2018-09

7・11(日)スダーン指揮東京響のブルックナー「9番」+「テ・デウム」

    サントリーホール  6時

 ブルックナーの「交響曲第9番」と、その未完に終った第4楽章に替わるものとして「テ・デウム」を併せて演奏するというコンサートは――それが作曲者の「遺言」ではあっても――実際にはなかなか聴けない。
 それもあって、この演奏会に間に合うよう、午前中に帰国した次第。

 ユベール・スダーンの指揮するブルックナーの交響曲は、これまでにいくつも聴いて来た。
 彼は、ブルックナーの交響曲に、物々しい巨大さを求めることをしない。むしろオーケストラの壮大な響きの中心に存在する核というものを見据えて、全体の均衡を重視した音楽をつくる人だ。音色は滑らかだが造型は厳しく、低音はたっぷり鳴りながらも引き締まって剛直さを失わない。そして、東京交響楽団はいつもそれに完璧に応えているのであった。

 私はこの曲の第3楽章の最後、ヴァイオリンが8分音符で上下しながら終結へ向かって歩みを進めて行く個所がたまらなく好きだ。
 そこでは、シューベルトのあの「未完成交響曲」の第2楽章終結部と同様に、彼岸への指向、現世への別れ、無限の浄化、といった性格を感じないではいられない。つまり、その先にはもう何もあり得ないという音楽としか思えないのである。
 しかし、もしそのあとに何かが付け加えられるのであれば、指揮者が第3楽章のエンディングをどんなニュアンスで演奏するか、ということに興味が湧いて来る。そこで一応世界を完結させるか、それとも気分的な意味でのドミナント的性格を暗示して曲を結ぶか、である。

 「9番」と「テ・デウム」の有機的な結合をはかるために、今夜は休憩なしで、合唱も交響曲の最初からP席に板付きになっていた。独唱者のみ「テ・デウム」の前に入場するが、その際の拍手は控えて欲しい、という事前告知もあった。が、それらはあくまで形の上でのこと。
 実際に演奏された第3楽章の終結におけるスダーンの指揮は、テンポや表情などから、やはり明らかに第4楽章の存在を予感させての演奏だったように、私には感じられた。それはまさに適切な手法であり、筋が通っているだろう。

 もっとも難を言えば、第3楽章が終り、そこで独唱者とオルガン奏者が入場し、ちょっと間が空き、しかもチューニングが行なわれることになると、この2つの作品を真に有機的に関連させるという点では、やはり無理が感じられたのではあるまいか。
 この編成で、アタッカもしくはそれに近い形で「テ・デウム」に突入するという方法は、たしかに至難のわざであろう。が、ベートーヴェンの「第9」でのような、何か上手い工夫があればよかったのにと思う。

 その「テ・デウム」では、東響コーラスが、冒頭から壮大な重量感にあふれた合唱を爆発させ、聴き手に息を呑ませた。このコーラスの優秀さは20年以上も前から定評があるが、今夜も実に素晴しかった。特にソプラノは見事で、全曲の最後では圧倒的な最高音を決め、壮絶な締め括りを聴かせたのであった。まずはこの東響コーラス(安藤常光指揮)を讃えたい。
 独唱陣は澤畑恵美、小川明子、高橋淳、久保和範といった人々だったが、高橋はいかに名手とはいえ、残念ながらこの宗教声楽曲においては明らかに異質なスタイルであったと思われる。

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