に一度観たことがある。
 アムフォルタスとクリングゾルが、ともに下腹部を血まみれにして登場(つまり同じ穴のムジナ、もしくは同一人物の別の側面ということか)、しかもそれをこれでもかと言わんばかりに観客に見せつけるといった気持の悪い演出だが、しかし今回改めてよく観ると、それ以外の部分はなかなか良くできた舞台であることに気づく。
 ヨハネス・ライアッカーの舞台美術も含め、第1幕が最も演技に納得の行くところだろう。舞台奥から手前に延びてきている枯れ木の生えた道のようなものが、あの轟然たる転換の音楽につれてゆっくりと立ち上がり、あたかも巨大な宇宙樹のごとく屹立、せり上がった舞台が上下2層を成すその間を貫いて立つに至る場面は、音楽の迫力と合わせてすこぶる壮観であった。
 その幹をアムフォルタスが観音開きのようにこじあけると、中から白鳩を抱いた聖母マリアが出現する。
 幕切れでは、グルネマンツに示されてそれと気づいたアムフォルタスが、救いを求めて縋るようにパルジファルへ手を差し伸べつつ倒れる。ウィーンでミーリッツが行なった演出でもこれに類似した手法が使われていたが、コンヴィチュニーの方が先に試みていたわけだ。
 もっとも、こういうアイディアは昔からいろいろな演出家により使われていたのだろうが。

 第3幕は、いよいよコンヴィチュニーが本領を発揮した部分だ。クンドリーが聖槍を掲げて一同の間を廻ったり、息絶えた彼女の胸の上に聖槍が置かれていたり、感謝の手を差し伸べるアムフォルタスをパルジファルが荒々しく軽蔑した仕種で突き飛ばしたりと、かなり自由な解釈が行なわれている。だがどうも、その一連の進行がいささかくどく、ゆっくりした音楽のテンポを持て余して、無理に何かいろいろなことをやっているというように見えてならないのである。
 コンヴィチュニーの演出は、これを含めてもう十数本観てきたが、むしろあまりひねくらずに、ストレートな手を使ったものの方がよほど巧くできているような気がする(たとえばシュトットガルトでの「エレクトラ」など)。

 アムフォルタスはミヒャエル・フォレ、パルジファルはニコライ・シュコフ、クンドリーはリオナ・ブラウンで、みんな手堅い。クリングゾルのジョン・ヴェーグナーはまさに当り役そのものだろう。グルネマンツにはクルト・リドルが出て、一人で物凄いパワーを発揮したが、やや怒鳴りすぎの感がないでもなかった(僅かながらブーイングが飛んだのはそのためもあったか?)。

 ともあれ、これで今回の旅行は打ち上げ。

3・19(水)旅行日記第5日
ヤング指揮・グート演出「ラインの黄金」

  ハンブルク州立歌劇場

 幸いに今日も天気が良い。部屋の掃除の間を利用してアルスター湖の方まで歩いてみたが、吹き荒ぶ寒風に耐え切れず、早々に逃げ帰る。私の泊まったホテルは中央駅の目の前で、オペラまではUバーン(地下鉄)で僅か2駅だから便利だ。オペラのチケットを買って最初から持っていれば、それが地下鉄の1回分の往復チケットとしても使える、というのはありがたい。

 昨夜「ドン・ジョヴァンニ」を指揮したシモーネ・ヤングが、今日はワーグナーの「ラインの黄金」を振る。前夜とは打って変わった立派な演奏で、これだけ風格と厚みのある正確で緻密な「ラインの黄金」の演奏にはめったに出会ったことはない。凡庸な指揮者ならとりとめのない演奏になりかねない作品だが、ヤングは全体をがっちりとゆるぎなく構築していた。彼女の評価が高いのも尤もであろう。オーケストラの水準もきわめて高いような気がする。

 今回の新演出は、クラウス・グート。バイロイトの「さまよえるオランダ人」や、ザルツブルクの「フィガロの結婚」など、このところ彼の演出にお目にかかる機会が多いが、今回のも上演前から注目を集めていたものだ。
 同歌劇場では史上9つ目のプロダクションとのことで、プログラムの巻末にはこれまでの上演リストが掲載されており、指揮者にはオイゲン・ヨッフム、レオポルド・ルートヴィヒ、クリストフ・フォン・ドホナーニ、ゲルト・アルブレヒトら、演出にはオスカー・フリッツ・シュー、ギュンター・レンネルト、ゲッツ・フリードリヒ、ギュンター・クレーマーら錚々たる名前を見ることができる。
 この日はプレミエ以来2回目の上演だが、「プレミエB」となっていて、まあ早い話が一般客向きプレミエとでもいうところか。

 舞台の模様をかいつまんで報告しておこう。
 4つの場面の間には、几帳面に幕が下ろされる。舞台転換をデモンストレーションするという手法は採らない。
 冒頭はほぼト書通りのタイミングで幕が上がると、「ラインの乙女たち」が大きなベッドの上で枕をぶつけ合って遊んでいる。このベッドは半分街路にはみ出しており、そこへ道路清掃人(!)のアルベリヒが面白がって入り込んでくるという段取りだ。やがて古びた巨大な電気スタンドが黄金色に光り始めるが、実際の黄金は、星の如く輝く大きな布で表わされるようである。

 第2場。天上の場面は、大きな別荘風の山小屋。部屋のテーブルの上に巨大な山と谷(つまりこのドラマの舞台)が「未知との遭遇」の場面よろしく箱庭風に作られており、これは「軟弱な神々」のドンナーとフローが作って遊んでいるらしい。ヴォータンは社長然とした男。フライアは紅茶を巨人たちにも出してやるという妙に家庭的な女性で、ファーゾルトが憧れるのも当然、という設定だ。巨人たちは背が高く、渋いイケメンぞろいである。

 第3場「ニーベルハイム」は、汚い地下室。アルベリヒが大蛇や蛙に化けるケレンは、スモークと照明を効果的に使って巧く見せていた。
 この第3場と、次の第4場のいずれにも「小人たち」は舞台には出てこない。フライアの姿を隠すまでに積み上げられる「宝」は、かぶった「布」に紙幣やら金券のようなものが貼り付けられることで表わされる。解放され、家族と抱き合って喜ぶフライアをファーゾルトが何ともいえぬ寂しそうな顔で見つめているのが印象的で、直後に殺されてしまうこの巨人をきわめて人間味に富む男として描いているのが面白い。
 「嵐」とともに屋根は上方に消え、背景には夕焼け雲の空が出現、神々の姿がシルエットで浮かび上がる。壮大な音楽の途中から横幕がゆっくりと閉まり始める。独り舞台前面に残ったローゲが、ファーゾルトの死体から血のようなものを手に取るあたりが、今後の伏線になるのかもしれない。

 といった調子で、場面設定はともかく、今日の演出としては全体にそれほど突飛というほどでもなく、捻ったところもなく、人物相関図にしてもごくまともな、ト書に従った舞台だった。この作品の場合には、ほかにいじりようもないのだろう。クラウス・グートならではの大ワザは、次の「ワルキューレ」からだろうか。
 しかし、とにかく手堅く作ってある。ザルツブルクのブラウンシュヴァイクなんかのよりよほど丁寧に緻密に考えられていて、その点は好ましい。

 歌手では、ヴォータンのファルク・シュトルックマンが、少し硬質ながら馬力のある声で君臨した。とはいえ、最もパワーを披露したのは、咽喉を痛めたとかで口パク演技となったローゲ役のペーター・ガリヤルトに代わり、急遽ピットの横で楽譜を見ながら歌ったクリスティアン・フランツであった。歌う位置からして声も大きく聞こえ、ローゲにしては威勢がよすぎるきらいもあったが、役の重要性からして悪いものではない。アルベリヒを歌ったヴォルフガング・コッホ、ファーゾルトのティグラン・マルティロッシアンといった人たちも優れていた。
 その他の歌手たちは、私にはあまりなじみのない人ばかりだが、みんな安定していてバランスもいい。

3・18(火)旅行日記第4日
シモーネ・ヤング指揮「ドン・ジョヴァンニ」

  ハンブルク州立歌劇場

 前夜から急激に気温が下りはじめ、この日はついに雪となった。
 第1チクルスはまだ1日を残しているけれども、都合で早朝ザルツブルクを発ち、フランクフルト乗り継ぎでハンブルクへ向かう。
 実は当初の計画では、前日にパリに回り、バスティーユ・オペラで「パルジファル」の新演出プロダクション(ヘンヒェン指揮、ワリコフスキ演出)を観るスケジュールだったのだが、そこまで「転戦」しては体力が保つまいと反省し、諦めた次第。

 昼頃に着いたハンブルクは、快晴で強風。空気は冷たい。
 夜の州立歌劇場でまず観たオペラは、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。
 演出はペット・ハルメンという人で、1996年9月にプレミエされたプロダクションである。それほど捻ったところはないが、場面を大きなホテルに設定し、そこに滞在する客たちの間で繰り広げられるドラマとしているところが特徴だ。
 ドン・ジョヴァンニは大きな白いマフラーを気障っぽく着用した紳士(バレンボイムが時々こんな格好をしていたっけ)で、レポレッロはお付きのボーイというところ。マゼットとツェルリーナは、地元の住民らしい。ラストシーンではそれぞれが思い出を残しつつ、スーツケースを持って発って行くことになるが、そこへ地獄に落ちたはずのドン・ジョヴァンニが冒頭場面と同じ姿で闖入して来て、物語が最初に戻って幕、という具合になっている。このテは時々やられるパターンだ。もっともここは、「そしてだれもいなくなった」ということで終ったとしても、白々とした空虚感が残ってよかったのではないかという気もする。

 指揮は、この劇場の支配人兼音楽総監督シモーネ・ヤング。
 ルーティン公演らしく、雑なところも多々あったが、音楽の勢いがよく、あれこれいじりまわしていないから、聴いていて気が楽だ。つまり、畸形的なモーツァルトにはならずに済んでいる、ということである。
 ジョヴァンニを歌ったのはウィリアム・シメル。「シャンパンの歌」など、もっと指揮者とオーケストラに合わせて歌ってくれないかなと思うほど粗いが、もしかしたらぶっつけ本番か。その他の歌手たちはあまり知らない名前ばかりだが、みんな確実に歌っていた。総じて、よくまとまった舞台であった。

3・17(月)旅行日記第3日
ザルツブルク・イースター音楽祭 「天地創造」

  ザルツブルク祝祭大劇場

 数年前にラトルがこの音楽祭で指揮したハイドンの「四季」が非常に痛快な演奏だったので、今回の「天地創造」は、「ワルキューレ」以上に期待していたのだが・・・・。

 たしかに、ここぞという個所でぐいぐい煽って盛り上げる呼吸は、さすがの演出巧者といえよう。テンポのみならず、デュナミークや細部の音色にいたるまで神経を行き届かせるのが最近のラトルだ。
 「ワルキューレ」に聴かれたテキストと音楽との密接な結合は、ここでも大いに発揮されていた。だが、それを強調するあまり、楽曲の総合的なバランスをも崩して憚らぬやり方には、いささか賛同しかねる。たとえば第2部冒頭のガブリエルのアリアで、「und」前後の個所を、なぜあんなに大幅にテンポを落して歌わせるのか。また第2部最後の3重唱のうち、「主が顔をそむければ」のくだりだけをあれだけ重く遅く演奏させる必要があるのだろうか。
 それでも楽曲のバランスは崩れていないと主張する人たちとは主観的に異なるところだが、しかし私にはこれは、あの「大」アーノンクールやハーディングがさかんにやっているような、テンポを異常に強調する手法の悪しき影響に思えてならないのである。
 序奏での極度に遅いテンポに関しても、同じようなことが言えよう。

 とはいえ、また誉め言葉に戻るが、それほど妙にいじくらない個所・・・・第2部前半の3重唱でのラトルの追い込みと盛り上げなどは見事なものであった。そのあとのラファエルによる、獣や虫たちが生まれる場面のレチタティーヴォも、トーマス・クヴァストホフの絶妙な歌唱表現も手伝って、実に生き生きとしたいいテンポの音楽になっていた。

3・16(日)旅行日記第2日
ザルツブルク・イースター音楽祭 小澤征爾

  ザルツブルク祝祭大劇場

 「ヘルベルト・フォン・カラヤン記念コンツェルト」と題され、今年が生誕100年にあたるカラヤンに捧げられた演奏会。
 彼の愛弟子オザワをゲスト指揮者に、カラヤンに見出されたアンネ・ゾフィー・ムターをソリストに迎えるという趣向。凝った企画だ。

 小澤征爾は、先年この音楽祭にゲスト指揮者として招かれながら病気のためキャンセルした経緯があった。その時はたしかベートーヴェンの第7交響曲か何かを振るはずだったと思うが、しかし今回は、カラヤンがショスタコーヴィチの交響曲の中で唯一レパートリーにしていた「交響曲第10番」を依頼されたわけで、これはむしろオザワにとってもいろいろな意味で好都合だったのではなかろうか。
 彼もショスタコーヴィチの中では「5番」と「10番」をレパートリーにしているのだし、それにこのような現代ものの方が、彼としても聴衆をねじ伏せやすいだろう。

 その「10番」、激烈なアレグロの第2楽章では、予想通りベルリン・フィルのすさまじい音響的威力を存分に発揮させた。とはいえこの曲には、むしろ叙情的要素の方が多く、その部分で小澤の感性がより映える。
 私の席は前日と同じ場所だったので、オーケストラの音色はやや淡彩に聞こえ、陰翳にも不足するように感じられ、もっと前方で聴けたらという思いがしきりであった。だが第3楽章における、いわゆるショスタコーヴィチの名のモノグラム(D−Es−C−H)を提示する木管のリズムの響きの良さ、それにホルンの名手バボラークが朗々と吹くエリミーラ・ナジーロワ(ショスタコーヴィチが秘かに憧れたという若い女性)の名のモノグラム(E−A−E−D−A)の爽快な美しさなど、作品のポイントも充分に描かれていた。もっとも、オザワはもともとそのような標題音楽的な要素にはこだわらないタイプの指揮者だけれども。

 プログラム前半は、ベートーヴェンの「ヴァイオリン協奏曲」。
 小澤の指揮はこれも予想通りで、第1楽章第2主題に向かう個所での16分音符など、思わず苦笑させられるほど几帳面なものであったが、ここぞという個所ではピタリと「決める」のが彼らしい。展開部冒頭のテュッテイは実に壮大であり、このあたりからオーケストラとの呼吸が合ってきたのではないかと思う。
 ところでムターの演奏だが、これまた彼女の最近の境地を示すがごとく個性の強いもので、特にカデンツァでは緩急自在の妙味を示し、あたかもベートーヴェンの作品の様式を基本にしながらも自由奔放な飛翔躍動を試みるように多彩な表現を聴かせていた。極限の最弱音を求めた第2楽章と、激情に満ちた第3楽章との対比も素晴らしい。この協奏曲をこれほど面白く聴けたのは久しぶりという気もする。

 話はオザワに戻るが、交響曲が終った後の拍手と歓声は、身贔屓の日本人(つまり私のことだ)がうれしくなるほどの盛大さだった。第1チクルスには日本人客は少ないから、拍手は欧州の聴衆から出ているのである。楽屋にはエリエッテ女史(カラヤン夫人)らも来て、かなり賑やかだったのに一安心。何せ昨年ウィーンでの「復活」(5月17日)終演後の楽屋があまりに寂しく、私も心を痛めていたので・・・・。

3・15(土)旅行日記第1日
ザルツブルク・イースター音楽祭「ワルキューレ」

  ザルツブルク祝祭大劇場

 前日夕方、ザルツブルクに入る。今年の復活祭は、時期が早い。
 第1チクルスは、ワーグナーの「ワルキューレ」で開幕した。この「ワルキューレ」は、エクサン・プロヴァンス音楽祭との共同制作で、昨年7月に現地で一度観ている(2007年7月8日)。ステファーヌ・ブラウンシュヴァイクの演出は、私にとってはさほど魅力的ではないが、サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルのワーグナーにはこのところ興味津々たるものがあり、それに成り行きも関係して、かく参上した次第。

 そのラトルとベルリン・フィルの演奏だが、エクサン・プロヴァンスでの演奏よりもいっそう巧みさを増したように感じられる。最も目立つのは、音楽のニュアンスがきわめて精妙になったことだろう。
 たとえば第1幕で、ジークムントがジークリンデの差し出した角盃から蜜酒を飲む場面でチェロが演奏するモティーフの表情の、何と豊かなこと! ラトルはここで、短いクレッシェンドのあとのスフォルツァンドをひときわ強調し、男と女の間に突然いっそう強い感情が起こるさまを見事に描く。このあたりはブラウンシュヴァイクの演出もストレートなので、ワーグナーが音楽で語ろうとした魔園がはっきりと聴き手に伝わってくるだろう(最近流行の滅茶苦茶な演出では、こういう音楽の魅力が生かされぬ恐れがある)。
 また第2幕の「死の告知」の場面で、ブリュンヒルデが「ヴォータンの娘たちがあなたを迎えるでしょう」と語る瞬間に音楽が何とも言えぬエロティックな響きに変わるくだりなどでも、ラトルとベルリン・フィルの表情はさらに恍惚の度を増していた。
 その他、第1幕大詰めの音楽や、第3幕の「ヴォータンの告別」のクライマックス部分にも、昨年の演奏で感嘆させられたような特徴が示されていた。

 ただ今回は残念なことに、こちらの当った席が1階25列という「屋根の下」で、ここは前方の席に比べ、音が硬く荒々しく聞こえる癖がある。そのためベルリン・フィルの演奏も「巨巌のごとき逞しさ」という印象になったが、このあたりがホールで聴くナマ演奏の複雑なところだろう。
 以前にもこのザルツブルク祝祭大劇場で、1階席中央で聴いた私が豊麗で柔らかいと感じた演奏を、2階で聴いた知人たちは「ケバ立って硬い音だった」と評したことがあるほどなのだ。

 歌手の顔ぶれなどは、昨年のエクサン・プロヴァンスと同一なので、省く。

 ブラウンシュヴァイクの演出は・・・・エクサン・プロヴァンスの項で、この程度のものを高い金を払ってわざわざ観に来たのかおれは、とぼやいてしまった舞台。
 それでも今回、少しは改善されたかと淡い期待も抱いていたのだが、やはりほとんど変わっていなかったように思う。
 それに、見せ場のラストシーンで炎が投影される壁面は、エクサン・プロヴァンスでは、最後までたしか3方を囲む形、つまり舞台全体を囲む形ではなかったろうか? 私も記憶に自信がないのだが・・・・。しかし今回はなぜか壁の両側が途中から奥へ引っ込んで行き、舞台両側3分の1ずつが暗くなり(しかも舞台裏側が見えるような中途半端さで)、炎は正面の壁だけに、それもか細く投影されるに縮まってしまった。いかに景気の悪い炎とはいえ、横長の舞台全面に拡がっていれば、まだ見栄えもしたであろうに。
 それまでは各幕の終りで直ちに爆発していたブラヴォーの声も、この第3幕のあとにはすぐに起こらず、ただ静かな拍手が始まっただけであった。拍子抜けしたのは私だけでなく、他のお客さんも同じだったようだ。

 次の「ジークフリート」は、来年4月4日と13日の上演で、タイトルロールはベン・ヘップナー、ブリュンヒルデはヨハンソンでなく(!)カタリーナ・ダライマンが歌うと予告されている。
 ちなみに、2010年の「神々の黄昏」(3月27日、4月5日)の配役も発表されており、ヘップナーとダライマンが引き続き歌う他、ハーゲンには今回フンディングを渋く歌ったミハイル・ペトレンコが登場する。ワルトラウテにアンネ・ソフィー・フォン・オッターが起用されるところなど、いかにもラトル好みであろう。

3・13(木)ジャナンドレア・ノセダ指揮BBCフィルハーモニック

  サントリーホール

 以前ほどではないにせよ、ノセダの指揮の身振りは相変わらず猛烈である。しかしそれにもかかわらず、たとえば「悲愴交響曲」など、響きがかなり抑制されている。この不思議な対比が面白い。
 思うにノセダは、このオーケストラを完全に把握して、自己の意図を徹底できる段階にまで来ているのだろう。その「悲愴」は、第4楽章にいたってそれまでの抑制から一気に解放された如く、存分に甘美な哀愁を歌い上げる。激しい慟哭ではなく、優しい悲しみにすすり泣き、ため息をつくような演奏である。きわめてユニークな解釈だ。4つの楽章をあまり間をおかずに続けて演奏するのは、ゲルギエフの影響か?

 最初のストラヴィンスキーの「妖精の口づけ」からの「ディヴェルティメント」は、大編成で演奏された。これも、新古典主義作風の作品に対するアプローチとしてはユニークだ。おそらくノセダは、この作曲家をロシア生まれの、リムスキーコルサコフの弟子としての視点から解釈して(これもゲルギエフと同じ路線だ)、ストラヴィンスキーの精神的ルーツを掘り起こそうと試みたのではあるまいか。

 上記2曲の間には、ヒラリー・ハーンが弾くシベリウスのヴァイオリン協奏曲。強靭な音色、並外れた集中力と緊迫感。どんな指揮者とオーケストラとの協演であろうと、主役となるべき強烈な個性である。すごい女性だ。
    「音楽の友」5月号(4月18日発売)演奏会評

3・10(月)新国立劇場開場10周年記念特別公演「アイーダ」初日

   新国立劇場

 10年前の劇場オープニング・シリーズ演目の一つ、ヴェルディの「アイーダ」の再々演。フランコ・ゼッフィレッリの演出・衣装・舞台美術が看板のプロダクション。

 とにかく、これほど豪華絢爛の舞台は、今日では世界を探してもいくつ見つかるか、と言っていいほどだろう。第2幕の「凱旋の場」での観客の目を奪う装置と大群衆、第4幕大詰めで地下牢が沈んで行った後に残る寺院の美しく巨大なスケール感など、いずれも良き時代のスペクタクル・オペラを受け継ぐ貴重な舞台である。たとえどのような演出スタイルが流行する時代になろうと、この種のプロダクションは大切にしておかなければならない。

 今回の再演演出は、粟國淳が担当した。ただゼッフィレッリの演出は、本来は単なるスペクタクルにとどまるものではなく、音楽の動きと合致した非常に微細な演技が特徴なのだが、残念ながらそこまでは再現されていなかった。
 アイーダやアムネリスはある程度演技をこなしてはいたが、ラダメスの方は、演技の上では全くの大根役者である。もっとも、昔からラダメスをすばらしく歌え、しかも上手い演技ができるというテノールには、お目にかかったことがない。唯一、かのマリオ・デル・モナコ様が、顔の表情の迫力で別格的存在だったが。
 もし、この役を含めて主役歌手たち全員に演技が徹底していれば、このオペラは、巨大国家の栄華の中に翻弄される人間たちのドラマとして独自の性格を誇るに足り得るものになるだろう。何よりヴェルディの音楽がそれを如実に描き出しているからだ。

 その音楽だが、リッカルド・フリッツァの指揮が、きわめて正確でしっかりしているのはいいのだけれども、反面えらく几帳面すぎて、さっぱり燃えない。第1幕と第2幕など、これほど冷然とした「アイーダ」の演奏は聴いたことがないほどであった。ヴェルディがオーケストラであれほど見事に描いているアムネリスの怒りや嫉妬や威嚇といったものも、全く迫ってこないのである。音楽が燃えていなければ、どんな豪華な舞台も白々としたものになるという好例であろう。 
 幸いに第3幕以降は、少し活気が出てきた。
 この日の管弦楽は東京交響楽団。なお、合唱(新国立劇場合唱団)がいい線を行っている。

 歌手の中では、アイーダを歌ったノルマ・ファンティーニが、少し不安定なところはあったけれども、このヒロインの悲劇を巧く描き出していた。アムネリスのマリアンナ・タラソワは、前半は快調に飛ばしていたが、最大の聴かせどころの第4幕で何故か失速気味になったのが惜しい。
 ラダメスのマルコ・ベルティは、音程は粗いが声量は物凄く、演技と音楽を丁寧につくればもっといいラダメスになれるはず。その逆に、声量はそれほど大きくはないが、アモナズロ役の堀内康雄がさすがに巧い表現を聴かせてくれた。

 初日はグラグラしていても、だんだんと良くなっていくのが新国立劇場の昔からの癖。
 このプロダクションは、月末までに、あと5回公演される。

3・9(日)アルミンク指揮新日本フィル ブリテン「戦争レクィエム」

  すみだトリフォニーホール

 ふだんめったに上演されない大曲が短期間のうちに鉢合わせするという事例が、ここにもまた一つ。今日のアルミンク&新日本フィルに続いて、今月23日にも高関健と群馬交響楽団がこの同じホールで「戦争レクィエム」を演奏することになっている。さしずめ、第1次大戦と第2次大戦、というところか。

 今日の演奏会は、「すみだ平和祈念コンサート」と題されたものだ。
 演奏はきわめて充実していた。オーケストラをはじめ、栗友会合唱団と東京少年少女合唱隊、ソリストのジェラルディン・マクグリーヴィ(S)、ロバート・マーレイ(T)、石野繁生(Bs)ら、総力を挙げての熱演といってよかった。アルミンクの音楽構築もきわめてスケールが大きく、その設計はやはり卓越したものである。色彩的な響きがドラマティックな拡がりを作品に与え、ブリテンの音楽を燃え立つように活気のあるものとしている。
 なお石野は、昨年のアルミンクの指揮による「ローエングリン」で布告官役を歌い、目覚しい力量を見せていた歌手だが、今日も劇的かつ緊迫感ある歌唱を聴かせ、ソリストの中でも抜きん出た存在感を示した。現在シュトゥットガルト・オペラの専属というが、今後が楽しみである。

 そういえば今日は、平成20年3月9日。昭和20年3月9日深夜のいわゆる「東京大空襲」で、10万の人々が炎の中で命を落としてから、63年が経つ。
 当夜の模様は、多くの人たちの日記などで語り継がれている。書き手の名は忘れたが、何かの本に、
 「東京方面の空が真っ赤である。ここからはそれしか見えないが、あの真っ赤な空の下で、大勢の人々が火の中を逃げまどっているのだと思うと、居ても立ってもいられない思いがする」と書いてあったのを読んだことがある。恐ろしい文章だ。また、世田谷方面に住んでいた作家の伊藤整は、「太平洋戦争日記」に、
 「・・・・いつもとちがって敵機は多く東の方房総半島上空を経て東京に侵入しているらしく・・・・この巨大な炉のように燃えさかった東京の市内に、後から後からと油と焚き付けとを投げ込んでいるのだ・・・・あの広大な燃える旧市内の中で、多くの人々の家庭が焼かれ、死人が出、人々が右往左往し、あらゆるものが灰燼となって行くのだ。東京は燃えている・・・・」(第3巻269頁)と書き残している。

 私の父は、当時帝大(現・東大)教授だったが、たまたまその夜は、本郷校舎で宿直当番をつとめていた。その時の日記には、こうある。
 「南方上空より敵機B29、未だかつてあらざる低空にて、探照灯に巨大な銀色の翼を輝かせつつ、頭上を北に飛ぶ。高射砲の響き猛然たり・・・・早くも焼夷弾を落したりと見え、上野広小路らしき方向に空の明るくなるを望見す。敵機の頭上になき短時間をうががひて、校舎内を馳せ廻り警戒す。其の内に西北方に火の手上り、騒然たる火災の物音も聞こえ、又池の端方面の火事も拡大せりと見えて、東西の硝子窓、至る所赤色になり来る。風は強く、西北より盛んに火の粉を送り来る。それでも初めは概ね少数にて、地面にて少時にして消える程度なりしが、段々と雪の如く繁くなり、消えぬものも多くなり、危険増大す。空は黒煙に閉ざされ、高くは見えず。敵機はその煙の内より爆音高く近づきては幽霊の如く現はれ、又去る・・・・雨の如く焼夷弾を落し、その余燼の中空に残るが花火の如く見ゆ」。

 ちなみに、誤解している人も少なくないようだが、東京空襲はこの日の夜に限ったものではない。それどころか、1月下旬から5月末まで、ほとんど連日のように行なわれていたのである。その都度多くの家屋が焼け、多くの無辜の人々が命を落したのだった。東京が焦土と化したあとは、今度は地方都市が軒並み爆撃された。
 私自身はやっと物心ついた頃だったが、火の中を逃げまどったという体験はない。5月25日深夜の山の手地区空襲(最後の東京大空襲)の際に自宅と近隣一帯が全焼した時も、家族とともに庭の一角にあった防空壕の中で身を潜めていた。しかし、近所に住んでいた人たちは、みんな頭から水をかぶって、そのまま近くの雅叙園の庭園に逃げたそうだ。この23日と25日の夜の、山の手方面への空襲は大規模だった。青山に住んでいた人の手記に、
 「一家全員で青山通りに逃げたが、すでにここも一面火の海であった」とあったのを、何かで読んだことがある。

 逃げ場を失った何万という人々が火の中に巻き込まれていく光景は、想像しただけでも恐ろしい。しかし、あの時代には、現実にそのようなことが起こっていたのだ。戦争とはそういうものなのである。
 それゆえ、この「戦争レクィエム」の大詰めで、テノールとバリトンが「Let us sleep now・・・・(さあ、もう眠ろう)」と繰り返す部分は、単に戦場で散った兵士の霊が交わす言葉というものを超えて、空襲の下で命を失った人たちすべての言葉とも聞こえ、聴き手を凝然とさせるだろう。その言葉が、ソプラノ・ソロと少年合唱のハーモニーに囲まれて溶暗していく終結には、涙が滲むような思いをおさえきれない。私も年齢のせいか、どうやら涙もろくなってきているらしい。この曲は「レクィエム」だが、キリスト教徒でなくても充分に共感できるものを持っている。
 

3・8(土)ダン・エッティンガー指揮東京フィル定期

  サントリーホール

 「どろぼうかささぎ」が夕方6時40分に終演となったあと、7時から赤坂のサントリーホールで、同じ東京フィルが定期公演を開催。何しろこのオーケストラの正規楽員総数は160名だから、同時に3ヶ所ほどに分かれて演奏会を開くくらい朝めし前なのは周知の通りだ。
 われわれから見れば、演奏のレベルの点で、そういう体制が必ずしも良い結果を生んでいないのではないかといつも思うのだが、オーケストラ側としてもひとたび新星日響と合併してしまった以上、今となってはどうにもならないのだろう。が、このケースは非常に複雑な問題をはらんでいるため、ここではこれ以上触れるのは止めておく。

 さて、こちらも当然、7時の開演には間に合わない。したがって、休憩後のブラームスの「第4交響曲」だけを聴かせてもらった。
 師バレンボイム譲りで粘りのある、ややロマンティックな傾向の表現を得意とするエッティンガーの指揮は、今日の音楽界にあってはむしろ貴重な存在であろう。今日のブラームスでも重厚で情感の濃い演奏を聴かせてくれた。このようなスタイルも健在であってこそ、クラシック音楽の世界は多様多彩で面白くなるのである。東京フィルの細部の響きに相変わらず密度の薄さが露呈するのが惜しいが、それでもやはりエッティンガーのヒューマンな音楽づくりというべきものが演奏全体にあふれていたように感じられたのであった。

3・8(土)藤原歌劇団 ロッシーニ:「どろぼうかささぎ」

  東京文化会館 マチネー

 新国立劇場が「セヴィリャの理髪師」ばかり上演している間に、藤原歌劇団の方はやや珍しい「どろぼうかささぎ」を意欲的に取り上げた。何でも今回のが、舞台上演としては日本初演にあたるのだそうな。序曲があまりに有名で聴く機会も多いだけに、不思議に本邦舞台初演という感じがしない。話の運びにおかしなところが多いオペラではあるが、音楽が良いので、全2幕の正味3時間、大いに楽しめた。意義ある上演であった。

 3日間連続で行なわれた上演のうちの、この日は中日の邦人主役の公演。
 高橋薫子がニネッタを歌ったが、この人の歌と演技の表現力の多彩さには、本当にいつも感心する。声質が澄んできれいなのはもちろん、たとえば苛々したり怒ったりする演技の際に、声楽的にバランスを失わぬ範囲でちょっと声を荒げる表情なども実に巧い。恋人ジャンネットを歌った五郎部俊朗は、演技に素人臭さが抜けないのが問題だが、声には伸びがある。

 指揮はアルベルト・ゼッダ。オペラの聴かせどころを心得て、実に手際のいいロッシーニを聴かせてくれる。東京フィルは例のごとく少し粗いものの、このくらいの出来ならば満足すべきかもしれない。
 ダヴィデ・リヴァーモアの演出はごく定型的ではあるけれど、村人たちを演じるリアルな合唱団と、裁判の場や処刑の場におけるコロス的な合唱団とをそれぞれ性格的に描き分けたあたり、芸の細かさを見せていた。

 もう一つ人気を集めたのは、かささぎを「演じ」た「飛行機」だ。ラジコンで操縦され、舞台上を何度か飛び回るのだが、翼こそ動かぬものの、なかなかよくできている(袖へ飛び込む際に時々墜落するのと、音楽が静かな時にブンブン回転音が聞こえるのはご愛嬌だったが)。この操縦はティミートゥリ・ロッシという人で、何でもこのジャンルの世界チャンピオンなのだとか。カーテンコールの際には彼も舞台に現われ、「かささぎ」に客席上方を飛び回らせるデモンストレーションを披露。観客も「オー」と唸って万雷の拍手。

3・6(木)ホール・オペラ  モーツァルト:「フィガロの結婚」初日

 サントリーホール

 サントリーホール恒例の「ホール・オペラ」が、これまでのヴェルディ・プッチーニなどイタリア路線中心から急転回してモーツァルトに。今年から3年間「ダ・ポンテ3部作」を手がけるそうだが、その第1弾がこの「フィガロの結婚」である。指揮はニコラ・ルイゾッティ、演出はガブリエーレ・ラヴィア。

 このシリーズは発足以来いわゆる「セミ・ステージ形式」が基本で、ステージ上に配置されたオーケストラおよび比較的簡略な舞台装置、という構築による上演だったが、新しい路線による今夜の舞台などを見ると、これはもう本当の歌劇場によるプロダクションといってもおかしくないほどの水準になっている。
 オーケストラは舞台後方に奥を向いて配置され、指揮者はメインの客席を向いて位置する。モーツァルトの管弦楽は編成が小さいので、そのぶん、歌手たちが演技を行なう舞台前方が広く使えるという利点があるだろう。
 この舞台装置(アレッサンドロ・カメラ担当)は、床も壁も額縁入りの貴族らしい人物たちの絵画でいっぱいに埋められ、それらは非常に古く暗い色で、薄汚れている。昨年の「東京のオペラの森」でのロバート・カーセン演出の「タンホイザー」の舞台を、もっとくすんだ色に仕立てたような光景である。同じく、机や椅子やベッドなどの小道具も古くて侘しくて簡素だ(道具の数は、昨年のエクサン・プロヴァンス音楽祭における「フィガロの結婚」の舞台よりはずっと多い)。
 こうなればもう、一見しただけで、崩落していく旧体制社会を背景に、新・旧の人間ドラマを描き出そうという演出意図が読み取れるだろう。

 そのラヴィアの演出は、登場人物の相関関係については原作のト書きに従い、特にあざとい深読みもこじつけも施していないが、演技のニュアンスは非常に細かく、芝居としてストレートに成立するものにしている。中庸を得た舞台として、観客にも安心感を抱かせたのではなかろうか。登場人物の大半は舞台じゅうを猛烈な速度で走り回り、飛び越え、踊り、格闘し、スピーディな演技を展開する。
 もっとも、アルマヴィーヴァ伯爵を旧体制の支配者とし、フィガロたちを新しい時代の担い手として明確に対比させるのかな、というこちらの予想は外れた。
 それが演出の意図だったか、伯爵役の歌手の演技のせいだったのかはわからないけれども。

 この若々しい群像の躍動といった舞台は、指揮者ニコラ・ルイゾッティの率直で推進力に富んだ音楽づくりによって、更に煽られたようだ。あまりにイン・テンポで、「矯め」の全くない指揮ゆえに、あれよあれよという間に音楽が進んでしまう不満も感じないでもないが、演技の「間」に適合させるように音楽のテンポをことさら引き伸ばしたり、パウゼ(休止)を異様に長く採ったりという近年流行の指揮を聴くと不愉快になる私にとっては、このような「小細工の無い」指揮者の方がずっと気が楽だ。
 それに、このように演奏された方が、モーツァルトの音楽の多彩さをはっきりと感じることができる。このオペラでは、第1幕よりは第2幕、第2幕よりは第3幕といったように、モーツァルトのオーケストレーションが驚異的な勢いで複雑精妙さを増して行っているのだが、東京フィルが伝統的なスタイルながらきわめて柔らかい響きを聴かせてくれたため、その変化を存分に堪能することができたのはありがたかった。
 
 歌手たちは若手が多いが、中でも出色の出来は、スザンナを歌ったオーストラリア生まれでアメリカ育ちのダニエレ・デ・ニース。軽快ながらシンの強い声と闊達な役柄表現で、意志の強いスザンナを描き出していた。
 次いで伯爵夫人を歌ったイタリア出身のセレーナ・ファルノッキア。温かい声のソプラノだ。プログラムのプロフィール紹介欄に「・・・・(などの役を)丹精こめて歌い上げる」と記載されていたが、どなたの文章かわからないけれども、これはまさに言いえて妙だろう。本当にそういう感じの歌手である。ケルビーノ役のダニエラ・ピーニもいい。
 男声陣ではフィガロのガブリエーレ・ヴィヴィアーニも悪くないが、それよりはむしろ脇役ながらバルトロのエンゾ・カプアーノが滋味豊かな歌いぶりで、またバジリオとクルチオ2役のジャンルーカ・フローリスが張りのある声で目立っていた。
 伯爵はマルクス・ヴェルバが歌っていたが、この人の演技にもう少しあくどさがあったら、敵役の封建領主としての存在が感じられたろうにと思う。声が散り気味だったのも、歌劇場に比して残響の多いこのホールのアコースティックに、彼の声がなじまなかったのかもしれない。今回はP席が開放されていて、しかも大がかりな舞台装置が無かったせいか、歌手たちの声は響きすぎるほど響き、明晰さを失わせる傾向もあったのだ。
 なお、バルバリーナを歌った吉原圭子は、先日びわ湖ホールで「こびと」の王女を聴いた際には、はしゃぎすぎが裏目に出たような印象だったが、今日のような軽い役では実に歯切れが良くてすばらしい。

 総じてこれは、成功したプロダクションである。そろそろ行き詰まりかと思われた「ホール・オペラ」に突破口を示した上演ではないかという気がする。このあと、9日と12日にも上演がある。

3・3(月)聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団
「ロ短調ミサ」

  東京オペラシティコンサートホール

 私はバッハ・マニアではなく、バッハにとりわけ詳しい聴き手でもないが、しかし2日間続けてバッハの宗教曲の大曲を聴くことができたのはうれしい。
 実はバッハの宗教曲の中で、私が一番好きなのはこの「ロ短調ミサ」なのである。そのことをたまたま隣り合わせになった加藤浩子さんに言ったら、「へェ」と意外な顔をされた。バッハの専門家からみればそうだろう。

 それにしても、ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏するバッハも、昔に比べれば随分音色が変わったものだ。何もこのオーケストラまでがノン・ヴィブラート奏法めいたものを取り入れなくても、とは思うが、今や猫も杓子もピリオド楽器スタイルという時代。もっともこれは慨嘆しているという意味ではない。私自身がバロックからハイドン、モーツァルトあたりまでは絶対ピリオド楽器オケで聴きたい、という好みだから、この日の演奏にもほぼ満足していた次第なのである。ただ一つ、このゲオルク・クリストフ・ビラーというトーマス・カントール殿の指揮にだけは、もう少し緊迫感を持ってもらいたいなと以前から思い続けているのだが・・・・。

 女声合唱のパートを少年合唱が受け持つこの有名な合唱団も、今回は、些か粗い。前回どこかで聴いた時も同じような印象があったから、これもやはり指揮者の責任ということになろう。練習よりは経験と伝統とで歌っているという雰囲気だ。ただ、どんなにガタピシしていても、曲が昂揚して最後の高貴な終止にいたった瞬間の和声の透明な均整の美しさは、すばらしい。これはもう伝統の強みゆえとしかいいようがない。
 

3・2(日)エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団
バッハ:「ヨハネ受難曲」

  東京オペラシティコンサートホール

 「マタイ受難曲」に比べれば劇的な要素が強い作品だというのは理屈では解っていたけれども、たまたまこれまでナマで聴いた演奏のせいか、こちらの共感度が不足していたか、実際に圧倒されたことは一度も無かったのである。だが今回、やっとそれが根本から覆った。自分は今まで何を聴いていたのだろうとさえ思う。

 しかしこれはやはり、エイジ・オブ・エンライトメント管弦楽団(表記は公演プログラムに従う)の演奏が示した見事な密度、量感、鮮やかな切込み、強靭な劇的緊迫感などが創り出したものにほかならないと確信する。凡庸な演奏からは、この曲の良さは伝わってこない。そこが「マタイ」との違いとも言えるのだが。
 とにかく、このオーケストラが創るドラマティックな推進力は、ピリオド楽器オケ特有の鋭角的な音色が生む鮮烈な力と相まって、息をのむほど凄まじい。しかもこれは、休憩なしの2時間近く、指揮者なしの演奏だったのである。

 合唱(エンライトメント合唱団)は女4人、男7人。その中にマーク・パドモア、ピーター・ハーヴェイ、マイケル・チャンスらの有名歌手たちがいて、ソロのパートをも受け持つ。
 パドモアは、エヴァンゲリストを歌った。事前の資料では彼が指揮もするとなっていたが、実際にはリーダー的な役目であった。ソリストたちにはややムラもあったが、合唱としてのハーモニーは立派である。
 全曲が終った後、すぐ続けてヤーコプ・ハンドルという、バッハより1世紀以上前の作曲家によるモテット「見よ、義しき人が死に行くさまを」が無伴奏の合唱で歌われた。この和声的な美しさも特筆すべきものだったが、この「付録」はあって悪いというほどではないものの、無くてもどうということはなかったろう。

2・29(金)クリスティアン・アルミンク指揮新日本フィル

  サントリーホール

 冒頭に演奏されたヴォルフガング・リームの「変化」は2002年の作品。
 全曲(15分ほど)を緩やかで秘めやかな曲想を基本に織り成していく。オーケストレーションは彼らしく多彩で、1回聴いただけの印象では、それだけがこの曲を印象づけるといっていいかもしれない。
 現代作品をそれとなくプログラムに挿入して紹介するというのがアルミンク&新日本フィルの方針だ。この作品が紹介されたのはやはり、意義あることであった。

 2曲目はムソルグスキー〜ショスタコーヴィチの「死の歌と踊り」。これが今夜最も感銘深い演奏だったといってよかろう。
 正直なところ、アルミンクと新日本フィルがこれほど暗く陰鬱な凄みを利かせた演奏をするとは予想外であった。オーケストラを抑制しながらも空間的な拡がりのある音を響かせ、陰翳豊かな不気味さを引き出す。しかも声楽パートを精妙に浮かび上がらせ、決して管弦楽の中に埋もれさせないのがアルミンクの巧みなところである。
 ソリストは、アニア・シリアの代役として来日したハノーファー生まれの若いメゾ・ソプラノ、カタリーナ・ピーツという人だが、これがすこぶるすばらしく、明晰な芯の強い声で悲劇的な迫力を表現してくれた。この歌曲集を実演でこれほど印象深く聴けたのは初めてである。

 最後はドヴォルジャークの第7交響曲。これはどうも、こちらの期待が大きすぎたか。演奏はきわめて念の入ったもので、柔らかい叙情感を強調するあまり策に溺れた感がなくもなく、それなりにまとまってはいたけれども、曲全体としてはこのアプローチは些か風変わりだ。しかし全曲最後の高揚の個所の和音は、神経の行き届いた演奏の総決算にふさわしく、美しく均整の取れたものであった。
   音楽の友5月号(4月18日発売)演奏会評

2・25(月)三國 洸ピアノ・リサイタル

 杉並公会堂小ホール

 三國 洸(みくに たける)は桐朋大3年在学中。今回のリサイタルは、モーツァルトの「ソナタK.576」、シューベルトの「ソナタ イ長調D.664」、ラヴェルの「水の戯れ」、ブラームスの「ラプソディ Op.79ー2」、リストの「愛の夢第3番」と「ハンガリー狂詩曲第2番」、そしてアンコールにモーツァルトの所謂「きらきら星の主題による変奏曲」という、きわめて意欲的なプログラムだった。
 この中で最も優れていた演奏は、2曲目のシューベルトのソナタ。瑞々しく溌溂とした「歌」があふれていて、旋律の美しさを充分に浮き彫りにしていた。最後の「変奏曲」でも同様。このカンタービレを大切にしていってほしい。問題点としては、音楽のつくりが几帳面に過ぎ、自由な感興に不足するところだろう。特にラヴェルの場合は。それと、指の動きにもっと注意を払うこと。意気満々の若者、精進を期待する。

2・24(日)東京二期会公演「ワルキューレ」最終日

  東京文化会館

 初日とは別の組(Bキャストという表現は最近使わないらしい)を聴く要に迫られ、他の演奏会に行く予定を変更して「ワルキューレ」(マチネー)に向かう。
 都合で第2幕までしか聴けなかったけれど、初日の歌手陣とは異なった演技なども観ることができて興味深いものがあった。第2幕大詰めで、初日の舞台ではジークムントが息を引き取る瞬間に父ヴェルゼ(ヴォータン)を認め、不幸な父子が互いに目を見交わすという感動的な場面があった(このテはたいていの演出で行なわれている)が、今日はその演技が皆無だったのが不思議。かように舞台というものは、同じ演出であっても日によって変わるものである。
 なお、初日(20日)の項で一つ訂正をしておきたい。第1幕の幕切れでフリッカがヴォータンに若者たちの不倫現場を指し示す、と書いたが、今日もう少し近い位置の席(1階L9列)で観たところ、あれはヴォータンでなく、槍を持ったフンディングだった。演技ではフリッカが先に現場を発見したように見えたが、それではストーリーとして理屈に合わないから、フンディングが早くも密告して彼らの道行きをフリッカに見せ、彼女が激怒した演技だった、と解釈せざるを得まい。

 今日の組では、第2幕まででいえば、フリッカの増田弥生が、ベテランの小山由美の風格には及ばずとも熱演の歌唱で好ましく、ジークリンデの増田のり子もひたむきな性格表現を出した。
 初日の横山恵子が「落ち着きすぎの感じのブリュンヒルデ」だと書いたが、今日の桑田葉子も同じような印象だったから、この演出では最初から「元気よく愛らしいブリュンヒルデ」は求められていなかったらしい。フンディングは今日の小鉄和広、先日の長谷川顕とも重量感のある声で成功している。
 ヴォータンの泉良平は、残念ながら馬力だけではこの難役は解決できぬ。声楽的にも役の掘り下げの点でも、時期尚早ではなかったろうか。先日の小森輝彦の、少し線は細いが安定した歌唱の方が好ましかったと今にして思う。

 結局、今回の上演では、一にも二にも飯守泰次郎の円熟の指揮、ということになろうか。「死の告知」の場面の演奏など、きわめて情感にあふれていた。
 もう一つ付記しておきたいが、今回の字幕には些か解らないところがある。特に第2幕には、訳語のニュアンスが異なっているためストーリーを混乱させる個所(ヴォータンの独白の一部)、明らかに意味が逆ではないかと思われる個所(フンディングの歌詞)が見受けられたのだが、どうなのだろう?

 

2・23(土)新国立劇場制作 山田耕筰:「黒船」

  新国立劇場オペラ劇場

 これもまた、滅多に観られないオペラ。とはいえ、これまで上演されたことは何度かあるようで、私が観ていなかっただけのことだろう。
 いずれにせよ、われわれ日本のオペラ・ファンにとっては、大先達の名作(1940年初演)として、一度は観ておくべき作品だ。昔レコードで聴いた時には何か貧弱なイメージを感じたものだったが、今回、若杉弘指揮、栗山昌良演出による念入りなプロダクションに接し、これはやはり日本のオペラとしては大変な力作であったという感慨を抱かずにはいられなかった。

 3つの幕に先立つ「序景」は、過去の舞台上演ではカットされていたそうで、したがってこの部分は実に68年ぶりに舞台初演されたことになる。
 盆踊りの光景に始まる、たいした事件も起こらないわりには長い場面だ。たしかにこれまでカットされていた理由も解らなくはない。が、山田耕筰がこれを書いたからにはそれなりの狙いがあったはずなのであり、その意味でも復活演奏は作曲者に対する敬意として意義あることであろう。その他にも何ヶ所か復活蘇演の個所があると聞く。

 音楽は、どちらかといえば叙情的な部分が多く、オーケストレーションも歌詞がよく聞き取れるように作られている。
 このあたり、山田耕筰が、当時の日本人作曲家としては、オペラというものを驚異的なほど把握していたことを証明するものだろう。声量に不足する日本人歌手の問題を、きわめて巧く解決しているのである。
 もちろん今回は、オペラの指揮に熟達した若杉弘がオーケストラ(東京響)を巧みにドライブしていたことも忘れてはならない。また、譜面上では違和感もあった日本語の音程の跳躍が、実際に聴いてみるとさほど不自然に感じられなかったのも、オーケストラの表情が適切だったためであろう。
 とにかく、随所に現れる「耕筰節」はわれわれを愉しませる。「姐さん教えて下さいな」で始まるお吉の歌の旋律と管弦楽との和音構成など、こちらが照れてしまうくらいに歌謡調が繰り広げられる。これも、オペラにおけるシリアスな面と、親しみやすい娯楽面とを組み合わせるコツを、山田が会得していたからではなかろうか。
 なお上演には字幕が使われていたが、これは歌詞が聞き取れないからということではなく、旧い文語体が多く使用されていたため、言葉の理解を助けることが目的だと思われる。

 演出の栗山昌良は、このような日本ものを手がけると、実に味がある。新国立劇場での「天守物語」なども一種の耽美的な雰囲気があふれて印象的だったが、今回の舞台も日本の様式美を折り込んだ所作と構築が安定感を生んでいた。
 松井るみの舞台美術、緒方規矩子の衣装も美しい。第3幕でのイチョウと紅葉の色づきは華やかであり、観客の目を楽しませた。特に浪人・吉田の切腹場面でイチョウの葉がハラハラと散っていくあたり、いかにも「日本的」な雰囲気だ(ほんとは、もっと盛んに散ってもらいたかったのだけれど)。

 歌手では、腰越満美(お吉)と黒田博(浪人・吉田)が容姿・演技も含めて素晴らしい。いや、その他の歌手たちも、さすがに日本の武士、浪人、芸者、漁師などをやると、これ以上は無いくらいにサマになる。日本のオペラにもっと名作がたくさんあったなら、もっと世界に存在を主張できるのだが。
 ただし、その中でやはり領事や書記官のような外国人の役が出てくると、途端に無理が目立ってくるのが残念である。たとえば今回のようなアメリカ人役を、外国人歌手に日本語を勉強してもらって演じてもらう、というのは不可能なことなのだろうか? もしくは、彼らの歌詞の中には英語の個所も出てくるのだし、もともとの台本はパーシー・ノーエルによる英語版なのだし、「序景」は当初英語テキストに作曲されたくらいなのだから、米人役の部分だけ英語に戻して歌ってみても面白いのではなかろうか。
 

2・22(金)METライブビューイング ヴェルディ:「マクベス」

  めぐろパーシモンホール

 メトロポリタン・オペラ、去る1月12日上演のライヴ映像。「ロメオとジュリエット」、「ヘンゼルとグレーテル」に次ぐ今シーズンのラインナップの3つ目。

 今年のだしものは、昨年のシリーズに比較して音質があまり芳しくなく、特に今日のなどモノーラル録音のようになっているのには落胆したが、それでも映像と演奏から一種の沸き立つ熱気のようなものが感じられるのは、映画というメディアが持つパワーのなせる業か。
 もちろん、演奏がいいことはいうまでもない。ジェイムズ・レヴァインは、こういうヴェルディものをやると、特に生演奏では、実に「もって行き方」が巧いのである。
 それにマクベス夫人のマリア・グレギーナが文字通り「重量級」の熱演。マクベス役のジェリコ・ルチッチもなかなかのものだ。が、なんといってもさすがの凄みを発揮したのはバンクォー役のジョン・レリア。この人はフィガロのようなコミカルな役からカスパルのような悪役まで、本当に近年はすばらしいバスになった。
 演出はエイドリアン・ノーブル、現代に起こり得る物語としてのストレートな解釈を施した。たしかに彼の言うとおり、このドラマで描かれている権力闘争、暗殺、大量殺戮、国土の荒廃、難民(これはオペラでのみの登場)といったものは、今日世界の各所で繰り返されている出来事なのである。

2・20(水)二期会公演 ワーグナー:「ワルキューレ」初日

  東京文化会館

 二期会にとってはこれが4度目の「ワルキューレ」になる、と栗林義信理事長がプログラムの中に書いている。そういえば、私もそれらをすべて観てきた。いずれもそれぞれの時代の歌手やスタッフが全力を挙げたプロダクションだったし、愉しめるものであった。
 その第1回(1972年、日本人による日本初演)の時に指揮をして、われわれに大きな感銘を与えた飯守泰次郎が今回再び登場し、あの時をさえ遥かに凌ぐすばらしい演奏を聴かせてくれたのは、大いなる喜びである。

 彼のワーグナーは今日、疑いなく世界の第一級品である。音楽に深い感情がこもっていて、ワーグナーの精緻なスコアが持つ複雑な陰翳を見事に織り上げる点では、そんじょそこらのカタカナ文字指揮者なんかの演奏より、ずっと優れているだろう。「ヴォータンの告別」のあの感動的なクライマックスの個所などでも、彼は36年前と同様、ことさら作為的な大芝居をすることなく、自然で壮大な盛り上がりを創ってくれた。
 これで東京フィルがもっと強靭な、分厚い弦楽器の響きを出してくれれば鉄壁の演奏になったはずだが、惜しむべし。それでもまあ、いつもの(ピットに入った時の)東京フィルよりはマシな演奏といえたかもしれない。ともあれ、今回の上演の成功の第一に挙げるべきは、飯守泰次郎の円熟の指揮であった。

 ジョエル・ローウェルスの演出はやや小粒だが、かなり緻密に考えられていて、論理的にまとまっている。特に奇を衒ったものではないので、音楽から注意を逸らされることがないだろう。
 冒頭場面と大詰め場面にローゲがヴォータンに諂うがごとくへばりついて姿を現したり、第1幕幕切れでフリッカが背景でヴォータンに若者二人の「不倫」を指し示したり、第2幕冒頭にヴァルハラ城内の宴の場面が設けられてすでにフリッカが登場していたり、第3幕で娘ブリュンヒルデへの感情の揺れを表わすヴォータンをフリッカが威嚇したり、という新機軸は少々説明過剰で、しかも歌詞と全く矛盾する結果を招くような個所も多いが、それはまず措くとしよう。とにかく、フリッカがいたるところにしゃしゃり出てはヴォータンの意図を片っ端から打ち砕くというのは、着眼点としては面白い。
 ただし、幼女時代のブリュンヒルデや、妊婦姿で森を行くジークリンデをイメージ的に出して見せたりするのは、近年よく使われるテだが、今回のは少々野暮ったく、なくもがなの感。

 そうはいっても、私が最近観た「ワルキューレ」の中では、石井リーサ明理の照明を含めたこのローウェルスの演出と装置は、ステファーヌ・ブランシュヴァイク(エクサン・プロヴァンス音楽祭)やスヴェン=エリック・ベヒトルフ(ウィーン国立歌劇場)などのそれより、よほど丁寧に作ってある舞台に感じられた。これは、国内制作プロダクションへの欲目だけではないだろう。
 今回の演出で、どこか一つ印象的な場面をと言われれば、第2幕の「死の告知」の場面を挙げよう。ここは雪と、白々とした照明が絶妙な効果を上げていた。

 歌手陣では、やはり小山由美のフリッカが貫禄。ト書きに無い頻繁な登場だったが、この人のおかげで舞台は随分引き締まったであろう。
 小森輝彦のヴォータンは声質・演技ともに重みに不足しており、これでは妻に罵倒され娘に叛かれるのも仕方ない、という趣きになってしまったが、「ラインの黄金」時代のヴォータンであればまだ一理あったかもしれない。ブリュンヒルデの横山恵子は大健闘だが、声楽表現と演技に「落ち着きすぎ」のような感なきにしもあらず。ジークリンデを歌った橋爪ゆかは未だ荒削りながら勢いが良くて今後に期待が持てる。なお黙役だが、奇怪で醜悪な姿のローゲを演じていた桜観(さくみ)という人の見事なパントマイムが印象的だった。こういう個性的な助演者がいて、舞台は更に引き締まるのだ。
 

2・17(日)大植英次指揮大阪フィル東京公演

  サントリーホール

 大植英次の新境地、というよりは、彼と大阪フィルの新境地、と書くべきだろう。この日の演奏は、これまで聴いた彼らの演奏とは随分違っていた。

 その最大のものは、音色である。特にラヴェルの「道化師の朝の歌」とベルリオーズの「幻想交響曲」で彼らが披露した音色は明るく輝かしく、それも滑らかに彫琢された音というよりは、粒立ちの強い、全ての楽器があいまいに妥協せずに自らの存在を主張できるというオーケストラの好ましい姿を実現できるような演奏になっていたのである。
 これは、もしかしたらサントリーホールの2階席中央で聴く音の癖との相乗効果による印象かもしれない。が、いかにあの席とはいえ、すべてのオーケストラがそういう音で聞こえるわけではないから、これはやはり大植と大阪フィルが、このフランスの2つの作品で狙ったものが成功を収めたのだと考えてもいいだろう。
 
 音色以外にも、響きにふくらみが感じられ、それが空間的な壮大さを生み出していたのが印象的であった。「道化師の朝の歌」最初の部分での、最弱奏から最強奏への突然の変化にも、決してわざとらしい怒号はなく、きわめて自然な解放感があふれていた。全体に遅いテンポで構築された「幻想交響曲」でも、同様である。
 アンコールで演奏されたエルガーの「エニグマ変奏曲」の中の「ニムロッド」での軽やかで柔らかく、神秘的なほどの弱音の美しさは、それらを集大成した名演といってもよく、かつてテミルカーノフとサンクトペテルブルク・フィルがこのホールで聴かせた演奏をさえ凌ぐといっていいほどであった。
 
 大植英次と大阪フィルの演奏は、これまでにもしばしば聴いてきたが、何か彼らの個性が掴みきれない、もどかしいところが多々あった。指揮者がオーケストラを自分の楽器に仕立て上げるのには長い時間がかかるということは、いろいろな例を見れば明らかだが、大植と大阪フィルも、やっとそのような時代に入ってきたのかもしれない。もちろんこれは、他のレパートリーをも聴いた上でないと、軽々しく断定はできないものだけれども。だがとにかく今日の演奏には、このコンビの今後に対して胸の躍るような期待をもたせるものが感じられたのであった。

 この2曲の間には、小曽根真がソロを弾くガーシュウィンの「ラプソディ・イン・ブルー」が聴衆の人気を集めた。この人の音色もまた、きらきらと輝くように美しい。これだけ爽やかな音色で、しかも一瞬の緩みも感じさせずにピアノを演奏する人は、クラシック系のピアニストの中にさえいないかもしれない。例のごとく自由な即興のソロを随所に含み、演奏時間も普通のものより格段に長くなっていたが、それもおそらく作曲者ガーシュウィンが心に描いていたものだろうと思わせるほどの説得力と、楽しさにあふれていた。
  産経新聞(2月24日)演奏会評

2・16(土)東京オペラ・プロデュース  ワーグナー「妖精」

  新国立劇場中劇場

 ワーグナーの最初の完成オペラ、21歳の作。
 それでも全3幕、上演時間は正味3時間近くもかかる。
 かように若い時から話の長い男だったのだ、ワーグナーという人は。

 一生に一度観られるかどうか、というめずらしい作品である。よくぞ取り上げてくれたものだ。指揮はマルコ・ティトット、管弦楽はユニバーサル・フィル、演出は松尾洋&八木清市、キャストは羽山晃生(アリンダル)、福田玲子(アーダ)他。
 常に客席を向いて歌わせる演出など、いろいろ不満もあるが、ここではレコード評論界の大先達あらえびすがわが国の黎明期を回顧した一文を借りておくにとどめよう。
 「(発売されているレコードが)たった一組しか無い時は、旧ビクター黒盤の『第五シンフォニー』も珠玉であった。それは褒められ尊敬されなければならなかった」(1939年刊「名曲決定盤」)。

これを観た3日後、このプロダクションの演出家であり、主宰の東京オペラ・プロデュースの代表である松尾洋氏の訃報に接して驚愕。公演終了の翌日(18日)に他界されたという。氏の功績を讃え、感謝し、心からご冥福をお祈りいたします。(19日)

2・13(水)ジョナサン・ビス・ピアノ・リサイタル

  東京オペラシティコンサートホール

 アメリカの若手、ジョナサン・ビスのリサイタルを聴く。
 先日出たベートーヴェンのソナタ集のCD(EMIクラシックス TOCE−56024)が鋭気颯爽として好感を呼ぶ演奏だったので、期待充分のものがあった。
 
 ベートーヴェンのソナタからは「悲愴」と「田園」が演奏される。ホールとピアノの関係もあってか、CDで聴くよりは響きが少し骨太に感じられたものの、「悲愴」第1楽章など実に快調に音階を駆け上がり、駆け下りるといった趣きの演奏になっていたのが、いかにも若いピアニストらしい勢いがあって微笑ましい。
 が、その2曲の間に置かれたヤナーチェクのソナタ「1905年10月1日、街頭にて」と、休憩後に置かれたシューベルトの第20番(D.959)のソナタでは、ビスの演奏は突然翳りを持つ音色に変わり、前者では悲劇感が、後者ではロマン的な曲想が浮き彫りにされて行く。作品ごとにこれだけ大きくアプローチを変化させることができるビスの実力は、なかなかのものである。作曲家の個性と正面から向き合い、それらを自己の中に率直に映し出そうとする真摯な姿勢が感じられて、ますます好感が持てる。