2018-02

2017・12・10(日)ノット指揮東京響 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

      ミューザ川崎シンフォニーホール  3時

 これは東京交響楽団の定期ではなく、ミューザ川崎シンフォニーホールの主催公演。ジョナサン・ノット指揮で、「ドン・ジョヴァンニ」の演奏会形式上演だが、原純の演出もつく。

 出演は、マーク・ストーン(ドン・ジョヴァンニ)、シェンヤン(レポレッロ)、ローラ・エイキン(ドンナ・アンナ)、アンドリュー・ステープルズ(ドン・オッターヴィオ)、ミヒャエラ・ゼーリンガー(ドンナ・エルヴィーラ)、クレシミル・ストラジャナッツ(マゼット)、カロリーナ・ウルリヒ(ツェルリーナ)、リアン・リ(騎士長)、新国立劇場合唱団。

 昨年12月の「コジ・ファン・トゥッテ」と同様、ノットのテンポは、すこぶる速い。小気味よいというか、痛快無類というか、序曲をはじめ各ナンバーが、疾風の如く飛んで行く。モーツァルトの音楽が備える運動性をひたすら追求したともいえる「ドン・ジョヴァンニ」の演奏である。
 第2幕フィナーレの、ジョヴァンニと騎士長の丁々発止の応酬の個所のさなかでテンポを大きく調整するという手法はあったものの、概して一気呵成に飛ばし続けたノットの指揮だった。

 昨年の「コジ」と同様、登場人物の性格を微細に描くというニュアンスはやや犠牲にされていたけれども、音楽的にスリリングな迫力が生み出され、それがかなりの程度まで成功していたという点が、「コジ」と「ドン・ジョヴァンニ」の音楽がそれぞれ持つ特質の違いだろう。
 東京響(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)は、このノットの怒涛のテンポに容易く合わせて行き、第2幕後半では少し乱れが生じたものの、指揮者との良き関係を感じさせた。歌手陣の出来も手堅い。

 演出は原純。新国立劇場の「ばらの騎士」では、いつもは第1幕の髪結師として、テノール歌手の高音に顔を顰めたり、他の人物とやり合ったりして、派手な大芝居を楽しませてくれている人だが、昨日は姿が見えなかったのは、さすがに川崎での演出の仕事とのカケモチは無理だったのだろう。

 彼の本職の演出はこれまでにもいくつか観たが、さて今日の演出はというと、これはまことに残念ながら、彼の本領が発揮されたものとは、些か言い難い。ドン・ジョヴァンニが騎士長の強制により、金縛りに遭ったかのように拳銃を自ら頭に擬して死を選ぶとか、第1幕終結近くの「3つのスタイルの舞曲」が交錯する場面で楽器群を広い舞台に点在させるとかいった趣向はいいと思うが、何より舞台空間が「だだっ広すぎ」て、それを扱いかねていたようにも感じられてしまったのだが、如何なものだろうか。

2017・12・9(土)清水和音 ベートーヴェン4大ピアノソナタ

     東京オペラシティ コンサートホール  6時 (後半のみ)

 新国立劇場での「ばらの騎士」が終ったのは6時15分頃だったか。席が列の真中だったし、さっさと出るのは演奏者に対して非礼だから、いつも通りカーテンコール3回分ほど拍手を贈って、周囲の客の動きに合わせて外に出る。

 隣のオペラシティコンサートホールでは清水和音がベートーヴェンの4大ピアノ・ソナタ━━「悲愴」「ワルトシュタイン」「月光」「熱情」というリサイタルを開催している。その後半の2曲だけ、聴くことができた。

 清水さんの演奏を初めて聴いたのは、彼が1981年に20歳でロン=ティボー国際コンクールに優勝したその翌年だった。私がFM東京で、各国コンクールで優勝または上位入賞した若手奏者を集めた協奏曲演奏会(他に若き日の藤井一興さん、漆原啓子さん、工藤重典さん、三上明子さん、山畑るに絵さん、山下和仁さん、藤原真理さんら、錚々たる人たちが出演した)を、2日連続で東京厚生年金会館から公開生中継する番組を制作・演出した時である。

 あの時には、彼はチャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」を、冒頭から猛烈な迫力で弾きはじめ、そして猛烈なテンポで弾きまくり、聴衆を大いに沸かせたものだったが、━━特にゲネプロで彼が弾きはじめた時には、客席で準備をしていた営業や代理店などの関係スタッフ全員がびっくりしてステージの方を振り向き、そのまましばらく聴いていたのを、今でも記憶している。

 それから幾星霜を経た今も、清水和音のその「やんちゃ坊主」のような音楽的姿勢は、ほとんど変わっていないようだ。
 言い換えれば、妙に円熟したり、悟ったように落ち着いてしまったりするところのない演奏が、彼・清水和音の魅力のひとつだろう。この日の「月光」と「熱情」も、まっすぐで、剛直で、骨太で━━非常に気持よかった。
 「ばらの騎士」の毒気(?)を払うかのようなこの演奏、何か不思議に清々しい気分になって、ホールをあとにしたのだった。

2017・12・9(土)新国立劇場 R・シュトラウス:「ばらの騎士」

      新国立劇場  2時

 新国立劇場の定番、ジョナサン・ミラーの演出、イザベラ・バイウォーターの美術・衣装によるプロダクション。
 2007年のプレミエ以来、2011年、2015年の再演を経て、これが4度目の上演になる。私もその都度観て来たが、よくまとまった美しいプロダクションであることは確かである。但し、その年の歌手陣や指揮者、あるいは当日の雰囲気などの面で、出来栄えにムラがあるのは致し方ない。

 今回はウルフ・シルマー指揮の東京フィル、リカルダ・メルベート(元帥夫人)、ユルゲン・リン(オックス男爵)、ステファニー・アタナソフ(オクタヴィアン)、ゴルダ・シュルツ(ゾフィー)、クレメンス・ウンターライナー(ファーニナル)、内山信吾(ヴァルツァッキ)、加納悦子(アンニーナ)、増田のり子(マリアンネ)、長谷川顯(警部)、晴雅彦(公証人)、水口聡(テノール歌手)ほかの出演。すでに何度か出ている人も多い。
 アタナソフの声に少し伸びがなかった━━ズボン役としての容姿はなかなかのものだったが━━ことを除けば、手堅い歌手陣だったと言えるだろう。

 この「ばらの騎士」、主人公は元帥夫人だ、いやオックス男爵だ、いやむしろオクタヴィアンだ、と論議が盛んだが、今回の舞台━━基本的に演出の問題だとは敢えて言わない、たまたまそういうバランスだったかもしれないので━━を観ていると、その3人とも、主役というには、あまり目立たなかったような気もするのである。
 確かにユルゲン・リンのように、愛すべきエロおやじ的オックスを演じて見事だった人もいたが、彼すらも第3幕中盤では、群衆の動きの中に埋没してしまう。

 言い換えれば、今回の舞台では、彼ら主役たちと、巧みな細かい生き生きした演技を見せる多数の脇役と助演者(黙役)たちとが同等に動き、それら全員による一種の人間模様のような体を為していたようにも感じられたのであった。
 これには、主役歌手たちの個性も影響しているかもしれない。あるいは再演演出担当の演出家の仕切りも影響していたかもしれない。
 俗な表現で言えば、人物整理の上で少々雑然たる舞台になっていたかな、という印象なのだが、そう言ってしまうと、ミもフタもなかろう。

 シルマーの指揮は、東京フィルをうまくまとめていた。オーケストラの音色に色気とか、洒落っ気がないのは、ピットにおける東京フィルの弱点だが、それでもたとえば第2幕最後のワルツ、第3幕最後の三重唱や二重唱などの個所では、いいR・シュトラウスぶしを聴かせてくれていたのである。

2017・12・6(水)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

      サントリーホール  7時

 10日間に1日だけ休みを置いての、計10回の演奏会、つまり1日はダブルヘッダーという、いかにもゲルギエフらしい並外れたスケジュールの日本ツアー。
 今日はその6日目で、リムスキー=コルサコフの「金鶏」組曲、ショスタコーヴィチの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは庄司紗矢香)、ベルリオーズの「幻想交響曲」。

 この中で、庄司紗矢香の弾いたショスタコーヴィチの協奏曲は、おそるべき集中力に満たされた圧倒的な緊迫の演奏であった。長いカデンツァからフィナーレにかけてはまさに彼女の独壇場であり、それは彼女の内なる声が生み出す凄絶な音楽の力の発露であったろう。私たち聴衆は、息を呑んで聴き入った。
 彼女はゲルギエフとの他の3回の演奏会ではチャイコフスキーの協奏曲を弾くが、それよりも、このショスタコーヴィチの協奏曲を聴けた人こそ、彼女の最高かつ最良の音楽を体験できたと言ってもいいのではないか。

 アンコールとして、彼女はバッハの「無伴奏パルティータ」第2番からの「サラバンド」を弾いた。その間ゲルギエフは、ステージ下手に立ったまま、じっと耳を傾けていた。
 コンチェルトを弾いたソリストがソロ・アンコールを弾いている時、その演奏を舞台にずっと残って聴き続けているのは、近年のゲルギエフの癖である。特に若いソリストの際には、必ずその演奏を聴いている。若手を支援するという彼の姿勢、偉いものである。

 ところで、ゲルギエフが指揮したこのショスタコーヴィチの協奏曲のオーケストラ・パートは、まさにロシア的な、濃厚な色彩感に満たされていた。ロシア音楽はロシア的に演奏するのだ、と言うのが、昔からのゲルギエフの信念だった。
 最初の「金鶏」など、これはもう彼の本領発揮だろう。また、アンコールで濃厚な色彩感たっぷりに演奏したストラヴィンスキーの「火の鳥」組曲からの「子守歌~終曲」も同様である。「ストラヴィンスキーは、リムスキー=コルサコフ門下のロシアの作曲家だった。私は彼をロシアの作曲家の音で演奏したい」とかつてゲルギエフが語っていたことを思い出す。

 一方、「幻想交響曲」のような作品になると、ゲルギエフの指揮は、一転して端整になる。昔よりその端整さが増し、かつてのいわゆる「怪物的な物凄さ」が少し薄れたように感じられるのは、やはり彼の年齢的な影響による変化か? だがオーケストラの鳴らし方は、相変わらず豪壮で力感豊かで、風格充分だ。

 今回のマリインスキー劇場管弦楽団は、昔のこのオケに比べればずっとインターナショナルな色合いを備えるようになっている(それはちょっと残念だ)が、音色には、あの頃のような、ビロードを思わせる滑らかな響きが復活して来たのが注目される。
 もちろん技術的には、めっぽう巧い。「若手が多くなったので、上手くなった。このメンバーを集めるために80人もオーディションをやったので、耳がくたびれてしまった」とは、楽屋でのゲルギエフの話。何年か前にもそんなことを聞いたような気がするが・・・・メンバーの入れ替えは相変わらず盛んなのか。
     ⇒別稿 モーストリー・クラシック3月号 公演Reviews

2017・12・5(火)伊藤翔指揮東京フィルハーモニー交響楽団

     サントリーホール  7時

 昨年の第1回ニーノ・ロータ国際指揮者コンクールで優勝した伊藤翔が客演、カバレフスキーの「コラ・ブルニョン」序曲、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」と「交響曲第4番」を指揮した。
 ソリストは小山実稚恵、東京フィルの今日のコンサートマスターは依田真宣。

 伊藤翔は、この他にも2011年のルトスワフスキ国際指揮者コンクールで第2位になっている由。「振り方」がどうのこうのというような話は、その道の専門家たちが批評なさるだろうから、私は聴衆としての立場から、音楽がどのように聞こえたかについてだけ書く。

 若いに似合わず、音楽を上手くまとめる人だという印象である。
 例えば「第4交響曲」では、なだらかなカーブを描くように演奏の起伏をつくる。デュナミークの対比は大きいが、それは穏やかな曲線を描くように、自然な流れの中に構築されるので、決して鋭角的で攻撃的なものにはならない。それは一つのやり方だろう。

 だがその一方、音楽に「矯め」が無く、概して坦々たるテンポと表情で進む結果、チャイコフスキーがこの曲に織り込んだはずの躊躇い、苦悩、憂鬱、夢想、とかいったような、情緒的な要素が感じられなくなってしまうのだ。
 若い指揮者だからそこまでの深みは━━という見方もあろうが、しかし第2楽章の終結などには、作曲者が言う「人生に疲れ切った」情感が、見事に湛えられていたのである(ここでは東京フィルの演奏も良かった)。
 
 いずれにせよ、バランスよく器用にまとめること自体は悪いことではないけれども、若いうちは、演奏の表現に、粗削りでもいいから、もう少し傍若無人な勢いの良さが欲しい気もする。いろいろなレパートリーで、彼が今後どのような進展を示して行くか、興味がある。

2017・12・3(日)フィリップ・ヨルダン指揮ウィーン交響楽団

      サントリーホール  2時

 Philippe Jordan━━わが国ではフィリップ・ジョルダンと表記されているが、どうやらヨルダンと発音するのが正しいのだそうで。しかし、父君のアルミン・ジョルダン以来、「ジョ」で通って来たからには、知名度を重視するマネージメントとしても、そうすぐ変更するわけにも行かないらしい。

 とにかく、売れっ子の指揮者だ。パリ・オペラ座とウィーン響のシェフを兼任、2020年からはウィーン国立歌劇場の音楽監督になることも決まっている。今年夏にバイロイトで「ニュルンベルクのマイスタージンガー」を聴いた時には、少し軽量級には感じられたとはいえ、この曲でバイロイトのオケをこんなに美しく響かせた指揮者は初めて聴いたという気がしたほどである。
 ウィーン響の首席指揮者となったのは、2014年秋のシーズンのこと。

 今日はベートーヴェンの「第5交響曲ハ長調」と、ブラームスの「第1交響曲ハ短調」を組み合わせたプログラムだった。
 私の個人的な印象としては、ブラームスの「1番」の演奏の方が、ヨルダンの指揮の個性が出ていたように感じられて面白かった。たとえば第1楽章の序奏冒頭で、フォルテを更にクレッシェンドさせる個所(8小節目、8分の9拍子に変わるところ)で、ふつうの指揮者と違い、一度弱音に落してから漸強に入る、ということをやる指揮者なのである、彼は。

 それよりもこの第1楽章の中で、神秘的な楽想の個所を思い切り不気味に演奏させ、そこから次第に激しく明るい表情に高潮させて行くあたりのヨルダンの呼吸が実に巧いのには感心した。
 ブラームスの交響曲をオペラ的に演奏する、などという意味ではないけれども、彼が手練手管を尽くして念入りに書き上げたこの交響曲のスコアを、こんなに細かい劇的な表情の変化を以って読み解くとは、さすがにオペラで場数を踏んでいる指揮者だけのことがある、と大いに感心したのである。

 少なくとも今の段階では、古典派の交響曲よりも、ロマン派の劇的な性格を備えた交響曲の方が、彼ヨルダンの個性には合っているのではないか、という気もする。もちろん即断は避けるべきだが、それにしてもこれは興味深い指揮者だ。将来は、更に大物になるだろう。

 ウィーン響は、しっとりした響きではあったが、素朴で、生真面目で、色彩感にも乏しい。だが、1960年代にサヴァリッシュの指揮で初めて聴いて以来、プレートルや、フェドセーエフや、ルイージら歴代首席指揮者のうちの何人かの指揮で聴いた時も、たいてい同じ印象だったことを思い出す。

 アンコールは、ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」と、J・シュトラウスⅡの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。いずれも弦16型編成のままで演奏したため、かなりシンフォニックな感になっていた。

2017・12・2(土)ジョナサン・ノット指揮東京交響楽団

      サントリーホール  6時

 音楽監督ジョナサン・ノットが指揮、リゲティの「ハンブルク協奏曲」、シューマンの「4本のホルンと管弦楽のためのコンツェルトシュテュック」、ベートーヴェンの「英雄交響曲」を指揮した。キーワードはホルン━━と言ってもいいくらいの個性的なプログラミングで、最近のノットと東京響の面目躍如たるものがある。

 最初のリゲティの「ハンブルク協奏曲」では、クリストフ・エス(バンベルク響首席)のソロ・ホルン(ナチュラル・ホルンとモダン・ホルンの持ち替え)および日本勢(大野雄太、勝俣泰、金子典樹、藤田麻理絵)の4本のナチュラル・ホルンとがオーケストラと協演。
 これは、何とも演奏の難しい曲だ。正直なところ、テイク2やテイク3をやって、いいテイクを繋ぎ合わせたいと思ってしまったことも、聴きながら何度か。誠実に吹いていたのは確かだろうが、たった一度の本番だけで成果を上げるのは、なかなか難しいだろう。

 変わってシューマン━━こちらでは前出のクリストフ・エスと、シュテファン・ショットシュテット(ハノーファー州立歌劇場管)、セバスティアン・ショル(ヴュルテンベルク・フィル・ソロ・ホルン)、ティモ・シュタイニンガー(ベルリン・コンツェルトハウス管)の4人からなる「ジャーマン・ホルンサウンド」という(なんか物凄い名称だ)グループが協演した。
 これはもう威力充分のホルン軍勢で、追い込み、追い上げの個所など、オーケストラを煽り立てるほどの音楽的パワーで咆哮する。久しぶりで面白い演奏を聴かせてもらった。

 「英雄交響曲」では、第3楽章のトリオ部分で、日本勢のホルン3人が朗々と存在感を誇示した。実は私共、「ジャーマン・ホルンサウンド」の演奏のあとだけに、頑張ってくれよ、と祈るような気持で聴いていたのだが、一安心。思わず同業者たちと顔を見合わせて「よかったね」と喜び合ったものであった。
 この曲では、東京響は弦12型編成で、ノットの繰り出す疾風のテンポに乗って気魄の熱演。特に第1楽章では、特に鋭角的にはならずに溶け合ったバランスでありながら明確な隈取りを保った音の構築が面白く、そのため縦横に交錯する内声部がかなりはっきりと浮き彫りにされ、ベートーヴェンがこの曲で如何に革命的なオーケストレーションを実現したか、それをまざまざと感じさせる見事な演奏となったのである。

2017・12・1(金)マックス・ポンマー指揮札響「クリスマス・オラトリオ」

      札幌コンサートホールKitara  7時 

 札幌交響楽団12月定期公演の初日。
 2015年4月から首席指揮者を務めて来たマックス・ポンマーも、間もなく3月でその任期を終る(後任はマティアス・バーメルト)。
 その仕上げの一環として、ポンマー十八番のバッハを、それも大作「クリスマス・オラトリオ」を取り上げた。今回は第1・2・5・6部のみの上演だったが、それでも演奏時間は正味2時間かかる。終演は、9時15分になった。

 合唱は札響合唱団、東京バロック・スコラーズ、ウィステリア・アンサンブル。声楽ソリストは針生美智子(S)、富岡明子(Ms)、櫻田亮(T)、久保和範(Br)。コンサートマスターは田島高宏。

 ポンマーは、オーケストラを柔らかく、温かく響かせる。それは、人間味豊かな、古き良き時代のバッハとでもいうべきか━━こういう言い方は実に曖昧なものだという気もするが、要するに現在ではあまり聴けなくなったような、しかし心温まる懐かしいタイプのバッハ演奏というような、世間一般の言葉の綾のイメージとして言っているのである━━それは時には温厚に過ぎて、もどかしい気分にさせられることもあるとはいえ、やはり美しい。

 たとえば第2部、幼子を見に行くよう羊飼いたちに呼びかけるテノールと、それに寄り添うフルートの好演(第15曲のアリア)、あるいは同じように呼びかけるバスのレチタティーヴォを支えて波打つ弦の優しい響き(第18曲)、そして眠る幼子イエスに呼びかけるアルトを囲むオーボエダモーレと弦の夢幻的な世界(第19曲)など、━━そういう個所で、ポンマーと札響と声楽ソロ陣は、本当に見事な演奏を聴かせてくれたのである。この第2部は、今夜の演奏の中では白眉と言えるものだった。

 なお、第1部では上手側手前に配置された3本のトランペットが活躍したが、その1番を吹いたのが新人の若い女性奏者で、小気味よいほど鮮やかなその演奏は、まさに「クリスマス・オラトリオ」の幕開きに相応しいものだった。ただしこのトランペット・セクションの勢いがあまりに良すぎて、その大音量にオーケストラが消されてしまう傾向があったことは確かである。
 この奇怪なバランスには首をひねらされたが、しかし第6部でトランペットの1番が練達の首席奏者(福田善亮)に交替するや否や、途端にトランペット群とオーケストラとのバランスが整い、絶妙のアンサンブルとなったのだから━━曲想の違いがあったのはもちろんだとしても━━オケというものはつくづく不思議な生きものである。

 この第1部の冒頭は、オケもそうだったが、合唱も少々危なっかしくて冷や冷やさせられるほどだったが、第4曲のアルトのアリア、あるいは第5曲のコラールあたりからは、どうやらペースを取り戻したようであった。おそらく2日目(土曜日)の演奏では、この辺は改善されたのではないかと想像する。
 ただし今回のコーラスは、ソット・ヴォーチェで歌うことに慣れていないのか、特にテノール群はもっとトレーニングを積む必要があろう。

 今日の札幌市内は雪もなく、晴れていたが、流石に空気の冷えは壮烈だ。東京の気持の悪い底冷えと異なり、実に爽快な雰囲気だが、5分も歩いていると、たちまち足元から冷えが昇って来る。このあたりの服装の調整が、東京からふらりと行った旅行者にはなかなか難しい。

2017・11・30(木)ロン・ユー指揮チャイナ・フィルハーモニー管弦楽団

      サントリーホール  7時

 2000年に創立、北京に本拠を置くチャイナ・フィルが、芸術監督・首席指揮者ロン・ユー(ユー・ロン 余隆)とともに来日。このオケは過去にも来日しているらしいが、聴いたかどうか、確たる記憶がない。

 今日は、R・シュトラウスの「4つの最後の歌」からの「夕映えに」(Zouによる弦楽合奏編曲版)という意表を衝いた選曲でプログラムを開始した。
 弦の良さには定評がある、という記事を読んだことがある。多分その特徴を誇示するのが目的だったかもしれない。多少硬質な響きではあったが、強靭な力を秘めているようにも感じられる。とはいえ、音色に潤いや色彩感が薄いのは、やはりアジアのオーケストラの共通の個性か。 

 2曲目には若い少女ヴァイオリニスト、パロマ・ソーをソリストに、サン=サーンスの「ヴァイオリン協奏曲第3番」が演奏された。すでにベルリン響やロンドン響との協演も経験している彼女、ちょっと線が細い傾向もあるけれども、こちらの方が音色も表情も瑞々しい。

 オケの本領は、第2部のショスタコーヴィチの「第5交響曲」でいっそう明らかになっただろうが、残念ながら所用のため、これは聴けずに失礼した。
 ロン・ユーという指揮者も最近注目されている人で、もっといろいろ聴いてみたい気がする。さしあたり今年12月下旬には東京フィルの「第9」を指揮するはずである。

2017・11・29(水)アンドレアス・オッテンザマー&
ヴィンタートゥール・ムジークコレギウム

       すみだトリフォニーホール  7時

 ヴィンタートゥール・ムジークコレギウムは、1629年創立の歴史を持つスイスのオーケストラ。昔からレコードでウィンタートゥール交響楽団とか呼ばれていた楽団の正式名称がこれだ(オリジナルはMusikkollegium Winterthur)。昨年秋からはトーマス・ツェートマイヤーが首席指揮者になっている。

 楽団のサイトを見ると、もともとそう大きな編成のオーケストラではないようで、今回も弦8型(のように見えた)での、室内管弦楽団規模での来日だ。ただしツェートマイヤーは来ていない。
 その代り、コンサートマスターのロベルト・ゴンザレス=モンハスがプログラムの最初と最後のベートーヴェンの「コリオラン」序曲と「交響曲第7番」を弾き振り、クラリネットの名手アンドレアス・オッテンザマーがシュターミッツの「クラリネット協奏曲変ロ長調」、ダンツィの「《ドン・ジョヴァンニ》の《お手をどうぞ》による変奏曲」、ウェーバーの「クラリネット小協奏曲」を吹き振りした。

 アンドレアス・オッテンザマー(ベルリン・フィル首席奏者)の名手ぶりについては改めて言うまでもなく、この3曲でも鮮やかな名技を披露してくれていた。その演奏は小気味よいほどだが、ただ、同じウィーン出身でありながら、ウィーン・フィルにいる兄のダニエル・オッテンザマーと比べると、やはりベルリン・フィルの体質に影響されてしまっているのだろうか、演奏に何か生真面目さのようなものが漂っているのが感じられるのが不思議である。
 彼が、これも鮮やかな日本語で挨拶しながら演奏したアンコールは「上を向いて歩こう」であった。「雨に唄えば」に似たタッチでスウィングしたこの演奏も編曲も、なかなか良かった。

 ベートーヴェンの作品2曲の方は、オケの編成は小さいが、すこぶる勢いがあって、緊張度も高い。管楽器には音がひっくり返ったりすることが時々あるなど、全体に大らかな感じのオーケストラで、良きローカルの味とでもいうか。もう少し小さいホールだったら、彼らの音楽の雰囲気はもっとよく味わえたかもしれない。

2017・11・26(日)カンブルラン指揮読響「アッシジの聖フランチェスコ」

      サントリーホール  2時

 メシアンの大作、歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」の、演奏会形式による日本初演。
 19日サントリーホール、23日びわ湖ホールでの公演に続き今日が3回目、最終回の上演。

 これはもう、今秋の国内音楽界最大のイヴェントと言ってもいいだろう。作品の価値、上演の意義はいうまでもなく、指揮者シルヴァン・カンブルランの意欲と全身全霊を籠めた情熱の指揮、読響の柔軟な対応力に富む演奏、合唱団(新国立劇場合唱団、びわ湖ホール声楽アンサンブル)と9人の声楽ソリストたちの優れた歌唱などが結集した、まさに完璧な演奏だったのである。事務局の企画力をも讃えたい。

 声楽ソリスト陣は、ヴァンサン・ル・テクシエ(聖フランチェスコ)を中心に、エメーケ・バラート、ペーター・ブロンダー、フィリップ・アディス、エド・ライオン、ジャン=ノエル・ブリアン、妻屋秀和、ジョン・ハオ、畠山茂の9人。合唱は新国立劇場合唱団とびわ湖ホール声楽アンサンブル。コンサートマスターは長原幸太。

 35分間ずつの休憩2回を含み、終演は8時近くになった。
 それでも長さをほとんど感じさせなかったのは、もちろん演奏の見事さゆえもあるが、やはり第一には、大編成のオーケストラが噴出させる、メシアン独特の多彩な音色に満たされた音楽の力の凄さゆえだろう。それは所謂メシアン・サウンドの粋ともいうべきもので、彼独特の音楽上の語法はもちろん、若い頃から彼の音楽の柱を成して来た「宗教性」と「鳥の声」なども此処で集大成されていると言っても過言ではない。

 オペラとしてのオーケストラのパートは、無限旋律的に続いて行くスタイルではなく、ナンバー形式によるスタイルでもなく、テンポも拍子もリズムも楽器編成も、音色も表情も対照的に異なる短い2つの主題━━というよりはフレーズと言った方がいいか━━が総休止を挟んで組み合わされ、交互に流れて行くといったユニークな形が多く聴かれる。
 総休止の活用といえば、残響の長い教会のオルガン奏者でもあったブルックナーのお家芸だったが、こちらメシアンの方は、それを更に、比較にならぬほど細かく多用している。そしてそれらが緊張感を失わせるどころか、むしろいっそう高めているのも特徴的であろう。

 第3幕の、特に大詰の「死と再生」で、全管弦楽と大合唱がとめどなく昂揚を重ねて行く個所では、その総休止群が「終りそうで終らぬ」長さを感じさせたことも、全くないわけではなかった。だが、作品と演奏が生み出す法悦感のようなものが、私たち熱心な聴き手を最後まで捉えて離さなかったのも確かなのである。このあたりはもう、カンブルランと読響と合唱団の、集中力に富む演奏のおかげであったことはいうまでもない。

 描写的な要素も、思ったよりは多い。ほんの一例だが、天使(エメーケ・バラート)がやって来て荒々しく猛烈にドアを叩くくだりや、彼女に揶揄された修道僧エリア(ジャン=ノエル・ブリアン)の胸の裡に怒りがムラムラと起こって来るあたりのオーケストラの描写性など、クスリと笑ってしまうような、ユーモアのある表現力を感じさせるだろう。

 歌詞は当然フランス語だが、前述の総休止の中に歌詞が挟まれることも多いので、言葉は実に明確に聴き取れることになる。オーケストラの官能的な大波の中で歌うことももちろん多いのだが、その場合でも歌詞がはっきり響いて来ているのは、カンブルランのオーケストラのバランス制御の巧みさによるところも多いだろう。

 歌手たちはステージ前面で譜面を見ながら歌うが、簡単な身振りや表情を付けているので、オペラのストーリーを理解させるには充分だ。
 題名役を長丁場で歌い続けたヴァンサン・ル・テクシエの風格ある存在感をはじめ、みんな見事な、劇的な歌唱力を示した。特に「重い皮膚病を患う人」を歌ったペーター・ブロンダーは、出番は少なかったけれども、ひときわ劇的な歌唱で第1幕の終曲を盛り上げた。全曲最後のカーテンコールで彼が聴衆の大ブラヴォーを浴びたのは、決して声の大きさだけのためではなかった。

 この作品では、オンド・マルトノが3台も使用され、それらは正面オルガンの下、客席RB最後方の高所、同LB最後方の高所にそれぞれ配置されていた。3台の音がホール内に交錯する個所はあまり多くはなかったが、「鳥の声」が響くくだりの前後では、さすがに妙なる効果を発揮していた。

 なお字幕は、今回はオルガンの左右の壁の高所に設置されていた(サントリーホールでは、時々このような方法が採られる)。だが、2階最前列中央あたりから見てもこれは遠すぎる。しかもそのスクリーンの照度が低いため、字がかなり読み難かったのも確かである。2階あるいは1階のうしろの方の席の人たちからは、もっと見難かったのではないかと思う。

 それにしてもこの大曲が、小澤征爾の指揮によりパリで全曲初演されてから34年、同じく彼の指揮で抜粋が日本初演されて以来31年。やっと日本で全曲上演の形で聴けたというのは、大いなる喜びだ。
 そしてまた、当時この大曲の世界初演を成し遂げ、フランスで絶賛を浴びた小澤征爾の偉業が、今になって人々の心の中に甦った(読響プログラム冊子11月号28頁)のも嬉しい。何しろ当時は、この作品初演に関しては、日本ではほとんど目立った報道がされなかったからだ。84年2月号の「音楽の友」の海外楽信でさえ、長いレポートはあったものの、小澤の指揮については最後にほんの一言付け加えられていたに過ぎなかったのである━━。

2017・11・25(土)下野竜也指揮京都市交響楽団

      京都コンサートホール  2時30分

 下野竜也(京響常任首席客演指揮者)が指揮するジョン・アダムズの「ハルモニーレーレ」は、一昨年、読響との演奏を聴き、すこぶる気持のいい思いをした記憶がある。今回は文化庁・芸術文化振興基金の事後調査の仕事を兼ね、もう一度聴きに来た次第。

 プログラムの前半では、ベートーヴェンの「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」が、アンナ・フェドロヴァをソリストに迎えて演奏された。「ハルモニーレーレ」との組み合わせとしては意表を衝いたものだったが、これは曲の最後が変ホ長調で終ることと、「皇帝」が変ホ長調の曲であることを関連づけたためのようである。さすが下野竜也だ。
 今日のコンサートマスターは西江辰郎。

 フェドロヴァのピアノは細身の音だが、一つ一つの音に清澄な粒立ちがあり、音色が美しい。カデンツァなど、普通なら一気に均等に進んで行く音の流れの中で、時に強いアクセントを使って流れに変化を生じさせる弾き方が個性的だ。本来は豪壮な曲想の「皇帝」が、不思議に神経質な美しさを感じさせたのはそのためだろう。
 ただし下野と京響の演奏は、それをがっしりと支えるような、堂々たる風格のものであった。
 フェドロヴァはソロ・アンコールに、ベートーヴェンの「月光ソナタ」の終楽章を演奏したが、これも同じ特徴を持ったものだ。

 「ハルモニーレーレ」は、聴いた位置(1階15列中央)のためかもしれないが、以前サントリーホールで聴いた時と違い、オーケストラの内声部がリアルに聴き取れ、曲の面白さを倍加させてくれた。
 下野の指揮も相変わらず巧いものだと思うが、京響の張り切った力感と安定感、音色の多彩さにも舌を巻く。京響の優秀さは今に始まったことではなく、今やN響、読響とともに国内オケのベスト3に数えられる存在、と言っても過言ではないかもしれない。

 しかもカーテンコールの際に、客席に顔を向けた楽員たちの明るい表情と、笑顔の素晴らしさ。国内オケの中には、客席に一切顔を向けない団体とか、向けたとしても「そんなに拍手するほど良かったですかねェ」と言わんばかりの仏頂面をしている団体が多いのに比べ、これだけ聴衆との温かい交流を感じさせる京響の楽員は見上げたものと言わなければならない。

 終演後には、ホワイエで聴衆と楽員との交流パーティが行われたようだったが、こちらは早めに辞した。18時05分の「のぞみ」で帰京。

2017・11・24(金)東京二期会 J・シュトラウスⅡ:「こうもり」

      日生劇場  5時

 「二期会創立65周年」記念で、「NISSAY OPERA 2017」提携公演。
 阪哲郎の指揮、アンドレアス・ホモキの演出。
 出演は、小森輝彦(アイゼンシュタイン)、澤畑恵美(妻ロザリンデ)、清野友香莉(小間使アデーレ)、山下浩司(刑務所長フランク)、宮本益光(こうもり博士ファルケ)、糸賀修平(歌手アルフレード)、青木エマ(オルロフスキー)、大野光彦(弁護士ブリント)、秋津緑(イーダ)、イッセー尾形(看守フロッシュ)。

 ホモキ演出というから、普通の見慣れた「こうもり」ではなく、多かれ少なかれ捻った「こうもり」になると期待していたが、まあほぼ予想通りというか。
 アイゼンシュタイン家の居間を3幕全体共通の場面とし、また第2幕の「オルロフスキー家の宴会」で酔いつぶれた客たちは、其処が第3幕の「牢獄」の場に変わってもやはり同じ姿勢のまま寝ている・・・・といった具合だから、「ロシア公爵オルロフスキー」などという人物が本当にいたのか、いなかったのかということさえ曖昧にされてしまう。事実その「オルロフスキー」は、ファルケにより男装に仕立てられた女性であることがすでに明かされており、その「演技」の要領が悪いとファルケからどやされているといった人物なのである。

 つまりこの物語は、シャンパンの酔いによる「槿花一朝の夢」とでもいうのか━━「すべてはシャンパンのせい」という幕切れの合唱の歌詞をモティーフとし、それを拡大解釈した演出と言えるのだろう。全曲最後の数秒間に、場面が第1幕のアルフレード、ロザリンデ、アデーレの3人が集っている時間に戻るので、これでネタがばらされるという仕掛けだ。ただし、アイゼンシュタインが入牢するという話だけはどうやら「本物」のようである。

 演出補として、菅尾友の名がクレジットされている。日本語台本も、彼の「翻案」によるものとのこと。
 舞台美術はヴォルフガング・グスマンで、これもコーミッシェ・オーパーの舞台装置なる由。
 歌詞はドイツ語、セリフは日本語というバイリンガル・スタイル。これは時々使用される手法だが、あまり良いアイディアとも思えない。とはいえ、日本語から音楽に移るところの流れなどは、予想以上にスムースに行っていた。
 かなりドタバタ調の舞台だが、歌手陣が達者なので、さほど違和感なく楽しめる。ただ台詞場面では、時に間延びするところがあるのが惜しかった。

 歌手陣の中では、小森輝彦のアイゼンシュタインが、ドタバタ調で暴れ回り、大変面白い。
 澤畑恵美のロザリンデも、貴婦人然とした場面ではいっそう映える。
 アデーレの清野友香莉は、特に後半にかけて華やかさを増した。青木エマのオルロフスキー役は以前に絶賛した覚えがあるが、今回は「女性=偽物公爵」という設定なのでそれほど目立たず、ズボン役としての魅力を前回ほどに発揮できぬ立場だったのは少々残念。
 そういえば他のキャラクターも、この少々雑然たる動きの舞台では、存在感をあまり目立たせることができずに終っていたが、これには日本人歌手の個性と、この演出とのギャップも影響しているのだろうか。

 指揮は、「こうもり」を得意とする阪哲郎だったが、非常に切れのいい軽快なリズムと速いテンポで、いい演奏をつくり出していた。欧州歌劇場での長い経験が生きているのであろう。
 問題はオーケストラ(東京フィル)である。先頃プレトニョフの指揮であれほど幻想的な素晴らしい演奏をしたばかりなのに、今回はまた情けない演奏をしてくれた。今日のコンサートマスターはだれか知らないけれども、音がか細く、痩せていて、カサカサに乾いていて、アンサンブルも粗い。J・シュトラウスの馥郁たる香りなど、ひとカケラもなく、まるで昭和20年代の、貧弱な音のSPレコードで聞く歌謡曲の伴奏音楽のような音だ。日本のオーケストラとオペラを愛する者として今度こそ敢えてはっきり言わせてもらうが、これはあまりにひどすぎる。楽団の良心を問いたい。

2027・11・23(木)サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィル

      ミューザ川崎シンフォニーホール  5時

 今回の日本公演は僅か3日。今日はその初日で、プログラムはストラヴィンスキーの「ペトルーシュカ」、陳銀淑の「Chorós Choródon」、ラフマニノフの「交響曲第3番」。

 ラトルは今シーズン末にベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督・首席指揮者を退くので、日本でこのコンビが聴ける機会はこれが最後となる。但し来年春のバーデン・バーデン(イースター・フェス)でもラトルはベルリン・フィルを振るし、その後夏あたりまではしばしば共演するわけだから、ヨーロッパへ行けばまだ山ほど聴けるのはもちろんである。

 思えば私も、このコンビの演奏をこの十数年間、随分聴いたものだった━━シェフ正式就任直前に聴いたベートーヴェンの「第9」での新鮮な演奏をはじめ、その後のベートーヴェン・ツィクルス、ザルツブルクでの「指環」「ペレアスとメリザンド」「ピーター・グライムズ」などのオペラ公演、その他挙げきれぬほどの演奏会の数々。
 ただ、その中でどれがいちばん感動的だったか、と問われたら、さて何を挙げられるか・・・・。どれがいちばん印象に残っているか、と問われれば、ザルツブルク音楽祭での「ピーター・グライムズ」における演奏、と答えてもいいだろうが━━。

 だが、今日の1曲目「ペトルーシュカ」で、冒頭から飛び行くが如き痛快なテンポで展開した切れ味のいい華麗な音楽は、まさにラトルとベルリン・フィルの最上のものと言って間違いない。

 休憩後の1曲目に演奏された陳銀淑の「Chorós Choródon」は、作曲者の解説によれば「Dance of the Strings(弦の踊り)」を意味するものだそうで、ベルリン・フィルの委嘱作品として今月ベルリンで初演されたばかりという。
 音響的な沸騰が一時収まった中間部で不思議に和声的な響きが現われ、そのあと再び極限まで昂揚を重ねて行くといった起伏感の豊かさは印象に残ったが、全体としてはごく「解り易い」類の作品だろう。

 ラフマニノフの「第3交響曲」は、何度聴いても変なシンフォニーだ。出来栄えという点でも、あの傑作の「第2交響曲」には及びもつかない。
 ラトルとベルリン・フィルは、ここでも彼らならではの強靭なエネルギーを全開し、殊更に激しい怒号などを交えて、このオケらしい威圧感を生み出したが、所詮はその範囲に留まる演奏だったと言えようか。終楽章のエンディングでは、音量的には壮大ではあっても、推進性という点では何か不思議に物足りないものが感じられたのだった。

 アンコールでは、プッチーニの「マノン・レスコー」からの「間奏曲」が演奏された。剛直かつ轟然たるプッチーニで、これはこれで微笑ましい。力感豊かに最強奏の頂点を築いたあと、それがさあっと潮の引くように収まって行き、豊麗な音を保ちながら静かに結んで行く、というあたりの流れの鮮やかさは、この巨大戦艦ベルリン・フィルの身上だ。

2017・11・22(水)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団

      サントリーホール  7時

 先週に引き続き、ソフィエフがプロコフィエフの作品を振る。
 プログラムは、組曲「キージェ中尉」、「スキタイ組曲《アラとローリー》」、「交響曲第7番《青春》」。コンサートマスターは篠崎史紀。

 ソヒエフもN響とはやはり相性が良いのか、以前より呼吸も合って来たように感じられる。今月定期の2種のプロコフィエフ・プロは、いずれもニュアンスの豊かな、密度の高い演奏になっていた。
 「キージェ中尉」は何か重々しく物々しい演奏だったが、見方を変えれば、シンフォニックな組曲という要素が強くなっていたと言えるかもしれない。この抑制された表情での演奏が、次の「スキタイ組曲」での凶暴な楽想を漲らせた大音響との対比を為すのは当然。それがプログラミングの妙というものだろう。

 この「スキタイ組曲」の「邪神」など、ゲルギエフが指揮すると音楽に怪奇な魔性のようなものが漲って来るのだが、ソヒエフはそこまでの域には達していないとはいえ、最後の大頂点ではゲルギエフもかくやの壮烈なエンディングをつくり出した。ここでのN響の量感たっぷりの怒号の演奏は、なかなかのものであった。

 休憩後の「第7番」は、作品に備わるロマンティックな要素を先行させた、豊麗な演奏と言ったらいいか。もちろんそれは、曲の性格に忠実なスタイルの演奏で、悪くはない。だがそういうストレートな演奏で聴くと、やはりこの曲を書いた頃のプロコフィエフの創作力には、かつての野心的な姿勢や緊迫度がもう失われていたのかもしれないな、などと感じてしまうのである。
 なおプログラム冊子には、全曲の最後が静かに終る「初稿」が使われるようなニュアンスの解説が載っていたが、実際の演奏は、軽快な主題の再現で締め括られる「改訂稿」の方だった。

2017・11・21(火)ロイヤル・オペラ・ハウス・シネマ 「ラ・ボエーム」

     東宝東和試写室  6時

 こちらはロンドンのコヴェントガーデン、ロイヤル・オペラの上映ライヴのシリーズ。10月3日に上演されたプッチーニの「ラ・ボエーム」の映像だ。
 一般公開は11月24日から1週間だが、それに先立ちマスコミ関係者相手の試写会が行われた。

 演出はリチャード・ジョーンズ。ロイヤル・オペラとしては、何と四十数年ぶりの新演出だそうな。
 これもストレートな手法のもので、2組の恋人たち━━ロドルフォとミミ、マルチェッロとムゼッタ━━の描き方も温かいが、それ以上に4人の男たちの深い友情が実に人間味豊かに描かれているのに感銘を受ける。
 ステュアート・レイングの舞台装置も、第3幕の雪の場面はあのゼッフィレッリのそれに劣らず美しく、第2幕でアーケードの光景がレストランの内部に替わって行く舞台装置の移動などで凝った手法を見せてくれる。

 アントニオ・パッパーノの指揮の鮮やかさについては、改めて触れるまでもない。私はこのオペラの音楽について、ある種の好からざる固定観を持っていたけれども、今日はそれを払拭してくれるような演奏だった。

 歌手陣は、ロドルフォをマイケル・ファビアーノ、ミミをニコール・カー、マルチェッロをマリウシュ・クヴィエチェン、ムゼッタをジョイス・エル=コーリー。━━試写室で配布された1枚の紙には、配役はこれだけしか載っていない。
 因みにロイヤル・オペラのサイトを覗いてみると、コリーネをルカ・ティントット、ショナールをフローリアン・セムペイが歌うと載っており、またムゼッタ役にはエル=コーリーでなく、シモーネ・ミハイの名が残っている。そういえば、シネマの案内役の女性が開演直前に「代役は2人、誰々と誰々です」と、それだけをいきなりアナウンスしていたが・・・・。
 結局、正確なところは、エンド・タイトルのクレジットを確認しなければ判らない。しかし、ロイヤル・オペラのサイトともあろうものが、上演済みの日のキャスト一覧表を訂正しないまま放ったらかしているなどということがあるのか? 

 とはいえ東宝東和の資料にしても、松竹のMETのそれと違い、データが極度に乏しい。上演収録日も記載されていない上に、第1幕と第2幕を「第1幕」、第3幕と第4幕を「第2幕」と表示しているところなど、如何なものかと思う。
 またシネマの方も、案内役は美人キャスターだが、そのハイテンションのビンビン響く声は耳につくし、話の脈絡や起承転結が時々曖昧になるのも困る。

 だが、いい面もある。休憩時間枠に挿入されるパッパーノのピアノを弾きながらの解説は、非常に貴重で面白い。これは「METライブビューイング」にはない強みだ。

2017・11・20(月)METライブビューイング 「ノルマ」

    東劇  6時30分

 メトロポリタン・オペラの10月7日上演ライヴ映像によるベルリーニの「ノルマ」。
 デイヴィッド・マクヴィカー演出、カルロ・リッツィ指揮、ソンドラ・ラドヴァノフスキー(ノルマ)、ジョイス・ディドナート(アダルジーザ)、ジョセフ・カレーヤ(ポリオーネ)、マシュー・ローズ(オロヴェーゾ)他の配役。上演時間は3時間27分。

 ストレートな演出だが、演技は非常に微細であり、劇的な迫力は申し分ない。
 METならではの豪華な5面舞台が活用されているという話だが、総じて場面が暗いために、はっきりとは判らない。ロバート・ジョーンズの舞台美術も「神聖な樹」である樫の大木をモティーフにしているという説明があったが、これも暗くて定かではない。
 要するに、そういう神秘性を含んだ重苦しい場面で繰り広げられる人間ドラマだということである。それに、主役歌手3人の演技が抜群に上手いので、緊迫感も充分だ。

 ただし今回は、第2幕の「戦いだ!」の激しい合唱のあとに叙情的な部分が続く版が使用されていたが、これは音楽的には素晴らしい流れとはいえ、カタストロフへの緊迫感の保持という点からみると、さすがのマクヴィカーもちょっと扱いかねていたようにも感じられる。

 ひときわ優れていたのが、ディドナートの演技だ。
 彼女の説明によると、アダルジーザを演じ歌うにあたり、マクヴィカーからフェデリコ・フェリーニ監督の映画「道」を見るように勧められたという。あの主人公ジェルソミーナの「純真さと献身的な心」というコンセプトを、そのままアダルジーザに当てはめて欲しい、と━━。その演出家の意図を鮮やかに具現したディドナートも見事だった。

 カレーヤも結構上手い。ポリオーネという身勝手で無責任な男をこれだけいやらしく、しかも堂々たる風格で演じるとは、たいしたものである。大詰での悔悟の演技も、体格が立派だけに、現実味を感じさせた。そしてもちろん、ラドヴァノフスキーの巧さは言うまでもない。
 この3人、幕間のインタヴュ―では、実に陽気だ。そして役柄の解釈について明るく語ってくれる。オペラの演劇的要素について如何に深く認識しているかの証拠である。

 カルロ・リッツィの指揮は、劇的な面では少々頼りなく、序曲などトロトロしていて、どうなることかと思わせたが、しかし歌手たちに「歌」を美しく歌わせるという点では、やはりうまいものである。主役3人が歌唱面で素晴らしかったこともあるが、特にノルマとアダルジーザの二重唱は、どれも圧巻と言えるほど見事だったのだ。
 (「和解の二重唱」の最後の部分で、ディドナートがスタッカートで歌っていたのに、ラドヴァノフスキーがレガートで歌っていたことだけは、その解釈について詳しい方の意見を伺いたいところだが)。

 総じてこれは、実に聞き応えのある、素晴らしい上演だ。ノルマという役柄には本当に度外れた歌唱力と演劇的感覚が要求されるのだということが、つくづく実感できた演奏であった。

2017・11・19(日)ガッティ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

        ミューザ川崎シンフォニーホール  6時

 マリス・ヤンソンスの後任として、昨秋から首席指揮者に就任しているダニエレ・ガッティ━━ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(RCO)が彼とのコンビで来日するのは今回が初めてである。
 このガッティという人、ナマでは私もこれまで数え切れないほど聴いて来たが、オペラにしろコンサートにしろ、どうもピンと来なかった。だからRCOのシェフとしては、あまり期待していなかったのだが、━━今日のマーラーの「第4交響曲」には少々驚き、コンサート・レパートリーにおけるガッティの感性を、俄然見直した次第だ。

 第1部でのハイドンの「チェロ協奏曲第1番ハ長調」では、RCOの首席チェロ奏者になってしまったタチアナ・ワシリエヴァが、少し重かったが濃厚なソロを聴かせてくれた。ここでは、ガッティの指揮も、まず標準的といったところだろう。

 しかし、RCO、ガッティともに個性的だったのは、休憩後のマーラーの「第4交響曲」だ。これほど明晰な構築で演奏された「4番」は、滅多に聴いたことがない。
 チェロやコントラバスのパート各々がまるで一つのソロ楽器のように響く。管楽器の各々がメリハリよく明確に際立ち、粒立って聞こえる。ホルンもクラリネットも、くっきりと浮かび上がって響いて来る。つまり大オーケストラの中の楽器の一つ一つの存在がはっきりと感じ取れるのだが、しかもそれらがアンサンブルとして完璧にバランスよく響いているのである。

 もともとマーラーのこの時期の交響曲━━特に「3番」と「4番」━━のスコアはそのように室内アンサンブルのような精緻さで書かれているのだが、それをこれほど浮き彫りにした演奏は滅多にないだろう。こういう「4番」は、ふんわりした穏やかな円満な感じの演奏の「4番」より、はるかにスリリングで面白く、退屈させられることがない。

 ガッティの設計も、なかなか細かい。第3楽章では陶酔的な主題を美しく歌わせ、思い切り大きな「矯め」をつくりながら神秘的な雰囲気を醸し出し、その緊張をあのフォルテ3つの爆発で解放(ここでソリストが上手ドアからゆっくりと登場して来るのは予想通り)したあと、再び夢のような沈潜に戻って行き、━━そしてクラリネットが楽譜通りのピアノ3つで温かく主題を吹きはじめ、かくて別の世界に入って行くという、このあたりの流れはひときわ素晴らしかった。「鈴のモティーフ」を激情的に奏させ、歌による夢幻的な世界と鋭い対比をつくり出すのも印象的である。
 このマーラーだけを聴いて云々するのは早計だろうが、こういう芸当(?)を見せるガッティであれば、RCOとの共同作業、案外うまく行くかもしれない。

 なお、ソリストのマリン・ビストレムは、ユリア・クライターの代役としての出演だが、声質はソプラノというよりメゾ・ソプラノに近い。これが曲に翳りを生じさせ、不思議な面白さを感じさせた。立ち位置は最後段、ティンパニの上手側横だったが、声楽がオーケストラの奥から響いて来るという音響効果も、これが「声楽曲」でなく、それまでの管弦楽の流れの中に加わった一つの天使の声なのだ、というコンセプトを感じさせるものであった。

2017・11・18(土)ピエタリ・インキネン指揮日本フィル

       サントリーホール  2時

 メインのプログラムは、ブルックナーの「交響曲第5番」。インキネン=日本フィルのブルックナーとしては、今年1月の「第8交響曲」に続くものだ。

 「8番」の時と同様、テンポを遅く採った演奏である。
 ただしあの「8番」ではトランペットなどが抑制され、どちらかといえば柔らかい感じの演奏になっていたのに対し、今日の「5番」では金管群もティンパニも豪放に轟き、全管弦楽のリズムも非常に鋭角的になり、驚くほど厳めしく、かつ攻撃的な演奏になっていた。第3楽章など、あたかもハンマーで叩きつけるかのような、コンクリートの角材を打ち込むかのような、強靭なリズムで進められていたのには、本当に驚いた。

 第4楽章最後の豪壮なクライマックスでのティンパニは見事なトレモロだったが、最後の変ロ長調の和音を、その前のトレモロから一度切って「独立気味に」叩いたのは指揮者の指示かもしれないけれども、全体の流れからするとやや疑問がある。
 しかし、この終結部は素晴らしい盛り上がりを示していた。コラールの和声的な美しさや陶酔感などには不足するところがあったものの、これは今の段階では仕方のないところだろう。

 ともあれ、これほど咆哮し怒号しながら、全体に音が濁らなかったのが立派である。これは、日本フィルにとっての新境地だろう。

 「インキネンのブルックナー」に関しては、「8番」の時にも未だ全貌がつかみにくいと書いたが、今日の「5番」を聴いて、ますます彼のコンセプトが把握しにくくなった。
 彼の方針は、ある作曲家の作品群はこのようなスタイルであるべき、という考え方でなく、同じ作曲家のものであっても、作品によっていろいろなスタイルを出して行く、というもののようだが、その基準点、分岐点を何処に置いているのかが解りにくいという意味である。

 とはいうものの今回、日本フィルとしては、過去にほとんど聴いたことのないような整然とした剛直なスケール感を備えた演奏がつくられていたことには間違いない。インキネンが首席指揮者に就任して以来、このような新しい境地が開かれて来ているのは、本当に喜ばしいことである。
 なおこの「5番」に先立ち、「日本フィル共同委嘱作品」として2年前に作曲されたラウタヴァーラの「In the Beginning」という、短い、美しい作品が演奏された。作曲スタイルは全く異なっているにもかかわらず、これはそのあとの大交響曲と調和する。ただしこの2曲は続けて演奏されたわけではなく、ただ「休憩を挟まずに」演奏されただけである。
 コンサートマスターは扇谷泰朋。

2017・11・17(金)トゥガン・ソヒエフ指揮NHK交響楽団 「イワン雷帝」

      NHKホール  7時

 このところ3シーズン連続でN響に客演、何となく「首席客演指揮者」のような存在になってしまったトゥガン・ソヒエフ。回を重ねるごとにオーケストラとの呼吸が合い、演奏も鮮やかさを増して来るようである。

 特に今月のC定期、プロコフィエフのオラトリオ「イワン雷帝」(スタセヴィチ編)の演奏は、流石と言えるものだった。
 N響(コンサートマスター・篠崎史紀)が響かせる豊かな音の量感が生み出す壮大なスケール感は、言うまでもない。だがそれ以上に、ソヒエフがN響から引き出したこの日の演奏には、プロコフィエフの音楽が持つ、独特の雰囲気が━━それは旋律や和声の音色などを含んではいるが、それだけではなく、聴き手が一瞬のうちに「プロコフィエフ!」と感じてしまうあのえもいわれぬ独特の個性的な音楽のことなのだが、それが演奏の多くの個所にあふれていたのである。
 異国のオーケストラから、このような特徴を引き出すソヒエフの力量は、やはり卓越したものというべきだろう。

 そしてまた感嘆させられたのは、東京混声合唱団(合唱指揮・松井慶太)と東京少年少女合唱隊(合唱指揮・長谷川久恵)の見事さだ。
 とりわけ、両者がア・カペラで歌う「タタールの草原」━━プロコフィエフが「戦争と平和」でも使っている曲で、私は何故かこの曲がえらく好きなのだが━━での、弱音からクレッシェンドしつつ、低音から高音へと拡がって行くこの合唱の美しかったこと! それはロシアの合唱団が歌う時のような、大地から湧き上がって来るかの如き力強さとは違うけれども、その代り澄んだ透明な音色の響きが祈るように拡がって行くといった神秘性を感じさせたのである。敢えて言うなら、今日はこれを聴けただけで満足したと言ってもいいか。
 因みにこの「イワン雷帝」には、チャイコフスキーが「1812年」に使ったロシア聖歌「主よ汝の民を守り給え」なども出て来て、なかなか楽しいものがある。

 独唱のスヴェトラーナ・シーロヴァ(Ms)とアンドレイ・キマチ(Br)も好演。
 ナレーターとして片岡愛之助が出演、曲の間や曲に乗せる形で、これだけは日本語で非常に劇的な「語り」を展開した。ナレーションがちょっと伸びて、合唱の入りにかぶってしまったところが1カ所だけあったのを除けば、まずうまく行っていただろう。ナレーションが終って演奏に入る時の「間」は、もう少し詰めたい気がするが、外国人指揮者との協同作業となれば、その辺は難しいところだ。

 なおプログラム冊子には、演奏時間69分と記載されていたが、これはソヒエフのCD(語り無し)での数字だ。ナレーションが入った今日の演奏は82分ほどになっていたはず。

2017・11・16(木)オーギュスタン・デュメイ指揮関西フィル

      いずみホール(大阪) 7時

 関西フィルハーモニー管弦楽団の「いずみホール定期」を、音楽監督オーギュスタン・デュメイの指揮で聴く。
 シューマンの「マンフレッド」序曲、同「チェロ協奏曲」(ソリストはアントニオ・メネセス)、シューベルトの「交響曲《ザ・グレイト》」。コンサートマスターは近藤薫。

 デュメイと関西フィルを、シンフォニックなプログラムで聴くのは久しぶりだ。もともと彼の指揮は、ちょっと奔放で、時に荒々しい力ほどの力を噴出させるスタイルだという印象もあったのだが、しかし今日の前半のシューマンの2曲では、極めて翳りのある音色と表情を関西フィルから引き出していたのが、とりわけ印象的だった。
 「マンフレッド」では曲の標題に相応しく、特に後半では激情をこめた緊迫感を漲らせた。「チェロ協奏曲」でも、アントニオ・メネセスの深みのあるソロに対抗してオケから引き出した憂愁感とメリハリの強いリズムは、なかなか「聴かせる」ものであった。

 それにしても、メネセスのヒューマンな演奏は素晴らしい。特に後半にかけての雄弁な昂揚は、シューマンの陰翳に富んだ美しさを余すところなく描き出して、実に強い感銘を与えてくれた。メネセスは、この曲を最近レコーディングしたばかりということもあってなのか、あちこちで演奏しているようである。日本でも、このあと紀尾井ホール室内管とこの曲を協演することになっている。

 「ザ・グレイト」は、このところ妙に演奏会でよく聴く機会があるが、今日のそれは実にユニークなものだった。
 デュメイのテンポは、第1楽章序奏からして相当速い。特に第2楽章などは、スコア指定の「アンダンテ」ではなく、アレグレットか、あるいはそれ以上か。最初の主題では、軽快なリズムで、弾むように演奏していた。

 各楽章の演奏時間は、大雑把な計測だが、13分、13分、13分、10分。第1楽章と第4楽章の各提示部はリピートなし。それでも50分ほどにまで達していたのは、第3楽章のスケルツォ前半とトリオがリピートありだったのと、第4楽章が(速いながらも)比較的通常のテンポに近い速度だったからだろう。

 そういえば昔、ユーディ・メニューインが新日本フィルを指揮した時、リピートは一切なしで、しかも終楽章を前代未聞の速力で驀進させ、全曲を計43分という、あり得ないような演奏時間でやってのけたことがあった。
 今日の演奏の場合、かりにスケルツォとトリオの反復がなければ4分ほど縮まったはずだから、そうすれば45分・・・・。あり得ない数字でもない。考えてみると、メニューインもデュメイもヴァイオリニストだ。ヴァイオリニスト出身の指揮者が振るとそうなるわけでもあるまいに。

 こういう快速テンポで演奏すると、細部が粗っぽくなるのはある程度致し方ない。
 だが想像するに、デュメイとしては、この「ザ・グレイト」を、ロマン派音楽を確立したモニュメントだとか、あるいは古典派音楽の偉大な残照だとかいったイメージで捉えるのではなく、むしろこの曲の中に、「オーストリア人シューベルト」の自由奔放な、軽快な性格を見ていたのかもしれない。
 この演奏を詳細に聴けば、一気呵成に単調に押しまくるのではなく、フレーズごとに、あるいは主題の移行個所で細かくテンポを調整していたし、粗っぽいように見えても、主題に微細な漸弱・漸強を施していたのが判る。

 また第3楽章トリオでは、特に木管の声部のバランスに気を配っていたと思われる。関西フィルがそのデュメイの意図に全面的に応じられたとは言い難かったが、しかし第3楽章トリオでの演奏はことのほか美しく、特にオーボエをはじめ木管群が━━ハーモニーとして動くよりもメロディ・ラインとして交錯するというユニークな構築には、格別な面白さがあった。

 オーケストラのアンコールは、ビゼーの「アルルの女」からの静かな「アダージェット」。これは以前にも聴いた。デュメイはこの曲が好きと見える。

2017・11・15(水)チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ

      サントリーホール  7時

 旧称モスクワ放送交響楽団。芸術監督・首席指揮者はおなじみウラジーミル・フェドセーエフ。チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」とラフマニノフの「第2交響曲」をプログラムに組んだ。これは、今回の来日ツアー最終日の公演だった。

 フェドセーエフも、もう85歳。彼の演奏も、近年はやや淡白な味になって来たことを感じさせる。今日の2つのロシアの作品でも同様の印象だ。
 ラフマニノフの「第2交響曲」など、昔だったらもっと濃厚な色彩感と、轟くような重量感、怒涛の如き推進性、深い陰翳と哀愁、といったものを漲らせていたものだが、今日は━━彼と「モスクワ放送響」にしては━━ずいぶんあっさりした演奏になってしまったな、という感だったのである。
 ただ、今回は弦14型編成の規模での演奏であり、またメンバーもだいぶ若返っている様子なので、いっそうその印象が強くなっていたのかもしれない。

 アンコールでは、フェドセーエフ得意のスヴィリドフの「吹雪」からの「ワルツⅡ」と、チャイコフスキーの「白鳥の湖」からの「スペインの踊り」を演奏したが、打物陣が大活躍する後者で、あの「二刀流タンバリンおじさん」が健在で派手なところを見せていたのには、なんとなくうれしくなった。彼の持芸を知っている聴衆も多いので、拍手も歓声もひときわ大きくなる。

 なおプログラムの第1部におけるチャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲」では、人気沸騰の三浦文彰がソロを弾いたが━━彼のおかげで満席近くまで切符が売れたということもあるだろうが━━残念ながらオケとは水と油といった感。ただバリバリ弾けばいいというものではない。
 来日オケに日本人ソリストを組み合わせること自体が悪いことだなどと言っているのでは毛頭ないが、その場合はソリストの個性と、オケの伝統的個性と、レパートリーとにおけるそれぞれの相性を、もっと慎重に検討してからにすべきではないか。
 また、それとは別の問題だが、オーケストラが起立したまま、もう引き上げたいという姿勢を示している真中へ割って入り、構わずソロ・アンコールを演奏しはじめるというのもいかがなものだろうか。

2017・11・14(火)大平まゆみ ヴァイオリン・リサイタル

      Hakuju Hall  7時

 札幌交響楽団のコンサートミストレス、大平まゆみさんの「地」の演奏を聴くのは今回が最初━━コンサートマスターとしての演奏はしばしば聴いているけれども、指揮者の意向を汲み取って演奏する時あるいはアンサンブルのリーダーとして演奏する時と、自らのスタイルを自由に押し出せるリサイタルでの演奏とは、明らかに違うはず。そういう意味でも興味津々だったが、果せるかな、予想していたのとは随分イメージが違った。

 プログラムは、第1部がバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」とブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ第2番」。こちらでも随分情熱的な演奏をする人だと感心したが、第2部のサラサーテ特集━━「カルメン幻想曲」「アンダルシアのロマンス」「サパテアード」「ツィゴイネルワイゼン」では、さらに情熱的な演奏になり、豪快奔放なほどの表現になった。
 このホールは「よく響く」ので、音量も、演奏にみなぎる力も、強靭なものになる。深紅のドレスに身を包んで大きな身振りで弾く迫力も、なかなかものだ。にこやかな表情の方だが、パッショネートな音楽家なんだな、という印象。

 もっとも、そのわりにステージ上のトークの声は優しく低く、しかも早口だったので、後方客席からはあまりよく聞き取れなかったが・・・・ともあれ、オーケストラの一員として弾いている時の彼女とは違った面を見ることができて、すこぶる愉しい演奏会であった。

2017・11・12(日)ユベール・スダーン指揮東京交響楽団

        ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 1曲目の、マックス・レーガーの「ベックリンによる4つの音詩」は、つい2日前に上岡敏之指揮新日本フィルの定期でも聴いたばかり。滅多に演奏されない曲が何故か偶然接近して各楽団のプログラムに載るというケースは不思議によくあるものだ。

 しかしこちら、スダーンと東京響の演奏では、4枚の「絵」は、非常に隈取りのはっきりしたイメージで再現されている。第1曲の「ヴァイオリンを弾く隠者」でのソロは、コンサートマスターのグレブ・ニキティン。隠者というよりも、壮年の哲人と言った方がいいようなソロだったが、それはこの作品全体の演奏の性格を象徴していたとも言えよう。
 そのあとに、フランク・ブラレイをソリストに迎えての、ダンディの「フランスの山人による交響曲」が続き、気分は一気に開放的になる。

 休憩後はドヴォルジャークの「新世界交響曲」だったが、これもなかなか聴き応えのある演奏だった。郷愁とか民族音楽的叙情美が蔑ろにされていたわけでは決してないけれども、それよりもむしろ、毅然たる姿勢で屹立する、造型性の豊かな、がっしりと構築された「新世界交響曲」だったのである。これは、いかにもスダーンらしい個性を感じさせる演奏だった。聴き慣れた曲が、実に新鮮に聞こえたのである。東京響の管に、以前ほどの安定感がないのだけが気になるけれども。

2017・11・11(土)ブロムシュテット指揮ゲヴァントハウス管弦楽団

      サントリーホール  3時

 ヘルベルト・ブロムシュテットは90歳。だが相変わらず元気だ。歩行もしっかりしているし、指揮台では椅子など使わない。何より、オーケストラから引き出す音楽が、壮者を凌ぐエネルギーに満ちている。

 休憩後に指揮したシューベルトの交響曲「ザ・グレイト」では、全ての反復指定を遵守した長丁場を、速めのテンポと、荒々しいほど強靭なデュナミークを駆使して、些かの緩みもなく指揮して行った(リピートをすべて守りながら、全曲の演奏時間が63分にとどまっていたというのは、相当速いテンポだった証拠だろう)。演奏に湛えられた滋味という点ひとつ取ってみても、この人はやはり、ドイツの老舗オーケストラを指揮した時の方が、最も良さを発揮するようである━━というのは、私の独断的な印象なのだが。

 しかし、この日の大きな驚きは、前半に演奏されたブラームスの「ヴァイオリン協奏曲」である。あの異様に遅く沈潜した、粘ったテンポは、ソリストのレオニダス・カヴァコスの選択か、それともブロムシュテットの意図か。

 カヴァコスのソロは、いつものように骨太で強靭で、しかも陰翳の濃い表情で、この協奏曲をいっそう深みのある、思索的なものにしていたが、今にも停まってしまうかと思えるようなあの遅いテンポ(第1楽章だけで25分、第2楽章10分、第3楽章9分━━正確ではないかもしれないが、大体そんなところだろう。最初の2つの楽章は、CDに入っているケネディとテンシュテットの方がもっと遅いだろうが)は、それが一分の緩みもなかっただけに、凄まじい緊張感で聴き手をねじ伏せる。
 これまでは切れ味のいい、斬り込むような演奏が身上だと思っていたカヴァコスが、こんな沈潜した凄味のある音楽を聴かせてくれるとは、全く予想外であった。だがその演奏が、少しも奇を衒ったものでなく、あくまで真っ向勝負のものだけに、説得力がある。

 しかもブロムシュテットとゲヴァントハウス管弦楽団が、そのカヴァコスの演奏を揺るぎなく、どっしりと、これまた一分の弛みもなく支え、更なる深淵へ煽り立てて行くのだからますます凄い。第1楽章終りでの最強音の和音の反復など、これほど変化に富んで意味深く演奏されていた例を、私は初めて聴いた。

 とにかく、その演奏には完全に引き込まれたが、聴き終った瞬間にはヘトヘトになっていた、というのが正直なところである━━ただし快さのある疲労感ではあったが。
 しかもカヴァコスはそのあとに、バッハの「パルティータ第2番」の「サラバンド」をアンコールとして弾いた。これまた強い、いい意味での粘着力に満ちていた。これで、更にヘトヘトになった。
      別稿 音楽の友新年号 演奏会評

2017・11・10(金)映画「ホリデイ・イン」

     東劇  7時

 1942年のアメリカ映画「スイング・ホテル」(原題はHoliday Inn。ビング・クロスビー、フレッド・アステア他主演。音楽:アーヴィング・バーリン)が、ミュージカル映画になって現われて来た。「アーヴィング・バーリン最新作ミュージカル」という触れ込みだが、彼は1989年に101歳で世を去っているのだから・・・・さながら「フルトヴェングラーの最新録音」と言うが如しか?

 共同脚本と監督がゴードン・グリーンバーグ。ラウンドアバウト・シアター・カンパニーの公演のライヴ収録HDということらしいが、よく解らない。とにかく、あのオリジナルの映画から生まれた名曲「ホワイト・クリスマス」をはじめ、「イースター・パレード」や「ブルー・スカイズ」など、アーヴィング・バーリンの懐かしい音楽が飛び出して来るので、われわれの世代にとっては感無量の趣がある。

 今回の映画は、良き時代のアメリカ━━理想郷アメリカというイメージにあふれていたミュージカル映画の蘇りを感じさせる。こうした映画がまた製作されるようになったということは、非常に興味深い。現代のアメリカにまた何かが起こりつつあるということの表れなのだろうか。
 上演時間は約2時間。オペラと違って短いのは有難い(?)。

2017・11・10(金)上岡敏之指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

      すみだトリフォニーホール  2時

 ラフマニノフの「死の島」、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストはカティア・ブニアティシヴィリ)、レーガーの「ベックリンによる4つの音詩」。コンサートマスターは崔文洙。

 これは実に凝った選曲で、しかも意欲的である。
 ラフマニノフの「死の島」はベックリンの画を基にした交響詩であることは周知のとおりだが、レーガーの「音詩」の中にも、「死の島」という曲が含まれている。両者を組み合わせた発想は秀逸だし、われわれ聴き手にとっても、あの不気味な絵画から生まれた2つの曲を比較できるという意味で興味深い。
 間に置かれたチャイコフスキーのコンチェルトはちょっと異質な存在で、当然これは「客寄せ系」とも言えようが、前後の作品の重苦しい雰囲気の中に一篇の明るさを投じるという意味では、存在価値を発揮するだろう。

 上岡と新日本フィルも、ラフマニノフとレーガーの重厚な作品を、濃厚に、しかし滋味豊かに演奏してくれた。
 前者の「死の島」については、レコード評論の大先達あらえびす(別名・野村胡堂)が「凄まじく手の混んだ曲だが、少し鬱陶しい」(「楽聖物語」)と評した一文が今でも頭にこびりついているのだが、今日の演奏は、重々しいけれどもあまり不気味ではなく、むしろ色彩的なものが感じられ、この作曲家の管弦楽法の巧さが印象づけられる結果になっていた。
 レーガーの「4つの音詩」では、「ヴァイオリンを弾く隠者」で崔文洙が濃い表情を聴かせたのが印象に残るけれども、「死の島」に関する限りは、やはりラフマニノフの方が一枚ウワテだったな、という感も。大体、レーガーの音楽は、理屈っぽいのだ。

 チャイコフスキーでは、ブニアティシヴィリと上岡の対決的な演奏が何とも興味深かった。冒頭のホルンは恐ろしいほど濃厚に、粘った遅いテンポで始まったので、この調子でピアニストもやるのだろうか、とギョッとさせられたが、やはり彼女の方は独自の勢いで押し通して行く。とにかく、指揮者とソリストが「合って」いるような、いないような、このせめぎ合いがこれまたスリリングで、聴き手を退屈させない。

 彼女としてはやはり速いテンポで「軽快に」突き進む部分に良さを感じさせたのは、先日のリサイタルでの演奏と同じである。とはいえ、今日ソロ・アンコールで弾いたシューベルト~リスト編の「セレナード」の、翳りのある音色と極度に遅いテンポによる沈潜しきった演奏は、彼女の幅の広さを示すものになっていた。

 「死の島」で始まった今日の重苦しいプログラムは、最後のオーケストラ・アンコールでのワーグナーの「ジークフリートの葬送行進曲」で、とどめを刺される。「死の動機」が速いテンポで演奏されたのは、私の好みではないけれども、上岡が今「指環」を指揮したらどんなものになるかを垣間見せてくれたという点で、これも貴重な機会であった。

2017・11・9(木)METライブビューイング モーツァルト:「魔笛」

      東劇  6時30分

 終演後すぐに日比谷の日生劇場を飛び出し、東銀座の東劇へ向かう。同じオペラでも、こちらは映画だ。モーツァルトの「魔笛」で、メトロポリタン・オペラの10月14日上演のライヴ映像。
 今シーズンの「METライブビューイング」の開幕に際し、第1弾となる「ノルマ」に先がけて行われた特別試写会である。

 これはジェイムズ・レヴァインの指揮、ジュリー・テイモアの演出、ゲオルギー・ツィーピンの舞台美術、ドナルド・ホールダーの照明他による実に美しい幻想的な舞台だ。小鳥や熊などの動物や、夜の女王の衣装などが、大勢の黒子によって華麗に舞う。このプロダクションは、以前プレミエされた時、私も現地で観て、その美しさに酔ったものである。

 ただ、その時に最も強く印象に残った夜の女王の衣装のデザインは、今回の上演ではかなり異なっている。あの時は、彼女のアリアの際に、その衣装が真っ暗な舞台の左右いっぱいまで大きな羽根のように拡がり、客席から感嘆の溜息が漏れるほど美しかったものだ。それに比べると今回の衣装はだいぶ小型になってしまっていた。
 また当時、ツィーピンが入れ込んでいたガラスを活用した舞台装置も、今回の舞台ではどうも雰囲気が違う。今回の国内上映用プログラム冊子の解説にそれを重点的に取り上げて書いてしまった手前、少々具合の悪い思いをしている。

 歌手陣は、王子タミーノをチャールズ・カストロノヴォ(台本指定通りの日本の(古代の)狩衣風な衣装とメイクが面白い)、王女パミーナをゴルダ・シュルツ、鳥刺しパパゲーノをマルクス・ヴェルバ(巧い。舞台をさらってしまっていた)、高僧ザラストロをルネ・パーペ(この収録日の公演のみ彼が歌ったそうだ。いつもの彼ほど冴えがないようだったが、貫録は流石のもの)、夜の女王をキャスリン・ルイック、その他。

 上映時間は3時間42分で、10時20分頃に終った。

2017・11・9(木)NISSAY OPERA ドヴォルジャーク:「ルサルカ」

      日生劇場  1時30分

 東京公演はダブルキャストによる計3回公演で、今日は初日。
 田崎尚美(ルサルカ)、樋口達哉(王子)、清水那由太(木の精ヴォドニク)、清水華澄(魔法使の老婆イェジババ)、腰越満美(外国の公女)、森番(デニス・ビシュニヤ)、料理人の少年(小泉詠子)、盛田麻央・郷家暁子・金子美香(森の精)、新海康仁(狩人)の歌手陣に、東京混声合唱団、読売日本交響楽団、山田和樹(指揮)。

 ピットを高めにし、更に木管とホルンを舞台上に配置して、さながらセミ・ステージ上演の趣さえある舞台だったが、これは演出家・宮城聰の意図だと聞いた。しかしこの、あまり大きくない演技空間を使っての演出は、部分的には不満もあったものの、全体としては予想した以上に要を得ていたと思う。

 たとえば第2幕では、赤色系の照明に照らされた華やかな人間界の中で、ルサルカにのみ白色の照明を当て、彼女が疎外されていることを表わしていたが、彼女をずっと上手側に佇立させたまま動かさず、照明のみで他の華やかな登場人物との対照を見せたアイディアは、この狭い舞台をむしろ生かす効果的な結果を生んでいたであろう(照明は沢田祐二、空間構成は木津潤平)。
 ただし欲を言うなら、第3幕で終始舞台上にいて、森の精霊たちの呪詛の対象になっている王子の表情にもっと苦悶のようなものがあれば、と思ったこと、また第3幕でのルサルカの衣装━━というより「着ている洋服」が、何とも世俗風に過ぎて幻想味を失わせていたこと、などだろうか。

 ともあれ今回の上演は、幻想的な物語展開の中に自然と人間の対立や男女の宿命的な悲劇を象徴的に織り込んだ「ルサルカ」という作品を、室内オペラのような形で再現しようとした試み━━と解釈せざるを得ないが、それはその範囲ではかなりの程度まで成功していたと見ていいのだろう。ただ、日生劇場という、それなりの規模を備えた劇場が制作するオペラ・プロダクションとして、このスタイルが適していたかどうかは、別の問題である。

 歌手陣は好演。題名役の田崎尚美は、安定した歌唱を聴かせてくれた。しかも特に第2幕の茫然と佇んでいる場面では、実に悲しそうな雰囲気を全身で表現し、哀れを誘う演技を見せていたところなど、立派なものである。その他、登場した瞬間に華麗な雰囲気を感じさせる腰越満美の見事な存在感、コミカルな味も湛えつつ不気味な雰囲気を出した清水華澄の巧さ、歌と演技を客席で繰り広げたデニス・ビシュニヤと小泉詠子の素朴で温かい味なども印象に残る。

 山田和樹と読響も、魅力的な演奏をしてくれた。大編成のオーケストラが目の前にいながら、その音量の調整がすこぶる巧いので、歌は全くマスクされず、客席によく響いて来たのは有難いことだった。ドヴォルジャークも管弦楽の使い方にもよるのだろうが、山田の「歌とオーケストラ」のバランスの扱いにも鮮やかなものがあるだろう。

2017・11・8(水)ハンヌ・リントゥ指揮東京都響「クレルヴォ交響曲」

       東京文化会館大ホール  7時

 このところ日本で人気急上昇中のフィンランドの指揮者、ハンヌ・リントゥがシベリウスの「クレルヴォ交響曲」を振るとあっては、聞き逃すわけには行かない。しかも合唱にはフィンランド・ポリイテク男声合唱団(指揮:サーラ・アイッタクンプ)、メゾ・ソプラノにニーナ・ケイテル、バリトンにトゥオマス・プルシオ━━と、いずれもフィンランドの演奏家たちを客演に迎えている。コンサートマスターは山本友重。

 満席の東京文化会館とあって音が吸われ、1階席中央で聴く範囲では都響や合唱団の音色に潤いが欠け、演奏も乾いたものに聞こえたのは残念だったが、しかしリントゥの切れの良いリズムでたたみかける強靭な力感、些かの曖昧さも残さぬ明快な表情によって、特に後半にかけては、息もつかせぬほどの迫力で聴き手を巻き込んで行く演奏となった。彼の指揮で聴くと、カレワラの物語に登場するクレルヴォは、森と霧の中から生れ出た悲劇の主人公ではなく、毅然として己が道を貫いた英雄ともいうべきイメージになる。

 アンコールとして、「フィンランディア」が、合唱入りの版で演奏された。あの叙情的でありながら満々たる意志の力を込めた主題が、「フィンランディア讃歌」の合唱で歌われるのは、すこぶる感動的なものである。欲を言えば、最後の個所にも壮大な合唱を入れてくれれば、いっそう感銘深いものになっただろうけれど。

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