2017-07

2017・6・3(土)山田和樹&日本フィル マーラー・ツィクルス第8回

     Bunkamuraオーチャードホール  5時

 「第8番《千人の交響曲》」。
 協演は栗友会合唱団、武蔵野合唱団、東京少年少女合唱隊、声楽ソリストは林正子、田崎尚美、小林沙羅、清水華澄、高橋華子、西村悟、小森輝彦、妻屋秀和。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 「8番」は、以前にも書いたけれども、私にはマーラーの交響曲の中では最も苦手な作品なのである。それは、第1部の絶え間ない絶叫調の楽想のせいなのだが。
 この声楽パートとオーケストラの大音響を、耳を聾する音の連続でなく、豊麗な音色と起伏感で構築して行くことができた演奏には、なかなか出くわさない。もちろん、ホールと、その聴く席の位置にもよるだろうが━━。先日の京都コンサートホールでの広上淳一と京都市響の演奏は、その点では実に均整が取れていたという気がする。特に声楽とオーケストラのバランスの点で、それは極めて優れたものだった。

 今日の演奏では、初日ということもあってか、合唱もソリストたちもかなり勢い込んで歌っていたような感がある。特に合唱は最初のうち強声が硬質で、少々たじろがされた。
 だが、第2部になれば、曲想も大きく変わり、絶叫一辺倒ではなく、起伏も豊かになる。したがって、演奏の細部も見えて来る。そしてこの第2部の、特に中盤以降、浄化されたような世界をオーケストラが柔らかく描き出すあたりからの演奏は、はっとさせられるほど美しかった。山田和樹と日本フィルの最も良い面が、ここで鮮やかに発揮されたと言っていいだろう。

 大詰は、上手側と下手側の前方バルコニー席に配置された金管バンダを加えての大歓呼である。山田も指揮棒を客席にすっ飛ばしての熱演であり━━飛ばしたところは見ていなかったが、拾ったお客さんがカーテンコールの際にマエストロへ返していた光景を見て、それと気がついた━━かたや日本フィルのほうも、総力を挙げての演奏だった。ここはもう、全員がなりふり構わず熱狂の演奏をしていた、といっていいかもしれない。

 このラストシーンにおける今日の演奏が、しかし、前述の広上と京響、あるいは先年のミューザ川崎でノットと東京響がつくり出したような完璧な音のバランスによる陶酔的なハーモニーという域には達していなかったのは事実だ。が、これは、ホールの構造的制約から来るバンダの位置などのせいで、仕方がない。

 総じて山田和樹の指揮するこの「千人の交響曲」の演奏は、宏大無辺な世界への祈りとか呼びかけといったものよりは、健康な若者の青春の讃歌ともいうべきイメージを感じさせる。それは30年前の、小澤征爾と新日本フィルの演奏に、ある面で共通するところがあるだろう。

 ソリスト歌手陣がみんな快調で、特に若い世代が活躍していたことは嬉しい。第2部では、女声陣はみんな音楽に没入し、陶酔感を以って歌っていたように見えた。もっとも、沸き立ち轟く大音響の中に埋没しないようにと必死で歌っているような雰囲気もないとはいえなかったが・・・・。
 一方、これまでは福井敬で聴き慣れたテノールのパートを、西村悟が若々しい声で歌っていたのも、新世代の抬頭を見るようで頼もしいことであった。

 今シリーズで、マーラーの作品に先立って演奏されている武満徹の作品は、今日は「スター・アイル」(星・島)。
 この「星」と、「宇宙が鳴り響くような」(作曲者の表現)の「8番」とを関連させたアイディアも面白いが、それよりも前述の健康な青年の讃歌ともいうべき山田のマーラーと、武満がこの曲に籠めた「巣立ち行く若者の希望」に寄せたイメージとの共通性も興味深いだろう。
    別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

2017・6・1(木)新国立劇場「ジークフリート」初日

      新国立劇場オペラパレス  4時

 新国立劇場の「指環」の第3作。指揮は芸術監督・飯守泰次郎。シュテファン・グールド(ジークフリート)、グリア・グリムズレイ(さすらい人)、リカルダ・メルベート(ブリュンヒルデ)他の歌手陣で上演。

 ゲッツ・フリードリヒのこの「指環」での演出は、ゴットフリート・ピルツの舞台美術を含め、どうも作品ごとにムラがあるのではないか。「ラインの黄金」での舞台の凡庸さは「ヴァルキューレ」で何とか払拭され、名誉挽回かと思われた(もっとも、かなり手直ししたらしい)が、この「ジークフリート」ではまた、あやふやな水準に戻ってしまった感がある。

 第1幕は未整理ながらも、宝剣ノートゥングの再生に関しては、ミーメの下手糞な機械操作による鋳造作業より、自然児ジークフリートの手造り作業の方が遥かに上━━ということを多分主張したいのだろうと推察されたが、舞台の緊密度がどうも低すぎる。ただこれは、2回目の上演以降には、ある程度解決される可能性はあるだろうと思う。
 だが、第2幕となると・・・・「大蛇」は何とも玩具じみているし、歌手1人とダンサー1人の計4羽集団になった「小鳥」たちの格好は、趣味の違いは別としても、どう見てもあまりサマにならぬスタイルである。これでは、拍手も少々おざなりにならざるを得ない。

 第3幕後半(岩山の上)は、「ヴァルキューレ」第3幕の舞台に近くなる。中央の「台」と、両側の壁の他には、猥雑物のない光景だ。むしろこの方が、まとまりを感じさせたのではないか。
 ともあれ、この第3作まで観たところでは━━フリードリヒの演出としては、ベルリン・ドイツオペラで制作された所謂「トンネル・リング」に比べると、水準にはどうやら大きな差がある。制作費の関係もあってこのような程度のプロダクションを持って来なければならなかった芸術監督の苦衷も察したいとは思うけれども━━。

 今回ピットに入ったオーケストラは、東京交響楽団である。別に悪い意味で言っているわけではないけれども、このオケは、本質的にワーグナーにはあまり向いていないのではないかという気がする。 以前ここで演奏した「さまよえるオランダ人」もそうだったが、これまで成功した例があるとは言い難い。
 今日も、第1幕では慎重に構え過ぎたか、重量感とスケール感に乏しく、最強音も硬く、弱音も瑞々しさに不足するきらいがあった。

 ただ、第2幕の「森のささやき」などでは美しい雰囲気を醸し出していたし、第3幕ではオーケストラ全体に、量感も力感も出て来ていたようにも思われた。第3幕のワーグナーのオーケストレーションは、第2幕までのそれとは大きく違うから、その所為もあるとは思うが、、いずれにせよ第3幕ではオケの鳴りがかなりよくなったことは、たしかだろう。ブリュンヒルデの心が和らいだ時からの「純潔の動機」の個所なども、弦には豊かなふくらみが戻って来ていた。
 それゆえ、もしかしたら2日目以降の上演では、全体に持ち直すかもしれない。
 とはいえ、第2幕の「ジークフリートの角笛」のホルンは・・・・やはり不可ない。溜息が出てしまう。

 飯守泰次郎の指揮は、今日の演奏だけ聴くと、第1幕では抑制し、第3幕に雄大な頂点を持って来る意図というところだろうが、その他の点に関しては、オーケストラの出来から言ってその意図が完全に達成されていたとも言い難いだろう。

 主役歌手陣は、程度の差こそあれ、いずれも佳い味を聴かせてくれた。
 シュテファン・グールド(ジークフリート)は、第1・2幕での放埓な少年と、第3幕で「怖れを知った」あとの若者とを極めて明確に演じ分けた。ほとんど出ずっぱりのこの超人的な役柄を疲れも見せず、最後の強靭な愛の二重唱までを強靭に歌い上げたのは流石というほかはない。
 リカルダ・メルベート(ブリュンヒルデ)は、出番こそ短いものの、目覚めた乙女に相応しい明るい声で、途中の髙いH音と、最後の髙いC音とを輝かしく響かせた━━特に後者では、朗々と長く延ばして聴かせどころをつくった。ブリュンヒルデ自身にも、ジークフリートにも、新しい世界が開けるだろう━━そうした期待をはっきりと示す歌唱だった。

 グリア・グリムズレイ(さすらい人)は、今日はちょっと声が粗く、特に第3幕第1場では━━いくらヴォータンが焦りの心境にあったにしても━━音程さえ判別できぬほどの荒々しい歌い方をする必要もないと思われたが、如何なものか。
 アンドレアス・コンラッド(ミーメ)は、狡猾な、というよりは必死で知恵を絞るいじらしい小者といった巧い歌唱と演技。
 トーマス・ガゼリ(アルベリヒ)は、ヴォータンに切り落とされた右手首に鈎をつけた凄愴な姿で駆けずり回っていたが、彼の歌唱にもうほんの少し凄味があれば、さすらい人やミーメと対峙して相手の行動の矛盾を論理的に突く迫力がいっそう明確に出たろうと思われる。

 クリスティアン・ヒューブナー(大蛇ファーフナー)は、巨人時代のヘルメットをかぶったまま現われたのがご愛敬だが、このような演出はどこかで見たことがある。クリスタ・マイヤー(エルダ)は短い出番ながら存在感充分で、第3幕前半を立派に引き締めた。
 なお、「小鳥」は、鵜木絵里、吉原圭子、安井陽子、九嶋香奈枝が順に歌っていたが、大木にぶら下がったような無理な姿勢のせいか、みんな妙にヴィブラートが強すぎ、「可愛い小鳥」のイメージとは程遠く、おしつけがましくなってしまったようである。

 ━━以上が初日の模様である。45分の休憩時間2回を含め、終演は9時40分頃。
 長丁場なので、休憩時間には、ホワイエに並んだ売店が賑わっていた。特に第2幕のあとではカレーライスだかハヤシライスだかが大人気で長蛇の列。漸く行列が消えたので、せめてそのカウンターで売っているソーセージ・セットだけでも・・・・と行ってみたら、残ったソーセージはたった3本、ザワークラウトがちょうど前の人の分で全部なくなってしまい、仕方なく諦める。

※追記 字幕は三宅幸夫さんのもの。安定した、主語も起承転結も明確な文体で、安心して視ていることができた。なお、次作「神々の黄昏」でのオーケストラは、同劇場サイトによれば読響で、飯守さんとは東京二期会の「パルジファル」の協演で成功しているから期待できよう(新国のプログラムでは東京フィルとなっていたので驚いたが、どうやら間違いだったらしい)。

2017・5・28(日)オッフェンバック:オペラ「ラインの妖精」

     新国立劇場中劇場  3時

 「ラインの黄金」のあとは、今度は「ラインの妖精」と来た。━━こちらは「天国と地獄」の作曲者ジャック・オッフェンバックが1864年に初演したシリアスなオペラで、埋もれたオペラを蘇演することで有名な「東京オペラ・プロデュース」が、第100回定期公演として取り上げたもの。今回が日本初演の由。
 ダブルキャスト2回公演で、今日は2日目である。オリジナルのドイツ語上演で、日本語字幕(増田恵子)付。

 とにかく、珍しいオペラをやってくれたものだ。その意欲的な姿勢は高く評価されてしかるべきである。
 ストーリーは、ライン河に住む妖精たちが、侵入して来た敵軍から母娘たちを護るというような主旨だが、その敵軍の将が娘の実父だったり、娘の恋人が記憶を喪失して敵軍に加わっていたり、あれこれ入り組んだエピソードが織り込まれている。

 演奏時間は正味3時間15分ほどか。
 台本が著しく冗長で、話の進み方がおそろしく遅くて、しかもくどいのが欠点だが、音楽は結構美しく、特にのちの作品「ホフマン物語」で有名になった「舟唄」の旋律が、ここで「妖精の動機」として先取り活用されているのは魅力だ。このフシ、管弦楽編成を替えると、見事なミステリアスな雰囲気を生むのがいい。

 出演者は、松尾祐美菜(娘アルムガート)、前坂美希(母ヘドヴィヒ)、上原正敏(娘の恋人フランツ)、米谷毅彦(敵将コンラート)、佐藤泰弘(狩人ゴットフリート)ほか。この男声3人は堂々たる歌唱の出来だった。
 指揮は飯坂純、手堅くまとめている。オーケストラは東京オペラ・フィルハーモニック管弦楽団で、ホルン以外は良かった。

 演出は、全て客席を向いて歌わせるという旧弊な手法で、演技にも論理的な描写が全く感じられない。いまどきこんな演出をしていては、目の肥えたオペラファンにはソッポを向かれてしまうだろう。物語が冗長過ぎると感じられたのは、この面白味のない演出もその理由の一つであった。

 なお今回は、各幕ごとに、客席内に「香り」を漂わせるという趣向が行なわれていた。私は嗅覚には今なお極度に敏感のほうだが、ただこれは、言われてみなければそれと判らず、初めのうちは隣の女性の香水の香りかと錯覚したくらいで、━━しかし、なかなか好い香りだった。何の香りかまでは、知らない。

2017・5・27(土)新日本フィルの生オケ・シネマ「街の灯」

      すみだトリフォニーホール  5時

 チャーリー・チャップリン没後40周年記念と題して、1931年公開のサイレント映画「街の灯」を、デジタル・リマスター版により、幅10メートル以上の大スクリーンで上映。その手前のいつものステージに新日本フィルが位置して、映画に合わせて86分間、演奏を繰り広げる。

 演奏される音楽は、主題曲として有名な「ラ・ヴィオレテラ」こそホセ・パディラの作品だが、その他はすべてチャップリンの作曲によるもの。それらをアーサー・ジョンストンが編曲し、スコア復元(2004年)と今回の指揮をティモシー・ブロックが担当する、という仕組だ。

 所謂笑わせ、かつ泣かせるというチャップリン独特の手法だが、やはりこれは噂にたがわぬ凄い映画である。底流を形づくるヒューマニズムは、まさに圧倒的だ。
 ラストシーンで━━眼の治療に成功して今は花店を経営しているかつての貧しい盲目の花売り娘(ヴァージニア・チェリル)を、彼女を秘かに援助した「落ちぶれた」主人公(チャップリン)が万感こめて見つめる表情の温かさ、哀しさ、複雑さ・・・・。サイレント映画時代のチャップリンがいかに並外れた天才的な監督であり俳優であったか、この感動的なシーン一つ観ただけでも解るというものだろう。

 エンド・マークが出て、消えた瞬間、オーケストラがまだ後奏を続けている間にも、早くも客席から怒涛のような拍手とブラヴォ―が巻き起こったのは、無理もないことであった。
 だが、ブロックと新日本フィルも、映像と完璧に合致した、素晴らしい演奏をしてくれていた。
 いい企画である。

2017・5・27(土)インキネン指揮日本フィル「ラインの黄金」2日目

      東京文化会館大ホール  2時

 夕方5時からトリフォニーホールで上映・演奏されるチャップリンの映画「街の灯」に行くため、途中で失礼しなくてはならないので、今日はバックステージで聴く。
 客席に居ながら途中で出ては演奏者に失礼だし、だいいち、「あいつトイレが我慢できなかったんだろう」などとカンぐられ、馬鹿にされるのも癪だから。

 バックステージで、時にはスタッフや出演者たちとお喋りしながら聴いていると、30~40年前の放送の現場時代に戻ったような気がして、結構楽しいものだ。
 ただ、終演後なら話は別だが、本番中にバックステージへ行った場合には、やはり現場出身者の性というのか、精神状態は一瞬にして演奏者側、制作者側、スタッフ側に同化してしまう。それゆえ、いわゆる「批評行為」は、一切不可能になる。
 舞台裏や袖、控室などを行き来し、スタッフと話をしたりしつつ、第4場に入ったところまで聴く。

 昨日体調不良で出演できなかったローゲ役のウィル・ハルトマンは、今日は元気で出演した。それでも西村悟さんは楽屋や袖に詰めて、いつ何時たりとも代役が務められるようにスタンバイしていた。
 舞台裏上手側でニーベルハイムの鍛冶の音をたたく奏者たちが、冒頭からずっと座ったままで出番を待っていたのには驚いたり、感心したり。彼らがいざいっせいに叩きはじめると、さすがに物凄い轟音である。凄いだろうとは思っていたが、更に凄い。当初は10メートルほど離れて聴いていたものの、たちまち遠くへ逃げなくてはならなかった。

 序奏の間、上手側袖で出番を待つラインの乙女役の林正子さん、平井香織さん、清水華澄さんが、水で咽喉を湿したり、ストレッチをしたりしながら準備を整え、いよいよ舞台に出る直前に手を繋ぎ合って「本日もよろしくお願いします」と声をかわす光景━━あるいは、「出」をいったん終えて引き上げて来たリリ・パーシキヴィ(フリッカ)に「ブラ―ヴァ」とそっと拍手を贈れば、首をすくめながら嬉しそうに笑って頷き、楽屋へ引き上げて行く光景など。それらにすっかり感動してしまうのが、私にこの齢まで残っている現場感覚というものである。

 オーケストラは、昨日の初日より今日の方が、やはりノリがよかったようだった。

2017・5・26(金)インキネン指揮日本フィル「ラインの黄金」初日

      東京文化会館大ホール  7時

 日本フィルハーモニー交響楽団と、首席指揮者ピエタリ・インキネンによるドイツ・ロマンは音楽シリーズの一つの頂点、ワーグナーの「ラインの黄金」の上演。コンサートマスターは扇谷泰朋。

 演奏会形式ではあるが、シンプルな照明演出と、ステージ前面での必要最小限の演技も施される。演出は佐藤美晴、照明は望月太介だが、比較的間際になってからの演出依頼で、しかも通し練習が事実上出来なかった状態の舞台にしては、よく仕上げたものだと思う。

 インキネンのワーグナーは、日本フィルとの演奏では既に「ワルキューレ」第1幕や、「ジークフリート」と「神々の黄昏」の各抜粋などで聴いていたが、今回はその「ワルキューレ」での好調さを取り戻したような指揮である。
 彼のワーグナーは、いくつかのダイナミックな頂点の個所を効果的に盛り上げつつ、全曲を衒いなく率直に指揮して行くタイプのものであり、そのストレートな指揮が、この少し散漫な音楽構成の「ラインの黄金」ではむしろ良い結果を生んでいたと思われる。

 日本フィルも、今日は初日とあって、金管には時々綻びがあったが、人間のやることだから仕方がないとはいえ、一流オーケストラたるものはそういう細かいところをも手落ちなくやっていただきたいという気がする。
 冒頭の8番ホルンの最初の音がpでなくmfになり過ぎていたり、幕切れの壮大な和音の中でトロンボーン群のバランスが悪かったりしたのも気になったし、第4場での宝を積み上げる前の個所の「巨人の動機」のティンパニ(Dover版スコア251頁のフォルテの個所)が落ちてしまったのにはギョッとさせられた。
 しかしまあ、そういった細かい個所を除けば、日本フィルは慣れぬワーグナーものでよくぞこれだけ好演を聴かせてくれた、と言えるだろう。

 今回の出演歌手は以下の通り━━ユッカ・ラシライネン(ヴォータン)、リリ・パーシキヴィ(フリッカ)、安藤赴美子(フライア)、畠山茂(ドンナ―)、片寄純也(フロー)、池田香織(エルダ)、西村悟(ローゲ)、山下浩司(ファーフナー)、斉木健詞(ファーゾルト)、ワーウィック・ファイフェ(アルベリヒ)、与儀巧(ミーメ)、林正子(ヴォークリンデ)、平井香織(ヴェルグンデ)、清水華澄(フロスヒルデ)。
 このうち、西村悟はウィル・ハルトマンの、与儀巧は高橋淳の、それぞれ代役出演である。

 それぞれ、見事な歌唱と好い演技だったが、とりわけファイフェの明快で強烈な「若々しい精力的なアルベリヒ」の表現と、びわ湖ホールの「ラインの黄金」で絶賛された西村悟の「相手をバカにしまくっているローゲ」の表現がひときわ映えた。
 巨人役2人も荒々しい馬力が充分であり、ラインの乙女役3人も魅力的かつ華麗に歌い動き、ミーメも哀れっぽさを巧く出し、エルダは貫録、フライアはまさに清純、全員が当たり役という感である。
 ラシライネンは、さすがに巧者ではあるものの、この作品のヴォータンとしては声も少し老け役に過ぎ、また演技もほとんどやらずに泰然としているように見えたが・・・・。

 幕切れ近く、舞台裏で歌う3人のラインの乙女たちのアンサンブルが、ある個所で乱れ、オケと合わなくなったのにはヒヤリとしたが、あとで聞いてみると、副指揮者がいないので、テレビの画面だけでインキネンの指揮を見ながら歌っていたとのこと。これではちょっと苦しかったろう。
 だがこれらはすべて、先に触れたオケの問題点と同様、明日の公演では解決されるだろうと思われる。

 日本フィルが総力を挙げた今回の「ラインの黄金」。余勢を駈って「指環」ツィクルスをと期待したいところだが、恐ろしくカネのかかる企画だから、経営難の自主運営オーケストラとしては、容易いことではあるまい。事務局としては、インキネンが「やろう」と言い出しはしないかと、内心冷や冷やしている由。
 だが、今日の演奏会では、演奏の途中で出て行ってしまう客が、なぜか何人もいた(と言っても数人だが、これは多い方である)。定期公演なので、ワーグナー嫌いの会員もいるのかもしれない。もったいない話だ。
 9時40分終演。

2017・5・25(木)ホリガーの音楽「スカルダネッリ・ツィクルス」

       東京オペラシティ コンサートホール  7時

 2時間半、切れ目なし。
 78歳の誕生日を迎えたばかりのハインツ・ホリガーが、この長大な自作を、自ら指揮し、指揮台上で「語り」を入れつつ、日本初演を行なった。

 これは1975年から91年にかけて作曲したもので、無伴奏混声合唱を中心とした「四季」(計12曲、必ずしも順番に演奏されるものではない)と、器楽を中心とした「スカルダネッリのための練習曲集」、およびフルート・ソロのための「ティル」という3つのグループからなる曲集を組み合わせた大曲である。「スカルダネッリ」とは、ドイツの詩人フリードリヒ・ヘルダーリンがこの詩集で使用した架空の署名とのこと。
 演奏は、ラトヴィア放送合唱団と、アンサンブル・ノマド、フルートのフェリックス・レングリ。

 長大な現代音楽だが、それは驚異的に神秘的で、精緻で、多彩で、美しく、しかも強靭な意志を感じさせて、スリリングだ。アンサンブル・ノマドの精妙緻密な演奏もさることながら、ラトヴィア放送合唱団の倍音唱法を含む声の技術を尽くした微細な音色の見事さが、聴き手に息を呑ませる。
 2時間半は、長すぎるどころか、期待感と、陶酔と、驚愕のうちに、瞬く間に過ぎ去ってしまった。時間を制圧した演奏の素晴らしさというべきだろう。

 なお、ラトヴィア放送合唱団は、2014年8月30日のルツェルン音楽祭における、この今日演奏されたものと同じ「改訂稿」初演の際に、すでに一度ホリガーと協演して歌っていたそうである。

2017・5・24(水)ロイヤル・オペラ・ハウス・ライヴ「蝶々夫人」

      東宝東和試写室  6時

 3月30日に上演されたプッチーニの「蝶々夫人」のライヴ映像。
 東宝東和の配給で、一般公開は26日(金)からの由。上映される都市も、以前よりもかなり増えて来たようである。ただ、松竹の「METライブビューイング」に比べて広報の情報量が少ないので、上映期間や上映内容を知るには、当面は主として東宝東和の公式サイトを頼りにするしかないようだ。

 演出は、パトリス・コーリエとモーシュ・レイゼルのコンビ。
 概して写実的でシンプルなスタイルだが、軽薄で無責任な性格が強調されたピンカートンと、良識のある米国領事シャープレスとの対比を巧く描き出している演技構築はなかなかいい。自決した蝶々さんが最後に子供の方へにじり寄って行く際の身体の動きに、蝶々のイメージを与えたのは━━美しいと言えば言えぬことはないが、少々わざとらしく、やり過ぎの感も否めないようで・・・・しかしこれは好みの問題だろう。
 Christian Fenouillatによる舞台装置がシンプルながら「日本的なイメージによる洋間」という感を与え、極めて美しい。

 指揮はアントニオ・パッパーノ。テンポもデュナミークも起伏が大きく、沈潜した個所では極度にテンポを落し過ぎるのが気になるけれども、劇的な構築には事欠かない。
 題名役のエルモネラ・ヤホは歌唱も素晴らしく、素顔も美人だが、今回のメークは歌舞伎のそれのようで、遠目に見ればそれなりに効果があるのかもしれないが、アップになると大変不気味なのが問題だ(考えてみると、METのライブビューイングでは、こういうメークの女声歌手は一人も見たことはなく、アップに堪えるそれなりの配慮がなされているのだろう)。

 スズキ役のエリザベス・デショングも好演、シャープレス役のスコット・ヘンドリックス、ゴロー役のカルロ・ボッシは手堅い出来というところだが、ピンカートン役のマルセロ・プエンテは高音域に無理があったようで、カーテンコールにも微かにブーイングが交じっていたようだ(METだったら、お客さんは甘いから、この程度ではブーなど出さないだろう)。

 上映時間は、休憩は別として3時間弱。インタビューもあり、解説もある。
 なお解説者が、プッチーニが日本の旋律を多数引用した話をした後で、「アメリカの曲も使っていますね━━《Stars and Stripes》とか」(字幕にも「星条旗よ永遠なれ」と出た)と言ったのは明らかに間違い。使われているのはそのスーザの行進曲ではなく、アメリカ合衆国国歌「The Star-Spangled Banner」(「星条旗」、1780年作曲の「天国のアナクレオンへ」が原曲)のほうでしょう。
 これはしばしば間違えられる。解説者も「Stars and Stripes Forever」という正式題名のうち最後の「Forever」を口ごもって言わなかったのは、自分でも途中で「あれ?」と思ったのかもしれない(そんな顔をしていた)。

 もっともプッチーニがこの曲を引用した時━━「蝶々夫人」の作曲は1901~03年である━━「星条旗」はまだ正式にアメリカ合衆国国歌ではなかったのだから皮肉である。ピンカートンとシャープレスが乾杯しつつ「アメリカよ永遠に」と歌う場面でオーケストラにそのフシが高らかに鳴りわたれば、それはどう見ても「アメリカ国歌」に思えるからだ。はからずもプッチーニは、この曲がのち(1931年)に合衆国国歌となることを予言したような結果となったが・・・・。

 「天国のアナクレオンへ」は、当時はまだ米国国歌でなく、英国や米国で流行り歌となっていた「酔っぱらいの歌」に過ぎなかったのに、なぜここに引用されたのか? となると、プッチーニはこれを単にその「アメリカの酒の歌」という意味で利用したのだろうか?
 このあたり、詳しい方のご教示を待ちたい。

2017・5・23(火)ロウヴァリ指揮タンペレ・フィルハーモニー管弦楽団

      東京文化会館大ホール  7時

 フィンランド共和国独立100年記念行事の一環とか。
 ヘルシンキの北東160キロ、内陸にある街タンペレを本拠とするオーケストラで、かつてハンヌ・リントゥが率いていたが、2013年からこのサントゥ=マティアス・ロウヴァリが首席指揮者を引き継いでいる。
 ちなみにタンペレは、例のムーミン谷博物館がある都市だが、今年夏には新しいムーミンの博物館が開館するのだそうで、今日もホワイエにトーヴェ・ヤンソンの画などがいくつか展示されていた。

 今日はもちろん、シベリウスの作品集だ。「エン・サガ」、「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは堀米ゆず子)、「交響曲第5番」というプログラムで、アンコールには「フィンランディア」と「悲しきワルツ」。

 このオーケストラは、なかなか好い。東京文化会館大ホールのデッドな音響をものともせず、豊かな音をいっぱいに響かせた。
 ロウヴァリは例のごとく踊るような、ユニークな身振りによる指揮で、大胆奔放にオーケストラを煽り立てる。「エン・サガ」など、随分荒っぽく激しい演奏で、神秘的な古譚の世界という曲想からは遠い。
 ロウヴァリ、やはりこういう調子で押しまくるつもりなのかなと、些か辟易したが、次の「ヴァイオリン協奏曲」になると、打って変わって整然たる均衡をオケから引き出し、堀米の落ち着いたソロを支えたのには驚いた。このロウヴァリという若手は、なかなかのクセモノである。

 「第5交響曲」では、ロウヴァリは、パンチの効いた、強烈なメリハリを持った演奏を創り出した。荒っぽいデュナミークや、やや誇張したテンポを駆使して強引に煽る個所も多いが、しかしそれらの細部を極めて緻密に構築しているところは、端倪すべからざる力量である。第1楽章後半など、弾むように快調なテンポとリズムで一気に進めるその流れが実にいい。第2楽章のような叙情色の強い部分でも、その快いリズム感が生きる。

 「フィンランディア」も、テンポや起伏にかなり誇張のある演奏だったが、金管と打楽器の戦闘的なリズムにも、あるいはあの「フィンランディア賛歌」としても有名な主題にも、独特の感動的な情感があふれていた演奏だったのには、ちょっと胸が熱くなった。これはもう、同国人としての共感が生む演奏だろう。壮大に構築された終結部の演奏にも、他の国のオケでは出せないような不思議な感情の発露がある。こういう演奏で聴く「フィンランディア」は、いやシベリウスの作品は、素晴らしい。

 このオケ、聴けて良かった。最良の意味でのローカル的な味を、今なお持ち続けているオーケストラである。この見事な民族的個性、地方的特色を、今後も大切に持ち続けて行ってもらいたいと思う。
 客の入りがあまりよくなかったのは残念だったが、それでも熱心な人たちが集まっていたようである。最後は熱狂に包まれた。

2017・5・23(火)METライブビューイング「エフゲニー・オネーギン」

     東劇  2時

 4月22日に上演されたライヴ映像、デボラ・ワーナー演出によるチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」。

 2013年秋のプレミエ・シーズンに現地METでナマで観た時(ゲルギエフが指揮するので飛んで行ったのだが)には、演出が徹底していなかったようで、何ともつまらない舞台だった(2013年10月9日、11月2日の項)。だが、さすがに今回は練り上げたらしく、隙のない、雰囲気も豊かな舞台に作ってある。

 タチヤーナは、4年前の舞台と同じアンナ・ネトレプコ。見事な出来だ。顔の表情などの微細な演技力はさすがのもの。
 特に第3幕、グレーミン公爵夫人として上流社会の花形になったタチヤーナの、夜会の席上で動揺を押し隠してオネーギンと相対する場面での突っ張った「傲慢そうな」態度といい、そのあとで彼と2人だけで対決した時の困惑と苦悩の表情といい、精妙な演技の対比が素晴らしく、オペラ女優としての貫録は充分である。もちろん歌唱も、聴かせどころの「手紙の場」をはじめ、魅力的だ。

 オネーギン役は、当初予定されていたフヴォロストフスキーが病のため降板したため、ペーター・マッテイが登場した。この人のオネーギンは、ザルツブルクでも見たことがある(2007年8月19日)が、ちょっと凄味のある悪役ヅラで体も大きいから、ニヒルなインテリ青年というより、見るからに強そうなオネーギン、という感である。

 その他、レンスキー役のアレクセイ・ドルゴフが好演。オリガはエレーナ・マクシモワだが、この役はどうやっても目立たぬ損な役回りである。
 脇役として、母親役にエレーナ・ザレンバ、乳母役にラリッサ・ジャジコーワというベテランが出ていたのには驚いた。ザレンバもついにこのオペラのお母さん役をやるようになったか。しかし相変わらず気品があって美しい。なおグレーミン公爵はステファン・コツァンとなっていたが、とても彼とは信じられぬような迫力のない声。

 今回は、ロビン・ティチアーティが指揮をとっていた。予想通りすっきりした表情の音楽づくりだが、チャイコフスキーの白夜的な叙情の美しさは、よく表れていただろう。

 上映時間3時間41分。幕間の「リンカーンセンター移転50周年記念ドキュメンタリー」で、MET名物のユニークな形をしたシャンデリアが生まれた裏のエピソードが紹介されていたが、これは面白かった。
 昼間の上映だと、さすがに女性客が多い。

2017・5・22(月)ラトヴィア放送合唱団

    すみだトリフォニーホール  7時

 狂乱の舞踏の祭典(?)のあとの、一服の清涼剤のごとき清澄なハーモニー。カスパルス・プトニンシュが指揮するラトヴィア放送合唱団。今回が初来日だったとは少々意外だが、素晴らしい。

 プログラムがまたいい。フィリップ・グラスの「コヤニスカッツィ」からの「ヴェセルズ」、アルヴォ・ペルトの「スンマ」、それにラフマニノフの「徹夜祷(晩禱)」。
 このうち「ヴェセルズ」では若林かをり(フルート)、大石将紀(ソプラノサクソフォン)、田中卓也(テナーサクソフォン)が協演した。

 1曲目の所謂フィリップ・グラス・サウンドは、何だか久しぶりに聴く感がする。昔はこういうのが流行ったなあ、という気持になってしまったのだが、その理由は、自分でもよく解らない。
 ペルトの「スンマ」での緊迫感も良かったが、やはり私にとっての今夜の頂点は、ラフマニノフの「徹夜禱」をナマで聴けたことである。それはサンクトペテルブルクの合唱団で聴くような━━大地の底から湧き出て来るような、魔性的な凄味のあるハーモニーとは違い、むしろ清澄で透明で浄化されたような世界なのだが、その深みのある音楽には抗し難い魅力がある。

 このラトヴィア放送合唱団は、25日に「ハインツ・ホリガーの音楽」なる演奏会で、また聴ける。これも楽しみである。

2017・5・21(日)バッティストーニ指揮東京フィル 「春の祭典」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 夏日の午後、渋谷の道玄坂下から東急へ向かう道は、夏祭りの真っ最中。道路は踊りの軍団で埋まり、横断も出来ぬほど。そしてオーチャードホールでの東京フィルの5月定期も、バレエ/ダンスの大特集である。

 プログラムは、ヴェルディのオペラ「オテロ」のバレエ音楽、ザンドナーイのオペラ「ジュリエッタとロメオ」のバレエ音楽、後半がストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」、おまけにアンコールは、外山雄三の「ラプソディ」からの「八木節」であった。

 熱血の首席指揮者アンドレア・バッティストーニのリードのもと、東京フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター三浦章宏)が、文字通り「空前の大音響」による演奏で応じた。
 巨大なオーチャードホールが家鳴り震動するといった感で、耳を聾するその大音響は、しかし、シカゴ交響楽団のような根っからの豊麗なサウンドとは少し違い、作為的な怒号絶叫の要素が強いものだったと言えぬことはない。
 それでも、金管群にはブリリアントな音色があふれていたし、一種の痛快無類な演奏ではあったことは確かである。

 「オテロ」のバレエ音楽は、実際のオペラ上演では先ず演奏されることのないものだが、趣旨としては、今秋の全曲上演の予告編の意味もあっただろう。バッティストーニは、かなり派手に、ダイナミックに演奏を開始した。
 だが、これは未だ序の口。次のザンドナーイの作品では、オケを鳴らすのなんの。ただでさえ賑やかな音楽が、いやが上にも騒々しい音楽となって沸騰した。これでは次の「春の祭典」が霞んでしまうのではないかと危惧したほどだったが、案に相違して、それもまた更に猛烈かつ壮烈な激演となって行ったのである。

 しかし、この「春の祭典」は、ただ大きな音でまくし立てただけの演奏だったというわけではない。バッティストーニは、作品の細部に神経を行き届かせ、楽譜の其処此処に新機軸を施していたのである。それは、実に面白いものだった。

 たとえば冒頭、並みの長さの数倍もあろうかというくらい引き延ばされたフェルマータの、かつ豊富なヴィブラートをかけられた明るい音色のファゴット・ソロ。この瞬間からして、今日はいろんな新しいことをやってくれそうだ、という期待が拡がるわけである。
 その他、たとえば練習番号【25】のホルンのソロが入るのに先立ち、第2ヴァイオリンがいきなり8分音符を強調したり、練習番号【181】からの最後の法悦の踊りに入る瞬間のトロンボーンに物凄いグリッサンドを吹かせたり、・・・・それらはしかし、いずれもスコアに書いてあるものの中から一部分を浮き彫りにして強調した演奏なのであって、所謂改ざんなどでは毛頭ないのだから、バッティストーニのセンスも冴えていると言ってもいいだろう。

 それにしても、これほど開放的な大音響で日本のオーケストラを鳴らした外国人指揮者は、私の体験の範囲では、1950年代半ばにN響に客演したローゼンストック以来ではなかろうか。
 ただ、バッティストーニの場合、同じ鳴らすにしても「四六時中鳴らしまくる」ので、起伏がやや単調になり、真のクライマックスが何処にあるのかが曖昧になるという傾向も無しとは言えないだろう。それは、コンサート全体のプログラムにおいてどこに頂点を作るかという問題でも然り、「春の祭典」の頂点の個所はどこかという問題についてもしかり。そのあたりを構わず、勢いに任せて押し切ってしまうのは、未だ若い彼の熱血のゆえだろう。

 「春の祭典」のあとに、これまた賑やかなアンコールのダンスを演奏するというのも、ちょっと変わっている。いやもう、若いエネルギーというのは凄い。しかし、東京フィルのエネルギーも並みではなかった。
 この数日間、バケモノのような音楽ばかりを聴いて来た後に、今日はまさにとどめを刺された感である。
  別稿 音楽の友7月号 Concert Reviews

2017・5・20(土)ノット指揮東京響 ブルックナー「5番」原典版

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 前夜に濃厚なシャルク改訂版で聴いたブルックナーの「交響曲第5番変ロ長調」を、今日は本来の清楚な原典版で聴く。毒消しになったか?

 ジョナサン・ノットと東京交響楽団のブルックナーは、これまでにも「3番」と「7番」「8番」を聴いた。いずれも細部まで緻密に練り上げたアプローチで、壮大な音の大伽藍というよりは、均整の豊かな現代の建築、といったものを連想させる演奏だった。今回の「5番」も、ほぼ同様の路線上にあるだろう。

 ただ、前回の「8番」では、概してイン・テンポで押し切った堂々たる演奏だったのに対し、今回は第4楽章最後の頂点で、予想外のアッチェルランドがかけられていた。ここで加速を施す解釈というのはむしろ珍しいだろうが、これには全く共感できない。
 そういう慌ただしい終結にしてしまうと、そこの音楽が備えている壮麗なコラールと、その内側で揺れ動くリズムおよび低音部の8度の跳躍との壮大な調和による大建築の威容を、完全に損なってしまうからである。

 だがそうした点を除けば、「ノットのブルックナー」は、概して几帳面で正確、真摯な力に満ちて爽やかだ。要所でのクレッシェンドの迫力も、ここぞという個所での全管弦楽の力感に富んだ昂揚も、なかなかいい。水谷晃をコンサートマスターとする弦楽器群も強力で、各主題を清澄に描き出していた。
 なお、これはあまり言いたくないのだが、東京響のホルン・セクションに、最近どうも以前ほどの冴えと安定度とが感じられないのは、どうしたことか?

 第1部では、小曽根真をソリストに迎え、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第6番変ロ長調」が演奏されていた。小曽根のピアノの独特の透明な音色と、軽やかな表情とが映え、またノットと東京響の演奏も引き締まって集中力に富んでいた。
 せっかく彼が弾くからには、せめてカデンツァで、もっとジャズの手法を取り入れて奔放にやって欲しかったのだが、指揮者の考えとの兼ね合いもあるから、そう自由にやるわけにも行かないのかもしれない。

 私は今でも、かつて彼が宮崎国際音楽祭でモーツァルトの「ジュノム」協奏曲を弾いた時のことを思い出す。アンコールでジャズをやり始め、それがいつの間にか「ジュノム」の第3楽章に近づいて行くと、聴いていたオーケストラのメンバーが三々五々アドリブで加わって来て、最後は全合奏で鮮やかに終ったため、聴衆は湧きに沸いた(指揮者のデュトワは、その時にはもちろん楽屋に戻っていたままだった)。あのような光景がまた繰り返されないものかと、彼がコンチェルトを弾く時にはいつも心待ちにしているのだが・・・・。
 なお、今日の小曽根のアンコールは、レクォーナの「スペイン組曲《アンダルシア》」の「ヒタネリアス(ジプシーの歌)」。これも軽やかで美しい。

 東京響のこの定期は、今日と明日の2回公演だが、同じく今日と明日は、高関健と京都市響がこのブルックナーの「5番」を定期で取り上げている。これもまた偶然の「かち合い」の一例だ。
 また明日は、西宮の兵庫県立芸術文化センターで、井上道義と大阪フィルもブルックナーの「9番」を演奏する。ブルックナーも結構モテている。

2017・5・19(金)ロジェストヴェンスキー指揮読売日本交響楽団
ブルックナー「5番」シャルク版 

         東京芸術劇場コンサートホール  7時

 ブルックナーの「交響曲第5番」の、シャルク改訂版が演奏された。
 この曲のこの版を、メジャー・オーケストラが世界的名匠の指揮で演奏するという例は、もしかしたらわが国ではこれが最初かもしれない。ブルックナー愛好家にとっては、まるで歴史的大イヴェントのような注目度の高さ。ファンが挙って聴きに集まった、と言ってもいいような雰囲気が感じられた。

 とはいえ、このフランツ・シャルクが改訂した版━━これを、ブルックナーの原典版のスコアを拡げて比較しつつディスクで聴くと、よくもまあこれだけ遠慮会釈もなく書き換えたものだ、と腹が立ってたまらなくなる。

 何しろ、全曲を通じて、楽器編成は変える、各声部は書き加えたり削ったりして変更する、第4楽章では再現部などを大幅に(20%近く)カットする、そのコーダではリズムや主題の形まで変え、金管バンダやシンバルやトライアングルまで追加する━━といった具合である。
 師ブルックナーの音楽を世の中に理解させるために、善かれと思って行なったことだ、と伝えられているけれど、シャルクがこの編曲を行なった時期には、すでにブルックナー自身のスコアによる「4番」「7番」「8番」が世に知られ、大成功を収めていたはずである。それゆえシャルク自身にも、師のスコアを前にして、「俺だったらこうする」とか、「この方が面白くなる」とかいう勝手な意識がなかったとは言えないだろう。
 いずれにせよ、結果としては、所詮シャルク自身が師の音楽の本質を全く理解していなかった━━ということの証明だけが残るのである。

 ただ、それはそれとして、演奏の点だけから言うなら、このブルックナーらしからぬダイナミックでカラフルな形状を呈しているシンフォニーを、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーが如何に魅力的に、見事に指揮したかは、全く驚くべきものがある。
 これはもう、豪演と呼ばれるにふさわしい出来だろう。

 かなり遅いテンポによる演奏で、全曲合計は80分近い長さとなったが(前述の通り大幅カットが行われているにもかかわらず、である)、ロジェストヴェンスキーの演奏構築の設計が実に巧いので、流れが弛緩することは全くない。「持って行き方」が、唖然とするほど巧いのである。まさに名匠の腕の冴えだ。
 音楽が轟々と煽られ盛り上がった全曲の終り近く、ステージ最後方にずらり並んだ金管の別動隊が立ち上がり、次いでシンバルとトライアングルの奏者も立ち上がる瞬間が、まるでオペラがクライマックスに達したかのような光景なので、思わずクスリと笑ってしまう。

 読響(コンサートマスターは長原幸太)の壮麗さと強靭さも、また並々ならぬものであった。金管群がどれほど咆哮しても、それに一歩も退かぬパワーを示す弦楽器群も見事である。
 これまで数え切れぬほど聴いて来たロジェストヴェンスキーと読響の演奏の中でも、今日のこの演奏は屈指の存在と言っていいのではないか。

 そして、われながら些か腰砕けの気もするが、今回のような立派なナマ演奏で聴いてみると、このシャルク改訂版━━いや編曲版に対する反感が、ほんの僅かではあるものの薄らぐことも認めなくてはなるまい。とにかくこれは、素晴らしく面白かった━━という演奏会だったのである。

 名誉指揮者ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーは、この5月4日に86歳の誕生日を迎えたばかり。第1楽章以外は椅子に腰掛けて指揮していたが、音楽づくりに関しては、まさに千両役者の趣だ。
 終演後、熱狂的な拍手に応えてソロ・カーテンコールに現われる瞬間、袖でちょっとよろめいて、壁で体を支えていたため(※)ステージ中央までは出て来なかったが、もしそういうことさえなければ、2,3回は呼び出されていたことだろう。
 今回は故スクロヴァチェフスキの代役としての来日だった。高齢だが、また来てくれるだろうか?

※違う見方もいただきました。コメントを御読み下さい。そちらの方が正解かも。

2017・5・18(木)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

     東京オペラシティ コンサートホール  7時

 主催は東京オペラシティ文化財団。ストラヴィンスキーの「葬送の歌」(日本初演)と、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」を組み合わせた、注目のプログラム。
 ホールは満席、心底から熱心な聴衆が集まっていたことは、演奏への集中力の雰囲気とカーテンコールの拍手とで推測できる。

 「葬送の歌」は、ストラヴィンスキーが恩師リムスキー=コルサコフ追悼のために書いた3管編成の大管弦楽のための作品で、初演後1世紀ものあいだ楽譜が行方不明になっていたが、一昨年春にサンクトペテルブルグ音楽院の図書館でパート譜が発見され、昨年12月にゲルギエフ指揮により初演されたという曰く付きのもの。
 「火の鳥」そっくりの冒頭部分などは、明らかに初期の彼の作風を示している。10分ちょっとの長さの作品だが、興味深い作品が聴けたものである。

 「第6交響曲《悲劇的》は、スケルツォを第2楽章に置いた版で演奏された。
 この超大編成の交響曲は、このオペラシティのコンサートホールには、些か度を越しているかもしれない。編成はスコア指定通りではあるものの、しばしば訪れる頂点では、アシスタント1人を加えたホルンは9本、同じくアシスタントを加えたトランペットは7本、それが他のすべての楽器群とともにいっせいに咆哮・怒号し、しかもある個所ではシンバルも4対に増やして轟くのだから、もう耳を聾する大音響となる。
 「濃密に過ぎる」と皮肉ったR・シュトラウスの言葉が今更のように思い出されるだろう。第4楽章など、どうみてもマーラーはやはり狂気の作曲家だ・・・・という印象まで生まれて来る。

 とまあ、今まで何十回となく聴いていたこの「悲劇的」が、これほど凶暴なものに聞こえたのは、二十数年前にシノーポリが指揮した演奏を聴いて以来(あれもフィルハーモニア管弦楽団だった!)のことだ。それはこのホールの音響の中で聴いた所為だけでなく、やはりサロネンのつくる音楽の強靭なエネルギー性と、オーケストラの巧さ、特に金管楽器群の強靭さによるところが多いだろう。

 といってもサロネンは、もちろんただ傍若無人にオケを鳴らしまくっていたわけではない。第1楽章では、他の多くの指揮者のように「アレグロ・エネルジーコ」のみを強調することなく、むしろ「マ・ノン・トロッポ」の指定を重視し、どっしりと構えたテンポで、この行進曲調の楽章を見事に制御して行った。
 また、第3楽章頂点のこの上なく美しい個所(練習番号59の部分)で、オーケストラに、詠嘆調になることなく、非常な緊迫感を保ったまま濃厚に歌わせて行ったあたりも、実に巧いものだという感がする。

 それにしてもまあ、先日の山田和樹指揮の「7番」の終楽章の「躁」に続いて、この「6番」の・・・・。すっかりマーラーの毒にあてられた感だが、そのくせ、お前はマーラーの交響曲の中で今どれが好きかと訊かれれば、第一に「7番」、次に「6番」と答えるだろう。

 「6番」が終ったあと、サロネンの左腕の動きに応え、ホールの中は物音ひとつせず、フライング拍手も起こらず、長く静寂が支配し、やおらあって轟然と拍手が巻き起こった。サロネンはオケが引き上げた後も、2回も単独でステージに呼び返されていた。

2017・5・17(水)ナタリー・シュトゥッツマンのシューベルト

    トッパンホール  7時

 ナタリー・シュトゥッツマンが、シューベルトの歌曲を歌う。今回のシリーズは、19日の「水車屋の美しい娘」(トッパンホールは、そういう標記を使用している)との2篇だ。
 今日は「第1夜 室内楽伴奏とともに」と題され、ピアノのインゲル・ゼーデルグレンの他に、ヴァイオリンの四方恭子と瀧村依里、ヴィオラの鈴木学、チェロの大友肇が協演者として名を連ねる。

 プログラムには、「シルヴィアに」「あこがれ」「セレナード」「ガニュメデス」「漁師の娘」「音楽に寄す」「愛の使い」「さすらい人」「死と乙女」「ミューズの子」(各作品番号省略)など、シューベルトの珠玉の歌曲18曲が含まれ、その間に「ピアノ三重奏曲第1番」の第3楽章と、「弦楽四重奏曲《ロザムンデ》」の第2楽章も演奏された。アンコールには「ます」と「野ばら」も、という具合だった。

 今回は、それらの歌曲に、イングヴァル・カルコフという人による「室内楽伴奏編曲」が使われるというのが話題だった。
 ただし、歌曲の全部が室内楽伴奏で歌われたわけではなく、原曲通りにピアノとの協演版で歌われたものもいくつかあった。室内楽編成版の中にも、ピアノと弦楽四重奏、あるいは弦楽四重奏のみとの協演で歌われたものもあった。

 とにかく、面白い試みであったことは事実である。ただしかし、━━シュトゥッツマンの柔らかい、やや翳りを帯びたコントラルトの声は、弦楽器の音が入ると、その音色にマスクされてしまい、19列上手側で聴いていた私には、少々聴き取りにくかったのは事実である。これは、かりにソプラノやバリトンが歌った場合でも、多分同じような結果を招いたのではないか? やはりシューベルトは、ピアノと一緒に響かせるように歌曲を作曲しているのであって、弦楽器と一緒に歌うようには作曲していないのである。

 それに、これらの編曲は、どうもあまり優れているとも思えなかった。今回の編曲で、ある程度個性的な響きを生み出していたのは、「さすらい人 D489」くらいなものではなかろうか? そこでは弦の音色が不気味に、ロマン派的な色彩を出していた。

 というわけで、非常に興味深いプログラムであり、この意欲的な企画自体には称賛を贈りたいものの、私は、シューベルトの歌曲は、やはりピアノとの協演のほうが好きだ。シューベルトの「声とピアノによる歌曲」は、やはりそれ自体が既に完璧なバランスを備えた、非の打ちどころない完成品なのである。

2017・5・16(火)マーティン・ブラビンズ指揮東京都交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 英国の指揮者マーティン・ブラビンズが客演指揮する今月の都響定期公演は、いずれも英国の作品によるプログラムで固めている。
 今日は、ジョージ・バターワースの「青柳の堤」、マイケル・ティペットの「ピアノ協奏曲」(日本初演、ソロはスティーヴン・オズボーン)、レイフ・ヴォーン・ウィリアムズの「ロンドン交響曲」。
 コンサートマスターは山本友重。

 実に格好いい選曲だ。メイン・プロに置いた「ロンドン交響曲」に対し、その作曲をヴォーン・ウィリアムズに勧めた当人バターワースの小品を冒頭に配して対と為し、その2曲の間に現代作曲家ティペットのピアノ協奏曲を挟む、という凝ったプログラミング。

 第1次大戦で戦死したバターワースの「青柳の堤」は、実に美しい。作曲者を知らずに聴いたら、ヴォーン・ウィリアムズの作品か?と思ってしまうかもしれない。等松春夫さんのプログラム解説によれば、バターワースはイングランド民謡のイディオムを作曲に活かすことに熱心だったとのことで、曲を聴くとなるほど確かに、と思わせる性格を持っている。こういう曲で「英国プログラム」の幕を揚げるところなど、なかなか洒落ているだろう。
 ただ、次のティペットのコンチェルトは━━オズボーンの魅力的な演奏ではあるものの━━申し訳ないことに私がこの作曲家を些か苦手としているので、聴かせてもらったことには感謝するけれど、気分的には甚だ荷が重かった。すみません。

 ヴォーン・ウィリアムズのほうは、彼の交響曲をどこかツィクルスでやってくれるオケはないものか、と以前このブログに書いたこともある。それを読んだあるオーケストラの事務局からは、「どれだけチケットが売れると思うんだ」と冷笑されたが━━今月のブラビンズ&都響には、「ロンドン交響曲」と「南極交響曲」の二つも入っているとは珍しい。

 今日の「第2交響曲《ロンドン交響曲》」の演奏は、「1920年版(改訂第2版━━通算4番目の稿といわれる)」を使用のこと。好きだと言っても私はこの楽譜については不勉強で、そこまで詳細にこの曲の版を聴き比べたことがないため、現行版(通算6番目の稿)とどのくらい差異があるのかは熟知していない。だがとにかく、彼の交響曲の中でも一風変わった、面白い曲であることは事実だ。

 特に第1楽章など、あの有名なビッグ・ベンの鐘のフシをはじめ、物売りの声、俗謡、民謡などが入り混じって街の騒音のような様相を呈し、かのマーラーの「第3交響曲」第1楽章の「ポリフォニー状態」(マーラーの表現による)を凌ぐ賑やかさを響かせる。まあ、もしこれを東京に喩えれば、さしずめ「東京音頭」に「銀座カンカン娘」に、築地の魚のせり声に「都の西北」に・・・・といった具合だろう。ただ、作曲者自身も言っているように、これが描写音楽ではないことだけは確かである。
 その他、叙情的な楽章も含め、いい演奏だった。
 21日の第7番「南極交響曲」が、都合で聴けないのが残念だ。

※たまたま今月は、藤岡幸夫と関西フィルが明日(17日)の定期で「5番」を取り上げている。こういう企画は、不思議にかち合うものである。

2017・5・15(月)サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団

       東京文化会館大ホール  7時

 フィルハーモニア管弦楽団と、その首席指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーのエサ=ペッカ・サロネンのコンビ。何かこのところ、2年ごとに来日しているようである。
 今回の来日では、14日から21日まで、東京・横浜の他に西宮、熊本、名古屋を含む計7公演。今日は2日目、都民劇場主催の演奏会。

 プログラムは、R・シュトラウスの「ドン・ファン」、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第3番」(ソロはチョ・ソンジン)及び「交響曲第7番」。アンコールでは、チョ・ソンジンはシューベルトの「ソナタ第13番」からの「アンダンテ」を弾き、オーケストラはシベリウスの「メリザンドの死」を演奏した。終演は9時半を回った。

 オーケストラの演奏のヴォルテージの高さたるや、凄まじい。「ドン・ファン」で表出されたのは、まさに闊達で傍若無人な主人公・・・・。曲の冒頭からして、唖然とさせられるような、疾風怒濤の勢いである。ただ、飛ばしているとはいえ、決して無頓着に突進しているのではない。演奏の細部に、かなり念入りで凝った設計を施しているのがサロネンの真骨頂だろう。

 「7番」にしても同様で、これもリズム的要素を重視したスピーディな演奏であり、スポーツ的な快感があふれる━━と書いてハタと気がついたのだが、サロネンの「7番」は、実はこれまでナマで2度聴いている。いずれも4年前、一つはフィルハーモニアとの来日公演で(あの時にもやっていたのだ!)と、もう一つは同年にエクサン・プロヴァンス音楽祭でパリ管を振ってのことだった。で、その際にも「スポーツ的な快感」と、同じようなことを書いていたところからすると、やはり今回と同様、「元気がいいのが取り柄」という程度の印象だったらしい。

 第1楽章の提示部の終りのパウゼと、第4楽章冒頭のパウゼを、いずれもスコアに書かれているより長く取っていることを面白く感じたことは、前回にも書いた(後者は、昔トスカニーニもやっていた)。
 ただし、第1楽章の再現部直前(【I】の4小節前から)で、あのリズムの中の8分音符と付点8分音符とを、サロネンが実にはっきりとスコアの指定通りに区別していることは、今回聴いていて初めて気がついた。その展開部のクライマックス(【H】から)で、トランペットとティンパニに猛烈なクレッシェンドを繰り返させていることも、彼の細かい設計の一例と言おうか━━まあこれは、必ずしも珍しい手法ではない。ただ、今日のは、並外れた強さだった。

 これに対し、真ん中に置かれた協奏曲では、サロネンは、整然とした構築で、落ち着いた風格の演奏をつくる。プログラム構成と関連させた、練達の手法だろう。第3楽章などは作品の性格に応じた堂々たるつくりで、若いピアニストを支えていた。
 チョ・ソンジンの演奏は、例のごとくまっすぐで、ひたすらベートーヴェンの英雄的な精神に近づこうとするかのような、真摯なアプローチである。その若々しい、しかも求道的な演奏を、少しも堅苦しくならず、瑞々しさを以って聴かせるところが、この東洋の若者の、ただものではない才能の所以だろう。彼がアンコールで弾いたシューベルトも、実に瑞々しい。

 そしてサロネンとフィルハーモニア管がアンコールとして演奏したシベリウスの「メリザンドの死」も、これまた深々とした美しさで素晴らしかった。いや、今夜の演奏の中では、少なくとも私には、最もうっとりさせられるものだった(これまでの来日公演のような、毎度決まりきった「悲しきワルツ」でなかったのは有難い)。

2017・5・14(日)山田和樹指揮日本フィル マーラー・ツィクルス第7回

      Bunkamuraオーチャードホール  3時

 山田和樹と日本フィルハーモニー交響楽団がやっている「マーラー・ツィクルス」も着々と進み、ついに第3期の「昇華」という段階に入った。
 今回は、第7交響曲「夜の歌」である。組み合わせている武満徹の作品は、今日は「夢の時」だ。

 このシリーズ、最初の頃は緊張が過ぎて━━ということもあったのだろうが、気負いが先行してしまい、あまりまとまりの無い演奏になったこともあった。
 だが今日の「7番」では、オーケストラの状態が、これまでの中でおそらくいちばん良かったのではないか、という気がする。

 これは、山田和樹と日本フィルの呼吸がいっそう合って来たこと、日本フィルの演奏水準がより上がって来たこと、このオーチャードホールの音響的な特徴━━「音の癖」に、日本フィルが慣れて来たこと、などの要素も関係しているだろう。
 特に今日は、江口有香を久しぶりにコンサートマスターに迎えた弦楽器群の音色がことのほか美しく、ふくよかな拡がりと厚みにあふれて演奏をリードしていたことに加え、トランペットやホルン、テノールホルンをはじめとする金管のソロ、木管やティンパニのソロなどがどれも快調そのもので、胸のすくような、鮮やかな演奏を繰り広げていたのである。

 山田和樹は、今日のプレトークで「この曲を《夜の歌》と呼ぶことには疑問がある」と話していた。したがって最初の4つの楽章も、どちらかといえば屈託ない表情の演奏になっていた。もっとも、彼のマーラーには、もともと全体にそうした楽観的な色合いがあるようで、前回の第6番「悲劇的」などでも、悲劇性とかいうよりも、強靭なエネルギー性を重視した演奏になっていたように思う。
 今回も、前半4つの楽章が持つ「夜の怪奇な雰囲気」は薄められ、むしろスケルツァンドな、夕べのセレナードといったような感の演奏になっていた。

 そういう解釈には、個人的には異論がないわけでもないが、彼の(少なくとも現在の)マーラー観がそうなのであれば、それはそれで尊重すべきであろう。それに、その観点の方が、前半の4つの楽章と、最後の「躁状態」ともいうべき第5楽章とが、しばしば問題になっているような大きなギャップを感じさせずに結びつく、という長所(?)も出て来るというわけだ。

 それにしてもこの日の第5楽章は、まさにその「マーラーの躁状態」の極みを出した演奏ではなかったか。山田和樹は、ひたすら猛速テンポで押しに推し、狂乱の坩堝のまま最後まで押し切った。この休みない怒号狂乱には、本当にマーラーという人はおかしな作曲家だ、と、途中で苦笑し、頭がぐらぐらして辟易してしまう。だが、その勢いで最後まで乗り切った山田和樹と、それに臆することなくついて行った日本フィルのエネルギーには、ただもう感嘆するほかはない。

 しかも、そこでのオーケストラのアンサンブルは、以前のような乱れを生じさせなかった。ホールの響きがいいために、音に明晰さが失われることは多々あったけれども、それは決して混濁した音にはなっていなかったのである。
 私は、基本的には、ホールの響きに応じた音づくりがあってもいいとは思う。だが、それは指揮者のコンセプトによるし、こちら側の聴く席の位置にも音の響き方が違うから、一概にどうこう言うわけには行くまい。ともかくいずれにしても、いい演奏であったことは疑いのない事実なのである。

 プログラム前半の、武満徹の「夢の時」(1981年)は、大編成の管弦楽による、かなり強い響きを持つ作品だ。
 この場合の「夢」は、決して「甘い静かな夢」ではなく、むしろ劇的な変化に富んだ、「明るさ」と「翳り」が交錯する世界ともいえる。今日はアクセントの強い、部分的に激しさをも含む演奏だった。

 私たちの世代、あるいは、もう少し年上の世代の指揮者たちによる武満の作品は、むしろレガートで抒情的な、静謐な表現が採られることが多かったのだが、山田和樹のような若い世代の指揮者は、外国人指揮者が演奏するような、メリハリの強いタケミツのイメージを考えるのかもしれない。このシリーズで彼が指揮したタケミツは、概してそういう特徴があった。面白いものである。
          →別稿 モーストリークラシック8月号

2017・5・13(土)児玉宏指揮神奈川フィル ブルックナー8番初稿版

      横浜みなとみらいホール  2時

 児玉宏と神奈川フィルは、何年か前にブルックナーの「4番」を演奏したことがあるはずだが、私は聴けなかった。したがって今回初めてこのコンビの演奏を聴いたわけだが、指揮者との相性も良いのだろう、今日の神奈川フィル(コンサートマスター石田泰尚)は、実に見事な演奏を聴かせてくれた。ブルックナーの「交響曲第8番」の、1887年初稿版(ノーヴァク版第1稿)の演奏である。

 第1楽章では未だ少し硬さを感じさせたものの、楽章を追うごとにその演奏は密度を高めて行った。特に第4楽章では、豊麗な音色で沸き立つ弦楽器群を中心に、全管弦楽が総力を挙げ、瑞々しくしなやかで、風格に富んだ音楽をつくり出した。
 それは剛直さとか、重厚壮大といった特徴とは全く違う、むしろ柔らかい、人間的な息づかいを感じさせるスタイルの演奏なのだが、その特徴がブルックナーの未だ整理されていない素朴な楽想の構築と、不思議なほど合っていたような印象を受けたのである。

 いずれにせよこれは、神奈川フィルが持つ多様な特質の一つが浮き彫りにされた好演と讃えられてよかろう。
 かりにこの本番がもう1日あれば、次の演奏では、第1楽章にはもう少し柔軟さが甦り、第2楽章のスケルツォ部分にももっと緻密さが生まれるだろう。今日はホルンやトランペットに若干の不安定さも聞かれたが、それらも解決されるだろう。たった1回ではもったいない演奏だった。

 児玉宏の指揮は、ある種の自由さを備えているけれども、確信に満ちて力強い。
 彼は、この「第1稿」がもつ一種の「乱雑さ」━━と言って悪ければ「未整理の構築」の全てを魅力的なものと見做す、という観点から演奏をつくり上げる。
 こういう指揮者の手にかかると、第1楽章最後に付与された第1主題の最強奏による終結も、ブルックナーが常套手段としていた第1楽章終結のスタイル━━「8番」の改訂版を除く彼のすべての交響曲の第1楽章は、必ず第1主題の強奏で終る━━の顕れなのだ、ということが納得できるのである。

 そしてまた、第2楽章のトリオや第3楽章後半での、現行版とは別もののような楽想も、抵抗感なく、自然に面白く聴き取れる。
 しかも、この初稿版の第3楽章の第225小節~234小節の個所や、第4楽章の【O】(223小節~242小節)の個所を聴けば、それらがどんなに魅力的なものであり、ハース版でそれが復活されている(ノーヴァク版には無い)ことが、如何に素晴らしいアイディアだったか、ということまで感じてしまうだろう。

 児玉宏という人は、大阪響の音楽監督・首席指揮者時代(2008~2016)の活動が、ブルックナー・ツィクルスなどにより文化庁芸術祭大賞、大阪市民表彰、芸術選奨文部科学大臣賞を受賞するほど高く評価されている。そのわりに、首都圏では意外なほど「知る人ぞ知る」的な存在に止まっているのが残念である。
 いっそ神奈川フィルの首席客演指揮者にでもなってブルックナー・ツィクルスでもやってもらったらどうかという気もする。そして、東京のオーケストラも、もっと彼を積極的に招聘し、ワーグナーの編曲ものや、彼が標榜する「手づくりの」ドイツ・オペラ指揮をやってもらう機会をつくるべきではなかろうか。
     →別稿 音楽の友7月号 Concert Reviews

2017・5・12(金)小澤征爾、アルゲリッチ&水戸室内管弦楽団

     水戸芸術館コンサートホールATM  7時

 水戸室内管弦楽団第99回定期演奏会。弦楽器だけの演奏でグリーグの組曲「ホルベアの時代より」、次に管楽器だけの演奏でグノーの「小交響曲」。
 休憩後に小澤征爾の指揮とマルタ・アルゲリッチのソロでベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第1番」。アンコールはアルゲリッチのソロでシューマンの「献呈」。

 「ホルベアの時代より」は、豊嶋泰嗣がリーダーを務めた。おなじみの腕利きの奏者たちが揃った編成で、非常に芯の強い、毛一本の隙も無く固められた演奏が繰り広げられる。実に鮮やかで、上手い。1960年代に桐朋学園オーケストラが久山恵子の指揮でレコードを出し、その鉄壁のごときアンサンブルでみんなを驚かせたり、反発させたりしたことがあったが、今日のこの演奏も、結局あの流れを引き継いでいるのだな、という感を与える。

 管楽器によるグノーの「小交響曲」も同様で、フルートの工藤重典、オーボエのアーメル・デスコット、ホルンのジュリア・ハイラントなど、名手たちがずらり並んで繰り出す音は、舌を巻くほどに達者なのである。
 前半の2曲は、このように、技術的には完璧な演奏に終始した。

 さて、みんなが待ちかねていた小澤征爾が登場して指揮するのは、今日も1曲のみだ。マルタ・アルゲリッチをソリストに迎えた、ベートーヴェンの「1番」である。
 コンチェルト1曲だけ?・・・・と最初は思っても、いざ聴いてみると、それには千鈞の重みがあり、この日のコンサートのすべてといってもいいほどの存在感があったことはいうまでもない。
 結局この曲とこの演奏が、その前の2曲とその演奏を、完全に前座的な存在へ追いやってしまった。

 小澤征爾はいつものように座って指揮するが、音楽の力感が高まる個所━━ここぞという昂揚の瞬間になると、立ち上がってオーケストラを制御する。
 その立ち上がる時が、今日は非常に多かった。叙情的な第2楽章(ラルゴ)においてさえしばしばある。凄まじい熱気があふれていたこの「1番」の演奏であれば、それはごく自然なものに感じられたのだ。

 アルゲリッチのソロも、切り込むように鋭く激しい。一昨年の広響との協演の際とは別人のような、壮烈な気魄に富んだ演奏である。第1楽章の再現部に突入する直前のフォルティシモの下行フレーズなど、こちらがその前の最弱音の個所から如何に予想していようと、ぎくりとさせられてしまうくらい、衝撃的な激しさであった。一つのフレーズが嵐のように過ぎ去ろうとするのを待たずして、次のフレーズが嵐のような勢いで追いすがって来る、といった、息つく暇もないほど激しく畳み込まれる演奏なのである。

 瞑想的なはずの第2楽章にさえ緊迫感が漲っており、第3楽章と来たらもう、スコアの「アレグロ・スケルツァンド」などというレベルでなく、「モルト・アレグロ・アパッショナート」とでも言った方がいいほど、疾風怒濤である。小澤とオーケストラ(コンサートマスターは渡辺實和子)もこれに呼応して、まさに火の出るような演奏になった。
 それらが決して、形だけの上滑りするものにならず、もちろん機能的にもならず、あくまで若きベートーヴェンの気魄と結びついて感じられたところに、この演奏の見事さがあったろう。これほど劇的な「1番」は、滅多に聴けないものである。

 総立ちとなっていた聴衆に応え、アンコールとして、アルゲリッチがシューマンの「献呈」を弾いた。小澤も、すぐ傍に座って聴いていた。この演奏の温かい、緻密でありながら伸びやかな、しかも一種の艶に富んだ素晴らしさたるや、筆舌に尽くし難いものがあった。
   別稿 産経新聞、モーストリークラシック8月号 公演Reviews

2017・5・11(木)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 ワーグナーの「タンホイザー」序曲と「ヴェーゼンドンク歌曲集」(ソプラノ・ソロはカトリン・ゲーリング)、ブルックナーの「交響曲第3番」。コンサートマスターは崔文洙。

 所謂「上岡ぶし」が久しぶりに炸裂した感がある。新日本フィルも久しぶりに上岡の呼吸に応えたということだろう。やはりこのコンビにとっては、ドイツ・ロマン派の作品が、最良の結果を生むレパートリーなのかもしれない。

 「タンホイザー」序曲冒頭の「巡礼の合唱」からして、クラリネットとバス―ンとホルンが、かなりユニークなバランスで響き始める。それは和声の構築を重視したもので、ふだん私たちが聴いている主題の旋律線にこだわらず、内声部分も同じ比重で浮き彫りにされる、というバランスなのである。

 ブルックナーの交響曲でも同様だ。しかも、金管群の音量は、咆哮とは程遠い大きさに抑制され、木管群と区別がつかぬほどのバランスで響き続けることが多い。ここで金管が轟々と高鳴ると思っていると、それは弦の渦巻の中に溶け込んだままで響く、ということになる。音色が極度にくぐもったものになるのも当然だろう。
 そうした手法が各所に散りばめられているので、聴き慣れた作品が予想外の姿になって立ち現れるという面白さはあるだろう。

 私自身は、こういう手法に根っから共感するという嗜好ではないけれども、しかし上岡敏之のそうした「芸風」━━このスタイルを創れる人は、日本人指揮者の中ではおそらく彼一人だろう━━は貴重なのであり、新日本フィルが彼をシェフに選んだからには、徹底的にそれを追求し完成させてもらいたい、という気持は充分にある。

 ただ、これはあくまで私だけの感じ方としていうのだが、「タンホイザー」の序曲など、彼の演奏を聴いていると、そこに本来描写されているはずの標題的な内容が、あまり浮かんでこないのだ。
 つまり、巡礼の歌声が遠ざかり、夜のとばりが降りると、そこにヴェヌスの官能の光景が繰り広げられる、その官能の嵐が夜明けの風の中に薄らいで行くと、再び清い歌声が蘇って来る、そしてついに太陽が壮麗に昇って来て、すべてが云々・・・・といったようなストーリー性が、この演奏を聴いているとさっぱり想像できない。それよりも音色や響きのユニークな構築にばかり気を取られてしまう、という結果になってしまうのである。
 まあ、これは、こちらの聴き方が悪いのだろうが・・・・。演奏設計の巧みさには舌を巻くけれど、それはこの序曲が普通は与えてくれる感覚的な興奮とは、少し別なところにあるような気がするのである。

 「ヴェーゼンドンク歌曲集」のオーケストラのユニークな音色にも、仰天した。聴き慣れている後期ロマン派的な陰翳が薄められ、精緻な、室内楽的な響きの極度に強いものになっていたのである。通常の管弦楽編曲版(ワーグナー/モットル)とは別もののような感があり、一瞬、これはあのハンス・ヴェルナー=ヘンツェの編曲版かと錯覚しかけたが、明らかに違うことがすぐ判ったし、だいいちハープが無いし、と・・・・。
 といって、この曲の夢幻的な性格は、些かも失われていない。このオーケストレーションからこれだけ異色の様相を引き出す上岡の感覚は、やはり卓越したものがある。

 そして、ソロを歌ったドイツのソプラノ、カトリン・ゲーリング━━この人、以前どこかで聴いたことがあるような気がするのだが、思い出せない━━の清純な声と歌唱には、後期ロマン派的な重い耽美的な管弦楽の音よりも、今日のような音色の音の方が、似合っていただろう。

 ブルックナーの「3番」は、前述のように、非常に異色の、上岡色の強い演奏となっていた。こういう演奏だと、カタルシスはあまり得られないだろう。
 しかし第4楽章のコーダで、金管が柔らかく高鳴り(?)、弦や木管と一体化した響きを保ちつつも、その中で金管群の和声の動きが明確に聞こえ、特にトロンボーンの3連音(第466小節)や、作曲者がひときわ強調しているホルンのアクセント付の3連音(第482小節)などがはっきりと聞こえるというオケの鳴らし方の巧さには感心した。こういうところは上岡、並みではない。

 アンコールがあり、バッハの有名な「アリア」が快速テンポで演奏された。だが、ブルックナーの交響曲のあとで、こういうアンコールは果たして必要か?

 昨日もこの同じホールで、高関健と東京シティ・フィルが、同じブルックナーの「3番」を演奏し、それは実に見事な演奏だった━━と、2日続けて「3番」を聴いた人が口々に絶賛していた。私自身は昨日、東京文化会館の会議室で、日本フィル主催の「ラインの黄金」入門講座を午後と夜の2回、喋っていた(それぞれ定員いっぱいの50人ずつ、熱心な人たちが集まって聴いて下さった)ので、このホールには来られなかったのだが━━。

2017・5・7(日)METライブビューイング 「イドメネオ」

     東劇  6時35分

 モーツァルトの「イドメネオ」。3月25日の上演ライヴ映像。

 案内役のエリック・オーウェンズも語っていたが、これはMETで1982年秋にプレミエされたジャン=ピエール・ポネル演出・装置・衣装による舞台である。その時(11月6日収録)の上演ライヴは、当時すぐにレーザーディスクで発売され、私も飛びついて買ったものだった。
 それはジェイムズ・レヴァインの指揮で、題名役をルチアーノ・パヴァロッティ、その他フレデリカ・フォン・シュターデ、ヒルデガルト・ベーレンス、イレアナ・コトルバシュら、往年の名歌手たちがずらりと顔をそろえた壮観な歌手陣だった。

 一方、今回の上演では、歌手陣は、マシュー・ポレンザーニ(イドメネオ王)、アリス・クート(イダマンテ)、ネイディーン・シェラ(イリア)、エルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(エレットラ)、その他となっている。
 昔はドン・オッターヴィオをおとなしく歌っていた程度のポレンザーニが今や風格とスケール感を増し、このイドメネオを堂々と歌い演じるようになったのは祝着である。
 アリス・クートはどうも何かメイクが変で、気になるが、デン・ヒーヴァーはかつてのベーレンスにも劣らぬエレットラぶりである。また、案内役オーウェンズも、最後に「海神ネプチューンの声」で歌っていたようである。

 「ようである」と書いたのは、所用のため、残念ながら第2幕までしか観られなかったからだ。だが、この舞台を35年前のレーザーディスク盤と比較してみると、少なくとも第2幕までは、例えばエレットラが行進曲に気がつくタイミングなども含め、驚くほど同じにつくられていることがわかる。
 大きく異なるのは、例えばレヴァインのテンポが、昔より遅くなったことか。もともとレヴァインのテンポは以前からおしなべて遅めだったが、この「イドメネオ」は、35年前には随分軽く、引き締まったテンポで演奏していたのだった。

 それにしてもこのオペラでは・・・・24歳のモーツァルトが書いた音楽の、何というドラマティックなことか。第2幕の最後、怒れる海神が猛威の嵐を振るう場面での音楽の不気味さ(弦の揺れる下行音)など、当時こんなにスリリングな手法を使うことができた彼の天才ぶりには、ただ驚くほかはない。

 タイム・スケジュール表を見ると、終映は11時とのことだった。さすがにこの調子だと、夜の部よりも、昼の部の上映に来るお客さんの方が多いと見える。
 昼の部は6時25分に終り、大勢のお客さんがみんな明るい顔で、賑やかにどっと出て来た。一方、場内掃除(電光石火なること新幹線の如し)を待っている夜の部の「少数の」お客さんは、どういうわけかみんなムスッとした顔をしている。私も多分そうだったのだろうが・・・・。

2017・5・6(土)ヴェルディ:「アイーダ」

     オリンパスホール八王子  3時

 八王子市が市制100周年を記念して主催上演した「アイーダ」。
 川瀬賢太郎が指揮する東京交響楽団の演奏(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)、岩田達宗の演出。
 出演は、アイーダを小林厚子、ラダメスを村上敏明、アムネリスを福原寿美枝、アモナズロを森口賢二、ランフィスを大塚博章、エジプト国王を泉良平、使者を澤崎一了、巫女の長を山口佳子。八王子祝祭合唱団、児童合唱団「こんぺいとうの空」、バレエシャンブルウェスト。

 オーケストラを舞台上に載せた、所謂「セミ・ステージ形式上演」ではあったものの、衣装(緒方規矩子、半田悦子)に持道具、照明演出(大島祐夫)、背景映像の演出(増田寿子)などもちゃんと整えられ、しかもバレエ(今村博明・川口ゆり子振付)もあるという、いたれりつくせりの上演である。衣装には「八王子織物」も使われている由。

 そういえば、岩田達宗は以前(2015年1月18日)、札幌のKitaraで、北海道二期会の「アイーダ」をセミ・ステージ形式で見事につくり上げたことがある。今回もそのスタイルで展開されたわけだが、しかし登場人物の描き方は、今回の方が格段に解り易く明晰になっていた。
 オケの前方(舞台手前)のエプロンステージと、オケの後方に高く設置された舞台(緞帳付き)とを対比させる形で登場人物を動かす。バレエの一部は客席にも拡がる。エジプト軍の大行進まではもちろん無いが、舞台奥で群衆(合唱団)が手を振ってそれを暗示する。アイーダ・トランペット群もバルコン客席の両側に出て来るという、なかなか大がかりなものだ。

 演出は、岩田達宗らしく凝っている。
 高僧ランフィスを無情な支配者として捉えず、尋問の場面でも何とかラダメスを救おうと手を尽くす人物に仕立てたのも面白い(その演技はちょっとオーバーだったが)。
 第2幕の大アンサンブルの個所では、メロディ・ラインで主導権を持つアイーダを舞台前面に立たせ、音楽の隈取りをはっきりさせたのも、音楽の構造を考えた読みの深い手法だ。もちろんそこには、後方舞台上の「エジプト」から疎外されている存在という意味も含まれているだろう。エチオピア王アモナズロも前方に居り、またラダメスも当然、二つの場を行ったり来たりする。

 ラストシーンでアイーダとラダメスを後方舞台に置いたのはともかく、「彼らの墓の上でその冥福を祈る」はずのアムネリスをエプロンに出て来させた時には違和感を抱いたが、しかしすぐ、演出者岩田がプログラムのエッセイの中で、アムネリスが歌う最後の歌詞「Pace t’imploro,pace,pace,pace!(とこしえに平安あれ)」の中に含まれる「平和」という意味に着目し、平和の祈りを八王子から世界に発信したい━━と書いていたのを思い出して、なるほどと思った。
 事実、最後に背景舞台が暗黒になり、ただ独り指揮者の前方中央に立った彼女が「Pace!」と歌い結び、字幕(岩田自身)がそれに合わせて最後に「平和を」と変わって行ったのは、すこぶる印象的ではあった。ドラマのストーリーからして、アムネリスが「平和を」と言える立場なのかどうかには、疑問の余地もないでもないが、それはまあ措くとしよう。

 川瀬が東京響を率いて、なかなか丁寧な指揮をした。彼の指揮の個性からして豪壮華麗なグランドオペラというイメージではないけれども、繊細な美しさがあり、第1幕前奏曲など、なんと声部の交錯をきれいに描き出すのだろうと舌を巻いたものである。
 ただ、第1幕ではそれがあまりにも几帳面な音楽づくりになり、劇的な表情の変化に不足し、音楽がちっとも情熱的にならないので、もどかしさも感じさせたのである。例えば「清きアイーダ」で、ラダメスの感情が次第に昂揚して行くあたり━━村上敏明は見事にその表情を出していた━━では、それがオーケストラのテンポや表情の中にも反映されなければならないだろう。
 幸い、第2幕からは雰囲気が変わり、演奏に伸び伸びとしたものが加わったので、その後はかなりドラマティックな面白さも生れて行った。

 そして今回は、大多数の歌手陣がすこぶる充実していた。
 村上敏明は充分と言っていいほどのラダメス将軍だった。福原寿美枝は「怖い役」を演ったら日本でこの人の右に出る人はいないと思うし、期待通り「怒れる王女アムネリス」として素晴らしい力の入った(入り過ぎた?)歌唱を披露した。
 小林厚子は、たいへん豊かな声の持主だから、胸のすくような絶唱を聴かせてくれるが、さらに弱音がうまく行けば文句ないところだろう。
 森口賢二も第3幕の聴かせどころでは激情的なアモナズロを歌い、大塚博章も「面倒見の良い」ランフィスを巧く歌ってくれた。

 この日のために練習を積んだ合唱団も健闘した。尋問の場面における審問官役の少数の男声合唱は、やはりもう少し凄味と力が欲しいところだったが、それでもよくやった方だろう。

 チケットは完売とか。客がよく入っていた。1幕ごとに休憩を入れたので、終演は7時になった。
 この八王子オリンパスホールは、JR八王子駅南口に直結していて、非常に便利である。椅子の大きさに余裕があり、楽なのも有難い。

2017・4・29(土)飯守泰次郎指揮関西フィル「ミサ・ソレムニス」

     ザ・シンフォニーホール  2時

 「テトラ大津」はチェックアウト・タイムが正午なので、ゆっくり休めて有難い。だが、大津から直接大阪まで40分ほどで行けるJRの「新快速」に乗ったら、さすが連休初日、身動きも出来ぬほどの大混雑で些か閉口した。
 とにかく12時半頃には福島駅に着く。大阪のオーケストラ公演では、シンフォニーホールでもフェスティバルホールでも、開演の1時間前には開場してくれるので、ホールの中でゆっくりできる。これも有難い。

 これは関西フィルハーモニー管弦楽団の4月定期。桂冠名誉指揮者・飯守泰次郎が指揮して、ベートーヴェンの大曲「ミサ・ソレムニス」を取り上げた。
 協演は、澤畑恵美、池田香織、畑儀文、片桐直樹、関西フィルハーモニー合唱団。コンサートマスターは岩谷祐之。

 演奏がはじまった瞬間から、なにか不思議な温かさがあふれ出て来るよう。いかにも飯守泰次郎らしいヒューマンな情感に満ちた音楽が、関西フィルから絶えることなく引き出されて来る。こういう演奏はいい。所謂「心より出でて心に入る」というタイプの音楽だろう。
 正直言って、関西フィルのアンサンブルを含めた細部の仕上げについては、残念ながら不満もないわけではないが、━━しかし、たとえそういう不完全さがあったとしても、このような温かい情感が演奏に備わっている場合には、単に機能的で上手いだけの演奏よりも、私はこちらの方を採る。

 それよりも問題は合唱団か。今日の合唱は総じて音量が小さく、しかも歌唱に力強さと量感がどうも不足していて、この作品がもつ宇宙的な巨大さ、強靭な意志と祈りとの葛藤、その祈りの中に湧き立つ激しい感情のうねり━━といったものを表現するには、なんか頼りなかった。
 飯守と関西フィルの演奏が今日はやや抑制されていたようにも感じられたのだが、もしオーケストラがもしベートーヴェンらしく轟いたとしたら、合唱はオケの彼方に霞んでしまったかもしれない。とにかく合唱団には、もう少し頑張ってほしいところである。
 結局、この数日の間に聴いた関西の3つの合唱団の演奏の中では、やはり大阪フィルハーモニー合唱団のそれが抜きん出ていたような気がする。

 その一方で、ソロ歌手陣は見事な出来だった。特に女声2人は驚異的な素晴らしさで、澤畑恵美の優しさとふくよかさにあふれたソプラノと、池田香織の張りのある緊張感豊かなメゾ・ソプラノとは、合唱団の数倍も強い存在感を示し、輝かしく映えていた。指揮者を別とすれば、今日はこの2人で決まり━━と言っていいくらいだ。「アニュス・デイ」での池田のソロなど、圧巻だった。

 4時20分終演。プログラムはこの1曲だけだったが、作品の重量感からすれば、これだけで充分である。

2017・4・28(金)沼尻竜典指揮日本センチュリー響「カルミナ・ブラーナ」

       滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  7時

 快晴温暖な春の日の夕方、琵琶湖畔のなんと美しく快いこと。6時過ぎ、太陽が西の山に消えて行ったばかりで、長い、明るい、華やかな夕焼けが拡がっている。このままずっと、穏やかな琵琶湖を眺めながら時を過ごしたい気もしたが、仕事となればそうも行かず。

 今年の「ラ・フォル・ジュルネびわ湖2017」は、4月29日と30日の開催で、びわ湖ホールの3つのホールとメインロビーを使って、東京のそれと同じように多彩な内容の演奏会が行われる。
 この音楽祭では、本拠地のナントはもちろん、世界各国どの会場にも一つ一つ特別な名前を付すのが特徴だが、今回も、たとえば大ホールは「ニジンスキー」、ロビーは「ベジャール」という具合だ。

 そして、ここならではのユニークな企画は、びわ湖周遊の遊覧船「ミシガン」船上で、80分あるいは60分コースのクルーズとして、金管アンサンブルや「3/4大テノール」のコンサートが行われる、という趣向だろう。ちなみにこの「3/4大テノール」とは、本来は4人からなる「びわ湖ホール・4大テノール」のうち、1人が海外留学中で留守なので、「4分の3」なのだとか。

 今日の演奏会は、その「ラ・フォル・ジュルネ」の「前夜祭」としての開催である。
 びわ湖ホール芸術監督・沼尻竜典が日本センチュリー交響楽団を指揮しての出演。彼はちょうど紫綬褒章を受けたばかりだ。いいお祝いの演奏会になったわけだが、ただし開演前のステージでホール館長がその件につき紹介し、祝いの言葉を述べたほかには、特に何もセレモニーは行われなかった。

 プログラムは、J・シュトラウスの「春の声」と、ここでもまたオルフの「カルミナ・ブラーナ」である。
 前者では石橋栄美が協演し、後者では石橋栄美、藤木大地、大沼徹、びわ湖ホール声楽アンサンブル、ラ・フォル・ジュルネびわ湖「カルミナ・ブラーナ」合唱団、および大津児童合唱団が協演した。コンサートマスターは松浦奈々。

 藤木大地は、先日の大阪フィル定期での「カルミナ・ブラーナ」に続いての登場。今日も見事なファルセットと、歌詞に応じた切なそうな演技を入れての快演である。だが今日は字幕が無く、しかもこの「バーベキューにされている哀れな白鳥の嘆き」という内容についてはプログラムの解説でも全く触れられていないので、初めてこの曲を聞きに来た人たちには、彼の情けなさそうな歌い方と身振りの意味が理解できなかったのでは、と気になる。

 大沼徹も、歌唱の上での演技力も堂に入ったもので、シリアスな内容の個所から酩酊の表現の個所までを実に巧く歌ってくれて、こちらでは聴衆の笑い声も起きた。といっても、大阪での与那城敬のような、隣で意気消沈している「白鳥」のテノールを「大丈夫か?」と覗き込むほどの大芝居はしていない。
 石橋栄美はもちろん「おとなの風格」にあふれた好演だが、このソプラノの歌詞は、演技に移すと少し危ない内容だから、先日の森麻季と同様、落ち着いた挙止で華麗に歌っていたのは言わずもがな。

 メインの大合唱団は、核となるびわ湖ホールの声楽アンサンブルを除く大多数は臨時編成のようだが、健闘して熱演を聞かせていた。ただ、急速テンポの個所を歌う男声合唱は、どうしても苦しいようである。
 日本センチュリー響の演奏については、そもそもこの曲の場合にはオーケストラの聴かせどころはほとんどないといっていいので、実力のほどを窺うというところまでは行かない。

 沼尻竜典の指揮する「カルミナ・ブラーナ」は、先日の大植英次のピリピリした感のあるそれとは違い、テンポの切り替えもなだらかで、従って演奏の流れに解放感もあって、気分的にも安心して聴ける。第2部後半での押しに押すテンポは、オペラのように劇的な盛り上がりをつくり出し、迫力を感じさせていた。また、全曲最後の「だめ押し」の盛り上げもすこぶる強靱な構築になっていて、最近の沼尻の巧みな音楽上の演出を感じさせてくれた。

 このびわ湖ホールで、オペラでなく「演奏会」を聴いたのはたしかこれで2回目だが、オペラ上演の時と同じように音響がいいのには感心する。
 終演は8時20分頃。「ラ・フォル・ジュルネ」だから、プログラムは短い。
 大津駅直結のホテル「テトラ大津」に一泊。

2017・4・25(火)大植英次指揮大阪フィル 「カルミナ・ブラーナ」他

       ザ・フェスティバルホール  7時

 広島からは24日朝に帰京していたのだが、今日また大阪へ。
 これは大阪フィルハーモニー交響楽団の4月定期初日。桂冠指揮者の大植英次が指揮したのは、ベートーヴェンの「第7交響曲」と、オルフの「カルミナ・ブラーナ」である。リズムをテーマにしたプログラミングといえようか。
 後者での協演は森麻季、与那城敬、藤木大地、大阪フィルハーモニー合唱団、大阪すみよし少年少女合唱団。コンサートマスターは田野倉雅秋。

 大植英次が、朝比奈隆のあとをうけて大阪フィルの音楽監督に迎えられたのは、2003年のことだった。あの時は私も、NHKーTVの「芸術劇場」で黒崎めぐみさんと対談しながら、老練の「創業者社長」のあとに清新な若手指揮者を起用してイメージを一新した大阪フィルの英断を讃え、ミネソタ管弦楽団音楽監督として優れた成果を上げていた大植英次の活躍に満腔の期待を捧げたものである。
 それから早や14年が経つ。今の大植英次は、再びかつてのようなエネルギッシュな勢いを取り戻しているようである。

 ベートーヴェンの「7番」では、大植は、殊更な誇張や演出を一切排し、速めのテンポで押しに押した。両端楽章での提示部リピートは行わず、第3楽章でもスコア指定の最小限の反復を行なうのみなので、演奏時間も32~33分というところだったろうか。第4楽章は煽りに煽ったテンポで盛り上げられた。

 三度目あたりのカーテンコールの際に、オーケストラが大植の合図にもかかわらず起立せず、拍手を享ける権利を指揮者に譲ったようにも見えたのだが、この時にコンサートマスター以下、ステージ前方の奏者たちがかんじんの指揮者を称えるような動作をせず、拍手も行なわず(後方の金管あたりの奏者たちは拍手をしていたが)、まるで「お前だけで答礼しろ、立つのは嫌だ」と拒否しているように見えたのは、何とも異様な感であった。ちぐはぐな光景に、客席もちょっとざわめいた。ステージでの挙止は、もっとスマートでありたいものだ。

 「カルミナ・ブラーナ」では、大植は「7番」の時とは打って変わって、テンポを緩急に激しく動かし、デュナミークの対比も極度に強調して、起伏の大きな構築を行なった。
 終演後に楽屋を訪れた私の顔を見るなり彼は、「ね、今日はスコアの指定通りのテンポでやったよ。ここまでは120、ここから130、って・・・・。そのテンポを変えるのをみんなはたいてい、いい加減にやるだろ。今日のがオルフの書いたテンポなんだから」と、例のごとく熱中的な早口で語り続けていた。

 それは確かに認めるし、事実、演奏は大変スリリングなものだった。ただしお言葉を返すようだが、多くの場合、そのテンポの変動は、今日のように「この小節から」突然変わるのでなく、もう少しアッチェルランド気味に、なだらかに行なわれるのではないか? スコア通りに突然テンポを変えると、この曲はかなり尖った、ヒステリックな異常さを露呈することになる。それはそれで面白い様相を感じさせることは事実だが、聴いていると些か疲れるのも事実だ。
 特に第1部では、大植はいくつかの転換の部分で大きな間を採り、緩徐部分では非常に遅いテンポを採っていたが、これが作品全体の滔々たる流れを堰き止めた印象を生んでしまうので、私としては少々共感しかねるところがあった。

 だが一方、「酒場にて」の場面では、大植は疾風怒濤の荒々しさでこの酒乱の光景を描き出し、「白鳥の嘆き」の個所も適切なテンポでコミカルな光景をつくり出していた。
 この個所に限らず彼は、オーケストラの音色にも気を配っている。特に第1部の「太陽は万物を整え治める」でのヴィオラの音色とそのアタックなど、実に巧い響かせ方だなと感心させられたものである。

 大阪フィルは、さすがに老舗の貫録、弦16型編成の重量感あふれる響きで、広大なフェスティバルホールをいっぱいに轟かせたのはさすがである。弦楽器群のまとまりの良さは、いつもながら印象的だった。ただ、管の一部━━ホルンとフルートには、もう少し細部までの丁寧な仕上げが欲しいところである。

 今回素晴らしかったのは、声楽陣だ。特に3人のソリストの声の明晰さと、歌唱の闊達さは見事であった。「焼かれた白鳥」での藤木大地(カウンターテナー)の演技はやや控えめながらも、ファルセットはさすがに安定していた。
 与那城敬も、このバリトンのパートがこれほどはっきりと響き、かつ演技的にも解り易く表現されたのは、日本人の演奏ではこれまで滅多に聴いたことがなかったほどである。森麻季も爽やかで伸びのある声で、清純な第3部「愛の誘い」を美しく歌ってくれた。

 そして同等に称賛されるべきは、大阪フィルハーモニー合唱団(合唱指揮・福島章恭)である。多分170人近くの大編成だが、とりわけ女声に膨らみと柔らかさと量感があふれていた。

 9時15分終演。この日は「レム新大阪」に一泊、翌日早朝の「のぞみ」で帰京。

2017・4・23(日)広島交響楽団 廿日市定期演奏会(第20回)

     はつかいち文化ホールさくらぴあ大ホール  3時

 先週日曜日に続いて、また広島を訪れる。今回も先週同様、文化庁の芸術文化振興基金の「事後評価」の調査を兼ねている。この3年ばかリ、専門委員を務めているのだが、今年度はおこがましくも主査のポストに在るので、各地のオーケストラを聴いて報告書を書く機会も例年以上に増える。
 今日のも同団体の依頼によるものだが、何しろ廿日市という場所に足を踏み入れるのはこれが初めてなので、興味津々だ。

 広島からJR山陽本線に乗り換え、次に五日市駅で広電(この電車、乗客が少ない時には車両のバネが弾んで上下にリズミカルに揺れるのが面白い)に乗り換える。似たような駅名が並んでいるので、「廿日市駅」で降りてしまったが、駅前はガランとして人もいないし、なんにもないのに慌てた。地図を見直して間違いに気づき、自己憐憫に浸りつつ、次の電車を待ち、もう一つ先の「廿日市市役所前」まで乗る。
 快晴好天、空気も爽やかなので、街をぶらぶら歩いて行く。すると間もなく、市役所やホールやショッピングモルが並んでいる賑やかな一角が見えて来る。

 コンサートは、広響の「第20回廿日市定期演奏会」である。「20回」とはいっても、これが「さくらぴあ」の開館20周年記念事業の一環なので、年に一度のご当地公演というわけか。
 今日は現田茂夫が客演指揮、チャイコフスキーの「眠りの森の美女」のワルツ、「弦楽セレナード」および「ロメオとジュリエット」という曲目で前後を固め、真ん中はオペラコンサートで、グノーの「ファウスト」のワルツとプッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲を演奏したほか、ゲスト・ソリストの佐藤しのぶがグノーの「宝石の歌」、プッチーニの「わたしのお父さん」「ある晴れた日に」「可愛い坊や」を歌う、というプログラムだ。

 佐藤しのぶは相変わらず華やかな雰囲気で、その人気も圧倒的である。彼女が歌った曲と、そうでない曲とでは、ほぼ満席の聴衆の拍手の量が全く違う。
 1曲目のオーケストラだけの「眠りの森の美女」のワルツのあとなど、指揮者が指揮台を降りて歩き始めた瞬間に、もう拍手が終ってしまったのには、心底驚いた。現田さんが袖に消えるまで手を叩いていたのは、私と、多分他に2、3人くらいだったのではないか?

 しかし、佐藤しのぶが再び現れてビゼーの「ハバネラ」を歌ったのを最後にコンサートが終ると、客席を出て行く中年以上の女性たちが口々に「良かったねえ」「良かったねえ」と言葉を交わし合っているのだ。そういう声を聞くと、みんな本当に心から愉しんでいたんだな、と、やはり胸が熱くなってしまうのである。

 このシューボックス型ホールは、桜の木を素材に使っている由。ステージの景観も落ち着いているし、アコースティックも予想外に良いのには感心した。客席数1090ほどだから、あまり大きな音には向いていないのかもしれないが、オーケストラのバランスさえ完璧ならば、実にいい音で響く。

 現田茂夫のまとめもよかったが、広響(コンサートマスターは佐久間聡一)自身も、会場のアコースティックに巧く合わせて行ったのだろう。1曲目のワルツよりも次の「弦楽セレナード」の方が、そしてさらに最後の「ロメオとジュリエット」の方が、ずっと演奏も良かった。特に「ロメジュリ」は━━アンダンテの個所のテンポが遅すぎて楽曲全体のバランスを失わせるきらいがなくもなかったが━━聴き応えのある演奏だった。

 広響の快調さは1週間前と同様で、特に弦楽器群の音色の良さは、今日も印象に強く残った。
 あの身振りの大きいヴァイオリン奏者(Yさん、とおっしゃるのですか?)は、今日は第1ヴァイオリンの第2プルトの外側に座っていて、終始ニコニコと聴衆に微笑みかけていたのが、とてもあたたかい、素晴らしい雰囲気を生んでいた。彼が「広響名物」的存在で、「彼から元気をもらう広島市民も大勢いるようだ」という、3月18日の広響の項にコメントで頂戴したご意見は、たしかにその通りかもしれない。もしかしたら、あの笑顔は「広響の宝」かもしれない。だいいち私自身が「あの人は、今日はどこに座っているのかな」と目で探してしまったほどなのだから━━。

2017・4・22(土)沼尻竜典指揮東京交響楽団
グバイドゥーリナ「アッシジの聖フランチェスコによる《太陽の讃歌》」日本初演

      ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 紀尾井ホールからJR四谷駅、東京駅を経て川崎駅へ。予想していたよりも短時間で着いてしまい、簡単に食事をする時間が出来たのは有難い。

 コンサートはサントリーホールの工事中休業による振替定期。沼尻竜典の客演指揮で、グバイドゥーリナのチェロと室内合唱団と打楽器のための「アッシジの聖フランチェスコによる《太陽の讃歌》」日本初演と、ホルストの組曲「惑星」である。協演は東響コーラス、前者でのチェロのソロは堤剛。コンサートマスターは水谷晃。

 「太陽」と「惑星」━━とは洒落た語呂合わせの選曲だが、マエストロ沼尻の話によれば、両者の曲想や主旨などに一部共通するエネルギー性、宇宙への連想、宗教性もしくは占星術的な意味合いなどからこのプログラムを構成した、とのことであった。

 「太陽の讃歌」は、1997年にロストロポーヴィチの古希を祝って作曲されたものとのこと。ステージには、4人の奏者による打楽器群と、奥に混声合唱(24声!)、前面にチェロ奏者が位置する。
 このチェロが奏する音は複雑精緻を極め、4弦で第11倍音にまで達する倍音列に重要な意味を持たせた奏法を含む。第4部の「死への讃歌」では、第11倍音目の平均律音と変位音が応答するというアイディアなど、「11」がキリスト教の12使徒からユダを除いた数であることに結びつくというのも興味深い。プログラムには中田朱美さんの解りやすい解説がついているので、参考になった。

 しかもチェロ奏者は時に立ち上がって、打楽器をも演奏するという行動も取るが、それらの身振りはすべて楽譜に指定されているというのも面白い。
 この演奏と行動を、堤さんがいつに変わらず、鬼気迫るほどに没入して進めて行くのにも心を打たれた━━言っては何だが、堤さんだってもう高齢のはずだし、さまざまな公職でも多忙を極めている人だ。にもかかわらず活発に演奏活動を続け、しかもこのような現代音楽の初演に全力で取り組んでいる姿には、本当に頭が下がる思いがする。

 「惑星」では、沼尻竜典の指揮に、以前の彼とは大きく違う表情の濃さと熱っぽさと、一種の物凄い力感があふれているのに強い印象を与えられた。びわ湖ホールでのオペラ指揮や、リューベックの音楽総監督としてのキャリアなどが、明らかに彼の音楽をいっそう成長させているだろう。そう感じられるのは嬉しいことである。

 「海王星」の女声合唱は上手側の舞台裏で歌われたが、オーケストラとのバランスも美しい。最後を遠くフェイドアウトさせて終らせるのもよかった━━最後の音が和声的にアンバランスになっていたのだけは惜しかったが。
 この女声コーラスは、カーテンコールの際に舞台に呼び戻されたが、上手ドアから、あとからあとから絶えることなく出て来るその数の、何と多いこと。こんなに大勢で歌っていたのかと呆気にとられるほどの人数。
   モーストリー・クラシック7月号 公演Reviews

2017・4・22(土)ライナー・ホーネック指揮紀尾井ホール室内管弦楽団

       紀尾井ホール  2時

 「紀尾井シンフォニエッタ東京」が「紀尾井ホール室内管弦楽団」と改称、首席指揮者にライナー・ホーネックを迎えたその最初の定期公演(2日目)。
 プログラムは、ストラヴィンスキーの「バーゼル協奏曲」に始まり、バッハの「2つのヴァイオリンのための協奏曲」に続き、ハイドンの「十字架上のイエス・キリストの最後の七つの言葉」(管弦楽版)で結ばれる、というものだった。

 「リニューアル・オープニング」の披露公演にしてはおそろしく渋いプログラムだが、賢明な選曲だろう。こんな渋いプログラムは他のどの指揮者も、どのオケもやらないだろうから、演奏を比較して文句が出るようなことはない。そしてこのホールでこのオーケストラが演奏するにあたって、この編成はホールのアコースティックとのバランスの上で、最も好ましい規模のものであるということ。しかも何より、選曲が「上品」である。

 ホーネックとオーケストラは、まずストラヴィンスキーの新古典主義の作品で、ふくらみのある響きと、整然としたアンサンブルを披露した。
 そしてバッハのコンチェルトでは、ホーネック自身もソロを弾いた。オケのコンサートマスター、千々岩英一とのデュオである。しかもアンコールには、ヘルメスベルガーが作った、この曲の第3楽章へのカデンツァ━━ホーネックが語ったように、確かにちょっとロマンティックなところがある━━を演奏して見せるという、洒落た余興も行なった。以上2曲のコンサートマスターは玉井菜採。

 ハイドンの「十字架上のイエス・キリストの最後の七つの言葉」は、長大な作品である。  
 ハイドンは、オラトリオ版の出版に際し、スコアの序文で、司教の説教が一つ終るごとにオーケストラが流れる、という儀式について説明したのち、こう記したそうである━━「それゆえ私は7つのアダージョを次々と聴かせなければならなかった。しかも聴衆を飽きさせることなしにである。この仕事は易しいものとは到底言えなかったので、私はすぐに、これは思ったより多くの時間を必要とするだろうということがわかった」(ラルース世界音楽事典、福武出版社)。
 たしかにこれは、最終の「地震」で曲想が大きく変わるとはいえ、1時間にわたる序奏と7つのソナタは、全てゆっくりしたイン・テンポの曲の連続である。クリスチャンにとっては法悦の世界だろう。だが、そうでない私のような人間は、少々違った意見になる。

 国内楽団の腕利きたちを選りすぐって編成したこの室内管弦楽団、ともあれ今回も、最もバランスのいい響きで大成功を収めたことには間違いない。

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