2018-09

7・15(木)東京二期会 ベルリオーズ:「ファウストの劫罰」プレミエ

  7時  東京文化会館大ホール

 ベルリオーズの情熱の赴くまま、幻想的かつ非論理的に物語が構成された作品だ。もともとオペラとしては作られていないのだから、理屈っぽい演出など当て嵌めようとすれば、かえって訳の解らないものになる。それゆえ演出も、幻想的かつ非論理的に行われるケースが多い。
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       地獄落ちの場面 左:ファウスト 右:メフィストフェレス

 二期会がこの上演(公演監督・三林輝夫)にあたり、振付家として有名な大島早紀子を演出に起用したことは、狙いとしては的を射ているだろう。
 予想どおり、彼女はドラマ進行の中にダンスを縦横に取り入れた。「妖精の踊り」と「鬼火のメヌエット」のように本来バレエ音楽として書かれている場面はもちろん、「ハンガリー行進曲(ラコッツィ行進曲)」もダンスとして扱い、全曲いたるところで、転げ落ちたり、転げ上がったり(?)するダンスや、宙吊りで滑走する激しい動きのダンスを、徹底して展開させている。

 これは、ファウスト(福井敬)とマルグリート(林正子)の深層心理や、メフィストフェレス(小森輝彦)の操る怪奇でグロテスクな魔の世界を描き出すという意味でも成功していた。ファウストの求める救済の投影たる巨大な十字架の中にまで、ややグロテスクなダンス(苦悩する人間?)を織り込んだところなど、秀逸な発想だ。
 とはいえ、全曲大詰めの「天上にて」の静謐で神秘的な音楽の場面にも動きの速いダンスを持ち込んでいたのには、あまり共感はできないのだが・・・・。

 そのダンス的な動きは、合唱団の動きにまで応用されており、これもうまくまとめられていた。
 しかし、さすがの大島のパワーも、主人公歌手たちの演技を巧くコントロールするところにまでは、残念ながら及ばなかったようだ・・・・。それに、初日とはいえ、舞台には緊迫感や段取りの面での「隙間」が多く感じられたのが惜しい。
 それでも今回の演出は、3年半前の二期会公演「ダフネ」におけるよりも、彼女の得意技がより多く発揮された舞台ではなかろうか。この手法をさらに練り上げて、わが国のオペラの舞台に新風を吹き込み続けて欲しいものである。
 なお、ダンサーは白河直子をメインとする人たち。良かった。
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           最終場面「天上にて」

 指揮はミシェル・プラッソンで、管弦楽は東京フィル。
 プラッソンも少し年取ったかなと思えるくらい、昔の彼に比べると温厚な音楽づくりに感じられたが、これはピットを低く下げ過ぎて、オーケストラの音を飽和的に柔らかくしてしまったせいもあろう。
 つまり、どうもメリハリに欠けるのである。ベルリオーズの破天荒でダイナミックな、しかも非常に雄弁で色彩的なオーケストラの迫力を、ピットの底深く沈めてしまったのは、残念だ。
 わが国では未だに、オーケストラは歌の伴奏で、歌こそがオペラの主役である――という概念が抜け切っていないらしいが、歌手たちは充分力をつけて来ているのだから、もっとオペラにおけるオーケストラの魅力を浮彫りにする考え方が出て来てもいいのではないのか? 

 その代わり今夜の演奏は、ベルリオーズの音楽の温かい抒情的な美しさを余す所なく再現する点では、見事な成功を収めていた。
 私はこの曲が学生時代から大好きで、マルケヴィッチやミュンシュのレコード(演奏の傾向は正反対だが)を擦り切れるまで聴いて夢中になっていたものだが、今夜の演奏を聴きながら、本当に何ときれいなすばらしい曲なのだこれは――と改めて感じ入った。そう思わせてくれたのは、演奏が好かったことの証明でもある。
 最近のプラッソンの指揮には、いい味が出て来た。

 東京フィルも今日は好演。「マルグリートのロマンス」におけるコール・アングレと弦の雰囲気。そして、全曲最後の Un poco meno lento での、 波打つハープと弦を中心とするオーケストラの柔らかい響きと絶妙なバランス――。

 ただ一つ、腑に落ちない点は、今夜の歌手のフランス語と音楽のリズムとが何か一致せず、ズレズレの印象を生む個所もあって、これをプラッソンがどう指示していたのかしらん、ということだ。特に、ブランデル(佐藤泰弘)の「ねずみの歌」と、メフィストフェレスの「セレナード」といったリズミカルなテンポの個所で。

 歌手陣では、やはり福井敬の歌唱のエネルギー感が一頭地を抜いていただろう。ただ、それを認めつつも、この人の腕を無意味に拡げる類型的な演技にだけは、いつもながら文句をつけたいところである。「アーメン・コーラス」を聴きながら閉口するメフィストフェレスを揶揄するところなど、もう少し工夫できないものかと思う。歌がいいだけに、惜しまれる。

 4日連続の上演で、キャストは2グループ。林正子のみは3日歌う。18日の別キャストでの上演にも行ってみたいと思っている。

※写真:鍔山英次  東京二期会提供

コメント

二期会「ファウストの劫罰」7月17日

この作品は過去には1997年のMET来日公演のサントリーホールでのコンサート形式を聴いた経験しかない。マルグリート役のボロディナとブランデル役のパーペの存在感が強かった。たった1曲歌うだけだが、この時からパーペは気になる歌手になった。ファウストやメフィストフェレスが誰だったかは記憶がないが、調べてみるとヴィンセント・コールとジェームス・モリスだった。

7月17日の公演。
【歌手】
福井敬。最近の「オテロ」は彼の良さが出た公演だったようだが(私自身はセカンドキャストを聴いたので、彼の「オテロ」がどれだけ良かったかはわからない)、この日のファウストはオテロの霊に取り付かれたファウストであった。そんなに力まなくても良いのではないかと終始感じた。特に、青年に変身したら青年らしい感じがあっても良いのではないか。
樋口達哉は細い声なので全然違うタイプの役作りだったのではないかと想像する。私の好みとして、今回は樋口達哉のファウストの方が気に入ったかも知れない(比較していないので分からないが)。
メフィストフェレスの小森輝彦。これはなかなかのメフィストフェレスであったが、福井のファウストとは逆に、もう少し悪人的なクセがあっても良いかと感じた。人の良いメフィストフェレスであった。

佐藤康弘のブランデルは期待とは少し違っていた。たった1曲しかないのだからもうちょっとがんばって欲しかった。新国立劇場でのワーグナーなどいい味だったのになぁ。

導入部でプラッソンの演奏に福井敬の歌が入ってくると、目指している世界が全然違っており、「合っていない」という居心地の悪さを感じた。その後はそうでもなかったが、その感覚は所々で思い出す感じだった。小森、佐藤も演奏と雰囲気が何となく合っていない感じ。

演奏と歌手の一体感があったのは、林美智子の代役として急遽登場した小泉詠子が歌う時だけだった。小泉は、声よし、歌よしで、急遽代役を務めることになったとは思えない安定感であった。プラッソンの作りたい音楽と一致してとても心地良い時間だった。無理な注文ではあるが、存在感を持って歌の中に感情を込めてひとつの世界を作り出すというところまでは行かなかった。「この人でなければいけない」、「この人をまた聴きたい」という気持ちにまでさせるというのはなかなか難しいものである。
彼女はカーテンコールでもとても暖かい拍手を受けた。

【合唱】
今回の二期会合唱団は何だか物足りない。翌日、東京都交響楽団の「売られた花嫁」でも二期会合唱団が登場。客演であるこちらの公演ははるかに良かった。
マルグリートの魂の昇天の場面での少年少女合唱はNHK東京児童合唱団。この公演で一番良かったのはこの少年少女合唱であった。
この場面での二期会合唱団のソリストによる天の声は非常に良かった。

【演奏】
プラッソン指揮東京フィルハーモニーの演奏は私にとっては満足行くものであったが、そして、観客の拍手もプラッソンとオーケストラに対するものが一番大きかったが、公演全体として総合的には翌日の「売られた花嫁」が更に良かったので、この日の演奏の満足感は少し薄れたかも知れない。

【演出】
最近の二期会の上演は演出が細部まで行き届いていて完成度が高いと感じることが多い。直近では「オテロ」(セカンドキャスト)がそうであったが、この作品ではやや隙間を感じた。
全体として、私にとっては「演奏は素晴らしいが作品(演出)としての出来は必ずしも満足出来ない」というものだった。

H.アール・カオスの名前は随分前から知っていて、興味はあったものの一度も観たことがなかった。そのダンスを観るのも楽しみの一つであった。
冒頭、十字架の中でうごめく人々の表現を見て、なるほど面白い発想。舞踏、モダンダンス、サーカスの要素が混じっていて楽しみだと感じた。
しかし、次の、ハンガリー行進曲で兵士が音楽に合わせておもちゃの兵隊のように階段を下って行くところでは早くも疑問を感じた。右手に右足となりそうな歌手もいて、「シリアスな話なのにパロディのように演出するつもりなのか」と感じてしまった。既に周囲でダンサーが踊っているのだから兵隊は普通に歩けばいいんじゃないの?という印象。
その後もそれぞれの場面で終始踊りが出て来る。ワイヤーを使って空中を漂うサーカスのような視覚的に強い踊りも多いので視線は自然に地上で歌う歌手でなく空中の踊りに引き付けられてしまう。登場人物の心理なども踊りで表現されるが私としては「いちいち、踊りが必要なのか」とうっとおしく感じることも少なくなかった。
繰り返し類似の語法の踊りが続くので、「もう理解した。後は目をつぶって聴こうか。そうすると字幕は見えないし」とのジレンマであった。

特にラストシーン。マルグリートの魂が天に昇って行くことは音楽が示しているのだから小細工は不要である。いくらなんでも空中でぐるぐる踊るという発想はないのじゃないか。何でこんな発想になるのかが分からない。マルグリートが少年少女合唱の天使の方に向かって階段をゆっくり上がって行くだけで充分である。過去に聴いたコンサート形式の公演では演出は一切なくてもマルグリートの魂の昇天は充分目に浮かんだ。

踊りを中心にした演出は部分的には非常に興味深いところもあった。例としては以下。
兵士の服装のダンサーが次々と階段を頭から滑り降り(階段は柔らかい素材)、最後は地下に落ちて行く。地下に落ちるということでこのダンスは死、戦争のむなしさを表現しているようだった。
また、ワイヤーで身体を支えての地上すれすれでの踊りは重力に逆らう不思議な表現が出来て面白い。
第3部冒頭、マルグリートがファウストの夢を見てバルコニーでぼんやりしている様子をダンサーが表現していたのは魅力的な場面であった。
第4部途中、馬が空中に登場し、ファウストが地上で馬に跨り、マルグリートのもとに向かい地獄に落ちてしまうところをイメージ的に表現したところもユニーク。

振付家がオペラを取り上げる例として過去にはピナ・バウシュの「タウリスのイフィゲネイア」を観たことがある(さいたま芸術劇場)。これは歌手と合唱はバルコニーで歌い舞台にはダンサーだけが登場してダンス作品として進行する。極めて魅力的な舞台だった。今回の公演もそういう考え方なら良かったのにと感じてしまった。
オペラではないがビントレーの「カルミナ・ブラーナ」も同じやり方である。
バウシュ作品は1999年の来日公演で観たのだが、これが1974年の作品だと知って驚いた。70年代にこんな作品を創っていたとは…。
他にダンサーが演出し、自身が登場するオペラとしては山海塾の天児牛大の「青ひげ公の城」がある。彼の舞踏も独特であるが、オペラの静謐さと彼の舞踏の世界が一致して非常に心地良い空間だったとの記憶(1997年に観た)。

「ファウストの劫罰」の観客はH.アール・カオスのファンや知人、あるいは自らがダンサーであるという雰囲気の人も含まれていた。既存のオペラ・ファンだけでなく、新しいしいファンを吸引するという意味では非常に大きな意味のある公演だったのではないか。
「いろいろな要素があり面白かった」との会話も聞かれたが、この演出でまた観たいかというと、私にとってはMETのコンサート形式の公演から得た満足感の方が上だった。

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