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2018-08

8・19(日) ザルツブルク音楽祭
 チャイコフスキー:歌劇「エフゲニー・オネーギン」

7時 ザルツブルク祝祭大劇場

 ザルツブルク音楽祭でチェイコフスキーのオペラが、それもバレンボイムの指揮で上演されるという時代になった。このようなレパートリーの拡大は、好ましい現象である。

 今回のプロダクションは、アンドレア・ブレトによる新演出、マルティン・ツェートグルーバーの舞台装置。
 大きな回り舞台を多用し、光景に変化をもたせる。基本的には大邸宅の壁やドアが仕切りになっているが、場面によっては中庭や畑のイメージも付加されている。この廻り舞台により「手紙の場」の後半で場面が中庭に移動したり、第1幕最後の場でオネーギンがタチヤーナを放り出して独り庭を歩く、などという場面を作り出すというわけだが、悪くないアイディアであろう。ただ、オネーギンとレンスキーの決闘の場が、水溜まりがあちこちにあるにせよ、屋内のイメージが強かったのは少々解せないけれども。

 ここでのオネーギンは軽薄で傲慢で、感じの悪い若造として描き出される。もともとチャイコフスキーは音楽の上で彼をあまり好意的に描いておらず、むしろタチヤーナに同情と共感を寄せているくらいだが、ブレトはそれに輪をかけた形でオネーギンの性格設定をしている。もちろん、プーシキンの原作におけるような、ニヒリスティックで悩めるインテリというイメージはどこにもない。この役を演じたペーター・マッテイはすこぶる芝居巧者で、歌唱にも強い個性を示していた。
 タチヤーナ(アンナ・サムイル)は、かなり野暮ったい娘として演じられている。それはいいのだが、第3幕でグレーミン公爵夫人となり着飾ったときにも、やはり野暮ったさが残っているのは少々困る。「あれが、あの田舎娘だったタチヤーナだろうか」とオネーギンを驚倒させる女性からは、どうみてもほど遠いのである。歌手のせいなのか、衣装とメイクのせいなのかは定かでない。ラストシーンでオネーギンが惨めな敗北感と恥辱を味わう場面にいまひとつ迫力が無かったのは、もしかしたらそのためだったか。

 その他の配役では、エンマ・サルキッシアンのフィリッピエヴナばあやが、温かい味を出していた。一方グレーミン公爵は、この演出では、タチヤーナとのべつイチャイチャしている変な老軍人になっている。フェルッチョ・フルラネットが演じていたが、なんかこの役のガラではない。
 
 なお付記すれば、第2幕の舞踏会は、あまりガラのよくない現代のパーティとして設定されている。トリケ(ライランド・デイヴィス、巧い)が、せっかくの讃歌をタチヤーナにうるさがられ、しかも大尉(セルゲイ・コフニール)に口をふさがれてしまうという、ちょっとしたコミックな場面もある。第3幕の有名な「ポロネーズ」は、最近の上演でよく行なわれるように「間奏曲」として扱われていたが、そこでも回転舞台が活用され、豪華な宴会の光景を効果的に現出させていた。
 総じて言えば、セルジオ・モラビトがドラマトゥルグを担当していたにしては、そして人物がよく動く割りには、主人公の複雑な心理描写が思ったほど生きていない。きれいに作られてはいるが、あまり印象に残らないというタイプのプロダクションであった。
 
 指揮はダニエル・バレンボイム。ウィーン・フィルともども、この上なく美しい音色を出した。音楽のリリカルな性格をよく浮き彫りにしていただけでなく、ドラマティックな要素を出す面でも申し分ない。少し前にベルリンで聴いた「ボリス・ゴドゥノフ」もそうだったが、バレンボイムはこのところロシアのオペラにもいい味を出している。
東京新聞9月15日

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