2017-11

2017・10・12(木)ラ・プティット・バンド

     浜離宮朝日ホール  1時30分

 シギスヴァルト・クイケンがリーダーを務めるバロック・オーケストラ、ラ・プティット・バンドの、J・S・バッハの作品による演奏会を聴く。今回は、ヴァイオリン2、ヴィオラ1、チェロ1、フラウト・トラヴェルソ1、オーボエ2、チェンバロという編成だ。

 プログラムは、前半が「管弦楽組曲第3番」(弦楽四重奏とチェンバロ)、「音楽の捧げもの」からの「トリオ・ソナタ ハ短調」(フラウト・トラヴェルソ、ヴァイオリン、チェロ、チェンバロ)、「チェンバロ協奏曲第5番」(チェンバロ、弦楽四重奏)。後半では前述のフル編成にソプラノ(アンナ・グシュヴェンド)が加わり、カンタータ第204番「私の心は満ち足りて」。

 室内アンサンブル規模の編成がホールのアコースティックに合致して、清澄な響きを生み出す。ナマのステージで聴くとその微細な声部の交錯がじっくりと堪能できて面白い。
 ほぼ30分間、レチタティーヴォとアリアとを歌い続けたグシュヴェンドのソプラノも実に澄んだ気品のある声だったが、2本のオーボエが舞台前面に並んでいたため、その楽器が演奏に加わる部分のみはマスクされてしまったのだけは惜しかったが、これは小さな問題に過ぎぬ。ヒューマンなバッハの世界に浸った午後の2時間。

2017・10・11(水)西村悟テノール・リサイタル

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 活動の場を目覚ましく拡げているテノールの西村悟(にしむら・さとし)が、オーケストラとの協演によるリサイタルを開いた。
 コンサートは「五島記念文化賞 オペラ新人賞研修記念」と題されており、この名称だけではよく解らないけれども、要するに平成25年度の「五島記念文化賞オペラ新人賞」を受賞、イタリアで研鑽を積んだその「研修結果を披露するための」リサイタルである由。今回は山田和樹指揮の日本フィルがバックを務めるという、かなり贅沢なリサイタルとなった。

 西村悟が歌ったのは、ドニゼッティの「愛の妙薬」と「ランメルモールのルチア」、ヴェルディの「マクベス」、マスネの「ル・シッド」、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」、プッチーニの「ラ・ボエーム」と「トスカ」、アンコールでは同「トゥーランドット」とレハールの「ほほえみの国」といったオペラからのアリアだったが、どれも体当たり的な熱演で、若いテノールの満々たる意欲と気魄が伝わって来るような感であった。

 前半のドニゼッティのアリア3曲では、緊張のためだったのか、高音域が伸びず、聴いている方でもハラハラさせられたけれども、高音が不安定になった時にもそのまま強引に押し切って行ったあたりが、若手らしくていい。

 休憩後は持ち直し、尻上がりに調子を出して行ったが、特にマスネの「おお裁きの主、父なる神よ」やチャイコフスキーの「レンスキーのアリア」など、あまり「絶叫しない」曲では、非常にいい味を出していた。
 アンコールでは気も楽になったか、「君こそわが心のすべて」と「だれも寝てはならぬ」では、気持よさそうに大見得を切り、聴衆を湧き立たせていたのは祝着である。

 欲を言えば━━これはあくまで印象に過ぎないが━━イタリアオペラもフランスオペラもロシアオペラも、すべて同じように歌ってしまうこと、各国語の歌詞に区別がつかないこと、登場人物の性格や心理状態の描き分けが徹底していないこと、などを感じるのだが、こういうことはすべてこれから彼が解決して行くこと。今は若い勢いで、何でもやってみるのがいい。
 とにかく、楽しみなテノールである。終り近くには「感謝のスピーチ」を試みていたが、なかなかの感激性の人のようだ。

 山田和樹指揮の日本フィルは、「セビリャの理髪師」序曲や、「エフゲニー・オネーギン」の「ポロネーズ」、「マノン・レスコー」間奏曲などを演奏していたが、やはり定期公演でのあの緻密な演奏とは、かなり趣を異にしていた。
 それでも、ヤマカズの「持って行き方の巧さ」は、相変わらずである。「星も光りぬ」から前述のアンコール曲2曲などでは、テノール・ソロを煽り、包み込み、ドラマティックに追い込んで行く巧さを存分に発揮してくれた。この人は、音楽における劇的な演出展開といったものに、生来秀でているらしい。オペラ指揮者としても大成する人だろうと思う。

2017・10・9(月)東京二期会 プッチーニ:「蝶々夫人」

      東京文化会館大ホール  2時

 東京二期会の定番、栗山昌良演出による「蝶々夫人」。
 何度も再演されている名舞台で、私も3年前(2014年4月23日の項)に観たばかりだ。

 この栗山演出は、日本的な美を追求した舞台として、「蝶々夫人」の演出史における不滅の完成品であろう。もちろんこのスタイルがこのオペラの演出として唯一無二であるという意味ではないけれども、ここまで蝶々さんとスズキの演技に日本女性の美しさを織り込んだ演出は、昔はともかくとして、今日では他に例をみないのではないか、と思われる。石黒紀夫の舞台美術、沢田祐二の照明、荒田良の舞台設計、すべてが均衡を保っている。

 それゆえ、今回は演奏と、主役歌手にも注目。
 ガエタノ・デスピノーサの指揮する東京交響楽団が、今回は絶好調。直截で速めのテンポの裡に、プッチーニが散りばめた日本の旋律群も鮮やかに浮き彫りにされていた。もっともこれは、日本のオーケストラが演奏すれば自然にそうなるのかもしれないが。10列ほぼ中央で聴いていたが、ピットから響いて来る音が美しかった。

 歌手の中では、今回最も注目されていた一人が、題名役を歌う森谷真理であった。最近活躍が目覚ましいソプラノである。
 今日、彼女が演じたこの役は、楷書体の蝶々夫人とでも言ったらいいか。いかにも武士の娘らしく端然、毅然とした、知性的な蝶々さんという表現だ。
 たとえば怒りのあまり衝動的に米国国旗を引き抜いて叩きつけるような女性(笈田ヨシ演出、今年2月東京芸術劇場)とは全くの対極に位置して、あらゆる面に日本女性の美学とでもいったものが追求されている━━それが栗山演出の蝶々さんなのだが、それを森谷真理は、完璧に演じていた。
 歌唱にもそれと同じ特徴が表れている。高音は実に張りのある美しく澄んだ声だ。これで中低音と、弱音がもう少しよく響くようになってくれれば、いっそう素晴らしくなるだろう(以前の別のオペラではそんなことは気にならなかったのだが・・・・)。
 いずれにせよ、新しいタイプの蝶々さんが出現したことを慶びたい。

 もう一人は、ピンカートンを歌った宮里直樹である。昨年は藤原オペラの「愛の妙薬」でネモリーノ、今年も日生劇場で「ラ・ボエーム」のロドルフォなどを歌い、評判を上げている人だが、私は今回初めて聴いた。まだ30歳だそうである。見事に伸びのいい、力に満ちた声で、これは楽しみだ。
 そして、山下牧子の巧さは、ブランゲーネなどをはじめ、これまでさまざまな作品で証明されて来ているが、今回も完璧なスズキ役であった。このオペラの舞台が引き締まるかどうかは、実はスズキの出来次第で決まると言ってもいいのである。

 他に、シャープレスを今井俊輔、ゴローを升島唯博、ヤマドリを鹿野由之、ボンゾを勝村大城、神官を原田勇雅。二期会合唱団。

 4時45分終演。
 第1幕の最後で、静かに閉じて行く音楽に浸っていた観客を飛び上がらせるような大声でブラヴォーを喚く奴が下手側最前列近くにいたかと思えば、それを客席後方から大声で非難し、正当にたしなめた人がいる。しかしまた、その言葉の内容がはっきり聞こえなかったらしい下手側10列前後にいたオヤジが「何だ? 野次か? けしからん」と怒り出す、という騒ぎもあって、やれやれ・・・・。昨日も、今日も・・・・。
 ブラヴォーはあったほうがもちろんいいと思うが、えてして、目立ちたがり屋やサクラのけたたましい下品な喚き声が多いのが困る。センスが豊かで美しいブラヴォ―の声というのは、なかなか無いものだ。

2017・10・8(日)みつなかオペラ プッチーニ:「妖精ヴィッリ」「外套」

      川西市みつなかホール  4時

 阪急の川西能勢口駅から徒歩数分、みつなかホールで行われている「みつなかオペラ」。
 2年前の「ノルマ」の時(2015年9月20日)に初めて訪れたのだが、その上演水準の高さに驚き、また聴きに来たいと思っていた。

 2005年以降はイタリアオペラのシリーズを集中的に組んでおり、特に2010年以降はドニゼッティ、ベルリーニの作品を各3年連続で上演、今年からはプッチーニに入っている。有名作のみにとどまらず、滅多に上演されないレパートリーをも積極的に取り上げているのは、客席数500以下という「小規模劇場」だからこそできる小回りの良さゆえではなかろうか。大変立派なことだ。四半世紀にわたり継続して来ている点でも、見上げた活動と言うべきである。

 今年は第26回公演。プッチーニの最初期のオペラ「妖精ヴィッリ」と、後期のオペラ「外套」を組み合わせての、2本立て上演だ。
 演奏は、牧村邦彦指揮のザ・カレッジ・オペラ管弦楽団。オケ・ピットは小型で、30人ほどしか入らぬそうだが、それを豊かな音にするよう巧く解決しているのが、スコア・リダクションという手法の由。倉橋日出夫が毎回担当しており、これは全く見事な手法である。オーケストラのつくり出す劇的な盛り上げも目覚ましかった。
 牧村邦彦の指揮も、ザ・カレッジ・オペラ管弦楽団も、すこぶる聴き応えのある出来だった。欲を言えば「外套」の幕切れ、ミケーレが妻ジョルジェッタに不倫相手の死体を見せつけるシーンに持って行く直前のオーケストラに、もう少し不気味な盛り上げが聴きたかったところではあったが。

 公演は2日でダブルキャスト。今日は初日で、出演者は━━
 「妖精ヴィッリ」が内藤里美(アンナ)、小林峻(ロベルト)、森寿美(グリエルモ)、みつなかオペラ合唱団、法村友井バレエ団(4人)。
 「外套」が桝貴志(ミケーレ)、並河寿美(ジョルジェッタ)、松本薫平(ルイージ)、片桐直樹(タルバ)、福原寿美枝(フルーゴラ)、谷口耕平(ティンカ)、西上亜月子・矢野勇志(恋人カップル)、岩城拓也(流しの歌手。合唱指揮者でもある)。なお、合唱団も冒頭に黙役の「セーヌ河畔にたむろする群衆」として出ていた。

 今日の出来では、やはりまず並河寿美が、歌唱・演技ともに存在感充分で光っていた。また桝貴志も陰にこもった凄味を後半にかけてぐいぐいと盛り上げて行き、福原寿美枝と片桐直樹がベテランらしく力のある歌唱と演技で脇を固める。松本薫平も、声の荒れが少し気になったのを除けば、「まじめだがひたむきなルイージ」に相応しい出来を示した。
 小林峻は、道を踏み外したロベルトを大熱演。内藤里美は前半少し硬かったものの、素晴らしく綺麗な声が魅力的である。

 演出は井原広樹、装置がアントニオ・マストゥロマッテイ、照明が原中治美。トラディショナルな写実主義的な舞台だが、まとまりはいい。
 「妖精ヴィッリ」では、合唱をかなり派手に活躍させており、終場面でも大集団の精霊として踊り狂わせる、という手法を採っている。
 このラストシーン、裏切られて死んだ女の怨霊が・・・・という場面で、もう少しオカルト的な怪奇さが━━「源氏物語」の六條御息所のような不気味さが出ていれば、と思うのだが、今回はアンナの亡霊が下手側から歩いて登場したり、ロベルトと「二重唱的」な構図を繰り広げたりするなど、いかにも「オペラ的」な綺麗さにとどまっていたのは少々惜しい。合唱団が演じた精霊たちの不気味なはずのダンスにも、むしろコミカルな雰囲気を生じさせてしまったのではないか。

 一方、「外套」では、背景と舞台における美しい照明のもと、人物関係とその動きも含め、極めて凝縮したドラマが展開され、あらゆる面で成功を収めていた。昨年6月に関西二期会が上演した「外套」でのマルチェッロ・リッピ演出と比べると、ラストシーンのスリリングな緊迫感には格段の差があり、特にこの場面での、不倫相手の死体を夫から見せつけられ、恐怖に怯えるジョルジェッタ(並河寿美)の良い意味での大芝居も、抜群の衝撃的効果を生み出していた。

 この団体の優れた活動は、もっと日本中に知られていいだろう。休憩20分ほどを挟み、6時35分頃終演。

 なお、ブラヴォーの声(複数)は、何となく歌手の関係者たちのようで、景気づけにはなるものの、サクラじみてわざとらしく、煩わしい時がある。「外套」の凄味ある幕切れで最後の音にかぶせるようにブラヴォーを喚いた御仁は如何にも非常識極まりなく、ドラマの余韻をぶち壊した。

2017・10・7(土)リッカルド・シャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団

       サントリーホール  5時

 ホールには5時15分くらいに着く。
 東京公演の2日目はR・シュトラウス・プロで、「ツァラトゥストラはかく語りき」「死と変容」「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」の3曲。1曲目の「ツァラ」は諦めていたので、第2部の2曲のみ聴く。

 昨日と同様、ルツェルン祝祭管弦楽団は、ホールを揺るがせて鳴り渡る。
 「死と変容」のクライマックス個所など、オーケストラ全体が巨大な山脈と化した如く、留まるところなく盛り上がって来るさまが凄い。地鳴りのような轟きが伝わって来て、今日もLC前方席で聴いていたのだが、何と椅子の背中がビリビリと来るような━━そんな馬鹿な話があるかと言われそうだし、自分でもそう思ったのだが、本当にそんな感じがしたのである。

 「ティル」も、主人公の「いたずらと大暴れと処刑」のストーリーが、極度のダイナミズムで描き出された。アンコールは・・・・昨日も本編に劣らぬスペクタクルだったので、今日も多分、と予想していたら案の定、「サロメ」の「7つのヴェールの踊り」が出て来た。選曲も演奏も、ちょっとやり過ぎじゃないかと思うところもあったけれども、とにかく痛快ではあった。

 大きな音でやったからいいというわけではない。だが、オーケストラという大人数の楽器集団がその力を極めるための、あくまで一つの例として、このシャイーとルツェルン祝祭管は、その面白さを具現してくれたことは確かであろう。それに、これだけ巧くて、しかも表情豊かな大オーケストラが演奏すると、R・シュトラウスの作品が如何に並外れて精妙精緻で、色っぽくて、聴き手の官能をくすぐる力を持っているかということが、改めて如実に感じられるのである。

 シャイーは、昨日と同様、オーケストラが引き上げてからもソロ・カーテンコールに呼び出されていた。

2017・10・7(土)オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィル

      東京オペラシティ コンサートホール  4時

 「アジア オーケストラ ウィーク」の3日目。
 音楽監督オーギュスタン・デュメイの指揮で、前半にショーソンの「詩曲」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、マスネの「タイースの瞑想曲」、後半にビゼーの「交響曲ハ長調」。
 前半の3曲はデュメイ自身の弾き振りで、このところ彼のソロを聴く機会がなかったため(先日のリサイタルも都合で聴けなかった)、貴重な演奏会となった。

 昔はピリスとの協演でよく聴いたデュメイだが、今日はいっそう強靱な表情になり、弦楽編成のオーケストラ(コンサートマスター岩谷祐之)を圧するばかりの音量と風格で、朗々と歌い上げる。自国の作品に対する彼の強い共感と、深い情感にあふれた演奏だったと言えるだろう。

 デュメイの指揮者としての本領を味わうには、後半のビゼーの交響曲を聴かなくてはいけないのだが、残念ながら今日は諦める。11月16日にいずみホールで、彼と関西フィルの演奏を聴く予定(しかも協演はメネセス)だから、楽しみはそれまで取っておこう。

 新宿から首都高で霞が関へ。サントリーホールに向かう。

2017・10・6(金)リッカルド・シャイー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団

      サントリーホール  7時

 昨年から音楽監督に就任しているシャイーの指揮で、プログラムはベートーヴェンの「エグモント」序曲と「第8交響曲」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」。アンコールには同じく「火の鳥」から「魔王カスチェイ(カッシェイ)の凶悪な踊り」。

 「エグモント」は、正面切った堂々たる風格の演奏で展開された。この調子でずっと行くとなると、立派だけど面白くなくなるな、と感じたのは束の間。「8番」になった途端に、シャイーは思い切った趣向をやること、やること。

 第1楽章第1主題の3小節目をすっと軽やかにデクレッシェンドさせたり、提示部の反復の際に1番カッコの個所から第1主題冒頭のフォルテに戻したり。また第2楽章の主題で、木管群を見事に弾むように吹かせ、しかもその主題が復帰した個所以降の木管群をエコーのような美しさで弾ませる、といったようなワザを聴かせる。
 全体にメトロノーム指定に近い快速のテンポで演奏させていたが、第4楽章など、その快速ぶりたるや、少なくとも76か、80くらいにまで達していたのではないか。

 とにかく、オーケストラがすさまじく巧い。それもそのはず、ヴィオラ・セクションにはヴォルフラム・クリストやヴェロニカ・ハーゲン、チェロにはクレメンス・ハーゲン、フルートにはジャック・ズーン、オーボエにルーカス・マシアス・ナヴァロ、クラリネットにアレッサンドロ・カルボナーレなどという名手たちも加わっている、腕利きぞろいのフェスティバル・オーケストラなのだ。
 シャイーは、そういう名手たちの名技をひたすら愉しむかのように、オーケストラを煽って、煽って、煽りまくる。その巧さ、音色の豊麗さ、音量の豊かさは、まさに圧倒的だ。

 「春の祭典」が、これほど壮麗な音の洪水、大音量の威力、マッスの量感的な物凄さ、といった要素を前面に出して轟き渡った例は、そうは多くないだろう。ブーレーズのような分析的な「春の祭典」もそれはそれで面白いけれども、このシャイー&ルツェルンのような開放的な力感と量感を優先した「春の祭典」も、聴く者に快感を呼び起こさせる。

2017・10・5(木)リャン・ツァン指揮上海フィルハーモニック管弦楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 文化庁芸術祭執行委員会主催による「アジア オーケストラ ウィーク2017」。今年は上海フィル、マレーシア・フィル、関西フィルの3団体が出演している。

 2002年から始まったこの「アジア オーケストラ ウィーク」、初期の頃は最大6団体が来日したこともあるほど大がかりなものだったが、この10年ほどは2団体、あるいは3団体の来日という規模になってしまった。参加国も、かつてはトルコやモンゴルといった国々の名が見られたほど、幅広かった。しかしとにかく、現在まで続けられていること自体、立派である。継続は力なり、である。

 で、今日は初日。上海フィルの登場である。指揮は首席指揮者のリャン・ツァン、ピアノはジェ・ヤン。プログラムは、芥川也寸志の「弦楽のための三楽章(トリプティーク)」、ショパンの「ピアノ協奏曲第2番」、ドヴォルジャークの「交響曲第8番」というものだった。
 オケは弦12型。音に「色」が無く、淡彩になってしまうのはアジアのオーケストラに多い特徴だが、この上海フィルも同様だ。精一杯演奏していることは分かるが、音楽がどうしても単調になってしまうのである。ただこれは、指揮者の資質にも由るだろう。何にしても、よくやっているとは思う。

 ピアノのジェ・ヤンはジュリアード音楽院出身の由、切れのいい明解なニュアンスでショパンを弾く。ソロ・アンコールで弾いたのはピアノ協奏曲の「黄河」の第2楽章だというけれども、・・・・こんな曲だったっけ? ピアノ・ソロだけで聴いたのは初めてだったので、別の曲かと思った。

 なお、プログラムに日本の作品を入れてくれと言ったのは、日本の主宰者だったそうである(マレーシア・フィルは武満徹の「弦楽のためのレクイエム」を選んでいた)。
 年ごとに趣向を変えたいという意図は理解できるし、それはそれでいいが、こういう趣旨のシリーズの場合には、やはりそれぞれのオーケストラに、自国の作品を一つだけでも持って来てもらうべきではなかろうか。今日はアンコールで、上海フィルのほうは劉天華の「良宵」というロマンティックなポルタメント満載の小品を演奏していたが、自国の作品はまずメイン・プログラムに1曲は加えるべきだと私は思う。

2017・10・4(水)新国立劇場「神々の黄昏」

     新国立劇場オペラパレス  4時

 飯守泰次郎指揮、ゲッツ・フリードリヒ演出による、新国立劇場としてはキース・ウォーナー演出版に次ぐ2作目の「ニーベルングの指環」、その完結篇、全6回公演の、今日は2日目。

 配役と演奏は次の通り。
 ジークフリートをシュテファン・グールド、ブリュンヒルデをぺトラ・ラング、ハーゲンをアルベルト・ペーゼンドルファー、グンターをアントン・ケレミチェフ、グートルーネを安藤赴美子、アルベリヒを島村武男、ヴァルトラウテをヴァルトラウト・マイヤー。3人のノルンを竹本節子、池田香織、橋爪ゆか。ラインの乙女を増田のり子、加納悦子、田村由貴絵。読売日本交響楽団、新国立劇場合唱団。

 飯守は、今シーズンで新国立劇場オペラ部門芸術監督としての任期を満了することになるが、その開幕公演として選んだのが、この作品である。これは、日本のワーグナー指揮者として自他共に許す存在である飯守に相応しい演目と言えよう。
 この上演でも彼は精魂込めた指揮で、「指環」最終章を飾って行った。演奏全体としては、ダイナミズムを重視した、やや荒々しいものではあったが、決して無味乾燥なものには陥っていない。いろいろな意味で、彼の現在のワーグナー観を示すものだったと言えるだろう。

 オーケストラには今回、読響が起用された。これはあらゆる点で、成功である。音が分厚いし、ちょっと粗くて乾いてはいるものの、パワーが充分だ。第2幕の後半の壮大な場面や、第3幕での「葬送行進曲」、あるいは終曲など、まずこのくらい行けば上々と言ってもいいだろう。こういう個所でオケが弱々しかったら、すべてぶち壊しだからである。
 舞台外で吹かれたジークフリートの角笛のホルンが非常に上手く、これも読響ならではのものだろう。それに、今の日本のオーケストラで、「飯守のワーグナー」を巧く具現できるのは、読響以外には無いと思われる。

 故ゲッツ・フリードリヒの今回の演出(再演演出はアンナ・ケロ)は、ついに最後までもどかしさを感じさせたままであった。
 奇しくも今年は、彼のベルリン・ドイツオペラ時代の所謂「トンネル・リング」が日本に紹介され、日本のワーグナー愛好者に新鮮な衝撃を与えてからちょうど30年にあたるのだが、こういう形でその新旧演出が比較される結果となったことには、些か複雑な思いを抑えきれない。

 あの時の「神々の黄昏」第1幕で使用された、舞台上に設置された大きなレンズは、たとえばハーゲン、グンター、ジークフリートの内心に生れた邪な欲望を、その顔の表情を醜くクローズアップすることにより描き出すという役割を持っていた。その手法は、今回の演出でも引き継がれている。
 それはいいとしても、今回、細かい演技を含め、写実的な手法と伝統的・形式的な手法とが混在していたのは、あまり納得の行くものではない。しかも、以前の「トンネル・リング」に比べると、舞台上の人物のそれぞれの演技が、互いにしっくりかみ合っていないように感じられるのである。合唱(ギービヒ家の家臣たち)の動きにも、活気がない。これは「演出補」として再演の演出を担当したアンナ・ケロにも責任があるのでは? 

 ラストシーンで、主要登場人物の中ではただ一人「その消息が不明のままになる」アルベリヒが、事の成り行きに茫然としつつ彷徨う光景は、あのハリー・クプファーの手法と共通している。
 ただ、これで締めれば、それなりに明解だったろうが・・・・そのあとにブリュンヒルデをまた登場させる━━廃墟の中央に突然ガバと起き上がらせる━━のは、救済者としての役割を強調し、彼女に未来への希望を託するためか、はたまた、この闘争と悲劇が未来永劫繰り返され、そのたびに救済者が必要になるであろうことを予言するためか。
 いずれにせよ、舞台上の光景としては些か煩雑になって、やらずもがなの印象を与えたことは否めまい。

 総じて、今回の演出は、新国立劇場のプロダクションとしては前作ほど刺激的で話題性に富むものではない。また、舞台としての完成度も高いものだったとは、どう見ても言い難い。とはいえ、わが新国立劇場の現状を考えると、こと「指環」の舞台に関する限りは、これが精一杯なのかな、という気がしないでもないのだが・・・・。

 歌手陣は、一応手堅いところを示していただろう。
 グールドは相変わらずのパワーで野生児ジークフリートをダイナミックに表現、演技の点でもいろいろ工夫していたようだが、第2幕ではちょっと声に無理があったろうか。
 ラングも「自己犠牲」の場面に至る長丁場を巧く盛り上げていたが、ただ、グールドとともに、彼らの好調時の声とは言い難かったようである。

 ペーゼンドルファーのハーゲンは、その動きの少ない演技が、不気味さよりも、何かおっとりとした印象を与えてしまっていた。これも演出上の問題と思われる。
 そしてグートルーネの安藤赴美子の健闘は嬉しいが、第2幕でのブリュンヒルデ出現以降の演技は全く納得が行かない。妻としての立場が脅かされている渦中で、あんなに平然と我不関然としているように見える演技は、どういう演出意図によるものなのか?

 そこへ行くと、ヴァルトラウテを歌ったヴァルトラウト・マイヤーは、出番は短かったとはいえ、さすがの貫録である。焦慮するヴァルキューレとしての表現を、歌にも演技にも、見事に盛り込ませた。往時に比べ、声にはやはり耀きが薄れたかもしれないが、巧さは不変である。
 第1幕のあとのカーテンコールでは、彼女に対し、上階席からブラヴォーの声がいくつか飛んだ。それらは、1階席下手側後方からいつも聞こえる何となくサクラじみた声のブラヴォーよりも美しい。休憩時間に所用で駐車場に出たら、楽屋出口で行列を為したファンたちに彼女がサインをしていた。出番が終ったので、そのままホテルへ戻って行くのかもしれない。

 字幕は故・三宅幸夫さんのもの。さすがに解り易く、安心して音楽と合致させられる。
 休憩を含み、終演は10時05分。やはり、長い。

2017・10・3(火)ペトル・アルトリヒテル指揮チェコ・フィル

       サントリーホール  7時

 名門チェコ・フィル、来日公演(全7回)の今日は3日目。
 ドヴォルジャークの序曲「謝肉祭」と「チェロ協奏曲」(ソロはジャン=ギアン・ケラス)、ブラームスの「交響曲第4番」というプログラム。
 アンコール曲は、ケラスがデュティユーの「ザッハの名による3つのストローフェ」第1曲、オーケストラのほうは、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲」作品72の「第7番」と「第8番」だった。

 首席指揮者ビエロフラーヴェクが惜しくも亡くなってしまったので、モラヴィア出身の指揮者ペトル・アルトリヒテル(アルトリフテル、では?)が代わって帯同来日している。 
 ステージ上での、チェコ・フィルに対する彼の態度は如何にも謙虚そのもので、「私は代役。このオーケストラの素晴らしさにどうぞ拍手を」と言わんばかりに(これを口にしたら雰囲気はぶち壊しになってしまう)自分は中央から一歩退いて、聴衆の称賛を楽団に向けさせる、といった具合。その一方、今年3月にプラハ響と来日した時と同じように、彼の指揮台上での指揮姿は、すこぶる賑やかで、力感に富む。もう結構な年齢(66歳)なのに、足を踏み鳴らしたり、交錯させたり(これは一風変わった仕種である)。

 つくり出す音楽は、何か八方破れという雰囲気はあるものの、素朴で実直な情熱を感じさせる。確かに、ブラームスの「4番」の終楽章後半の追い上げなど、これほど煽り立てた演奏は、滅多に聴いたことがないほどである。
 ただ、もともと細かい仕上げにはこだわらないのか、あるいは今回は練習時間が充分でなかったのか、たとえばホルンとファゴットのバランスなど、少々腑に落ちぬところもあって、全体に何となく落ち着かないブラームスになっていたことは事実だ。ブラームスの晩年の滋味を、壮年の意気に置き換えた「4番」とでもいうか。

 そこへ行くと、ドヴォルジャークの作品の方が、演奏はやはりサマになっている。こういう曲はチェコ・フィルなら目をつぶっていても演奏できるはずだから、と言ってしまえばそれまでだが、それにしてもあのプラハ響との「わが祖国」と同様、アルトリフテルという人はやはり「チェコもの」で最大の強みを発揮する人のようである。
 「チェロ協奏曲」では、その素朴な表情の音楽と、ケラスの洗練された感性の音楽とが色合いを異にしていたが、これはこれで、別の面白さがあった。

 有名な「チェコ・フィルの弦」は今なお健在。チェコの指揮者が振ると、ここのオケの弦はいっそう瑞々しくなる

2017・9・29(金)川口成彦フォルテピアノ・リサイタル

     東京オペラシティリサイタルホール  7時

 昨年のブルージュ国際古楽コンクール最高位入賞のキャリアを持つ川口成彦のリサイタルを聴きに行く。
 前半にJ・C・バッハ、C・P・E・バッハ、イサーク・アルベニス、マテオ・アルベニス、ベートーヴェンのソロ曲、後半にはEnsemble LMC(弦楽五重奏)との協演でモーツァルトのピアノ協奏曲2曲(「第13番」と「第12番」)を置く、という盛り沢山のプログラムだった。
 LMCのメンバーは、丸山韶(vn)、吉田爽子(vn)、天野寿彦(va)、島根朋史(vc)、角谷朋紀(cb)。

 川口成彦の近年の活動は、目覚ましいものがある。ただしステージでの演奏は、私はこれまでに2回しか聴く機会が無かった。ひとつは4年前の9月、中村伸子主宰による「コルンゴルトを広め隊」の演奏会で、この人はいいな、と中村さんに感想を言った記憶がある。もうひとつは、一昨年6月の庄司祐美メゾソプラノ・リサイタルの時だった。それらはいずれもピアノによる演奏だったが、今回はフォルテピアノ(Anton WALTWR、1800年頃)による演奏会である。

 私は、この楽器の分野については通り一遍の知識しかないので、モデレーターをどう活用したか云々、などという口幅ったいことは言えないけれども、とにかく彼のフォルテピアノの演奏の音色の多彩さと、そこから生まれる音楽の表情の豊かさには、感嘆した。ベートーヴェンの「月光ソナタ」はもちろんのこと、モーツァルトのコンチェルトの鍵盤ソロ・パートにも、これだけさまざまに移り変わる表情を聴いたのは、初めてである。

 若い演奏家がかくも意欲的な活動を展開しているというのは、素晴らしいことだ。それに、協演の弦楽器奏者の若者たちの演奏も、鮮やかだった。若々しく瑞々しい気魄が満ちたコンサートである。

2017・9・28(木)バイエルン州立歌劇場日本公演「タンホイザー」

      NHKホール  3時

 3回公演の最終日。
 話題の指揮者キリル・ペトレンコの、日本初登場のオペラ指揮。今回は「タンホイザー」と、演奏会の指揮(別項)だったが、お客さんの支持もどうやら絶大(に近いもの)だったようである。
 NHKホールのピットからこれだけバランスのいいオーケストラの響きが沸き上がって来るのを聴いたことは稀だったし、各幕の最後の盛り上がりなどは流石に見事だったことは事実だ。

 しかし、彼の指揮するこの「タンホイザー」、叙情的な個所では、とにかくテンポが遅い。第2幕冒頭のエリーザベトと領主ヘルマンの場面、第3幕前半のヴォルフラムとエリーザベトの場面などがそれだ。
 こういうのを聴くと、ペトレンコもやはり、叙情的な個所ではテンポを非常に誇張して遅くするという、現代の若い指揮者のパターンなのかなと思ってしまう。
 だが彼は、バイロイトでの「指環」では中庸を得た、安定したテンポを採っていたし、その後ミュンヘンで聴いた「神々の黄昏」でも、全体に切れのいい颯爽とした、快速なテンポを採っていたのである。いつから、こんな遅いテンポを採る人になったのだろう? 

 ワーグナーの作品の場合、「パルジファル」は遅くてもいいが、前期の作品は、こういうテンポには耐えられないのではないか、とも思う。とにかく、このテンポのおかげで、音楽は全体に押し殺したような陰鬱な気分に支配され、寸時も解放的な気分に浸ることのない「タンホイザー」になっていた。もちろんそれには、演出から来る視覚的な影響もなくはなかっただろう。

●演出のこと
 その演出は、ロメオ・カステルッチが担当していた。彼は他にも、舞台美術・衣装・照明を全部ひとりで担当した。舞台は全体に暗鬱な色調が支配的で、強烈な圧迫感が漂う。確かに「タンホイザー」のドラマの本質は、このような主人公の抑圧された精神の苦悩の葛藤にあるだろう。愉しくはないが、眼を逸らしてはいけないものが、この舞台にはあるようである。

 ダンサーたちが視覚的に重要な役割を担うのは、最近の流行のスタイルのようだ。この演出でも、「バッカナール」では、半裸の女性たちが、あたかもキューピッドの如く背景の「顔の画像」に矢を射かけ続けるというユニークな場面が映えた。この射矢の、射損じが皆無に近い見事さには舌を巻く。
 そこで使われていた「弓」が、あとで歌合戦(「愛」がテーマ)の際に小道具として使われるのも、凝っていてちょっと面白い。

 第2幕の前半を「明」、後半を「暗」とするなら、前者におけるカーテンと照明のみを活用した舞台は適切で、極めて美しい。
 詩人たちや宮廷の群衆が、ひっきりなしに退場したりまた入場したり、あるいは倒れたり立ち上がったり(寝たり起きたり、と言った方がいいか)するのは視覚的にも少々煩わしいが、この意味については、私には今のところ想像の域を出ない。あとの「ローマ語り」の場面に象徴される如く、あらゆる場面が単にその場限りの出来事ではなく、永遠の長い時間の経過の中のものとして描かれているがゆえのもの、とみていいのかもしれない。

 だがこの演出では、登場人物同士の劇的な反応についてはあまり重要視されていないようで、歌合戦の際にタンホイザーが最初に官能愛の魅力を口にする時、エリーザベトがいっとき賛意を表しかける━━という重要な場面でも、その時に彼女は何故か舞台にいないので、オリジナルの台本の意味は無視されていることになる。

 第3幕の「夕星の歌」から「ローマ語り」にかけては、何と「KLAUS」「ANNETTE」とそれぞれ出演歌手(!)の名が刻まれた台の上に、タンホイザーとエリーザベトの「分身」の遺体が横たえられ、それが次々とグロテスクな形に、ミイラから白骨へ、最後は灰の形になるまで置き換えられて行く。
 このしつこさには、ほとほとうんざりさせられたが、このタンホイザーが語る「神という名の存在の冷酷さ」と、「人類の絶望感」との葛藤が、無限の長い時間の経過を要する永遠の問題であることを象徴するなら、それもまあ仕方がない、ということになるだろう。
 幕切れではタンホイザーとエリーザベトが並んで立つあたりに僅かな救済が垣間見られ、やっと音楽との整合性が感じられるようになる。

●歌手たちのこと
 今回の配役では、クラウス・フローリアン・フォークトが題名役を歌い、マティアス・ゲルネがヴォルフラムを、アンネッテ・ダッシュがエリーザベトを、エレーナ・パンクトラヴァがヴェーヌスを、ゲオルク・ツェッペンフェルトが領主ヘルマンを歌った。
 詩人たちの中には、先年日本での飯守泰次郎指揮の演奏会形式「ヴァルキューレ」第3幕でヴォータンを歌っていたラルフ・ルーカスも出ていたが、ラインマルという全く目立たぬ役だったのは残念。そして、バイエルン州立管弦楽団と同州立歌劇場合唱団。ダンサーたちに関してはクレジットが無い。

 フォークトの歌唱は、タンホイザー役としては叙情性の濃い声質ではあったが、往年のヴィントガッセンとかルネ・コロとかいったヘルデン・テナー的な同役の表現と違い、純粋な青年としての魅力が出ていて興味深い。「ローマ語り」での歌唱は、極めて劇的な、激しい感情に富むものだった。
 アンネッテ・ダッシュ(エリーザベト)は悪くなかったが、ペトレンコの遅いテンポを少々扱いかねているようにも感じられたけれど、気の所為か? ゲルネの声が妙に籠っていて、こんなはずではなかったかなと。

●楽譜のこと
 このプロダクションでは、基本的には「パリ版/ウィーン版」が使用されていた。
 (以前は「ドレスデン版」または「パリ版」、という2分類だけだったのが、最近わが国では「パリ版」を「パリ版」と「ウィーン版」に分けよという、ウルサイ(?)論が主流を占めるようになってしまった)。
 ただし今回の上演における第2幕の歌合戦の場では、パリ版では削除されていたヴァルターの歌の部分が復活されており、ドレスデン版との折衷の形が採られている。

 なお、この第2幕の初め、タンホイザーとエリーザベトの二重唱の中で、しばしばカットされるヴォルフラムの短い「落胆のモノローグ」がオリジナル通りに歌われていたことは、彼のこのドラマにおける立ち位置を明確に顕わせたという点で、わが意を得たり、である。
 また第2幕の最後の大アンサンブルの前半でも、カットされることが多いタンホイザーのパートもほぼそのまま生かされていたのは(フォークトのためにも)立派と言っていいだろう。ただし後半では、アンサンブルそのものに、所謂慣習的なカットが行われていた。

●余計なこと
 字幕は、格調の高さを狙ったのかもしれないが、文体がごつごつしていて、必ずしも読みやすいとは言えない。初めて観るお客さんには、もう少し解り易い方がいいだろう。
 ついでにひとつ。よく思うのだが、所謂「読み替え演出」が採られる場合、観客の理解に供するために、やはりその演出についての解説を多少なりともプログラム冊子に掲載しておくべきではないだろうかということ。読み解きには些かの自負がある私にも、このカステルッチ演出には少々解り辛い部分があり━━こじつけて勝手に知ったかぶりして解釈していいというなら、いくらでも出来るが━━識者の卓見を聞きたいと思うところもあるのだ。

 当該公演が完全なプレミエで、冊子の印刷が間に合わぬというなら仕方がないが━━それなら演出家へのインタヴュ―を載せるというテもあるだろうし━━今回のように、既にミュンヘンで5月にプレミエが行なわれており、しかもそれを観に行った人のエッセイまで載っているのだから、充分その時間はあったはずである。
 しかも今回の冊子には、「タンホイザー」にとって重要な「使用版」の件も冊子のメインタイトルには記載されておらず、記事を読み進んで、寺倉正太郎さんの解説に入ったところで初めて判明するというのは、これも観客にとって些か不親切の誹りを免れないだろう。まあ、興味のある奴なら、実際に聴きゃ判るだろが、ということなのかもしれないが・・・・。

2017・9・27(水)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

     サントリーホール  7時

 9月B定期。バルトーク作品集で、「弦楽のためのディヴェルティメント」「舞踊組曲」「弦と打楽器とチェレスタのための音楽」という、━━管楽器の出番のえらく少ない(?)プログラムが組まれていた。
 だがN響のその弦(今日のコンサートマスターは伊藤亮太郎)のエネルギーは実に強靭で、サントリーホールのよく響くアコースティックも影響して、いっそうブリリアントなものになっていた。

 この弦の音色は、不思議に明るい。バルトークの音楽に、普通なら備わっている独特の陰翳は、この演奏からはあまり感じ取れない。
 もちろん、それはそれで一つの解釈だし、パーヴォ・ヤルヴィの音楽の特徴の一つだと割り切れば話は別だが、私個人の好みとしては━━「舞踊(舞踏)組曲」などでは、バルトークの民族的な荒々しい曲想に、もっと翳りの濃さが聴きたいところではあった。

 民族音楽的曲想と、所謂「黄金分割」の理論等に基づく厳しい構築とが絶妙な結合を遂げている傑作「弦チェレ」でも、N響の弦の豊麗さを最大限に発揮した立派な演奏が聴かれたが、どうもその範囲だけに留まったような音楽に聞こえてしまったのは、私だけだろうか?
 単なる指揮の切れの良さと、オーケストラの巧さだけでは、解決できない何かが残っているようである。

2017・9・26(月)ユベール・スダーン指揮大阪フィル

     フェスティバルホール  7時

 ユベール・スダーンが客演、シューベルトの交響曲「未完成」と「ザ・グレイト」を指揮した。コンサートマスターは田野倉雅秋。2回公演のうちの初日。

 スダーンが2009~2010年に東京交響楽団と行なった交響曲全曲ツィクルスにおける精緻で瑞々しい演奏の数々は、それはもう卓越したものだったが、あれは長年にわたり音楽監督を務めたオーケストラとの共同作業だった。
 今回は客演に過ぎぬ大阪フィルとの演奏で、状況は全く異なるものの、それにしても彼の音楽をここまで徹底して表出することが出来たのは、彼の見事な制御の力ゆえだった、と言っていいだろう。それと同時に、大阪フィルの柔軟な技術と感性のゆえ、ではあったろうけれども。

 スダーンは、「大阪フィルは東京響に比べると非常に『重厚』だ」と語っていた。たしかに、東京響との演奏には軽快さがあったが、今回の大阪フィルとのそれは、切れのいいリズム感を持ちながらも、重心の低い、分厚い音で構築されていた。
 そのダイナミックな音の対比も強烈だ。演奏にも、怒涛の激しさが備わっている。「ザ・グレイト」での、第1楽章コーダや第4楽章コーダにおける推進力たるや、物凄い。第2楽章の、ホルンとトランペットが執拗に応答しつつ盛り上げて行き、ついにフォルテ3つに達する個所(230~249小節)など、まるで修羅場だ。第3楽章も非常に攻撃的かつ挑戦的な演奏で、トリオは通常のような春風駘蕩然としたおおらかさでなく、ピリピリした緊張感にあふれている。

 といっても、ただ煽ってばかりの乱暴な演奏でないことは、言うまでもない。
 スダーンの指揮を聴いていると、シューベルトの管弦楽法の見事さが━━彼が歌曲と室内楽だけでなく、交響曲の分野でもここまでの高みに達しているのだということが、はっきり理解できるのである。
 下手をすれば、だらだらと流れるような演奏になってしまいかねない「未完成交響曲」が、スダーンの手にかかると、引き締まった造型と、鋭角的で歯切れのいいリズム感に満ちた演奏になり、毅然とした姿になって立ち現れる。第2楽章の最後など、諦念とか彼岸的とか、最後の安息とかいったものよりも、未来にどんな「生」が待ちうけているか、それを楽しみに視ようという雰囲気にさえ聞こえるのではなかろうか?

 こういうイメージを聴かせてくれた大阪フィルの演奏も良かったが、もちろん、たまさかの客演指揮者だから、呼吸が合わぬところはある。「ザ・グレイト」の第3楽章で、トリオからスケルツォに戻る個所の、ホルンに他の木管が次々に加わってクレッシェンドして行くあたりなどだ。
 だが、これらは、多分2日目の演奏では解決される類のものだろう。今日の演奏でも、「未完成」の第1楽章では、かつて東京響との演奏で聴かせた細かいニュアンス━━第1主題でヴァイオリンのモティーフを波打つように演奏させ、木管の主題をフレーズごとに少し膨らませるといったスタイルも、リピートの際、さらに再現部での演奏と、次第に徹底して明確になって行ったくらいである。
 「ザ・グレイト」第1楽章でも、提示部の際よりは再現部の方が、主題の息づき、リズムの精緻さがより明確になっていたのだ。いずれも、2日目の方はもっと良くなるだろう。

2017・9・24(日)関西歌劇団「白狐の湯」「赤い陣羽織」

       あましんアルカイックホール・オクト  2時

 尼崎市の総合文化センターの中にある「アルカイックホール」の小ホールともいうべき「オクト」(550席)で、関西歌劇団が第99回定期公演として、日本のオペラを2本立てで上演した。2回公演で、今日は2日目。

 「白狐の湯」は、谷崎純一郎の原作、芝祐久の作曲。「赤い陣羽織」は木下順二原作、大栗裕の作曲。
 ともに関西歌劇団が武智鉄二の演出と初代団長・朝比奈隆の指揮で、「創作歌劇第1回公演」として1955年6月に大阪三越劇場で初演、翌年3月に東京・産経ホールで東京初演したオペラである。
 爾後、この2作を組み合わせた形で上演するのは、今回が初めての由。今回は船曳圭一郎の指揮とザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団、籔川直子の演出で上演されたが、「赤い陣羽織」の方は武智鉄二の原演出によるとクレジットされている。

 この2作を比較しながら聴いてみると、「日本のオペラ」としては、やはり大栗裕の音楽に注目すべきものが多くあるように思う。つまり、芝祐久の手法の方は、所謂セリフにフシをつけて歌っているという感であるのに対し、大栗裕のオペラの方は、方言のセリフがそのまま自然に歌になった、という印象なのだ。

 日本語の話し言葉が、リズムやアクセントもそのままに自然な歌に移し替えられた例は、昔の歌謡曲になら「若いお巡りさん」とか「3年目の浮気」など、特徴のあるものも少なくない。だが、こと創作オペラの分野になると、昔も今も━━皆無とまではいわないものの━━まず稀と言ってもいいのではないか。
 その意味でも、「赤い陣羽織」は、極めて巧みな作曲技法を示しており、それゆえに希少価値の高い、貴重な作品と言えるだろう。言葉と音楽の「日本的な掛け合い」が巧く決まっているのも、聴いていて快い。

 この「赤い陣羽織」は、「おやじ」と「おかか」の夫婦が、好色な悪代官を懲らしめるという、「三角帽子」の日本版のような物語だ。
 その演出は━━武智鉄二の舞台の記憶がない私としては、彼の「原演出」がどこまで再現されているのかは判らないけれど、「足拍子」や「悪玉踊り」など、歌舞伎や狂言の手法が随所に取り入れられているところは、やはり武智ならではのものなのであろう。現在の団員の中で「当時の舞台を経験した唯一の人」という林誠が、武智の演出を今に伝えたそうである。今回は歌手たちが、歌も演技も非常に巧かったので、その面白さがいっそう印象に残る。

 その林誠が、主人公の「おやじ」の役で、実に温かい表現で輝いていた。さすが、ベテランの味である。今日はこの人の存在が大きかった。
 清原邦仁の「代官」役も、好色さと横柄さで、その「おやじ」の対極としての存在を見事に発揮していた。横柄だが間の抜けた「庄屋」は、富永奏司が(石橋蓮司をパロディ化したような顔のメイクで)コミカルに好演、またその手下たる「子分」は、清水崇香がいかにもヘイコラした演技で巧く演じていた。
 孫太郎(馬)の橋本恵史も飛んだり跳ねたりでご苦労様。彼は前日の公演では「おやじ」を演じていたそうで、なかなか多芸多才な人である。

 女声陣でも、「おかか」の西原綾子、「奥方」の福住恭子がいずれも芸達者なところを見せた。代官屋敷の「奴(やっこ)」や「腰元」たちも、ただ立っているだけで、または「はい」と返事をするだけでサマになっているのは、やはり日本人が日本人役を演じるという強みだろう。
 最後は「名誉劇団員」の林誠が座長役を務めるような形で、幕を降ろした。

 話は戻るが、第1部で上演された「白狐の湯」は、白狐の化けた美女(河邉敦子)に恋い焦がれた少年・角太郎(松浦綾子)が彼女の魔力に引き込まれ、命を落とすという物語である。
 演出は籔川直子。カーテンを使ったシンプルな装置(野崎みどり)の舞台で展開される彼女の演出は、幻想的な美しさを狙いたかったことは解るけれども、この不思議な物語の視覚化としては、もう少し強いインパクトが欲しいところだ。たとえば泉鏡花的な怪奇さ、あるいは谷崎文学的な頽廃的妖艶さ━━そのどちらかの要素をもっと濃厚に打ち出せば、かなりイメージが違ったであろう。最後の白狐と角太郎の「愛と死」の場面など、もう少し耽美的なやりようもあったのでは? 解り易さを狙うあまりに、画竜点睛を欠くきらいがあった。
 それに、歌手にいつも客席を向いて歌わせる演出は、こんにち、すでに時代遅れである。「赤い陣羽織」で日本の伝統的演出の良さを示すのであれば、もう一方の「白狐の湯」では、もっとモダンな演技で対比を強調してもよかったのではないか。

 歌手陣には他に、中野陽登美(お小夜)、久本幸代(その母)、田中由也(巡査)、福井由美子(白人のカプルに仕える召使の女)らが出演したが、今日は若手が多かったそうで、そのせいか、舞台としての緊密感や味といったものには、残念ながら不足していた。その中で、角太郎を歌い演じた松浦綾子の澄んだ美しい声が印象に残る。

 ともあれ、関西歌劇団が総力を挙げた「縁の2作」の同時再演、大いに意義のある企画であり、上演だったことは疑いない。
 4時55分終演。阪神電車の駅へは向かわず、ホールに隣接するホテルの前からタクシーを拾い、JR尼崎駅に直行、5時46分新大阪発の「のぞみ」で帰京。

2017・9・23(土)ヘルマン・ボイマー指揮東京交響楽団

      ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 東京響の「名曲全集」のシリーズ。ドイツの指揮者ヘルマン・ボイマーの客演指揮。
 ドヴォルジャークの「新世界交響曲」、ドイツの現代作曲家ヴォルフ・ケルシェック(1969年生)の「ラッパ達が鳴り響く」、ヤナーチェクの「シンフォニエッタ」という順序でプログラムが組まれている。コンサートマスターは水谷晃。

 ボイマーという人の指揮を聴くのは、2014年10月、新日本フィル及び五嶋みどりと協演したバッハ、シュニトケ、ベルクなどの協奏曲の夕べ以来、2度目になる。客席から見る姿は、いかにも精魂込めた指揮ぶりだ。
 「新世界交響曲」では、普通なら弦の背後に隠れる木管群を浮き立たせ、ちょっと珍しい響きを狙うあたりは印象に残ったが、概して野暮ったいほど素朴で率直な表現を採る人である。だが、この曲の場合は、それはそれでサマになるだろう。
 面白さから言えば、やはりプログラム後半に演奏されたケルシェックの作品の方だ。このような金管楽器のための作品となると、何よりもボイマー自身がベルリン・フィルのバス・トロンボーン奏者でもあったというセンスが生きるのかもしれない。

 そのケルシェックの「ラッパ達が鳴り響く」(The Trumpets Shall Sound)は、これが日本初演とのこと。
 作曲者はハンブルク音大教授で、ミックス・ジャンルの作曲でも活躍している人の由だが、なるほどこの曲(26分程度)でも、クラシック・スタイルの中にジャズ、ブルース、バラード、シンフォニックな映画音楽、マーチ、ボレロ、ワルツの要素など、何でもありといった多彩なスタイルを取り入れている。

 客席には、金管奏者たちが3人ずつ組になって位置する。このバンダは、威勢のいいファンファーレを響かせたりせずに、柔らかい音色を響かせることが多い。それらがオーケストラのマーチ風の小太鼓のリズムに呼応、あるいはミステリアスなハーモニーに呼応して響くというのが、面白い。ちょっとキワモノ的な雰囲気もなくはないが、エンターテインメントの要素をも備えた、まずは楽しめる作品である。

 ステージの上には、ソリストとして名トランペット奏者マティアス・ヘフスが立ち、さまざまな楽器を駆使して見事な名人芸を披露する。彼はアンコールとして、トランペット奏者たち12人とともに、D・L・ホートンの「6本のトランペットのための組曲」の1節を演奏し、これも上階席からのブラヴォーの声を呼び起こした。

 ここまでは、かなり盛り上がった。だがそのせいか、最後のヤナーチェクの名曲「シンフォニエッタ」が、演奏の上でも少々付け足しのような雰囲気になってしまったのが皮肉である。ステージ上手寄り後方に並んだ金管のバンダの中には、マティアス・ヘフスも加わっていたが、オーケストラもろとも、どういうわけかさほど盛り上がらず、通常のように華麗なクライマックスを築くことなく、あっさりと終ってしまった(というように感じられた)。
 選曲と配列においては、それほど悪いアイディアとは思えなかったのだが━━。

2017・9・22(金)ライナー・ホーネック指揮紀尾井室内管弦楽団

       紀尾井ホール  7時

 「紀尾井シンフォニエッタ東京」改め「紀尾井室内管弦楽団」と、その新・首席指揮者ライナー・ホーネックとの相性は、幸いにして良いように感じられる。何より演奏に、満々たる活気と、そしてこのオーケストラにとかく不足がちであったメリハリのある表情とが生まれて来ているように思われる。

 この9月定期のモーツァルト・プログラムは、予想以上に聞き応えがあった。最初の「ファゴット協奏曲」こそ、ソリストの福士マリ子を立てるためか、やや控えめの演奏に終始したが、次の「交響曲第38番《プラハ》」に至るや、強靭な重心の上にきりりと引き締まった音が組み立てられ、鋭いけれども伸びやかさを失わぬアクセントが目の覚めるような活力を生み出していたのには、すっかりうれしくなった。

 ライナー・ホーネックは、ウィーン・フィルのコンサートマスターとしての実力は夙に知られるところだが、指揮者としては、未だ評価が確立した存在とは言い難いだろう。これまでこのオーケストラを指揮した演奏もいくつか聴いているが、正直なところ、そう際立った印象を得ていたわけでもなかった。
 しかし今日のように、モーツァルトのシンフォニーをこういう「パンチの効いた」演奏で聴かせてくれる人であるなら、これからはもっと注目してもいいかもしれない。この2曲でのコンサートマスターはアントン・バラホフスキー。

 休憩後に演奏された「ディヴェルティメント第10番K247《第1ロドロン・ナハトムジーク》」では、彼は指揮台に上らず、自らトップに座って弾きつつ、オーケストラをリードして行った。
 オーケストラとのプログラムに、指揮だけでなく、本業のヴァイオリニストとして━━というより、コンサートマスターとしての腕前を披露する曲目を入れるのは、これまでにも毎回行っているところである。これは、オーケストラのためには、むしろ好いことかもしれない。事実この曲での演奏は、全ての点で、サマになった、鮮やかなものであった。特に第1楽章での瑞々しい、いかにもディヴェルティメントといった喜ばしい曲想が連続する弦楽合奏(2本のホルンを含む)は、実に快活な、魅力的なものだった。

2017・9・17(日)キリル・ペトレンコ指揮バイエルン州立管弦楽団

      東京文化会館大ホール  3時

 都民劇場音楽サークル定期公演。
 話題の指揮者キリル・ペトレンコ(ロシア生れ、45歳)が、ついに日本のファンの前にその姿を現した。音楽総監督を務めるバイエルン国立(州立)歌劇場引っ越し公演を率いての来日だが、オペラの本番を観る前にシンフォニー・コンサートを聴く機会を得られたのは幸いだった。

 私も、彼のオペラの指揮は、ワグネリアンを沸き立たせたあのバイロイトの「指環」をはじめ、リヨンとウィーンでのチャイコフスキーなど、これまでかなりの数を聴いて来たが、コンサートを聴く機会は、それほど多くなかったのである。
 ただ、ベルリン・フィル首席指揮者就任のきっかけになったとか謂われるあの2012年12月の定期を聴けたことは、まだ彼が世界にほとんど知られていなかった頃━━ベルリン・コーミッシェ・オーパー指揮者時代の「コジ・ファン・トゥッテ」(2005年12月9日)を聴いて括目したことと同じように、ささやかな自慢をしてもいいかもしれぬ。

 今日の公演は、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」と、マーラーの「交響曲第5番」。
 ラフマニノフを弾いたイーゴル(イーゴリ)・レヴィットはロシアのノヴゴロド生まれ。まだ30歳そこそこだというが、何かえらくオジサン的な風貌の青年だ。現代の若い世代のピアニストらしく、遅いフレーズなどではテンポを落し、沈潜して念入りに音楽をつくって行く、というタイプのようで、特にそれが如実に示されたのは、オケとの協演の曲よりも、むしろソロ・アンコールで弾いたワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の「愛の死」の方だろう。うしろの大オーケストラを待たせておいて、独りで音楽に没入し、延々と弾く。その度胸には感心する。

 「5番」の方は、先週の上岡敏之のそれのように細かい表情の変化を極度な形で押し出したような、神経症的なマーラーではない。比較的スタンダードな、滔々たるシンフォニックな流れの裡に力感と叙情を漲らせた演奏、とでも言ったらいいか。
 スコアの指示はかなり巧く生かされてはいるけれども、伸縮自在の動きがありそうで無かった━━というのも変な表現だが、ここでテンポが一瞬動いてまた戻るだろうな、とか、ここで微妙にクレッシェンドしてすぐ弱音に戻るだろうな、とか、スコアの上で予想される個所で、何かそれが徹底せず、動きが中途半端なままで次へ進んでしまう━━というところも少なからず聴かれたのである。
 これはペトレンコの、コンサート指揮者としてのキャリアが未だこれからということや、このバイエルン州立管弦楽団が本来はコンサート・オーケストラでなく歌劇場(バイエルン州立歌劇場)のオーケストラであること、なども影響しているのではないかと思われる。

 そして彼らのマーラーは、ダイナミックな力感には富んでいるけれども、あまり濃厚なものではなく、何処かに淡白な表情が感じられなくもない。それまでは豪快壮大に押しまくりながらも、そのわりに第5楽章最後の頂点は意外にあっさりしていて、だめ押し的な熱狂には今一つ至らなかった、という特徴もあるだろう(ペトレンコがベルリン・フィルとこの曲を演奏したらどんな具合になるか?)。ただしこれは、このホールの音響ゆえの印象もあるかもしれないが。

 とはいえ、指揮者もオーケストラも熱演には違いなく、マーラーの「第5交響曲」の面白さを━━上岡とは違った意味で━━私たちに聴かせてくれたという、聴き応えのある演奏であったことは確かである。
    →別稿 音楽の友11月号 Concert Reviews

2017・9・16(土)パーヴォ・ヤルヴィ指揮NHK交響楽団

    NHKホール  6時

 NHK交響楽団の秋のシーズンの幕開け定期、Aプロの初日。首席指揮者パーヴォ・ヤルヴィがショスタコーヴィチの「交響曲第7番《レニングラード》」を振る。客演コンサートマスターはロレンツ・ナストゥリカ・ヘルシュコヴィチ(ミュンヘン・フィル・コンマス)。

 これは実に舌を巻くような見事な演奏で━━と言っただけでは何だか解らないが、これだけ力感に富む咆哮を繰り返しつつ、しかもオーケストラが完璧な均衡を失わなかった、という演奏も稀有ではないか。

 N響は今やパーヴォ・ヤルヴィの「音」に完全にと言っていいほど同化し、特に弦楽器群は、独特の清澄な音色を響かせる。それは第3楽章などで冷徹なほどの透明な美しさを発揮するのはもちろんだが、終楽章のクライマックスにおいてさえ、ステージ後方にずらり並んだ金管楽器の大部隊の咆哮と拮抗して、澄んだ音色を一瞬とも失うことなく最後まで響かせ続けたのだった。
 N響の並外れた巧さもさることながら、パーヴォ・ヤルヴィのオーケストラの構築術の見事さを改めて認識させられた次第だ。

 なりふり構わず怒号するショスタコーヴィチの管弦楽法も、例えば「4番」や「8番」の場合にはそれも一つの魔性的な凄さとなるが、この「レニングラード」の場合には、一歩誤れば作品の中に肉離れを起こさせかねない危険性を孕んでいるだろう。それを実に巧みに解決した一例が、このパーヴォの指揮ではなかったろうか。

2017・9・16(土)ベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラ

     フィリアホール  2時

 早朝の新幹線で帰京。

 日下紗矢子をリーダーとするベルリン・コンツェルトハウス室内オーケストラは、もちろん彼女がコンサートマスターを務めているあのベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独のベルリン交響楽団)のメンバーで構成されている団体である。結成は2009年の由。
 3度目の来日になる今回は、弦は彼女を含め12、チェンバロ1という編成。今日から23日までの間に中新田、西宮、岡崎、福岡、松本で演奏会を開くというスケジュールだ。東京が抜けているというのは残念だが、それはこの演奏を聴けば、日下紗矢子という人が如何に凄いかが判るからである。

 前半にコレッリの「合奏協奏曲ニ長調作品6の4」、ヴィヴァルディの「調和の霊感」から「ホ長調作品3の12」と「イ短調作品3の6」、そして再びコレッリの「クリスマス協奏曲」が演奏された。そのすべてのソロを弾いたのが彼女である。
 後半にはシベリウスの「ヴァイオリンと弦楽のための組曲 作品117」と「アンダンテ・フェスティーヴォ」、最後にグリーグの「ホルベアの時代より」というプログラムで、ここでも彼女がリーダーとして活躍する。
 ステージ上での彼女の挙止そのものはむしろ控えめに見えるが、コンサートマスター及びソリストとしての演奏の上での存在感は厳然たるものだ。

 このホール、席数は500と小ぶりだが、音響は素晴らしく良いのが有名だ。そのため、日下紗矢子のソロと弦楽アンサンブルとが、いっそう美しく映える。
 前半でのコレッリとヴィヴァルディの曲想の対比が明快に示された演奏も見事だったし、彼女のソロも鮮やかだ。そして、ガラリと雰囲気を変えた後半の北欧ものでの陰影に富んだ演奏の味は、更にその上を行く魅力的なものだった。私の好きな「アンダンテ・フェスティーヴォ」が入っていたのは個人的にも嬉しかったし、「ホルベアの時代より」には、先日のSKOの機能的な演奏よりも遥かに「グリーグ的な憂愁美」が感じられたのである。

 アンコールにモーツァルトの「ディヴェルティメントK.136」の終楽章が飛び行くように演奏され、4時少し前にコンサートは終った。
 次に聴くのは渋谷のNHKホールにおけるN響のショスタコーヴィチの「レニングラード」だが、言っても詮無いことながらこの2つの演奏会、順序を逆にして聴きたいところではあった・・・・。

 フィリアホールに直結する東急田園都市線・青葉台駅からは、急行に乗れば渋谷まで25分程度。

2017・9・15(金)飯森範親指揮日本センチュリー交響楽団

       ザ・シンフォニーホール  7時

 兵庫県立芸術文化センターの最寄駅である阪急西宮北口駅から特急でたった2駅、15分そこそこで梅田駅に着く。大阪駅でJR環状線に乗り換え、これもたった1駅、福島駅に着く。ザ・シンフォニーホールに行くのは至極簡単だ。

 今日は首席指揮者・飯森範親が指揮、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはジョージ・ヴァチナーゼ)と、ギア・カンチェリの「ステュクス~ヴィオラと混声合唱と管弦楽のための」が演奏された。コンサートマスターは荒井英治。
 後者は「日本で演奏されるのはこれが3度目」(飯森)とのことだし、しかも彼が一昨年東京響と演奏した際には私は聴けなかったので、これを機にと、PACのマチネーの「虎狩交響曲」と併せて聴きに赴いた次第であった。

 「ステュクス」は、聴き応えのある演奏だった。飯森の丁寧な指揮と、ソロ・ヴィオラを担当した丸山奏(日本センチュリー響首席)の繊細ながら確実な演奏、バッハアカデミー合唱団の透明清澄な歌唱が相まって、素晴らしい出来栄えになった。

 「ステュクス」とは、「三途の川」に当たるもので、ヴィオラのソロはその「渡し守」の役目を果たすという(プログラム掲載、長谷規子さんの解説による)。歌詞はかなり感覚的な色合いのものだが、言わんとすることは明解だ。
 カンチェリ特有の澄んだ、しかも神秘性を備えた響きのうちに、極端なデュナミークの交替が連続し、天国への憧憬と不安とが交錯する音楽が美しい。極度にパウゼの多い曲だが、その休止の中でも緊張感を失わせなかった飯森の指揮が見事。よくぞこういうレパートリーを取り上げたもの。その意欲をも讃えたい。

 前半に置かれたピアノ協奏曲も、ジョージア(グルジア)出身の名手ジョージ(ゲオルギー)・ヴァチナーゼの豪壮で剛直な、しかも色彩的なソロが映え、ダイナミック極まる演奏となった。ラフマニノフのこの曲は、やはりこういう豪快な力感で弾かれた方が気持良い。飯森と日本センチュリー響もすこぶる力演で、全曲の最後も鮮やかに派手に決めた。今日の2曲、すこぶる立派な演奏だったと言っていい。

 こういういい演奏をしているなら、もっとお客さんが入ってもいいような気もするのだが、やはり定期「2日制」というのは規模が過ぎるのか? 終演後に楽員たちが大勢ホワイエに出て、聴きに来ていたお客さんと賑やかに交流していたのは、聴衆との結びつきを大切にするという姿勢の表れで、歓迎されることだろう。

2017・9・15(金)佐渡裕指揮PAC 「トゥーランガリラ交響曲」

       兵庫県立芸術文化センター  3時

 兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)の秋のシーズン開幕定期演奏会、3日公演のうちの初日。メシアンの大作「トゥーランガリラ交響曲」(作曲者の指示によれば「トゥランガリ―ラー」)が、芸術監督・佐渡裕の指揮で演奏された。
 協演のピアノはロジェ・ムラロ、オンド・マルトノは原田節。

 このオーケストラは楽団員の任期に期限がある(つまりオーケストラの楽員を次から次へと育て、送り出して行く)という特別な組織の楽団なので、特にこのような作品の場合、演奏するのが初めてというメンバーが大半だという。今回は編成が大きいので、ケルン放送響やバイエルン放送響などを含む国内外のオーケストラからの応援を得ているが、それでもこの曲の演奏経験を持つ人はあまりいなかったそうだ。

 そういうオーケストラではあったが、佐渡裕はそれを実に巧くまとめていた。技術的にもしっかりしたメンバーが揃っているので、壮烈な力感にも、打楽器群と他の楽器群との微妙な音の交錯にも事欠かない。少なくとも、物理的な音響の面では、見事な演奏だったと言っていいだろう。
 この上に欲しいもの━━本当はそれが最も重要なものなのだが━━といえば、その豪壮華麗な音の渦の中に湛えられるべき詩情、官能、洒脱で洗練されたセンスといった要素だろうが、これらは経験を積んだ固定メンバーによるオーケストラでなければ出せないものだ。まして今日は初日、意に満たないところもあっただろうし、足りないことについて論うのは無意味というものであろう。もしかしたら、3日目には「突き抜けた」演奏になっているかもしれない。

 今日は1階席P列ほぼ中央で聴いたが、ホールのアコースティックの所為もあるのだろうが、舞台前面に配置されたピアノとオンド・マルトノはもちろん、チェレスタなどの楽器の音まで明確に聞こえたのは有難かった。
 この曲、サントリーホールの2階席などで聴いた時には、オーケストラの音がワンワン響いて、ピアノもオンド・マルトノもそれにマスクされてしまうことも、一度ならずあったのである。
 今日のソリスト2人の、豊かな演奏経験に基づく快演は、流石というべきものであった。「トゥーランガリラ」の終了後、ムラロと原田が短いアンコール(メシアンの「未完の音楽帖 オンド・マルトノとピアノのための4つの小品第1曲」)を弾いたが、これもなかなか美しいものであった。

 佐渡が行なったプレトークで、原田がステージに招かれ、オンド・マルトノの楽器について解説したのは、珍しい楽器であるために、お客さんには喜ばれたようである。ただし彼の説明が微に入り細に亘って延々と続いたため、一瞬の隙をついて佐渡が「解りましたッ」と締めに入った時には客席も爆笑。こういうプレトークも愉しい。
 なお、開演前にはホワイエで、この芸術文化センターの開館以来の入場者が600万名に達したというので、その600万人目の客への表彰が行われた。地元の男性とのことである。金管奏者たちがファンファーレを吹き、くす玉が割られ、佐渡が挨拶するという派手なセレモニーだった。「600万人目」ということをどうやって数えたのかは知らないけれども、めでたいことではある。

2017・9・14(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  7時

 新日本フィルの新シーズン開幕定期は、音楽監督・上岡敏之の指揮で、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第4番」(ソロはデジュ・ラーンキ)とマーラーの「交響曲第5番」。コンサートマスターは崔文洙。

 コンチェルトでの上岡と新日本フィルの、陰影のあるふわっとした音━━往年のチェリビダッケの音づくりを思い出させるが、もちろん同じではない━━も悪くなかったが、やはり面白かったのは、両者が全力を挙げたと思われるマーラーの「5番」だった。
 これはもう、マーラーがスコアに書き込んだ目まぐるしいばかりの指示を、更に極端なまでに強調した演奏である。デュナミークも、テンポも、音色さえも、いっときたりとも落ち着くことなく、不断に変化する。アクセントさえ聴き手の予想を上回り、時には裏切り(?)、強調される。

 第1楽章など、悠然たる葬送行進曲などでは決してなく、常に不安定な精神を描き出したような演奏だ。ゆっくり話していたかと思うと、突然猛烈な早口になる。終結近くのフォルテ3つの個所など、まさに哀しみの激情が堰を切ってヒステリックに暴発するというイメージの演奏ではなかったか?━━ここは、今日の「上岡のマーラー」の中でも、象徴的な個所だったと思われる。

 とにかくこれは、神経質で、呻吟や歓びや、悲哀や絶叫などが絶えず交替して行くという、あの精神分析的なマーラーの音楽を赤裸々に再現した演奏と言えるだろう。そういうマーラー演奏は、著しく聴き手を刺激し、音楽にのんびり浸っていることを許さない。
 上岡の指揮が個性的であることは、私たちはから以前から心得ているが、そのユニークさが何処から生まれたものであるかをじっくりと考えさせられる好例が、今日の「5番」の演奏ではなかったろうか?

 指揮者のこういう主張を、新日本フィルが今日のように巧く表現できるようになっているというのは、両者の呼吸が合って来た証明であろう。開幕第1弾定期としてそれが示されたのは、ありがたいことであった。
 これでもう少し、アンサンブルが緻密になり、ホルンやトランペットが肝心の聴かせどころでポロリとなることがなければ、文句ないのだが━━。

2017・9・11(月)大野和士指揮東京都交響楽団 ハイドン:「天地創造」

     サントリーホール  7時

 よく知られているけれどもそれほどしばしば演奏されるわけでもないハイドンの大曲「天地創造」が、珍しく、ほとんど間をおかずに高関健と東京シティ・フィル、大野和士指揮東京都響のそれぞれの演奏で競演された。こういう「かち合い」は、示し合わせたわけでもないのに、不思議によく起こるものである。
 前者(8日)は、私は松本へ行っていたため残念ながら聴けなかったが、聴いた人の話によると、非常に良い演奏だったという。

 今日の大野&都響の公演の方は、合唱にスウェーデン放送合唱団(指揮:ペーター・ダイクストラ)が協演したのが、より強みであったろう。この合唱団の透明で澄んだ音色は世界のトップクラスにあるが、あまり多くない人数にもかかわらず、その安定したハーモニーはオーケストラの間を縫って響いて来て、「天地創造」をいっそう美しく聴かせてくれたのだった。

 今回はピーター・ブラウン校訂による「オックスフォード版」が使用されたとのことだが、編成が大きくなく(2管)、オーケストラが厚い音にならなかったため、スウェーデン放送合唱団の音色も損なわれずによく生かされた、とも言えるだろう。
 大野和士は、この曲に含まれている描写音楽的なシャレをよく生かし、しかも過度に劇的な誇張を入れることなく、「オーケストラの編成に相応しいスケール」で柔らかく作品を描き切った。

 冒頭の「天地混沌」の場面があまりに遅いテンポで重々しく演奏されたため、「混沌」よりは「無」というイメージを生み、しかも緊張感に些か不足し、それがディートリヒ・ヘンシェル(バス)のソロにも影響するという感もあったが、幸いにもそのあとは徐々に盛り上がって行った。大野の狙いはおそらく、長いスパンでこの曲を頂点へ持って行く、というところにあったのかもしれない。
 全曲最後の大クライマックスでのアレグロは素晴らしく速いテンポで━━ソロ歌手たち(ほかにソプラノの林正子と、テノールの吉田浩之)や合唱団がよく歌えたなと感心したが、高い個所では音を切って歌っていた人もいたようだから━━目覚ましい頂点を築いた。
 コンサートマスターは矢部達哉。
      →別項 モーストリ・クラシック12月号 公演Reviews

2017・9・10(日)ヴェルディ:「オテロ」 バッティストーニ指揮

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 今回の「オテロ」では、真鍋大度らの「ライゾマティクスリサーチ」による映像演出が鳴り物入りでPRされていた。
 演奏会形式ではあるが,舞台一杯に映像を投映し、登場人物の心理を視覚的に表現するというのが狙いだったようである。

 だが、歯に衣着せで言えば、この程度のものでは、現代のオペラ演出に一石を投じるとか、総合芸術としてのオペラに新しい風景を誕生させる、などという段階には、ほど遠い。
 抽象的な図柄を舞台一杯に投映し、躍動させるというアイディア自体は大いに結構だ。だが冒頭の嵐の場面でモノクロのさまざまな「模様」のみが乱舞するさまを、たとえば30秒間凝視していると、それだけで「だから何なの?」という心理状態になり、もう先が見えてしまうのである。
 私が唯一効果的だと感じたのは、第3幕の幕切れ、倒れたオテロを嘲笑するイヤーゴの惨忍性を視覚面でも強調するために、魔性的な映像を乱舞させた場面だけだった。

 映像演出は、これからますます大規模にオペラの舞台に取り入れられるだろう。プロジェクション・マッピングしかり、アニメ映像の活用然りである(来年4月にベルリン・コーミッシェ・オーパーが東京・西宮・広島で上演するバリー・コスキー演出の「魔笛」などは、全編これアニメと人間との組み合わせで、それはウィリアム・ケントリッジのドローイング・アニメ映像による演出よりも美しい)。

 今回の「オテロ」での試み自体は積極的に評価したいが、すでに音楽そのものにより心理描写が完璧に行なわれているオペラに視覚効果を加える演出というものは、この程度では残念ながら、とても目の肥えた観客を納得させるわけには行かぬ。いっそうの工夫を願いたい。面白くなる可能性は、充分にある。カーテンコールで、上階席からいくつか飛んだブーイングは、私から見れば、すこぶる正直な意思表明だったと思われる。

 となると、やはり今日の「オテロ」の成功の第一要因は、やはりアンドレア・バッティストー二の指揮である。これは予想通り、直截でスピーディで、胸のすくような「オテロ」の音楽だった。
 もちろん、ただ威勢がいいだけのものではない。丁寧で、神経の行き届いた指揮である。第4幕の「柳の歌~アヴェ・マリア」などではぐっとテンポを落し、絶望に打ちひしがれたデズデーモナの心理を存分に表現し、かつ叙情的な美しさを強調していたのが見事だった。そして、彼に煽られた東京フィルハーモニー交響楽団の演奏も、なかなかに熱っぽかった。

 歌手陣は手堅い。
 題名役のフランチェスコ・アニーレは、澄んだ声を持っていて、声だけ聴くと若々しい気鋭のオテロという雰囲気を感じさせるが、風貌とはだいぶイメージが違う。彼は、先頃のバッティストーニ指揮の「イリス」で、好色な男オーサカを歌い演じた時には実に見事だった(?)ので、推して知るべし。
 イヤーゴのイヴァン・インヴェラルディは大柄の体躯に力のある声で、悪役ぶりを過剰に強調しない表現に徹していた。

 デズデーモナはエレーナ・モシュク、あまりオペラ歌手らしくない容姿で、声も時に音程が明確でなくなるのが気にはなるけれど、可憐なヒロインという役柄には向いているだろう。2008年に上岡敏之の指揮で「椿姫」のヴィオレッタを歌った時など(新国立劇場)、愛らしく真摯な高級娼婦という感だったのである。

 共演は、高橋達也のカッシオ、清水華澄のエミーリアを筆頭に、ジョン・ハオのロドヴィーコ、与儀巧のロデリーゴ、斉木健詞のモンターノなど、実力派を揃えて充実。
 合唱は新国立劇場合唱団と世田谷ジュニア合唱団で、特に前者は最後まで板付きのまま、力と安定感に満ちたコーラスが流石に素晴らしかった。
 なお字幕は、直訳体の文章が随所に見られて意味が解りにくく、流れを掴みにくい傾向があったのが惜しい。

2017・9・9(土)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

      サントリーホール  4時

 日本フィルの新シーズン開幕第1弾定期演奏会は、正指揮者・山田和樹の指揮。
 ボリス・ブラッハーの「パガニーニの主題による変奏曲」、石井真木の「遭遇Ⅱ番」(協演の雅楽は東京楽所)、イベールの「寄港地」、ドビュッシーの「海」という、極めて意欲的な、新鮮な息吹にあふれた、しかも巧みな構成のプログラムであった。

 ブラッハーのこの曲など、こんな機会でなければ、まずナマで聴けることはないかもしれない。パガニーニの、あの有名な奇想曲の主題が、ソロ・ヴァイオリン(コンサートマスターの扇谷泰朋)によりほぼオリジナルの形で弾かれたかと思うと、分厚い響きのオーケストラが後を引き取って16の変奏を開始する。
 昔レコードで聴いた時にはあまり面白い曲だとは思わなかったが、━━まあ、正直なところ、今回もあまり面白い曲だとも思えなかったが━━次の石井真木の作品への導入のような形で聴けたのは、千載一遇の好機ではあった。

 そのブラッハーの弟子たる石井真木の「遭遇Ⅱ」は、1971年6月に「日本フィルシリーズ」第23回作品としてこのオケが初演した縁のある曲である。今日は東京楽所の10人のメンバーによる雅楽の演奏で始まるヴァージョンが取り上げられた(昨日は別ヴァージョンで演奏されたという話である)。
 この雅楽とオーケストラとの「遭遇」は、今聴いても、すこぶる新鮮に感じられる。初演の際には、私は聴いていない。
 石井真木の豪壮な管弦楽法も、師ブラッハーの作品と並べて聴くと、その由って来たる所以がいっそう理解できるというものだ。こういうプログラミングはいい。日本フィルの企画スタッフと山田和樹のアイディアを讃えたい。

 後半に演奏されたイベールとドビュッシーの作品━━これらでの山田和樹と日本フィルの演奏は、見事の一語に尽きる。山田和樹には、フランスものはやはり合っているようである。
 「海」の頂点などでは、かなり開放的に最強音を響かせる。それが必ずしも清澄な音色でないところは今の日本フィルの限界なのかもしれないが、しかしもしこの両者がたっぷり時間を取って音を練り上げて行けば、改善される可能性は充分にあるはずである。色彩感、しなやかさ、詩情といったものは、すでにこの演奏には備わっていたのだから。

 それになにより今日は、特にフランスもの2曲において、日本フィルの弦も管も快調だった。
 とりわけオーボエの1番(杉原由希子)の音色とエスプレッシーヴォの見事さは、国内の他のオケでも滅多に聴けないほどのものだろう。彼女のソロが、イベールの「寄港地」第2曲の「チュニス━━ナフタ」を素晴らしく魅力的に聴かせてくれたのである。
      →別項 モーストリー・クラシック12月号 公演Reviews

2017・9・8(金)セイジ・オザワ松本フェスティバル
オーケストラ コンサートC 小澤征爾&内田光子

     キッセイ文化ホール  7時

 ザルツブルクで転倒して腰を痛めたということで、同フェスティバルでの9月4日のリサイタルを中止した内田光子だが、小澤征爾とのピアノ・コンチェルトだけは何とか頑張って弾く、と発表されていた。
 そのため、今日のコンサートで彼女が登場した時には、はたして答礼のお辞儀なんかやって大丈夫なのかな、などという危惧も含め、聴衆はかなりハラハラしながら見守っていたのは事実である。何しろ入場と退場の際は、小澤征爾が彼女をエスコートしながら歩く━━というわけで、かえって小澤さんの元気さの方が目立つ雰囲気だったのだから。

 それはともかく、今回2人がサイトウ・キネン・オーケストラ(SKO)とともに演奏したのは、プログラム第2部における、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」だった。1999年以来18年ぶりの、このフェスティバルでのこの曲の協演である。そして、2人がこの音楽祭で協演したのは2006年の「皇帝」以来だったのだ。

 第1部での2曲が指揮者なしで演奏されていたこともあって、第2部の協奏曲で小澤征爾が指揮を始めた途端━━いや始める前から、場内には息づまるような期待感と緊張感がみなぎっていた。この25年続いて来た松本のフェスティバルは、やはり小澤征爾あってこそのフェスティバルなのだ、ということが、こういうところで否応なしに示されてしまうのである。いいかどうかは別として、彼はここでは半ば神格化された立場にあるといっても、決して過言ではないであろう。

 とにかく、その小澤の指揮のもと、SKOの演奏は恐ろしいほど引き締まって、重量感とスケールに満ち、揺るぎない構築感を以って進んで来る。記憶にある18年前の演奏とは全く違う。あの時よりも小澤の指揮が深みと重みを増し、いっそうの凄みを増しているのである。

 かたや内田光子の演奏は、あの頃よりは柔らかくなったか。体調のせいかもしれないが、18年前のピリピリした、聴き手に並外れた緊張を強いる演奏というイメージはやや薄れ、温かみが加わって来た。
 といっても第1楽章でのカデンツァや第2楽章(ラルゴ)で、ぐっとテンポを落して沈潜の極みに達するのはいつも通り。しかもカデンツァでは、敢えて言えば、いつの間にかオーケストラの存在をすら一瞬だが忘れさせてしまう━━変な言い方だが、まるでソロ・リサイタルを聴きに来ているような、本当にそんな感覚にさせてしまうほどの内田光子の演奏だったのである。
 実に、この2人の協演が実現しただけでも、素晴らしいことというべきだろう。

 演奏会の前半に、SKOが指揮者なしで演奏したのは、グリーグの組曲「ホルベアの時代から」と、R・シュトラウスの「13管楽器のための組曲」。
 前者は豊嶋泰嗣をリーダーとする日本人弦楽奏者たちの演奏で、文字通りかっちりと引き締まって隙のない、技術的にも完璧さを誇った快演だ。先日の、これも豊嶋がリーダーを務めていた水戸室内管弦楽団の演奏よりは多少柔らかい、ふくらみのある音楽だったが、それでも全員が一致して、ただ一点に集中して行く演奏には違いなかった。

 いっぽう、対照的に後者では、ジャック・ズーン(フルート)、フィリップ・トーンドゥル(オーボエ)ら外国人勢が多いSKOの管楽器グループの演奏なので、完璧に音の揃った合奏というより、それぞれがオレがオレがといった調子で自己の存在感を主張しつつ、その上でアンサンブルをつくり上げて行くというタイプの演奏となった。
 これほど、日本人奏者と外国人奏者のアンサンブルに対するスタイルの違いが明確に示された演奏会も珍しいだろう。

 前述の、小澤と内田によるコンチェルトのあとのカーテンコールは、客席総立ちのうちに、およそ10分間続いた。
 今年のセイジ・オザワ松本フェスティバルは、明後日・10日に、今日と同じプログラムがもう一度繰り返され、閉幕の運びとなる。
   別項 信濃毎日新聞
   別項 モーストリー・クラシック12月号
   →(談)北海道新聞

2017・9・4(月)大野和士指揮東京都交響楽団のラフマニノフ

      東京文化会館大ホール  7時

 東京都交響楽団が秋のシーズンの幕を開けた。

 大野和士が音楽監督に就任して以来、このオーケストラの定期公演のプログラムには、20世紀の作品が格段に増えたような気がするのだが、それはコンサート・レパートリーの開拓という意味から、大変結構なことであるに違いない。今日のラフマニノフの「ピアノ協奏曲第3番」と「交響曲第3番」も、音楽のスタイルは19世紀ロシア音楽のそれを引きずっているとはいえ、とりあえず20世紀音楽のプログラムだ。

 協奏曲でのソリストは、今年27歳のチャン・ハオチェン。澄んで伸びやかな響きを持った演奏が素晴らしい。第1楽章の前半では何となく抑制した演奏で、慎重に出て来たという印象だったが、第3楽章などでは胸のすくようなヴィルトゥオーゾを発揮、鮮やかにエンディングを決めた。おそらく指揮者とともに、このフィナーレに頂点を置くという形で全曲の演奏を設計したのではないかと思われる。

 大野と東京都響も、このエンディングでは猛然と煽り立てるなどの洒落っ気を発揮していたが、ほぼ満席の東京文化会館大ホールでは概して音も吸われ気味で、どれほどオーケストラが瑞々しく歌おうと、全体にドライな━━乾いた音になってしまう。
 こちらの聴いた位置が2階正面最前列の席だったために猶更そのように聞こえたのだと思うが、特に「第3交響曲」では、最強奏の個所が妙に荒々しく響くなどして、作品本来の華麗なオーケストレーションとロシア的な色彩感、あるいは甘美なラフマニノフ節(!)などが薄められて聞こえるのがもどかしかった。別の席で聴けば、またはもっとよく響くホールで聴いたとしたら、この印象はかなり違ったかもしれない。

 聴いたとおりに受け取れば、この演奏は19世紀のロシア音楽の残映というよりも、20世紀のインターナショナルな、かなり鮮烈な近代の音楽というイメージでこの作品を描き出していた、というようにも感じられたのである。

 大野の指揮と都響の演奏が、極めて緻密で精緻だったことは確かだろう。例えば第1楽章の第2主題、チェロが上昇して行くあの美しい主題の2小節目後半からの、イ━嬰ハ━ロと動く個所で、スコアに指示されているイ音のテヌートを生かし、嬰ハ音のあとをちょっと切るようにしながら歌わせて行くあたりなど、随分念入りで細かいな、と感心させられる。もっとオーケストラに近い位置で聴いて見たかったなとも思う。コンサートマスターは山本友重。
   モーストリー・クラシック11月号 公演Reviews

2017・9・3(日)戦前日本のモダニズム~忘れられた作曲家・大澤壽人

     サントリーホール  3時

 サントリーホール恒例の「サマーフェスティバル」、今年は片山杜秀さんのプロデュースで、「日本再発見」と題するシリーズが組まれた。
 今日の演奏会の他にも、4日に「戦後 日本と雅楽」と題して武満徹と黛敏郎の作品、6日には「戦後 日本のアジア主義」と題して芥川也寸志と松村禎三の作品、10日には「戦中 日本のリアリズム」と題して尾高尚忠、山田一雄、伊福部昭、諸井三郎の作品が演奏される。
 これらの作品の中には、単独で聴く機会のあるものも含まれているが、これだけ系統立てて演奏されれば、特別な意味を持つだろう。いい企画だ。全部聴けないのが残念だが。

 今日の大澤壽人の回では、「コントラバス協奏曲」(1934年)、ピアノ協奏曲第3番「神風協奏曲」(1938年)、「交響曲第1番」(1934年)が取り上げられた。演奏は山田和樹指揮の日本フィルハーモニー交響楽団、佐野央子(Cb)、福間洸太朗(pf)。

 このうち、1938年6月24日に作曲者自身の指揮により大阪朝日会館で初演された「神風協奏曲」は、今世紀初めに蘇演されており、CD(NAXOS)でも出ている。だが、他の2曲は、今回の演奏が「世界初演」になるそうである。この作曲家を理解することへの、これが端緒となるだろうか。
 「コントラバス協奏曲」は、ボストンとパリに留学した作曲者があのクーセヴィツキ―に献呈したそうだ(生島美紀子さんのプログラム解説)が、結局演奏してもらえなかったことを思うと、心が痛む。

 「神風協奏曲」(もちろん日本の飛行機史上有名な「神風号」に因んだ作品であって、元寇でも特攻隊でもタクシーでもない)などには、ラヴェルやオネゲルなどフランスの近代音楽の影響も聞かれ、驚くべきことにメシアンの「トゥーランガリラ交響曲」の冒頭を先取りするようなモティーフさえ現れる。
 「第1交響曲」も、分厚い管弦楽法が駆使された、緻密さと野性的な力とを併せ有した、すこぶる重量感に富んだ大曲だ。

 これらを聴くと、日本の作曲家が、80年前にこれだけの音楽を書いていたのか、と誰もが驚嘆するだろう。これら3曲が、音響の良いホールで、山田和樹と日本フィルの丁寧な演奏に寄って聴けたことは、全く幸いなことと言わなくてはならない。
 このところ、下野竜也や山田和樹ら若い世代の指揮者により、日本の先人作曲家たちの作品が演奏される機会が、東京では少しずつ増えて来ているようである。私もいくつかを聴く機会に恵まれているが、それらは驚異的なほど新鮮に感じられる。1960年代に聴いた作品さえもが、今聴くと全く違った様相を帯びて聞こえるのだ。当然、こちらの耳と感性の問題もあると思うが、敢えて言えば、あの頃の日本のオーケストラの演奏と、あの頃のホールのアコースティックにも、責任の一端があったのではないか。いずれにせよ私たちは、もっと日本のかつての作曲家たちの「宝の山」に注意を向けるべきだろうと思う。

2017・9・1(金)サントリーホール・リニューアル記念オープニング

     サントリーホール  6時

 午後に野暮用が飛び込み、当初予定していた松竹ブロードウェイシネマの「ホリデイ・イン」のマスコミ試写会(松竹本社)に行けなかったのは痛恨の一事だが、夜のサントリーホールのリニューアル記念の演奏会には、どうやら間に合った。

 半年に及んだリニューアル工事を終えて開館したサントリーホール。
 客席の椅子の補修とクッション等の張り替え、舞台床面の全面張り替え、オルガンのオーバーホール、客席と舞台の照明の一部LED化、曰く何、曰く何・・・・確かに照明は一段と輝きを増したようだ。
 アコースティックもかなり変わったのではないかと思われるが、これは追々判るだろう。

 そして、われわれのような年代にとって有難いのは、トイレが増設拡大されたことだ。
 1階では、上手側通路の外側(今までは建物の外だった場所)に男女トイレが増設された。また2階では、男子トイレが、今まであった場所から移動されて舞台寄り側に新設され、出入り口は少し狭いけれども、中は少し便利になったか。女子トイレについても広くなったとか何とか言われているが、そちらは知らない。
 とにかく、そういうリニューアルの結果を受け、今日はオープニングの演奏会が華やかな雰囲気のうちに行なわれた、というわけである。

 コンサートは2部に分かれ、前半ではオルガン(kitaraのオルガニスト、ダヴィデ・マリアーノ)と金管アンサンブル(TKWO祝祭アンサンブル、非常に上手い)により、ガブリエリのカンツォーナをはじめ、バッハ、ヴィドール、デュリュフレ、J・シュトラウスの作品が演奏された。
 そして後半では、ジュゼッペ・サッバティーニ指揮の東京交響楽団と東京混声合唱団及びサントリーホールオペラ・アカデミーの合唱、吉田珠代、ソニア・プリーナ、ジョン・健・ヌッツォ、ルベン・アモレッティらの演奏により、ロッシーニの「ミサ・ソレムニス」が演奏された。

 なお「ミサ・ソレムニス」は、ロッシーニ自ら管弦楽に編曲した版の、ダヴィデ・ダオルミ校訂版(2013年出版)による演奏で、この版はこれが日本初演の由。
 そういえば、その2013年1月にエッティンガーと東京フィルが演奏したのは、シピオーニ校訂版(1996年)だった。いずれも、1994年にネヴィル・マリナーが録音したフィリップス盤での演奏とは、かなり違う。

 サッバティーニの指揮のせいか、特に前半の「キリエ」から「グローリア」にかけては、何とも緊張感のない演奏でやきもきさせられたが、後半はそれなりに盛り返した。特に合唱の見事さを特筆しておきたい。

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