2017-10

10・6(水)マルク・ラフォレのショパン・リサイタル

  浜離宮朝日ホール  7時

 パリ生れの名ピアニスト、マルク・ラフォレを久しぶりに聴く。
 全ショパン・プログラムで、「スケルツォ第2番」「マズルカ作品24(4曲)」「葬送ソナタ」、休憩後に「ポロネーズ作品44」「ワルツ作品34-2」「ワルツ作品42」「夜想曲作品27-2」「スケルツォ第1番」。
 アンコールは「革命のエチュード」「夜想曲作品48-1」「子犬のワルツ」「ワルツ作品64-2」。

 いつに変わらぬキラキラした音色と洗練された表情。フォルテの個所では、かなりの戦闘的な激しさも聴かせる。小気味よいほどの勢いだ。

 だが通して聴いてみると、結局、目まぐるしいほどの勢いで疾走する演奏の連続であったという印象だけが残る。
 プログラム全体を一望すれば、急ー緩ー急ー緩と組み合わされた巧みな配列というイメージはあるのだが、実際には、ゆっくりした曲でも、中間部が猛烈に速いテンポで弾かれるというケースが多かった。そんなふうに、最初から最後まで走りっ放しでは、少々単調な感になるのは免れまい。

 それに気になるのは、この人はショパン特有の頻々たる転調と、そこから生れる色合いや陰翳の変化などをあまり重視していないように思われることだ。
 たとえば「ポロネーズ」の中間部の、同じ音型が延々と反復されつつ次第に転調して行く個所など、演奏に表情に変化が乏しいために、ただひたすら突進するだけの単調な音響と化してしまうのである。
 「作品48-1」も同様。ポーコ・ピウ・レントの後半部分やハ短調に復帰するくだりは、あまりに一気呵成に弾かれすぎ、刻々と移り変わるハーモニーの精妙さはどこかへ吹き飛んだ。従って、葬送行進曲的な悲愴感も、英雄的な佇まいも、失われてしまった。

 さらに問題なのは、「スケルツォ第1番」。
 あの中間部の、ポーランドのクリスマス民謡が無情な侵略者の一撃により打ち破られそうになりながら、なお想い出の夢に縋りつくように歌が続く個所――ここは全く身の毛のよだつような恐怖を覚えるところだが――で、ラフォレはその歌の部分を、想い出を自ら意図的に振り切り、打ち捨ててしまうかのように、次第にテンポを速めて行き、スケルツォ主題の復帰を準備する役割を持たせるものとして扱ってしまうのである。
 楽譜の上だけで考えれば、それはそれで一つの(それも見事な)音楽的な流れになることは事実だが・・・・。

 これらは畢竟、ラフォレの解釈の問題だから、聴く側としては、好みの問題として云々する以外にはテはないのだろう。
 が、彼のそういう演奏は、ショパンの作品における私にとっての最も大切な部分を無視されたもののような気がして、どうも共感できないのである。

 「ワルツ作品34-2」の最後、翳りのある主題がもう一度ゆっくりと戻って来るところあたりでは、いい味を聴かせてくれた。他の曲でももっとテンポを引き締めれば、細かいニュアンスも出ると思われるのだが、如何なものか。

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