2017-05

2017・4・12(水)新国立劇場 ヴェルディ:「オテロ」

      新国立劇場オペラパレス  7時

 2009年にプレミエされたマリオ・マルトーネ演出の、5年ぶり3度目の上演。舞台に水が湛えられているあの舞台だが、今回は少し細部を変えたか? 最初に観た時よりも、人物たちの動きを含めて、舞台全体に少し緊張感が薄らいでいるようにも感じられる。

 今回は、指揮をパオロ・カリニャーニ。オテロをカルロ・ヴェントレ、デズデーモナをセレーナ・ファルノッキア、イアーゴをウラディーミル・ストヤノフ、ロドヴィーコを妻屋秀和、カッシオを与儀巧、エミーリアを清水華澄、ロデリーゴを村上敏明、モンターノを伊藤貴之、ほか。

 カルロ・ヴェントレって、こんな歌い方したっけ?と思わせるような「オテロの登場」の出だし。ギョッとするほど声も音程も不安定で粗くて調子も悪そうだったが、第2部(第3、4幕)は何とか持ち直して、「オテロの死」はとにかく決めた。
 もともと荒々しい声で吼えるタイプの人だから、「野人オテロ」といった感になってしまうのもやむを得まい。でも、オテロという人物は、本来はもっと知的で高貴な性格を備えているはずなのである(それが錯乱に陥るからこそ悲劇となるのだ)。

 ストヤノフも前半は意外に声がこもり気味で、後半は何とか持ち直したものの、「外面誠実、内面策士」たるイアーゴとしては、歌唱・演技ともに鋭さに欠ける。
 結局、主役3人のうち、温かい誠実な妻としての性格を「心をこめて」表現していたのは、ファルノッキアだけということになるか。
 妻屋、与儀、清水ら脇役の日本人勢の方が、地道に決めていた。

 カリニャーニは予想通り、テンポやデュナミークを煽ること、煽ること。東京フィルと新国立劇場合唱団が咆哮する。ちょっと騒々しいところもあるが、面白い。このくらいの勢いと激しさがないと、ドラマティックなオペラにならない。

2017・4・11(火)METライブビューイング ヴェルディ:「椿姫」

     東劇  6時30分

 3月11日メトロポリタン・オペラにおける上演のライヴ映像。

 例のヴィリー・デッカー演出━━といえば、2005年夏にザルツブルク音楽祭でアンナ・ネトレプコ、ロランド・ビリャソン主演によりプレミエされ、大センセーションを巻き起こし、DVDでも出たあのプロダクションだ。大時計を使ってヴィオレッタの「残された時間」を描き、医者グランヴィルを最初からずっと舞台に登場させて彼女を見守らせる(もしくは死へ導く)役割を持たせた、あの舞台である。
 もう何度も観ているので、個人的にはもう・・・・という気もするが、しかしこの演出自体は、実に精緻で、良く出来たものであることは、疑いない。

 ヴィオレッタを歌い演じたソニア・ヨンチェーヴァがいい。特に第3幕でのアリアは、限りない憧れを感じさせて絶品であった。
 アルフレード・ジェルモンを歌ったマイケル・ファビアーノが少々個性も弱くて物足りないが、世間知らずのボンボンたる感じはある程度出ていたかもしれない。

 父ジョルジョ・ジェルモンはトーマス・ハンプソン。ザルツブルク・プレミエにも出ていて、本人は幕間のインタヴューで「あの頃との違いといえば、老人のメークにあまり時間がかからなくなったこと」と笑いのめしていたけれども、まだまだ元気だ。

 もともとは主役ではなく、歌う個所も二つか三つしかないにもかかわらず、この演出では重要な役割に押し上げられている医者グランヴィルを演じていたのは、誰だか・・・・METのシーズンブックにも配役が出ていない(「Artist Roster」を全部見ればどこかに出ているはずだが、探す時間が無い。映像のクレジットを視ていれば容易に判るだろう)。

 指揮はニコラ・ルイゾッティ。いつもより柔らかい表情に聞こえたのは、録音のせいかもしれない。
 9時20分頃終映。

2017・4・9(日)ジョン・ケアード演出 内野聖陽主演「ハムレット」

      東京芸術劇場プレイハウス  5時

 引き続き東京芸術劇場に留まり、2階の劇場へ向かう。
 シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の上演。7日と8日のプレビュー公演を経て、今日が初日。
 この公演、28日まで東京芸術劇場でやり、そのあと西宮、高知、小倉、松本、上田、豊橋という具合に、5月26日までやるそうだ。もちろん休演日はあるにしても、俳優たちのエネルギーの凄さにはいつもながら感心する。

 今回の上演は、松岡和子の翻訳、ジョン・ケアードと今井麻緒子の上演台本、藤原道山の音楽・演奏、他による舞台だが、出演者数は全部で僅か14人━━ホレイショー役(北村有起哉)を除く役者たちが1人で数役を演じるという形がユニークである。

 ハムレット役(内野聖陽)がデンマーク王子フォーティンブラス役をも演じ、クローディアス王(國村隼)が先王の亡霊との両役を、オフィーリア(貫地谷しほり)が廷臣オズリックをも演じる、という話を聞いた時には仰天し、首をひねったほどだったが、いざ観てみると、全く違和感がないどころか、この「1人2役」というのはドラマトゥルギーとしても実に興味深いことを認識した。
 つまり、ワーグナーの「タンホイザー」で、エリーザベトとヴェーヌスが女性の両側面を描いていることを表わすために、ひとりのソプラノが2役を歌い演じるのとちょうど同じようなものなのである。

 ケアードも、それを狙いとして解釈しているのかと思ったが、彼の「演出メモ」には、「現実と非現実の多層的構造・・・・ハムレットは自分がなるべきだった王=フォーティンブラスとなって甦り、オフィーリアは浅はかなオズリックとなってハムレットの死に立ち会う」という程度のことしか触れられていない。仕方がないので、こちらが勝手に解釈すれば━━。

 たとえばハムレットとフォーティンブラスは、ひとりの王子の「陽」と「陰」の両面の性格を表わす存在とも考えられるだろう。決断を躊躇ってばかりいる己の性格に苛々しているハムレットは、決断力と行動力に富むフォーティンブラスの性格に憧れる。ハムレットが彼を後継者に指定し、己が果たすべき使命を託すのは、即ち彼のもう一つの性格への脱皮にほかならない。。

 また、クローディアス王と先王(亡霊)とは、ひとりの「王」の分身とも解釈できよう。「亡霊」は、いわばクローディアスの裡に残っている「良心」の具現であり、一方クローディアスは、先王の中の(おそらくあるはずの)「悪」の部分を象徴する存在とも考えられるだろう。

 オフィーリア役の女優が男の廷臣オズリックを掛け持ちで演じるというのは、単なる便宜的な方法かと一瞬思ったが、これは、観ているうちにその本来の意味が判って来る━━。 
 ハムレットに殺されたに等しいオフィーリアの心のどこかに、ハムレットを恨む感情が無かったとは考えられない。その彼女の心が、復讐心となって具現された存在が、オズリックなのである。

 ここでのオズリックは、オリヴィエ監督の映画に出て来るような軽薄な役柄ではなく、非常に「形式的な」男なのだが、ハムレットを剣試合の場に案内し、かつ毒を塗った槍を秘かにレアティーズ(加藤和樹)へ渡すという行動に出る。明らかにこれはオフィーリアのハムレットへの復讐(もしくは、自分のいる死の世界へ呼び寄せる)の具現であり、それをオフィーリア役の女優みずからが演じているところに、何とも言えぬ宿命の怖しさが感じられるだろう。
 しかも、極め付きの象徴的な描写は、そのレアティーズがオズリック(つまり妹オフィーリアの分身)の膝に頭を乗せて息絶えるという光景である。
 ━━こういう読み替え解釈を考えつつ、この芝居を観るのも面白い。

 出演は、その他に浅野ゆう子(王妃ガートルード他)、壤晴彦(ポローニャス他)、村井國夫(劇中の王他)、山口馬木也(ローゼンクランツ他)、今拓哉(ギルデンスターン他)、大重わたる、村岡哲至、内堀律子、深見由真、といった人たち。
 唯一、気になったことといえば、台詞の「発音」だろう。全体に、もう少し発音を明確にしていただきたい。人によっては、何を喋っているのかさっぱり判らない役者さんもいたのだ。
 しかしその中で、貫地谷しほりと浅野ゆう子の発音が実に明晰で綺麗なのには、感心させられた。特に貫地谷が、舞台でここまでの力量を示すとは、認識を新たにさせられた次第である。

 舞台、演技、台詞とも、第1部はイメージ的に少し軽く、何となく薄いという印象が抑え切れなかったが、これは事実上の初日だったということも影響しているかもしれない。第2部では、次第に密度が濃くなって行った。
 ホレイショーが、ハムレットの部下というよりも「友人」であるという性格が一層はっきり描かれているのも面白く、特にラストシーンは、彼がただ独り最後まで残って、この悲劇を後世に語り伝える役目にあることを象徴的に描いて結ぶ。この幕切れは、すこぶる印象的であった。

 休憩15分と、カーテンコール5分とを含め、8時25分に終演。客席は超満員である。 
 舞台下手側にも観客席が設置されていたが、これはむしろ、「役者たちと観客たち」の構図を舞台上に作り出す意図によるものだったのではなかろうか。

2017・4・9(日)シルヴァン・カンブルラン指揮読売日本交響楽団

       東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 日曜マチネー・シリーズ、お客さんがよく入っている。プログラムは、ハイドンの「交響曲第103番《太鼓連打》」と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。

 2日続けて「太鼓連打」を聴くことになったが、私はハイドンの晩年の「ロンドン・セット」の中で、実はこの曲が一番好きなので、今日も大いに愉しめた。
 こちらカンブルランは、ティンパニはスコアの指定通り1対。ただしその演奏は、少しく行進曲調の、リズムに変化をもたせたカデンツァ風のもので、長さはアーノンクール盤のそれと同じくらいか(ちなみに昨日の飯森範親のそれは、ミンコフスキに近いスタイルのカデンツァだった)。

 今日のカンブルランは、「太鼓」だけを音量的に強調することはしない。第1楽章の管弦楽をかなり厚い音で堂々と進める。これでこそ、楽曲のバランスが完璧になるだろう。
 第2楽章では、新任のコンサートマスター荻原尚子が美しいソロを聴かせてくれた。
 全曲にわたり、読響らしい音の壮大さ、重厚さが発揮されており、すこぶる起伏の大きな、しかも両端楽章に激しさを備えた演奏となった。こういうハイドンは面白い。

 「巨人」の豪壮な演奏も、さすがカンブルランと読響だけのことはある。音の力感の点では国内一、二を争う存在である読響がマーラーをやると、なかなか凄い。
 多分今日の演奏の中での圧巻は、第4楽章だろう。爆発点での威力も凄まじいが、私が最も感心したのは、その爆発個所の間にある二つの叙情的な個所である。この部分をカンブルランは精緻微細に、しかも非常に濃厚な色彩と表情をもって仕上げてくれたので、ここで緊張感が失われるということは全くなかったのである。

 昨日の演奏ではホルンが不調だったと、聴きに行った知人が盛んにぼやいていたが、今日は━━ちょっと頼りなかった個所もないでもなかったが、一応これなら、というところか。代わって、トランペット・セクションが痛快に咆哮した。しかも音色が、実に輝かしい。わが国のオケのトランペットがすべてこういう力と音色を発揮してくれたら、さらに色彩感が豊かになるだろうに。

2017・4・8(土)大阪4大オーケストラの響演

     ザ・フェスティバルホール  4時

 最初は単発イヴェントかと思われたこのユニークな演奏会も、回を重ね、はや第3回。
 そして今年も、大阪国際フェスティバル(第55回)の一環としての開催である。このフェスティバルの目玉公演の一つとして、定着することになるか。
 ともあれ、この「4大オケ」が、大阪の大フェスティバルにおける、いわゆる「レジデント・オーケストラ」の役割を果たすことになるなら、それは非常に結構なことであるに違いない。どれか1団体が━━となるとカドが立つだろうから、4つ一緒に、となれば、丸く収まるかも。

 さて今年は━━
 飯森範親指揮日本センチュリー響がハイドンの「交響曲第103番《太鼓連打》」
 外山雄三指揮大阪響がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」組曲
 角田鋼亮指揮大阪フィルがR・シュトラウスの「ドン・ファン」
 藤岡幸夫指揮関西フィルがレスピーギの「ローマの松」
というプログラムになった。

 3時半から「プレ」が始まり、まずは4つのオケの金管奏者たちが登場。トランペットとトロンボーン計12本で、大栗裕の「大阪国際フェスティバルのためのファンファーレ」が、続いてホルン6本で、プレスティの「マーチ」が演奏された。
 そのあとに、4人の指揮者たちのプレトークがある。これが、毎年面白い。昨年は無口だった長老・外山雄三が今年は元気で、鋭いツッコミを入れたりして会場を笑わせる。
 進行役は朝日放送のアナウンサーで、野外イヴェントさながらのビンビン響く声で切れ目なくまくしたてるのには疲労させられたが、それはまあ好みの問題としても、この進行役、金管奏者たちを紹介する際に、1人抜かしてしまったような気もするのだが?

 演奏は、毎年のことながら、4オケとも気合の入ったステージだ。
 飯森と日本センチュリー響(コンサートマスター松浦奈々)は、売りもののハイドンの交響曲で勝負に出る。「太鼓連打」に相応しく、ティンパニのパートに趣向を凝らし、冒頭では奏者が太皷をたたきながら入場して来たり、ティンパニを2対にして派手にたたかせたりと、近年流行りのスタイルで聴衆を楽しませる。
 第1楽章では、派手なティンパニに比べ、トゥッティには何となく慎重さが感じられたものの、第2楽章からは音色も多彩になり、表情も豊かになって愉しめた。演奏全体にもう少し洒落っ気があれば、申し分なかったろう。
 松浦さんのコンマスぶりは久しぶりに拝見したが、以前見られたような華やかで愛らしい身振りが影を潜めていたのには少々落胆。なんか言われたのですか?

 外山と大阪響(コンマス森下幸路)は、これはもう、完全に外山スタイルのチャイコフスキーというか。バレエ音楽をひたすらイン・テンポで、頑固に滔々と押して行くという手法には些か賛意を表しかねるが、かりにそれをひとつの交響組曲として解釈するなら、今日のオーケストラのまとまりの良さ、昨年のストラヴィンスキーよりもはるかに濃くなった色彩感の魅力、ということもあって、それなりに説得性をもつ解釈ではあろう。

 休憩を挟んで登場した大阪フィル(コンマス田野倉雅秋)は随一の大編成で、老舗の貫録、フェスティバルホールの「あるじ」オケとしての自信など、威力充分だ。
 これまでの井上道義に替わって指揮台に上がったのは、同団「指揮者」の、若手の角田鋼亮。最近めきめき頭角を現して来た人だが、実は私は、彼の指揮する「正規の」ステージ演奏を聴いたのは、これが初めてなのである。非常に闊達で、勢いのいい指揮なのには、好感を抱いた。大阪フィルを伸び伸びと鳴らした、颯爽たる「ドン・ファン」だ。
 最後の「炉端の火も消え、総てが暗くなった」に相当する個所でオーケストラから引き出した暗く不気味な表情は、なかなか見事なものだった。主部での力強いエネルギー感と、この終結個所での陰翳とを、ここまで巧く対比させるとは、楽しみな指揮者である。東京のオケの定期にも登場する日を待ちたい。

 今年の大トリを務めた藤岡と関西フィル(コンマス岩谷祐之)は、シンフォニーホールで聴くこのオケとは、かなり趣を異にしたパワフルな力演だった(一昨年の「4大」でもそうだったが)。大ホールを朗々と鳴らしたスケール感と色彩感は、このオケがもつ潜在的な力感を示していただろう。
 他の「3オケ」の金管奏者たちが特別参加したバンダは、2階席の上手側袖近くに配置されたが、1階席中央で聴いた限りでは、その音量はステージ上のオケに消され気味で、必ずしも迫力を感じさせるものではなかったようである。
 しかしとにかく派手な曲だから、今日の演奏会をさらってしまったような印象をも与えたが、藤岡さんは「あの曲なら、だれがやってもああなるよ。ほんとはウチらしい別の曲をやりたかったんだけど」とのこと。

 演奏終了後には、そのまま抽選会が行われ、座席番号により各オケにつき1組ずつ無料招待券が当たるという趣向だった(2700人の聴衆相手にはちょっと少ないのじゃないか?)。6時半頃には終演となった。

 なおこの4月17日には、このホールが入っている「中之島フェスティバルタワー」の隣に、美術館等を包含する「中之島フェスティバルタワー・ウェスト」が開館し、「フェスティバルシティ」なる一大文化センターが形成されるそうで、今年の「大阪国際フェスティバル」にはその「フェスティバルシティ・オープン記念」も謳われていた。

2017・4・4(火)東京・春・音楽祭 ワーグナー「神々の黄昏」

      東京文化会館大ホール  3時

 音楽祭の目玉、「東京春祭ワーグナー・シリーズ」の第8輯。マレク・ヤノフスキがNHK交響楽団(コンサートマスターはライナー・キュッヒル)を率い、安定した演奏で「ニーベルングの指環」最終章を飾った。

 ヤノフスキは、これまでの3作におけると同様、かなり速いテンポで坦々と音楽を進める。
 だがこの「坦々」は━━無数のライト・モティーフが複雑に織り成され、心理描写的にも、あるいは叙事詩的にも精緻を極める「神々の黄昏」の場合には、時に作品を上滑りに聞かせてしまうという危険性を生じさせかねない。
 今回も第1幕では、演奏がやや素っ気なく、無味乾燥な感も与えられる傾向が無くもなかった。第2幕冒頭のハーゲンとアルベリヒの場にはもっと魔性的な不気味さが欲しかったし、英雄の生涯を回顧する「ジークフリートの葬送行進曲」には、もっとコロス的な感動の表現が欲しい。

 しかしその一方、おそらくワーグナーの音楽の中で最も驚異的な、巨大な音の建築である第2幕後半などでは、ヤノフスキの率直な指揮がむしろ音楽本来の力をストレートに発揮させ、見事な迫力を生じさせていたのは事実である。ともあれ、4部作を通じてヒューマンな性格を感じさせる演奏を聴かせてくれたのは有難かった。

 N響もさすがの力感。これだけ堂々たる「指環」を演奏できるのは、わが国では他に読響と、それにおそらくは京響あるのみだろう。もし反響板がオーケストラの音をもっと客席にうまく響かせるように組まれていたら、さらに凄まじい音圧でワーグナーの「力」を堪能させてくれたのではないかと思う。

 歌手陣。
 ジークフリート役に予定されていたロバート・ディーン・スミスが来られなくなったということで、急遽アーノルド・ベズイエンに替わった。このツィクルスの「ラインの黄金」で、見事なローゲを聴かせた人である。
 代役としてよく頑張ってくれたことは確かだが、残念ながら、所詮彼は「ジークフリート歌い」ではない。声質、声量ともに所謂ヘルデン・テノールのタイプではないから、どうしてもひ弱な、あまり英雄とは言い難いジークフリートになってしまう。ちょっと気の毒だった。
 彼が今夜最も良かったのは、グンターに化けてブリュンヒルデを強奪する場面である。あそこはジークフリートが「声を変えて」歌う個所で、少し屈折した表現の歌唱を必要とする個所だ。それゆえ、ベズイエンの性格派歌手としての歌唱が生きる。

 その他の歌手陣は概ね見事だった。
 ブリュンヒルデ役のクリスティアーネ・リボールは、ドラマティック・ソプラノというには少し線が細いが、第2幕後半の「怒れるブリュンヒルデ」を、あの轟々と渦巻くオーケストラとよく拮抗して歌っていたし、山場の「ブリュンヒルデの自己犠牲」の場も、最後は多少体当り的に押し切ったような雰囲気もあったけれども、見事に持ちこたえていた。

 ハーゲン役のアイン・アンガーは、風格と声量、腹黒い歌唱表現など、全ての点でドラマの中心たる役柄としての存在感を発揮していた。第2幕の「ホイホー、ハーゲン!」の場であれだけ迫力を出せれば御の字である。
 アルベリヒ役のトマス・コニェチュニーはまさに適役、「ラインの黄金」に続き、邪悪な小人ぶり。第2幕冒頭のアンガーとの応酬は聴きものであった。
 グンターのマルクス・アイヒェは予想通り、この役の屈折した性格を巧く描く。演技を少し入れていたのは彼だけだ。おそらく、自分で考えて演技を入れたのだろう。とはいえ、彼やジークフリートを殺す役回りのハーゲンが全く泰然として動かないので、効果も半減したとも言えるが・・・・。

 グートルーネのレジーネ・ハングラーも安定した歌唱だった。素晴らしかったのはヴァルトラウテを歌ったエリーザベト・クールマンである。この知的で、表現力豊かな歌いぶりは、まさにメゾ・ソプラノの華ともいうべきものだ。以前聴かせてくれたフリッカ役とともに、出番は少なかったけれどもこのツィクルスで最も聴き応えのあった歌手のひとりだったといえよう。

 なお、脇役陣は日本人歌手で固められた。3人のノルンは金子美香、秋本悠希、藤谷佳奈枝。ヴォークリンデは小川里美。ヴェルグンデの秋本悠希と、フロスヒルデの金子美香は、それぞれノルンとの掛け持ち。
 合唱は東京オペラ・シンガーズで、かなりの大編成。第2幕ではそれに相応しい力感を出していた。

 映像は田尾下哲。「どうやっても悪口を言われる」気の毒な役回りだったのには同情する。
 今回も、さほど押しつけがましい映像はなかった。ラストシーンで、遥かに聳える神々の居城ヴァルハルが「火」に包まれるあたりは、初めてこの作品を聴く人にも多少は解り易いガイドとなったかもしれない。
 ただ、あのヴァルハルは、まるでディズニーの魔法の城か、「オズの魔法使」の城のような姿であり、このドラマにおける権力の象徴━━古代ゲルマン神話における世界最終戦争の際には「ヴァルハルの門から出撃して来るヴォータンの軍勢はあとを絶たなかった」というほど鬼気迫る存在のはずである━━としては、あまりに可愛すぎたようだったが、・・・・しかしいずれにしても、そんなに目くじら立てることもあるまい。

 それより気になったのは、今年もやはり字幕のことだ。
 異様に物々しく、かつ人間味のない表現の訳詞は、ある程度好みの問題もあろうからともかくとして、神々の世界では厳めしい台詞を、人間やラインの乙女たちの世界では俗語的な台詞を、といったように区別しているのかと思ったけれども、4部作を通じて振り返ると、必ずしもそうではなかったようである。その辺が一定していないと、「妻問いに来た」などという大時代がかった言葉をただ楽しんで使っているのかと誤解されかねまい。
 なにより問題だったのは、しばしば主語がはっきりしない個所があったこと、また「質問」なのか「独白」なのか区別のつきにくい表現が見られたこと、しかも表示される切れ切れの文章が、いったいどこまで連続した台詞になるのか見当がつき難かったことなどであった。担当しておられた方は優秀な評論家なのだから、このあたりをもう少し自分で客観的に字幕を「眺め」て、そのコツを会得していただきたいものである。

 30分の休憩2回を含み、8時25分終演。4年の歳月は、何と速く過ぎ去ったことだろう!

2017・4・2(日)東京・春・音楽祭 マルクス・アイヒェ・リサイタル

      東京文化会館小ホール  3時

 少し寒いが天気のいい日曜日、上野公園の人出はさすがに凄い。JR公園口の改札口は雑踏の極み、出るのにも時間がかかる。ぎりぎりに来なくてよかったと思ったほどである。

 今日のコンサートは、バリトンのマルクス・アイヒェの歌曲リサイタル。
 プログラムは、シューベルトの歌曲からは「さすらい人」「月に寄す」など7曲、そしてベートーヴェンの「はるかな恋人に」と、シューマンの「リーダークライスOp.39」。
 アンコールには、ベートーヴェンの「口づけ」、シューベルトの「音楽に寄す」、ワーグナーの「夕星の歌」、コルンゴルトの「ピエロの歌」が歌われた。協演のピアノはクリストフ・ベルナー。

 マルクス・アイヒェは、昨日の「神々の黄昏」(私は4日に聴く)でグンターを歌ったばかりでは? 
 弱音をも効果的に使ってデュナミークを巧みに対比させ、歌詞のニュアンスと発音を重視して緻密に表現するという知的な歌唱を聴かせる人だ。今日のようなドイツ歌曲(オペラからも2曲あったが)の場合には、完璧に近い出来になるだろう。 オペラを中心に歌う人の場合、概してリートはサマにならぬ傾向があるものだが、彼はそうではない。非常に幅広い表現力をもったバリトンのようである。楽しみな人だ。

 「リーダークライス」における叙情美の表現は、今日の白眉であった。ベルナーのピアノもすこぶる深味に富んでいるので、第5曲の「月の夜」での旋律と和声の組み合わせの美しさなど、例えようがない。
 シューベルトの「船乗り(舟人)D536」も━━かつて大歌手フィッシャー=ディースカウが、一つ一つの言葉を叩きつけるように激しく歌い、あらゆる試練に挑戦してやるぞという気概を表現したあの迫力には及ばぬとしても━━なかなか劇的な表情をもった歌唱であった。

 ━━それにしても、こと歌曲の世界では、シューベルトとシューマンの間に挟まれると、さすがのベートーヴェンも顔色なし、か。

2017・3・31(金)飯守泰次郎指揮関西フィルハーモニー管弦楽団

    ザ・シンフォニーホール  7時

 第281回定期公演で、「飯守のブルックナー第7回」とも銘打たれている。

 その第7回━━「第7交響曲」での飯守の指揮、関西フィルの演奏は、全体としては、かなり激しい感情の動きに満ちたものであった。
 とはいえ第1楽章は丁寧で念入りな設計だったが、やや慎重な演奏に留まっていたようにも感じられた。断続しながら変化して行く主題や動機群が、連続した形で大きく弧を描くような起伏に発展するまでに至らなかったのが少々もどかしく、飯守の遅いテンポをオーケストラが持ち堪え切れぬといった雰囲気が無くもなかったのである。しかしコーダでは、巨大な頂点を築いていた。

 第2楽章からは次第に雰囲気も変わって行き、落ち着いた陰翳が拡がって行く。関西フィルも昂揚し、ノーヴァク版の打楽器を含めた頂点が築かれるあたりや、あるいは最後のワーグナー・テューバによる挽歌などでは、立派な演奏を聴かせてくれた。
 この頂点の個所で、ティンパニを楽譜指定個所よりも前から、しかもクレッシェンドを加えつつ叩かせはじめたのは飯守の解釈か?(東京シティ・フィルとの演奏ではどうだったかしらん?)。

 全てが大きく変化したのは第3楽章以降。スケルツォでの強靭な力は目覚ましく、それは魔性的な舞曲ではなく、前半2楽章での暗鬱さから転じて「生」のエネルギーを解放する踊りである━━というのが、飯守の解釈なのかもしれない。

 そして第4楽章では、ノーヴァク版にあるテンポの細かい変化を生かし、音楽を絶えず揺り動かし、強い緊張感を生み出していた。この加速と減速をノーヴァク版の指定に従ってこれだけ緻密に実行した演奏も珍しいだろう。世の中には、「ノーヴァク版使用」と称しながら、第4楽章をまるで(テンポの変化の指定を取り去っている)ハース版のように落ち着いたテンポで演奏する指揮者も、結構多いからである。
 飯守のこのような指揮で聴くと、この「7番」は、「暗」から「明」への移行をはっきりと打ち出している交響曲に感じられる。実に興味深い。

 前半に演奏されたのは、若林顕をソリストに迎えた、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第25番」である。
 若林の、明晰清澄にして率直な演奏が素晴らしい。手練手管を弄した(とまで言っては表現が悪いけれども)手法の多い最近のモーツァルト演奏の中にあって、これはまさに清涼剤のような爽やかさを感じさせるソロであった。こういうモーツァルトをナマで久しぶりに聴けたような気がするが、何と快かったことか。
 飯守と関西フィルも、ブルックナーとは対照的な、軽やかな音を響かせてサポートしていた。コンサートマスターは岩谷祐之。

2017・3・30(木)山田和樹指揮日本フィルハーモニー交響楽団

    東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 一昨夜、仙台でロシア音楽プロを指揮した山田和樹が、今日は東京で日本フィルとロシア・プロを演奏。
 グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番」(ソリストは福間洸太朗)、チャイコフスキーの「交響曲第4番」。
 コンサートマスターは扇谷泰朋。

 仙台フィルとの演奏の時と同様、ここでも山田和樹の指揮は躍動感に満ちる。金管をダイナミックに吹かせ、強いアクセントでそれらの音をはっきりと響かせる。それが実にメリハリがあって、痛快な演奏になる。
 「ルスランとリュドミラ」は、オーケストラはあまり練習したとは思えないような演奏だったが、何しろ鳴りっぷりが小気味よい上に、リズムも明快なので、楽しい序曲になった。

 ラフマニノフの協奏曲では、福間が恰幅の良い、力強い風格で冒頭のソロを弾き出し、その大きなスケール感に期待を持たせた。ただそれは、正面切った端整かつ生真面目なアプローチであり、例えばコンクールなどで各国のピアニストと聴き比べた場合、いかにも日本人だなという印象を強くさせるタイプの演奏、といえるだろう。この曲の場合は、もう少し良い意味での自由奔放な飛翔、といったものがあってもいいような気もする(その点、一昨夜チャイコフスキーを弾いた萩原麻未の演奏は大胆な感興に富んでいた)。

 また、ここでは山田と日本フィルが、特に第3楽章ではシンフォニックなアンサンブルを轟々と響かせ、ピアノの音を包み込んでしまったので━━少なくとも2階前方下手寄りで聴くとそう聞こえた━━あたかも「ピアノのオブリガート付きのシンフォニー」のような趣になってしまった。
 そのあと福間は、ソロ・アンコールでは、チャイコフスキーの「18の小品」から「トレパークへの誘いOp.72-18」という珍しい作品を弾いてくれた。これは面白かった。

 最後のチャイコフスキーの「4番」は、肝心かなめの「運命の動機」でトランペットが音を何度も外して興を殺いだ━━力一杯吹いていたのはいいけれど、一度だけならともかく、同じようなことが二度三度となると、苦情の一つも言いたくなりますよ━━のを除けば、しなやかで厚みのある弦が美しく、トランペットを含めた金管の思い切りの良い強奏も適度に調和して、バランスの良い快演となった。ホールの響きが豊かなので、日本フィルもたっぷりした音色になる。

 これは山田の指示か━━第3楽章のピッツィカート部分、他の弦がもともと一つだけ音を抜かしている不思議な個所(第3、4、11、12小節など)で、第2ヴァイオリンだけが弾く「C」の音を強く響かせ、それをこの流れの中のアクセントとしていたのが面白い。
 また第4楽章の第3主題(第38小節から)を、その都度大きくテンポを落して大見得を切るようにしていたのも興味深いが、山田が大芝居のようなことをやったのはこれ一つだけなので、ちょっと異様に感じられたのは事実である。

 アンコールは━━今日はアザラシヴィリの作品でなく、スヴェンセンの「2つのスウェーデンの調べ」の第2曲だった。

2017・3・29(水)東京・春・音楽祭
バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット

      上野学園 石橋メモリアルホール 7時)

 前の「永井荷風」のコンサートが3時45分に終り、時間が空き過ぎるとはいえ帰宅するのも効率が悪いので、東京文化会館の中にある「精養軒」に入り、「チャップスイ」とメロンソーダとコーヒーとを注文して「しょば代」とし、パソコンで仕事をしつつ夜の公演を待つ。
 この「チャップスイ」という簡単な料理は、1960年代からこの店のメニューにあるもので、私もノスタルジー感覚でよく注文することがある。

 「バイロイト祝祭ヴァイオリン・クァルテット」は、ベルンハルト・ハルトーク、ミヒャエル・フレンツェル、ウルフ・クラウゼニッツァー、眞峯紀一郎の4人からなる、ヴァイオリン4本編成という珍しい弦楽四重奏団である。バイロイト祝祭管弦楽団に長年参加しているメンバーが12年前に結成したもので、すでに何度か来日している。
 ヴァイオリンだけの四重奏ながら、その音色は実に多彩であり、いかにもドイツのベテラン演奏家らしい深い陰翳に富んでいて、不思議な味がある。

 最初のラモーの「4つのヴァイオリンのためのオペラ組曲」(ヴィオロン編)は、ドイツ人の演奏するラモーとはこういうものか、と微苦笑させられるような粘ったものだったが、次の「ニーベルングの指環」組曲は、さすがお手のもの、といった感の演奏になった。
 このうち第1~3曲(「ラインの黄金」から「ジークフリート」まで)は、日本の若い女性作曲家・廣田はる香が編曲したもので、実に良く出来ている。単にどの部分かの旋律を弦楽四重奏に編曲するといったものではなく、さまざまなモティーフを幻想曲風に、起伏充分に織り成しつつ紡いで行く、とでもいう手法で、そのヴァイオリン群の交錯する音色もまた凝ったものであった。
 なお第4曲(神々の黄昏)のみは、ナリ・ホンという人の編曲によるものとか。

 第2部では、ヤーコブ・ドントの「4つのヴァイオリンのための四重奏曲ホ短調Op.42」の古典的な響きで開始され、一転して現代作曲家ベルトルト・フンメルの「4つのヴァイオリンのためのディヴェルティメントOp.36」の濃密で躍動的な響きとなり、最後はラヴェルの「クープランの墓」(ブラントナー編)の華麗な音色になる、というプログラムの流れになっていた。特にフンメルの作品は、聴き応えがあった。
    →別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2017・3・29(水)東京・春・音楽祭 
「語りと音楽━━永井荷風」

      東京文化会館小ホール  2時

 仙台より戻って上野で下車、多少時間を調整しつつ、駅前の東京文化会館に入る━━便利な場所だ。

 この公演は「語りと音楽━━永井荷風~明治39年、荷風、ニューヨークにてワグネルを聴く」と題されており、松平定知が永井荷風の「西遊日誌抄」と「雲(ふらんす物語)」を朗読、盛田麻央(S)高橋淳(T)友清崇(Br)がそれぞれ朴令鈴(pf)との協演で「ヴァルキューレ」からの「冬の嵐は過ぎ去りて」、「トスカ」からの「星は光りぬ」、「タンホイザー」からの「夕星の歌」、「カルメン」からの「ハバネラ」、「椿姫」からの「さようなら、過ぎ去った日よ」を歌って行く、という内容である。

 松平定知の朗読は、何年か前にこの音楽祭で「イノック・アーデン」を聴かせてもらったことがあるが、今回は内容からして、いっそう心に沁みるものとなった。上手いものである。

 それにしても遠く120年もの昔、一人の日本人がニューヨークのMETで毎夜のようにオペラを観、このような体験をしていたというのは興味深い。
 とはいえ、私の祖父も明治6~7年と16~19年━━つまり1870年代と1880年代ということになる━━にオーストリア万国博事務官あるいは公使館書記官としてウィーンに勤務し、ウィンナ・ワルツで人々が踊るのを見たという話を伝え聞いたことがあるから、当時の日本人が欧米でオペラを観たという例も、別に珍しくはないのかもしれない。

 今回歌われたアリアなどは、特に永井荷風の本の内容と厳密に結びつくものではないが、歌手たちがしっかりとした歌を聴かせてくれたのがよく、朗読とうまく溶け合い、ラジオ的な面白さを感じさせてくれた。

2017・3・28(火)山田和樹指揮仙台フィル 特別演奏会

      イズミティ21・大ホール  7時

 仙台フィルハーモニー管弦楽団と山田和樹(ミュージック・パートナー)のシリーズVol.4で、「ザ・ロマンティック」と題され、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソロは萩原麻未)と「交響曲第5番」が演奏された。コンサートマスターは神谷未穂。

 山田和樹の指揮は、欧州での活躍が拡がるにしたがい、以前よりもいっそう感情の振幅が激しく、アクセントの強い尖った音楽づくりになって来たような気がする。欧米の指揮者もオーケストラも、概してみんなメリハリの強い演奏をつくるから、それも当然のことだろう。
 「第5交響曲」では、その劇的な起伏の設計も、見事なものだった。

 ただ、仙台フィルはやはり日本のオーケストラであり━━たとえば今日のように、金管(特にトロンボーン)を力強く鳴らし、遮二無二突進するエネルギーを全開した場合、指揮との間に少しく齟齬を生じさせ、音も混濁するという傾向なしとしない。
 いや、しかし今日は、そういっては気の毒だ。何しろ、このホールの音響たるや、東京で言えばその昔の日比谷公会堂並みのもので、最強奏の音は寸詰まりになり、金管は潤いを欠き、残響はゼロである。どんなオーケストラもここではその美しさを発揮できないだろう。
 そうした中でも、第4楽章序奏のような、大きな音を出さないけれども豊麗な響きを持っている個所では、仙台フィルもそのしっとりした味の片鱗を聴かせてくれたのは嬉しい。

 といっても、それらの問題とは関係なく、木管楽器の一部に多少不安定なものが一度ならずあったのは気になるところだ。またティンパニも豪快でパワフルではあるけれど、トレモロの締め括りの個所だけは、少し乱暴ではないか?

 協奏曲では、萩原麻未が、先日東京での大友=群響との協演の際よりも、更に振幅の激しい、自由な感興の加わったソロを聴かせてくれた。オーケストラとしても、先日のベテラン大友直人よりも、若く冒険心に富んだ山田和樹の指揮の方が、彼女の奔放な躍動に対し積極的に「応戦」していたように感じられる。

 彼女のアプローチは面白い。聴き慣れたこの曲のあちこちで、ピアノのソロは、しばしば意外な異相を以って響き渡る。第2楽章の終り近くなど、ピアノが長いソロを終って主題をdolceで取り戻す個所(第147小節)で、彼女が極度の最弱奏に音量を落し、オーケストラのホルンと弦の裡に自らを埋没させたかのような演奏を聴かせた時には、こちらもギョッとさせられたほどだ。━━そういうことも含めて、名曲に対しすべての面で常に新しいアプローチを試みようとする彼女の姿勢は高く評価されてよい。
 こういう大胆なピアニストが若い世代にもっと出てくれば、日本のピアノ界も更に面白くなるのではないか。

 彼女が弾いたアンコールは、バッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番」の「ガヴォット」をラフマニノフが編曲したもの。そしてオケのアンコールは、グルジアの作曲家ヴァージャ・アザラシヴィリの「無言歌」という作品。後者はマエストロの思い入れの曲だそうだが、言っちゃ何だけれど、私にはあまり・・・・。

 そのマエストロ山田和樹は、この演奏会をもって、仙台フィルのポストを退任する。同じくこの3月末で退任する事務局の村上満志・演奏事業部長とともに、終演後のステージ上では、楽員らに胴上げ(!)されていた。いいカイシャである。
     別稿 音楽の友5月号Concert Reviews

2017・3・26(日)大野和士指揮東京都交響楽団「シェイクスピア讃」

      東京オペラシティ コンサートホール  2時

 これは定期ではなく、「都響スペシャル」。
 シェイクスピアの戯曲に因んだ作品を集めて、チャイコフスキーの交響的幻想曲「テンペスト」、アンブロワーズ・トマのオペラ「ハムレット」から「オフェリアの狂乱の場」(ソプラノ・ソロはアマンダ・ウッドベリー)、プロコフィエフのバレエ曲「ロメオとジュリエット」抜粋。コンサートマスターは四方恭子。

 こういった劇的な作品を指揮すると、大野和士は、実に巧い。
 「テンペスト」など、チャイコフスキーの作品としては、失礼ながらあまり冴えない曲だが、今日の演奏では思いがけぬ濃い陰翳をもった作品として愉しむことができた。
 「ハムレット」は、大野の得意のフランスオペラだし、たとえばエンディングの盛り上げ一つとっても、ドラマの内容に即した音楽の構築ぶりたるや、見事なものである。ウッドベリーも、この10分近い長さをもつシーンを、華麗に、表情豊かに歌ってくれた。彼女をナマで聴くのはこれが多分初めてだが、これだけ歌ってくれれば結構であろう。

 そして「ロメオとジュリエット」は、もう舌を巻くような演奏だった。これだけ音楽が「弾んでいる」演奏は、なかなか聴けないものだ。後半の「タイボルトの死」のあのリズムの強靭さと激烈な追い込み、「ジュリエットの墓の前のロメオ」での暗い不気味な昂揚など、どこを取っても卓越したものである。
 東京都響の演奏も、今日は見事な躍動感に満ちて、聴き応えがあった。最近私が聴いた大野=都響の演奏の中では、この「ロメオ」は、間違いなくトップクラスに置かれるものだろう。

 一つ、いつも感じること。都響の場合、前列グループの弦の楽員は、拍手と指揮者の支持に応えて起立した際、決して客席の方を見ずに立ったままだが、あれはやはり聴衆との交流の雰囲気が感じられず、冷たい感を与える。どうしてもというなら、せめて最後のカーテンコールの時だけでもみんなで聴衆に顔を向け、笑顔の一つも見せたらいかがなものか? 
 昨日の京都市響の演奏会で、楽員たちが笑顔で聴衆の拍手に応える温かい情景を見たあとでは、いっそう味気なく、拍手をしながらも、ちょっと空しい気分になってしまう。
     別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2017・3・25(土)広上淳一指揮京都市交響楽団 「千人の交響曲」

      京都コンサートホール  3時30分

 京都市響の創立60周年シーズンの締め括り、第610回定期公演は、常任指揮者兼ミュージック・アドヴァイザーの広上淳一の指揮で、マーラーの「交響曲第8番《千人の交響曲》」。コンサートマスターは渡邊穣。

 協演は、高橋絵里(SⅠ)、田崎尚美(SⅡ)、石橋栄美(SⅢ)、清水華澄(AⅠ)、富岡明子(AⅡ)、福井敬(T)、小森輝彦(Br)、ジョン・ハオ(Bs)、京響コーラス、京都市少年合唱団。
 合唱団には「ほか」というクレジットがついているが、これは京響コーラスの中に他の合唱団のメンバーも加わっていることを意味するものと思われる。その京響コーラスはオルガン下に、少年合唱はステージの奥に並ぶ。
 ソリストはオケの前に位置したが、石橋栄美(SⅢ)のみはオルガン前に立つ。バンダのファンファーレはオルガン横の、ステージ下手側高所の「箱の中」に並んでいた。

 第一に挙げるべきは、やはり広上淳一の演奏構築の見事さであろう。
 この「千人の交響曲」の第1部は、私は何度聴いても好きになれないのだが、概して放埓な怒号絶叫になりかねないこの曲を、広上はパワーと節度を併せ持った指揮で、巧みに制御して行った。本拠地のこのホールを、実に上手く鳴らしている、という感がある。
 そしてもちろん、第2部では、マーラーの音楽がもつ豊かな起伏感と神秘性が、管弦楽と声楽から、十全に引き出された。このあたりも広上の、無駄な誇張を排した、真摯でヒューマンな指揮の為せるわざであろう。

 京都市響の演奏の水準の髙さも、まさに驚異的である。第2部後半の昂揚個所でさえ、力まず、強引にならず、それでいて力感の豊かな、壮麗な音を響かせる。最強奏の裡に一瞬垣間見える弦の豊麗な音色にハッとさせられたことも、一度や二度ではなかった。つい先日のびわ湖ホールでの「ラインの黄金」でも舌を巻いたばかりだが、今や京響は、日本全国でもベスト3に入る実力を備えているのではないか?

 この京都市響の見事な成長ぶりについて、シェフの広上は「僕の果たしている役割は10分の2くらいの程度」と語っているけれども、それは謙遜が過ぎるだろう。「ゼンマイがかみ合っているだけの話よ」とも控えめに言うが、いいゼンマイであればこそ、うまくかみ合うものである。
 広上淳一と京都市響━━絶好調の名コンビに、祝福を贈りたい。

 京響コーラスも素晴らしい。怒号の個所よりも、弱音で歌う個所でこそ合唱団の実力は明らかになるものだが、第2部で聴かせたその美しく拡がりのある響きは、実に立派であった。ソロ声楽陣も好調、特に女声陣の活躍は聴き応えがあった。
 これは、あらゆる点で優れた演奏だったと言って過言ではない。

 合唱が終り、全管弦楽が頂点を築く最後の大クライマックスでは、このホールいっぱいに轟々と高鳴る京響の美音に法悦感を味わった━━はずなのだが、最後の和音が消えぬうちに下手側後方の客席から甲高い声で狂気のように喚き出した男の所為で、折角の感動に水を差された。壮麗な壁画に泥を投げつけて汚すような、恥知らずの行為である。30年ほど前の東京だったら、十数人くらいの客が集まって吊し上げをやっただろうが・・・・。
     別稿 モーストリー・クラシック6月号 公演Reviews

2017・3・23(木)アンドラーシュ・シフ・ピアノ・リサイタル

      東京オペラシティ コンサートホール  7時

 新国立劇場と同じ建物の中にあるのを幸い、ダブルヘッダーを組む。
 しかし、こちらはこちらで、したたかなコンサートで━━プログラム4曲全2時間が休憩なしに、続けて演奏されるという趣向である。
 その4曲とは、モーツァルトの「ソナタ ニ長調K576」、シューベルトの「ソナタ第21番変ロ長調D960」、ハイドンの「ソナタ変ホ長調Hob.ⅩⅥ:52」、ベートーヴェンの「ソナタ第32番ハ短調」。

 これは、相当な重量感だ。長大なシューベルトの「変ロ長調」のあとには一息入れたい気持にもなるが、シフが平気で、それも並々ならぬ深みと風格と高貴さと温かさを以って見事に演奏して行くので、われわれも完全に引き込まれ、結局2時間を身じろぎもせず、全身を耳にして聴き入る、ということになる。

 それにしても、この選曲と配列は見事なものだ。4曲それぞれの性格がこのように並ぶと、これは明らかに4楽章の交響的形式になる。しかも、モーツァルトの陰影の濃い、あまり明るくない曲想は、そのままシューベルトの沈潜した第1楽章と結びつく。ハイドンのソナタは、まるで若い時期のベートーヴェンのソナタと同じように力強く、気宇が大きい。それをベートーヴェン自身が継承し、最後の謎めいたソナタで結ぶ━━といったような流れを感じさせるのだ。
 これらの作品を、それぞれの作品の個性を際立たせつつ、しかもひとつの継続した流れの中に構築して弾くアンドラーシュ・シフの完璧な演奏は、もはや神業としか言いようがあるまい。

 2時間ぶっ続けの、切れ目のない演奏のあとに、更にアンコールが続く。バッハの「ゴルトベルク変奏曲」の「アリア」までを聴いて、本当はもっと浸っていたかったのだが、所用のためやむを得ず失礼せざるを得なかった。そのあともバッハのパルティータが聞こえたが━━あとで聞いたら計7曲もアンコールをやった由。終演は何時になったのか?

2017・3・23(木)新国立劇場 ドニゼッティ「ルチア」

      新国立劇場オペラパレス  2時

 新制作で、モンテカルロ歌劇場との共同制作。今日は4回目の上演。

 演出はジャン=ルイ・グリンダ、舞台美術はリュディ・サブーンギ。指揮がジャンパオロ・ビザンティ。ルチアをオリガ・ペレチャッコ=マリオッティ、エドガルドをイスマエル・ジョルディ、エンリーコをアルトゥール・ルチンスキー、ライモンドを妻屋秀和、アルトゥーロを小原啓楼、アリーサを小林由佳、ノルマンノを菅野敦。東京フィルハーモニー交響楽団と新国立劇場合唱団。

 出来栄えは上々といえるだろう。
まず、タイトルロールのペレチャッコが素晴らしい。7年前、ナントの「ラ・フォル・ジュルネ」で初めて彼女を聴いた時には、名前の表記(注)さえどうすればいいのかと迷ったほど、未知のソプラノだったが、いい歌手になった。
 聴かせどころの「狂乱の場」での歌唱も伸びやかで安定していて━━「狂乱の凄み」には未だ少々不足するところはあるにしても━━安心して聴いていられるのがいい。

 迫力の点ではルチンスキーが見事で、聴かせどころでは声をいっぱいに延ばして大見得を切り、オペラの醍醐味を存分に味わわせてくれる。
 これに対しジョルディは、ルチアが夢中になる恋人役としてはやや線が細いのが物足りない━━歌唱にしても演技にしても、「婚礼の場」に乗り込んで来た時など、憔悴しきってやけっぱちでやって来たような印象を与えるし、敵役のルチンスキーとの対決の場では押され気味、という印象になる。そういう神経質なエドガルド表現が今回の狙いだというのなら、それはそれでいいのだろうけれども。
 有名な六重唱は、完璧な出来であった。

 舞台構成は、比較的スタンダードなものである。舞台美術は、スコットランドの海辺の城で繰り広げられるドラマというイメージを生かし、岩壁に打ちつける波濤を映像で巧みに描き出す一方、野外や室内の光景を写実的あるいは幻想的につくり出して、極めて美しい。

 グリンダの演出も、基本的にはト書きに沿っているが、演技も細かく、まずドラマとしても過不足のない、バランスの取れた舞台であろう。
 最も注目されるのは、ルチアの性格上の描写だ。ここでは、彼女は楚々としたおとなしい女性でなく、ボーイッシュな服装と、兄の強権に毅然として反抗する態度とで、自立した女性として描かれる。つまり、この陰気な一家においては、彼女は当初から異質な、自由に憧れる女性なのであり、それが旧いしきたりによって無惨にも粉砕されて行く━━という描き方なのである。

 モンテカルロ歌劇場総監督を務めるグリンダ(☞訂正 ビザンティ。失礼しました)という指揮者は、まだ若いらしいが、いいテンポで指揮していた。東京フィルを上手くまとめ、安定した演奏を引き出した。響きが全体的に軽かったのは、指揮者の解釈もあるのだろうし、またコントラバス群が正面でなく、下手側に配置されていたせいかもしれぬ。

 今回は、六重唱の場面もほぼノーカットで演奏されたのはありがたい。
 そのあとのエンリーコとエドガルドの仇敵2人が応酬する場面も、カットされずに演奏されたのが嬉しい。ここは私も好きな個所なので━━昔、何かの解説で、「この場面は音楽も繰り返しばかりで単調なので、上演の際に省略されることも多いが、惜しくない」とかいう文章を読んだことがあったが、とんでもない話である。最近はしかし、ノーカットで上演されることが多いだろう。
 今回の演出では、ここは「嵐の夜の城の中」という設定でなく、荒々しい波浪が打ちつける断崖の上に設定されていて、なかなか雰囲気があった。

 なお「狂乱の場」では、サシャ・レッケルトが演奏するグラス・ハーモニカが使われ(実際に使用されたのはヴェロフォン)、これは柔かい夢幻的な響きで、ペレチャッコの歌を美しく彩っていた。この場面の「この世ならざる光景」を描くには、やはりフルートよりもグラス・ハーモニカの神秘的な音色の方が適しているだろう。

(注)olga Peretyatko ロシア人だから「オルガ」でなく「オリガ」だろう。「ペレチャッコ」は、東京ラ・フォル・ジュルネは「ペレチャツコ」と表記していたが、こちらの方が「正確に近い」のでは?

2017・3・22(水)東京・春・音楽祭 HORNISTS8

       東京文化会館小ホール  7時

 「《ワーグナー×ホルン》~N響メンバーと仲間たちによるホルン・アンサンブル」と題して、福川伸陽らN響の楽員7人に、読響の久永重明が加わってのホルン・アンサンブルが見事な演奏を繰り広げた。

 プログラムは全て編曲によるドイツ・オペラもので、順不同ながら━━ウェーバーの「魔弾の射手」から序曲の序奏部分及び第1幕の舞踊の一部、ベートーヴェンの「フィデリオ」序曲(これは序曲全部の完全編曲版)、フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」前奏曲と「祈り」。他はワーグナーで、タイトルは「ローエングリン」幻想曲、「ラインの黄金」幻想曲、「トリスタンとイゾルデ」幻想曲、「ジークフリート」幻想曲(実際には「神々の黄昏」からの編曲)。アンコールは「魔弾の射手」の第3幕序奏と、ワーグナーの「ヴァルキューレの騎行」。

 こういう曲を、8本のホルン(「神々の黄昏」ではワーグナー・テューバと持ち替え)だけで吹きまくるのだから見事なものである。
 演奏も鮮やかそのもの。前半では、演奏にもう少し朗々たるヴァルト・ホルン的雰囲気が出ていればいいとも感じられたが、後半は爽快な演奏と化し、特に「神々の黄昏」からのものは豪壮雄大だった。「ジークフリートの角笛」の動機の演奏など、巧いものである。
 40年、いや30年以上前まで、日本でこれだけ容易く吹きまくれるホルン奏者はいなかったように思う。今の若い日本人奏者たちは上手くて、頼もしい。

 今日のホールは文字通り満席。集まったのは大半がブラス・ファン、部分的にワーグナー・ファンというところか。

2017・3・21(火)インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」(ソリストは五嶋龍)と、マーラーの「交響曲第1番《巨人》」。コンサートマスターは2曲とも日下紗矢子。

 いつも聴き慣れた2階正面の席で聴いたが、思った通り、先週トリフォニーホールで聴いた時の印象とは、かなり違う。
 オケの音は決して彫琢されたものとは言えないが、むしろ豪壮で豪快、凄まじい力感を示して、あたかも野武士的なマーラーといったイメージが、好ましい意味で生きていた。オーケストラの音の荒々しさが、ことごとく良い方向に発揮されていたのである。

 デュナミークは並外れて大きく激しく、強靭なアクセントが全曲にあふれるので、演奏はいやが上にもドラマティックになる。
 最近聴いたインバルの指揮の中でも、特に激烈な演奏であり、そして強烈な印象を与えられる「巨人」だったと言って間違いない。とりわけ第2楽章は、ホルンのパワーが強烈で、インバルの追い込みも唖然とするほど激しい。

 インバルの指揮するマーラーは、都響とのそれは厳然たる威容に満ちたものだったが、この日のコンツェルトハウス管弦楽団とのそれは、開放的でスリリングで、大きな振幅を備えた凄味のある演奏だった。テンポは速めに感じられたけれども、全曲の演奏時間はそれほど大して延びていなかったところをみると、やはり音楽づくりが引き締まっていた、ということであろう。
 前半2楽章と後半2楽章はそれぞれアタッカで演奏されたが、特に第1楽章が終った瞬間、その最後とほぼ同じテンポでそのまま第2楽章にアタッカで飛び込むというのは、何とも痛快であった。

2017・3・20(月)METライブビューイング 「ルサルカ」

      東劇  6時30分

 上野から東銀座まで、ちょうどいい移動距離と移動時間である。

 メトロポリタン・オペラの、去る2月25日の上演ライヴ。メアリー・ジマーマンによる新演出。
 このドヴォルジャークの「ルサルカ」は、つい3年前までオットー・シェンク演出によるメルヘン的なプロダクションが上演されていた(「ライブビューイング」でもルネ・フレミング主演で紹介されたことがある)。それからすぐにまたこの新演出が登場したところを見ると、METでは、このオペラは結構人気があるらしい。

 メアリー・ジマーマンの演出は、ダニエル・オストリングの比較的トラディショナルな舞台美術の中で、極めて精緻な演技を繰り広げるバランスの良い舞台だ。
 9年ほど前にザルツブルクで、ヴィーラー&モラビトが、ルサルカの本拠たる森を「娼婦の館」に読み替えた傑作なプロダクションを上演したことがあり、あれはあれで非常に面白かったが、今回のジマーマン演出はト書きに準拠しつつもルサルカの心理の変化を微細巧妙に描き出すという手法が採られており、これもまた面白い。

 何しろ題名役クリスティーヌ・オポライスの「眼」の演技が巧く、時には憑かれたような凄い目つきを見せて、真剣な恋におちた女性の業とでもいうべき不気味な(?)表現を繰り広げるのが最大の見ものである。
 共演主役陣は、王子をブランドン・ジョヴァノヴィッチ、水の精をエリック・オーウェンズ、イェジババをジェイミー・バートン、外国の王女をカタリーナ・ダライマンという顔ぶれ。この中では、何といっても、魔法使イェジババを歌い演じているバートンが大芝居で秀逸である。

 指揮はマーク・エルダー。予想外に、と言っては失礼だが、ドヴォルジャークの音楽を実に温かく再現しているのに感心した。第2幕での「森番と皿洗いの少年の場面」における音楽を、これほど民族色を感じさせて演奏した指揮者はそう多くないであろう。
 METの管弦楽団が優秀でしっかりしているので、「ルサルカ」というオペラのオーケストラ・パートは、こんなにも表情豊かな民族音楽的な良さを備えているのか、と、改めて魅惑されてしまう。

 休憩時間のドキュメントは、50年前リンカーンセンターにオープンした現在のMETが杮落しに上演したバーバーの「アントニーとクレオパトラ」を取り上げている。舞台装置が故障してエジプトのピラミッドが移動できず、場面がローマに変わったのにまだピラミッドが中央に聳えていた、などという話は、人間味があって面白い。
 その時に主演したレオンティン・プライスが、90歳ながら未だ元気でインタビューに答えているのに感動。はっきり喋って、しかも綺麗な声で軽く歌まで聞かせていたのは御立派である。
 ちなみに、METの現総裁ピーター・ゲルブは、その時、客席案内係をやっていた由。

 休憩2回を含み、上映時間は4時間近く。かなり長い。終映は10時25分頃になった。

2017・3・20(月)東京・春・音楽祭 「禁じられた作曲家たち」

     上野学園 石橋メモリアルホール  3時

 これは意欲的な企画。聴衆の数は多くはなかったが、貴重な演奏会であった。こういう「研究的な」コンサートをいくつか混ぜるところが「東京・春・音楽祭」の面目躍如というものであろう。

 コンサートのタイトルは「東京春祭ディスカヴァリー・シリーズvol.4 忘れられた音楽━━禁じられた作曲家たち~《Cultural Exodus》証言としての音楽」という長いもの。
 ナチスの迫害により故国を去り、あるいは追われ、あるいは投獄された作曲家たちの「知られざる」作品を紹介するのが狙いで、ウィーン国立音大exilarte Centerセンター長ゲロルド・グルーバー氏の解説(通訳・井上裕佳子さん)も入る。

 プログラムは、マリウス・フロトホイス(1914~2001)の「オーバードOp.19a」、ヘルベルト・ツィッパー(1904~97)の「弦楽四重奏のための幻想曲《経験》」、ベラ・バルトーク(1881~1945)の「ハンガリー農民組曲」、ミェチスワフ・ヴァインベルク(1919~96)の「フルートとピアノのための12の小品Op.29」抜粋、ハンス・ガル(1890~1987)の「フルートと弦楽四重奏のためのコンチェルティーノOp.82」。
 演奏はウルリケ・アントン(フルート)、川崎翔子(ピアノ)、プレシャス・カルテット(加藤えりな、古川仁菜、岡さおり、小川和久)。

 これらの作曲家たちの中には、迫害で命を落とした人はいない。そういえばこの演奏会、たしか当初は「亡命作曲家」何とかというタイトルになっていたのでは? 
 そしてバルトークを除けば、みんなつい最近まで生きていて、それぞれいろいろな国で音楽活動をしていた人ばかりだ。

 だが、そのバルトークのもの以外は、こういう機会ででもなければ、滅多に聴けない作品ばかりであろう。前衛的な傾向の作品は見当たらず、どれも今となっては耳当りのいい作品で、特にヴァインベルクやガルの音楽には、フランスのそれにも似た作風さえ聴き取れるし、しかも後者の作品には徹頭徹尾、調性を重んじた優しい(?)曲想があふれかえっている。

2017・3・19(日)東京・春・音楽祭 シャーガー&バイチ

      東京文化会館小ホール  7時

 トリフォニーホールのある錦糸町から上野までは、秋葉原乗換のJRで、ほんのわずかの時間だ。この移動距離なら、ダブルヘッダーも容易い(数年前、川崎━横浜━上野とトリプルをやったことがあったが、あれはさすがに疲れた)。

 恒例の「東京・春・音楽祭」が、この16日から華やかに始まっている。
 これは、テノールのアンドレアス・シャーガーと、ヴァイオリンのリディア・バイチとのデュオ・コンサート。それにマティアス・フレッツベルガー指揮のトウキョウ・ミタカ・フィルハーモニア(旧称トウキョウ・モーツァルト・プレーヤーズ)が協演するという演奏会である。

 アンドレアス・シャーガーは、最近、人気沸騰中だ。日本でも同様。
 今回も「(プログラムは)何をやるんだか判らなかったけど、シャーガーが出るということでチケットを買った」と言う人もいたくらいで、━━それもあってか、彼の出番ではホールが沸き返る。

 ワーグナーの「ヴェーゼンドンク歌曲集」は、未だ陰翳に不足する彼の歌唱と、官能的な雰囲気を欠く指揮者とオーケストラの演奏のために、あまりサマにならぬ結果にとどまったけれども、「魔笛」や「ジプシー男爵」、「ジュディッタ」、「J・シュトラウス2世のテーマ」、アンコールでの「ヴァルキューレ」、「メリー・ウィドウ」などでは彼の闊達なフル・ヴォイス全開で、客席を沸き立たせた。
 聴き手の耳をビリビリいわせる馬力だったが、まあいいだろう。それに例の如く、聴衆にアピールする華やかな、明るいジェスチュアとステージマナーがいい。

 そのシャーガーに対し、いくら美女でもヴァイオリン一挺のリディア・バイチはちょっと分が悪く、拍手の音量もシャーガーに対するそれよりは少し小さめなのは気の毒だったが、しかし、特に第2部でのリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」やクライスラーの「ウィーン奇想曲」と「愛の悲しみ」、アンコールでのモンティの「チャールダシュ」、レハールの「ワルツ」などでの演奏は、美しく魅惑的だった。

2017・3・19(日)大友直人指揮群馬交響楽団 東京公演

     すみだトリフォニーホール  3時

 国内のメジャー・オーケストラの中で、充分な実力がありながら音響的に不満足なホールを本拠地にしているもう一つのオーケストラが、この群馬交響楽団である。
 今回は、トリフォニーホールの3階席で聴いてみたが、実に豊かな響きであり、堂々たる風格の音だ。
 プログラムは、千住明のオペラ「滝の白糸」序曲、チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」(ソリストは萩原麻未)、ラフマニノフの「交響曲第2番」。コンサートマスターは伊藤文乃。

 圧巻は、やはりラフマニノフの「2番」である。
 この曲はマエストロ大友の定番というか、極め付きの十八番というべき交響曲だ。その演奏に舌を巻いた最初は、もう20年も前のことで、あれは東京交響楽団を指揮して━━たしかCDにもなっていたのではないか? 
 この日の演奏も、非常に密度の濃い快演だった。憂愁と、郷愁と、甘美さと、豪壮さとを兼ね備えたもので、特に全曲の山場たる第3楽章(アダージョ)は、それに相応しい情感の豊かさをもった演奏だった。最後の最弱音が消えて行くあたりも、絶妙である。
 音楽監督・大友直人と群響との協同作業が好調であることを感じさせる演奏といえたであろう。

 第1部での2曲━━チャイコフスキーの協奏曲では、オーケストラと、萩原麻未のダイナミズムと叙情的な優しさとを併せ持つソロとが、アゴーギクの点で必ずしも調和しているとも感じられなかったが、いっぽう「滝の白糸」序曲では、日本的でトラディショナルな、耳当りの好い曲想を丁寧に再現した演奏で、3年前に聴いた全曲舞台上演の際の演奏よりも、遥かに音楽の美しさが感じられた。

 それにしても群響に、日常の定期を音響の良いホールで開催できる時が一日も早く訪れるよう願ってやまない。だが2年ほど経てば、高崎に新しいホールが竣工される由。ただし、客席2千ほどの、パイプオルガンのない大ホールだとか。音響設計が永田音響であることに期待をかけよう。

2017・3・18(土)音楽監督・秋山和慶と広響のファイナル「英雄の生涯」

      広島文化学園HBGホール  3時

 午前中の新幹線━━連休のため全車両満席━━で名古屋から広島へ移動、広島交響楽団の第368回定期を聴く。

 1998年から、最初は首席指揮者兼ミュージックアドバイザー、04年からは音楽監督・常任指揮者として広響をリードして来た秋山和慶が、モーツァルトの「ディヴェルティメント K136」と「クラリネット協奏曲」、R・シュトラウスの「英雄の生涯」というプログラムで在任中最後の定期演奏会を飾る。協奏曲では名手ダニエル・オッテンザマーが協演して花を添えた。コンサートマスターは佐久間聡一。

 モーツァルトの「ディヴェルティメント」は、マエストロ秋山にとっては、桐朋学園での恩師・齋藤秀雄との思い出の曲でもあるはず。それゆえこれは、あたかも彼が恩師から受け継いだ宝物を広響の楽員たちへの置き土産にしようという、心のこもった告別の辞であるかのように感じられたのだった。弦の透明で澄んだ音色の美しいこと。秋山ならではの正確で整然たる音楽だ。
 「クラリネット協奏曲」では、その端整なオーケストラに、最弱音を随所に駆使したオッテンザマーが表情豊かなソロで多彩さを織り込んだ。美しい演奏である。

 任期最後の定期を「英雄の生涯」で締めるとは、なかなか意味深長なものがある。「英雄の業績」と「英雄の引退」━━もちろん秋山さん自身が引退というわけではない━━はいいとして、「英雄の敵たち」と「英雄の戦い」という副題が、勝手な想像と可笑しみを生じさせる。ここでも秋山ならではのきっちりと組み立てられた演奏が印象的だ。

 だが、この大編成の管弦楽が、大音量で、しかも複雑な音の交錯を響かせるには、音の拡がりも余韻も余情もないこのホールは、いかにもつらい。完売満席で客席もぎっしりと埋まり、残響がいっそう吸われてしまった状態ではなおさらである。
 第1部の「英雄」の個所や、激しい「英雄の戦い」の個所では、音がどうしようもなく痩せてしまう。以前ここで聴いた彼らの演奏による「トゥーランガリラ交響曲」の時よりも、この後期ロマン派の豊麗な作品の場合は、更にそれが目立つ。
 先頃日本各地でオケを聴き歩いたフランスのメルランというジャーナリストが「フィガロ」に寄稿した一文の表現を借りれば「この広島交響楽団には、他の都市のオーケストラと同じように、もっと質の高いホールがあてがわれる資格がある」ということになろう。

 だが見方を変えれば、こんな音響のホールで、これだけまとまった演奏を響かせるのだから、たいしたものというべきかもしれない。事実、「英雄の伴侶」の後半や、「英雄の業績」以降終結にかけての叙情的な、息の長い曲想の部分は、ホールのアコースティックの欠陥を乗り越えて、極めて美しい響きで満たされていたのである。
 こうなると、良いホールでこの曲が演奏されれば、その輝かしさはいかばかりか、と思いが、いよいよ強くなる。

 今日は、この定期を最後に退団する奏者が、オーボエ、ホルン、打楽器に1人ずついて、いずれも大きな花束と、楽員と聴衆とから盛大な拍手が贈られていた。
 そしてもちろん、シェフのマエストロにはさらに大きな拍手と歓声と花束が贈られた。1階客席は半分以上がスタンディング・オヴェーションである。すべてのオーケストラのシェフが、退任に際してこのように温かく送り出されるとは限らない。広島の聴衆は温かい。

 携帯電話機のスイッチ・オフや、非常の場合における注意などを告げる陰アナ(内海雅子さん)は、前回聞いた時と同様に、今日も柔らかく温かい雰囲気のアナウンス。とても感じがいい。
 もう一つ、第1ヴァイオリンの3プルト目の内側に座っていた男性奏者はおそろしく熱狂的に、熱中的に派手な身振りで弾くのが目立って、苦笑させられる。私は奏者が「全身で弾く」姿を見るのは大いに好きなのだが、ただ彼の場合は、独りだけ並外れた規模の大暴れをしているので、少々違和感がないでもない。だがこれは欠点ではないから、あげつらう必要もない。

 終演後はホワイエで、聴衆が自由参加し、指揮者や団員たちを交え、慰労会が行われた。NHKのテレビ取材も入って、まあ賑やかなこと。こちらは舞台袖で秋山さんにお疲れさまを言ってねぎらい、称賛し、間もなくホールを出る。
 6時17分の「のぞみ」で帰京。

2017・3・17(金)小泉和裕指揮名古屋フィル ブルックナー「8番」

      愛知県芸術劇場 コンサートホール  6時45分

 小泉和裕の指揮は、1975年1月23日、カラヤン指揮者コンクール優勝から凱旋した直後の新日本フィル定期以来、数え切れないほど聴いているが、ブルックナーの「交響曲第8番」を指揮する彼を聴くのは、今回が最初である。

 予想通り、いかにも彼らしい均衡豊かな、整然とした「8番」となった。どちらかと言えば遅めの、終始安定したテンポで、全曲をがっしりと構築する。第4楽章半ばでの、あの全管弦楽が行進曲調で轟きわたる個所(【N】)でも、アッチェルランドをかけたりなどしない(あそこで加速する演奏は大嫌いである)。

 オーケストラのバランスも完璧であり、各パートの必要な個所を過不足なく浮き彫りにして各主題を明確に描き出すため、たとえば全曲の最後で3つの主題が同時に高鳴る部分でさえ、すべてがはっきりと聴き取れる。分厚く拡がる弦楽器群を基本に音楽を組み立てるのは、小泉の若い頃からの得意業でもある。

 名フィル(コンサートマスターは後藤龍伸)も渾身の力演だ。ホルンに不安定なところが若干あったが、これは公演を繰り返せば(東京公演を含み3回)、解決されて行く問題だろう。全体に、アンサンブルの美しさと、音の透明さや清澄さといった要素が加わればと思うが、こちらは今後の課題と思われる。
 「シンフォニーをちゃんと演奏できるオーケストラを」という理想を掲げる小泉が、音楽監督として今後、名フィルをどのように引っ張って行くか、である。

 このブルックナーの「8番」という大曲も、名古屋フィル音楽監督に就任して1年、頃合いも良しという時期を選んでのことだろう。
 そういえば、このコンサートホールは今秋から長期間の工事に入る由。他に大規模なオーケストラ演奏会場を持たぬ名古屋であれば、名フィルにとって、ブルックナーの後期交響曲のような巨大な作品を演奏するにはぎりぎりの時期だったということかもしれぬ。

 使用楽譜は、当初のノーヴァク版という予告が変更され、ハース版になった。私はこの曲に関する限り絶対ハース版の方が好きだから、第3楽章と第4楽章では、あのノーヴァク版ではカットされてしまっている美しい個所を、久しぶりに楽しませてもらった。

2017・3・16(木)ぺトル・アルトリヒテル指揮プラハ交響楽団

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 1934年創立のプラハ交響楽団。現在の首席指揮者はあのピエタリ・インキネン。今回は、90年代に短期間、首席指揮者を務めたペトル・アルトリヒテルとともに来日した。
 プログラムは、スメタナの連作交響詩「わが祖国」全曲。チェコのオケとしては最強のプログラムだろう。

 このオケは、私は最近10年ほどの間には、コウト、マカル、インキネンのそれぞれ指揮で来日公演を聴く機会があったが、良いオケだと思う。
 50年ほど前、当時の首席指揮者スメターチェクの指揮したドヴォルジャークの「第3交響曲」を聴いた時に感じた魅力を、今でもそのまま再現してくれるオケである。いわゆる機能的な楽団ではないけれど、真摯で温かみがあり、最良の意味でのローカル性を今なお持ち続けているオーケストラだ。

 それゆえ、この連作交響詩「わが祖国」も、良い意味での土臭さと、ある種の懐かしさと、民族音楽的な旋律の美しさと、民族舞踏的なリズム感と、━━そういう要素を、これ見よがしではないけれども、随所に感じさせてくれる演奏になっていたのである。

 アルトリヒテル(アルトリフテル?)は、結構大暴れする指揮者で、また答礼する前後には脚をおかしな形に交錯する愛敬のある人だが、つくり出す音楽にはすこぶる良い雰囲気がある。
 第1曲「高い城」では金管を猛烈に響かせるので、この調子で全曲をやられたらとてもたまらないと怖じ気づいたほどだったが、第2曲の「モルダウ(ヴルタヴァ)」では一転して、実に柔らかく豊麗な音で水の流れを描き出してくれたので、いっぺんに魅惑されてしまった。月光の場面など、その夢幻的な音色に陶然とさせられたほどだ。

 第3曲「シャールカ」ではツィティラート軍団の行進や舞踏のリズムも躍動的(この部分はチェコのオーケストラの独壇場である)だし、「ボヘミアの森と草原より」や「ターボル」での、クライマックスへの追い込みも熱っぽく、これらも良い意味での洗練されていない素朴な荒々しさに満ちている。一風変わった指揮者だが、面白い。

 カーテンコールは3回ほどやって、あっさりとお開きになった。ヨーロッパのオケは、日本に来た時は延々とカーテンコールをやることが多いが、ヨーロッパでやる時には、普通は大体この程度の回数のようである。

2017・3・14(火)ラドミル・エリシュカ指揮札幌交響楽団東京公演

     東京芸術劇場 コンサートホール  7時

 昨年6月以来、久しぶりに聴く札響。名誉指揮者ラドミル・エリシュカとの今回の東京公演は、メンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」、シューベルトの「交響曲第5番」、ブラームスの「交響曲第1番」というプログラム。

 エリシュカは満85歳だが、元気なこと! 姿勢も良く、歩くのも速いし、指揮姿が活発で、何よりオーケストラから引き出す音楽がエネルギッシュで若々しい。
 シューベルトの「5番」第1楽章での闊達なテンポ、引き締まってアクセントの強いリズム感、ヴィヴィッドな躍動感は、驚くほどである。そしてブラームスの「1番」での、これまた水際立った颯爽たるテンポ感は鮮やかそのものだし、中間2楽章での叙情性をこれだけ瑞々しく浮き彫りにする指揮者は決して多くない、と思わせる。

 全体に真摯で率直な音楽づくりだが、たとえばシンフォニックな構築で滔々と押して行った「フィンガルの洞窟」の幕切れで、突然大きくテンポを落し、終結和音を劇的に繰り返し叩きつけるといった術にも事欠かない。とりわけ、ブラームスの第4楽章の終結で、劇的なアッチェルランドを経てティンパニの壮絶な強打、毅然たる終結和音の反復にいたるまでの昂揚感は卓越したものがあった。
 アンコールで指揮したドヴォルジャークの「ユモレスク」も、不思議な懐かしさを醸し出して、さすがにチェコの名匠の指揮だなと感じさせる。

 札響も、素晴らしい演奏をした。エリシュカのヒューマンな音楽性を、今や完璧にその演奏の中に一体化しているといえるだろう。コンサートマスターには田島高宏、トップサイドには大平まゆみが座る。
 弦の良さは以前からの札響の特徴だが、この日も生き生きとした表情に富んでいた。欲を言えば、メンデルスゾーン、シューベルト、ブラームスの3曲とも、いずれも同じ音色で演奏されていたのには少々疑問があるが━━その音色が最もぴったり曲想と合っていたのは、多分ブラームスに於いてであろう━━それはしかし、今のところはどうでもよい。各都市のオーケストラが真摯に音楽に取り組んでいるさまを視て、聴くのは、大いに喜ばしいことである。

 今月は、この他にも各都市のオケを、名フィル、広響、群響、オーケストラ・アンサンブル金沢、京響、仙台フィル、関西フィルを聴く予定だ。おそらくどれも期待を裏切らないであろう。

 終演後の出口では、いつものようにスポンサーの「ホクレン」から「てんさい糖」100g入りの袋が土産に配られる。これを貰うのが目的で札響東京公演を聴きに行くわけではないけれども、オリゴ糖を多く含んだこの「てんさい糖」は美味しいので、貰えるのはやはり嬉しい。

2017・3・13(月)インバル指揮ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団

      すみだトリフォニーホール  7時

 ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団(旧東独時代のベルリン交響楽団)の現在の首席指揮者はイヴァン・フィッシャーだが、今回は、かつての首席指揮者エリアフ・インバルとの来日だ。プログラムは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデからの「前奏曲と愛の死」、マーラーの「交響曲第5番」。

 日下紗矢子さんのこのオケのコンサートマスターとしての雄姿(?)を見られたのは嬉しいが、残念ながらそれはワーグナーにおいてのみだった。マーラーでは別の男性がコンマスを務め、日下さんはトップサイドで弾いていた。

 で、大いに期待されたこのオケの公演であったが、━━インバルの指揮にしては、意外に音が粗い。「トリスタン」での音の硬さなど、呆気にとられるほどで、「愛の死」の頂点にいたっては、ただ大きな音が雑然と響くだけで、愛の陶酔も何も感じられない。
 聴いた席は22列中央近く。このあたりは、金管が強く響いて来て音が硬く聞こえるというのは、以前にも経験したことだ。上層階━━3階席とか、左右のバルコン席の上部あたりなら、こんなに刺激的な音には聞こえないはず。

 ただいずれにしても、このオーケストラは、アンサンブルを含めての技術的な部分には鷹揚なところがある。ただしそれを、あの巨大な空間を持つベルリンのコンツェルトハウス(旧シャウシュピールハウス)で聴くと、陰翳と大らかさを伴った不思議な味をもって拡がって来るのだが・・・・。
 来週、東京芸術劇場で「巨人」を聴いてみれば、もう少し詳しく判るだろう。

 そんなわけで、「トリスタン」はすこぶる落ち着かない印象に終始したが、19列で聴いた(この移動は、許可を得ての業務上のものです。念の為)マーラーの「5番」では、弦楽器群がもう少し強く浮かび上がって、オーケストラの音にも奥行感が生じ、内声部もかなり明確に聴き取れて、演奏も多彩なものに感じられるようになった。
 第3楽章でのホルンの活躍も劇的に味わえたし、第4楽章の「アダージェット」でも柔らかい空間的な拡がりが堪能できる。

 特に第2楽章からあとは、インバル特有の剛直な音楽づくりが冴え、実に見事な演奏になった。フィナーレのコーダ近く、これでそのまま頂点へ━━と思わせておきながら、突然勢いが落ちて行く例の個所(第581小節から)では、凡庸な指揮者の手にかかると「未だ終らないのかよ」などという印象を生んでしまうものだが、さすがインバルはそのあたりの設計が巧い。少しも緊張感を失わせず、再び最後の昂揚へ全軍を率いて突き進んで行った。
 このように、ひたすらクライマックスへ追い上げて行くインバルの指揮には、相変わらず凄味が漲っている。コンツェルトハウス管弦楽団も、鮮やかにそれに応えていた。

※コメントにつき☞前日の項

※この件に関するコメントが次第に荒れて来たので、本意ではありませんが、19日正午以降のご投稿分6通を削除させていただき、「以上」といたします。議論には節度を。

3・12(日)ウルバンスキ指揮NDRエルプフィルハーモニー管弦楽団

     ミューザ川崎シンフォニーホール  2時

 北ドイツ放送響が、今年からNDR(=北ドイツ放送)エルプフィルハーモニー管弦楽団という名称になった由。
 要するに、ハンブルクに今年1月開館したエルプフィルハーモニーという名のホール(音響設計者は永田音響の豊田氏)を本拠とするようになったので、オケもこの名称に変えたのだとか。

 首席指揮者はトーマス・ヘンゲルブロックだが、今回は首席客演指揮者のクシシュトフ・ウルバンスキとともに来日した。
 プログラムは、ベートーヴェンの「《レオノーレ》序曲第3番」と「ピアノ協奏曲第3番」(ソリストはアリス=紗良・オット)、R・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」。なお、アリスのアンコールはまたグリーグの「山の魔王の宮殿にて」、オーケストラのアンコールはワーグナーの「《ローエングリン》第3幕前奏曲」。

 若手の鬼才ウルバンスキの指揮は、彼が東京響の客演指揮者を務めていた時代に聴いて、舌を巻いたことも一度や二度ではない。そうした気鋭の指揮者が、ドイツの強豪オーケストラと一緒にどんな音楽をやるか━━それが興味の的だった。

 その共同作業は、今回たった一度聴いただけだが、なかなか面白い。ウルバンスキは、前半のベートーヴェンの2曲において、あたかも偉大なドイツ魂といったものを尊重し、併せてこのドイツのオーケストラへの敬意を表すかのように、重厚壮大な音楽をつくり出した。奇を衒わず、真摯に、時には沈思するような表情をもって作品と相対するといった感である(以前、東京響とモーツァルトの「交響曲第40番」を初めて演奏した際、ちょうどこういう音楽づくりだったのを思い出す)。

 そしてそのあと、後半の「ツァラトゥストラはかく語りき」に入るや否や、今度はオレの流儀でやらせてもらうと言わんばかりに、音色、バランス、テンポなどにじっくりと趣向を凝らし、一癖も二癖もある演奏をつくり上げる。こういうところがウルバンスキの面白さだろう。

 特にその前半では、彼は極度に遅いテンポを採った。彼のテンポの遅さは今に始まったことではなく、東京響とのブラームスなどでも何度か驚かされたものだったが、今回の「ツァラ」でのテンポ解釈もかなり極端で、えらく長い曲に思えたほどである。
 といって楽曲が崩壊するなどといった演奏では全くなく、その表情の濃密さと、オーケストラから引き出した色彩感と、荒々しいデュナミークのスリリングな対比は、明確に保たれていたのだ━━今回私が聴いた4階席からの印象では、そうだった(2階席あたりで聴くと、だいぶ印象も違ったらしいが)。

 かつてはシュミット=イッセルシュテットやヴァントら、ドイツの巨匠たちに育まれたこのオーケストラも、最近はヘンゲルブロックや、このウルバンスキという鼻っ柱の強い若者らを指揮者陣に迎えて、かなり変貌して来たと聞く。
 だが、例えば今日のベートーヴェンの作品などを聴くと、そこにはちゃんとドイツのオーケストラならではの強靭な個性が保たれているように感じられる。そこがこのオーケストラのプライドというか、土性骨というか、立派なところなのだろう。

※コメントにつき、「仲裁したらどうですか」という別メールを頂戴しましたが、私はそんな徳のある人間ではないので、仲裁はしません。特に口汚いコメントは削除しておりますが、大体は「なるほど、そういう見方もあるか」と、興味深く読ませていただいております。議論大歓迎、です。
 ただ、単語の一つだけにこだわったり、言葉尻をつかんだりして議論していると、肝心な大筋を見誤るおそれがありますので、そのあたりにはご注意を。

2017・3・11(土)上岡敏之指揮新日本フィル マーラーの第6交響曲

       すみだトリフォニーホール  6時

 「すみだトリフォニーホール開館20周年記念」に「すみだ平和祈念コンサート2017」を組み合わせた演奏会の一環。2011年3月11日の「東日本大震災」と、下町方面で10万人の死者を出した1945年3月10日未明の所謂「東京大空襲」の犠牲者を追悼する演奏会のひとつ。

 予定されたプログラムは、マーラーの「交響曲第6番《悲劇的》」。コンサートマスターは崔文洙。
 上岡敏之が指揮するマーラーは、例のごとく一風変わった演奏だが、作品に新しい視点を提示してくれるという意味からも興味津々たるものがある。

 今回も予想通り、かなり個性的な演奏になった。
 冒頭の弦楽器群による荒々しい行進からして、普通の演奏に聞かれるような闘争的な、攻撃的な表情ではない。重心はしっかりしているけれども、極端に言えば一種の浮遊感さえ漂わせる不思議な軽いリズムだ。また、例のイ長調からイ短調へ一瞬のうちに移行する第57~60小節の個所でのティンパニも、狂暴な音量ではない。
 ━━というような特徴から、ちょっと拍子抜けのような感を与えられる。だが、スコアには、これらの個所はいずれもffやfff ではなく、単に「フォルテ」と記されているのであり、そこだけは上岡の指揮もスコアに忠実だったと言えるだろう。

 とはいえ、概してその他の個所では、上岡らしいテンポの自在な伸縮や変化が聞かれる。
 問題は、それらの個所で━━特に第1楽章においては、オーケストラがそのテンポの変化に応じられず、戸惑いつつ慌ててテンポを変えるというような演奏が、明らかに聞こえたのである。練習不足だったのか、それとも指揮者の即興だったのか? 
 ただしそのあと、両者の呼吸も次第に合って来たらしく、第4楽章ではそれなりのまとまりも聴かせてくれた。

 今日の演奏を聴いて、概して感じられることは、上岡の指揮は如何にも彼ならではの柔軟な自在さを保っているが、新日本フィルのほうが━━と言っては酷かもしれないから、両者の呼吸が、と言い直しておこうか━━昨年、彼との協同作業が始まった時期よりも、逆に「合わなくなって来た」のではないか、という点だ。
 歯に衣着せずに言えば、このところの新日本フィルの「音」は、アルミンクにより建て直される以前の、1990年代に逆戻りしたような印象がなくもないのだ。

 思えば、1972年の創立以来、小澤征爾、小泉和裕、井上道義、少し飛んでアルミンク━━といったような傾向の人たちをシェフに置いて来た新日本フィルは、今回、上岡敏之という、全く異なる指揮のスタイルをする人を迎えている。それゆえ、今のオケの粗さは、その変化への過渡期の単なる一時的な産物に過ぎないとも言えるだろう。いや、そうとでも思わなければ、創立以来このオケを聴き続けて来た者としては、やりきれない。

 この曲だけで今日は当然終りだと思い込んでいたら、意表を衝いてアンコール。マーラーの「第5交響曲」からの「アダージェット」が演奏された。これは、周知のように、6年前の「あの日」に、このオーケストラがハーディングの指揮で演奏した交響曲からのものだ。

 この「5番」のほうは、13日にインバルとベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団が全曲をこのホールで演奏することになっているが、新日本フィルがそれを一部先取りしたのは、「トリフォニーのあるじ」としての意地か挨拶か、それとも犠牲者への追悼の意味を含めてか。
 とにかく、遅いテンポによる矯めをいっぱいに保持しての弦とハープの沈潜した叙情的な演奏はこの上なく美しく、これこそが今日の演奏会における白眉であった。━━こういう、息の合った演奏だって、可能なのである。

※楽章順序が「マーラー協会版」であることは重々承知しておりましたが、うっかり書き間違えてしまいました。みっともない話ですね。ご指摘下さった方にお礼を申し上げます。

2017・3・9(木)「不信━━彼女が嘘をつく理由」

      東京芸術劇場シアターイースト  7時

 マチネーの終演後、そのまま東京芸術劇場の建物の中にとどまり、パソコンで仕事をしながら、夜の演劇上演の開始を待つ。

 「株式会社パルコ」の企画制作による、三谷幸喜の作・演出のドラマだ。舞台が中央に設置され、その両側を満員の観客がぎっしりと埋める。
 出演は段田安則、優香、栗原英雄、戸田恵子の4人のみ。隣同士に暮らす2組の夫婦━━妻は2人とも嘘をつく。1人は不倫を隠し、1人は万引き嗜好の性格を隠す。自らも不倫を隠していた前者の夫は妻を許し、清廉寛容だった夫は、異常性格の妻を殺す。

 大雑把に言ってしまえばそれだけのストーリーだが、その中に三谷幸喜らしいユーモアと皮肉が織り込まれているのが見ものだ。
 主婦のお節介としつこい好奇心が他人の家庭に要らざる悲劇を生じせしむ━━というのはTVドラマにもよくある設定で、私はうんざりするので見るのも嫌なのだが、今回の三谷ドラマはそれをサラリとコミカルに描いていたし、役者さんも巧いので、ある程度我慢でき、芝居としては充分に愉しむこともできた。正味2時間ほどの上演時間。

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