2019-05

7・7(水)旅行日記初日 エクサン・プロヴァンス音楽祭
モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」

   アルシェヴェーシェ劇場  夜9時30分開演

 取材初日は、半野外のアルシェヴェーシェ劇場(大司教館劇場)におけるモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」。遅い開演時間は野外劇場なるがゆえの照明効果などのためであると昨年教えられた。夜の9時半になっても、まだ空は明るいのである。

 演出はディミトリ・チェルニャコフ、指揮はルイ・ラングレ。この新制作プロダクションは、マドリードのレアル劇場、トロントのカナダ・オペラ・カンパニー、モスクワ・ボリショイ劇場との共同制作なる由。

 最近注目されている若手演出家チェルニャコフは、ボリショイ劇場が昨年日本に持って来た「エフゲニー・オネーギン」や、数年前のマリインスキー劇場での「皇帝に捧げし命」などではピリリと利いた面白いセンスを示していたが、その一方、ベルリンの「ボリス・ゴドゥノフ」などでは「やりたい放題」をやっていた人でもある。
 今回もあれこれやるだろうとは思っていたが、案の定。人物相関関係を大幅に読み替えて、非常に変わった「ドン・ジョヴァンニ」を創り上げた。

 開演前の幕に、登場人物の相関関係の説明が映写される。
 騎士長(アナートリ・コチェルガ)は家長、その娘ドンナ・アンナ(マルリス・ペーターセン)の「新しい」婚約者がドン・オッターヴィオ(コリン・バルツァー)。
 ツェルリーナ(ケルスティン・アヴェモ)は、何とドンナ・アンナの娘(ただし父親は謎)で、マゼット(ダヴィッド・ビジッチ)はその婚約者。
 ドンナ・エルヴィラ(クリスティーヌ・オポレス)は、ドンナ・アンナの従姉妹(!)で、ドン・ジョヴァンニ(ボー・スコウフス)の妻。レポレッロ(カイル・ケテルセン)は騎士長家住み込みの青年。 
――という、一部は奇抜な読み替え設定である。

 場面は一貫して、騎士長の邸宅の書斎兼居間のような部屋で展開する。
 序曲冒頭では、この一族全員が睦まじく食卓を囲んでいる光景が現われるが、ただちに幕が降り、それ以降は場面ごとに「その1日後」「1ヵ月半後」「2週間後」「3週間後」といった文字が、その都度降りた幕に投映されながらドラマが進む。

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 中央:ツェルリーナ、右端:ドン・ジョヴァンニ
(写真提供 エクサン・プロヴァンス音楽祭)


 登場人物たちは、従って物語の冒頭から全員が知己関係にある。これをどう原作と辻褄を合わせるかが演出家のアイディア勝負だろう。チェルニャコフはそのへんは抜かりなく、よくもこういろいろなことを思いつくものだと感心させるほど、手を変え品を変えして説明して行く。

 この演出によれば、アンナがジョヴァンニへの復讐をオッターヴィオに頼むのは、不倫の相手だったジョヴァンニに裏切られた腹いせからである。また第1幕フィナーレでツェルリーナがジョヴァンニ非難の先鋒となるのも、一時は夢中になった相手ジョヴァンニが、仮面舞踏のさなかに母親アンナとキスをしていたのを目撃したからである。これらは、容易く辻褄が合うだろう。
 ジョヴァンニとエルヴィラとの「再会の場」は、彼女のアリアの間はお互いの皮肉な笑いを浮かべながらの冗談とイヤミの応酬として描かれるが、レチタティーヴォに入るやエルヴィラが堪忍袋の緒を切るといった具合。これも、なるほど、そうも解釈できるかな、という感だ。

 このジョヴァンニがまた、単なる豪放な女たらしという性格から程遠いのが面白い。
 「妻の従姉妹の父親」である老騎士長は、ジョヴァンニとのもみ合いの最中に、本箱に後頭部を打ちつけて不慮の死を遂げる。ジョヴァンニは、おのれの仕業に困惑の体。これが彼のトラウマとなる。彼はしばしば書斎に出入りする騎士長の幻影を見ては「鬱状態」に陥り、それを無理に笑ってはしゃぎ回ることで、紛らわそうとする。

 「墓場の場面」は、書斎でジョヴァンニがレポレッロを強要して騒ぎ立てる冗談として描かれる。このあたりからジョヴァンニはすでに重度の躁鬱症か、あるいは持病の心臓疾患(?)の悪化に悩まされているらしい。
 ラストシーン、「一族を招いてのパーティ」では、示し合わせた一族の作戦により「老騎士長の替え玉」を見せられ、威嚇されたジョヴァンニは衝撃に耐えられず倒れる。彼は、死にはしない。しかし、一族に見捨てられ、エルヴィラにも愛想をつかされ、孤独に取り残されるのであった――。

 この最後のジョヴァンニへの「天誅」を演出するリーダーが、オリジナルでは「能無し男」のドン・オッターヴィオだった――というのが一つの趣向。
 あの頼りない、優柔不断の男が、今や毅然として一同を仕切り、替え玉騎士長と打合せをしたり、大芝居の合図を送ったり、未練がましいエルヴィラを厳然と制止したりするのである。なかなか面白い性格設定だ。
 しかも一般の演出とは違って、オッターヴィオには救いが与えられており――それに先立つドンナ・アンナの「ひどい人ですって? いいえ、あなた」のアリアは、彼女との和解の場面となる。しかもそこは、ツェルリーナも恋人マゼットや母アンナと和解し、「未来の父親」オッターヴィオとも抱擁する場面としてもつくられているのであった。これで自信をつけた彼が、前述のように「リーダー」になるというわけだろう。
 このあたりが、チェルニャコフの新機軸というべきか。

 かように、かなり手の混んだ芝居ではある。
 笑うか、腹を立てるか。私は前者であった。もちろん強引なこじつけはあるが、よく丁寧に創ってあって、隙のない舞台になっているところは買えるであろう。
 ただし、舞台としての風格には乏しく、小細工が目につき過ぎるきらいがなくもない。そのへんが若い演出家の気負いというものだろう。多分チェルニャコフは、そう遠くない時期に、それを克服できる力を持っている人だろうと思う。

 演出のことばかりに文字を費やしたが、もちろん大切なのは、第一に音楽だ。
 ルイ・ラングレが指揮したのは、フライブルク・バロック管弦楽団だった。ピリオド楽器特有の音色が、今回はとりわけ鋭く、耳につく。針金のような弦楽器の響きを長時間聴いていると、些か疲れて来る。それに、アンサンブルがかなり雑に聞こえるのが、この種のオケの悪いところだろう。
 しかし、管楽器の音色には妙なるものもある。特にホルンの強烈な響きは、ドンナ・アンナがオッターヴィオに「あの夜の出来事」を誇張して語る場面での、息詰まるような緊張感を描き出して見事なものがあった。
 ラングレの指揮も、演出の都合でいくつかの場面ごとに演奏を停めなければならないという制約があったにしても、歯切れのいいリズムでたたみ込む面白さは充分にある。

 歌手は、こういう演出だと、まずは演技に重点が移ってしまうから、そこそこ安定して歌えていれば充分――という印象に、聴き手もなってしまうだろう。まあ、たしかに、アンナのペーターセンを除けば――この人、今注目の存在なのだが、なぜか今夜は音程もリズムも雑だった――みんなよく歌っていた。ボー・スコウフスは「躁鬱のジョヴァンニ」を歌って損な役回りだったと思うが、肝心な個所ではちゃんと締めていた。

 30分の休憩1回を挟み、終演は午前1時10分。
 客は急ぐでもなく、カーテンコールの終わりまで熱心に拍手をして、お喋りをしながらゆっくりと、のろのろと出口へ向かう。避暑地の音楽祭はかくありなん、という光景だが、このテンポにはとても付き合いきれない。

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