2020-04

2・20(土)東京二期会 ヴェルディ:「オテロ」

 東京文化会館大ホール

 上手側に向け大きくそそり立つように湾曲した白い舞台、暗黒色の背景。装飾は一切ない。あたかも60年代前半バイロイトのヴォルフガング・ワーグナーの「ワルキューレ」第3幕の舞台のようだ(装置・松井るみ)。主役陣以外の群集は一律に白い衣をまとい、ギリシャ劇を連想させる(衣装・前田文子)。
 日本でのヴェルディ上演としてはむしろユニークな舞台だが、これがたいへん新鮮に見える。

 演出は白井晃。冒頭の群衆の動きからして――どこがどうだからと具体的に言えるわけではないものの――やはり演劇畑の人の演出だな、という雰囲気をにおわせる。
 白色の広い舞台なので、人物の存在は常に強いアクセントとなって視覚に入ることになるが、その中での群集の動かし方が、なかなか良い。カッシオらの乱闘場面など、欧米歌劇場の乱闘演出並みの迫力があった。このくらいリアルでないと、面白くない。

 主役歌手たちの演技には例の類型的な仕草が皆無ではなく、そのあたりは演劇畑の演出家としては些か妥協を強いられたのではないかと想像するのだけれど、それでも「演劇的な」演技は随所に現われており、ドラマとしてはかなりの程度まで格好がついていたであろう。
 ただ、人物表現のうち、イアーゴを当初からメフィストフェレス的な魔人ヅラにしてしまうのは、物語の中でもオテロが「オネスト(正直者)イアーゴ」と呼び信頼していることに照らすと大いに疑問があるのだが、如何に。

 また冒頭、このイアーゴが「幕を切り落とす」ことにより演奏が開始され、最終場面で彼が独り幕の前に残るという設定は面白い発想だが、そのイアーゴが最後にがっくりと崩れ落ちるというのが、私にはどうにも合点が行かない。演出家はモラルに妥協したのだろうか?
 そういえば第3幕最後、オテロの没落を見るイアーゴの顔には、何か己の仕業に対する恐怖と困惑の表情のようなものが浮かんでいたが、それとも関連があるのか?

 とはいうものの、白井晃の今回の演出は、私は基本的に成功と受け取りたい。これからもいろいろな舞台を、思い切っていっそう「演劇的に」演出して欲しいと思う。
 そしてまた二期会がこの数年、いろいろなタイプの演出家を招き、新しい試みを行なっていることをも、高く評価したいと思っている。

 タイトルロールは、福井敬である。「オテロ登場の場面」における声などでは、やはり少し荷が重いのかなと危惧を抱かせたのは事実だが、その後の彼の歌唱は、この役を歌う歌手が必ずしもヘルデン・テナーでなくても、充分に性格表現を可能にするということを明確に証明していたのであった。
 後半に進むにしたがい、「悲劇的な役柄を得意とする」福井の本領が、歌唱にも演技にも発揮されて行く。彼の眼の表情には凄まじいものがある。第3幕後半以降での狂乱の演技も壮絶だ。ラストシーンで死せるデズデーモナを抱いて慟哭するあたり、あのツェムリンスキーの「王女様の誕生日」でも示された福井の鬼気迫る入魂の歌唱と演技との再現ともいえよう。

 イアーゴは大島幾雄。ベテランらしい演技だったが、低音域の不足が惜しい。デズデーモナの大山亜紀子は大物新人で、舞台姿も映えるし声も伸びる。ただ、後半になってだんだん独特のヴィブラートが気になり始めるのだが・・・・。

 指揮はロベルト・リッツィ・ブリニョーリ。大きな身振りで、実に劇的で緊迫感あふれた音楽を創り出していた。
 クライマックスに追い込んで行く盛り上げの巧さもさることながら、オテロの怒りが最高潮に達する瞬間などで大きくテンポを落し、フェルマータをかけて壮烈な「矯め」をつくるあたり、すこぶる芝居上手な指揮者である。
 東京都交響楽団がこれに応え、見事にダイナミックな熱演を聴かせていた。
 

コメント

二期会「オテロ」 2月21日(日)

ファースト・キャストの2月20日(土)は新国立劇場の「ジークフリート」を買っていたためセカンド・キャストである2月21日(日)を購入。

白井晃の演出
冒頭は歌舞伎の「振り落とし」。「影のない女」の演出で猿之助が効果的に使っていた。この作品では冒頭に使う。歌舞伎の専売特許ではないのだろうが、西欧演出では一般的には使わない(強いて言えば、マラトラ演出の「ランスへの旅」の冒頭も振り落としか?)。

東条さんの評論で「舞台は白」と書かれていたが、私の記憶では「舞台は黒」…。
うーん、日によって照明が違うということか。

「冒頭の群衆の動きからしてやはり演劇畑の人の演出だなという雰囲気」との東条さんのコメントの通り、群衆の動かし方はなかなか面白く冒頭から観客にわくわくする気持ちを与える。

白井演出は終始、装置がほとんどない中で展開されるが想像力を膨らませることが出来る丁寧な演出。
全体にオペラであることを忘れるほど登場人物を動かし、歌手としては歌いにくいのではないかと思う場面もあったが、声に影響の出ている人はひとりもいない。入念に練習されたのだなあと感じた。セカンド・キャストでは「主役歌手たちの類型的な仕草」は全く感じることなく観客はドラマに没頭出来た。

東条さんがカッシオらの乱闘場面のリアルな迫力を評価されている通り、この場面は思わず目を見張るほどの迫力。この争いの前の場面だったとの記憶だが、カッシオが段上から降りる場面があり、ここは実際踏み外して落ちていたのではらはらした。それくらいにキャストも演技に没頭していたと思う。

歌手
オテロ(成田勝美)は体格も良く見栄えがする。登場の場面では歌、舞台姿ともに堂々としていて福井敬にも劣らない出来になると期待させたが、だんだん喉を絞るような歌い方が気になり、好みのオテロ像からは少し離れて行った。4幕をずっと歌いきると言うのはなかなか大変なことだなぁと感じながら聴いた。東条さんの評では、福井敬が後半に向かうにつれて狂気の表情となる様子を紹介されていたが、福井敬はNHKニューイヤーコンサートでもたった1曲を歌って鬼気迫る感じだったので、「どんなオテロ像だっただろうか」と想像した。成田勝美は、愚かなオテロでも狂気のオテロでもなくひたすら真面目なオテロであった(これはこれでひとつのオテロ像。また、歌の水準も高いのだが…)。

一方のイアーゴ(大沼徹)。新国立劇場で聴いたルチオ・ガッロの印象が強いのでそれと比べると「乾杯の歌」もさっぱりしている感じでスタート。しかし、だんだん調子を上げ、途中からはオテロを越えて行った。特に、第三幕最後では失神したオテロを足で踏みつけ、足で転がし唾を吐きかけ、最後は正面を見据えて不敵に笑って幕という場面。演出も凄いがそれを歌い演じ切った大沼徹も凄いと感じた。カーテンコールでもイアーゴに対しての拍手が一番大きかった。この人は名前を聴くのも初めて。二期会は層が厚い。大沼さんの別の作品も観てみたい。

カッシオ(岡田尚之)。この人も初めて認識した人。細いが綺麗な声でカッシオにピッタリ。二枚目でもある。残念なのは身長が高くないこと。これで身長があればなぁ。

デズデーモナ(日比野幸)は優雅なデズデーモナであった。

ヴェルディのエミーリアは特に悪意のある役ではないが、どうしてもシェイクスピアの原作のイメージを連想してしまう。加賀ひとみのエミーリアは歌も演技も本当に好人物だった。

その他の歌手もバランスが取れていた。

再び演出について
第2幕でカッシオがデズデーモナにオテロへのとりなしを依頼する場面は磨りガラスのようなパネルの向こうで表現され、想像の中の出来事のように見せる厚みのある演出。イアーゴのモノローグと一体となった面白い場面だった。

第3幕は柱がひとつある舞台。カッシオとイアーゴの会話をオテロに聞かせる場面ではこの柱ひとつを実にうまく使って表現していた。ただ、柱の影で聴くと言うだけに留まらない使い方。こういうところは演劇出身の演出家ならではと感じた。

第4幕。客電はこの幕だけ真っ暗ではなかったと思うが、どういう工夫だろうか。個人的には真っ暗にして欲しい。
これまでずっと黒の世界で来たところで、第4幕冒頭は左の辺と上の辺が白い灯りとなっている黒枠の正方形の箱でデズデーモナの寝室を表現した。舞台照明が明るくなると黒い枠だと思っていたものは汚い黒と白のまだら模様の枠だった。このまだら模様はどういう意味があるのだろうと感じて歌を聴いていてふと気付くと黒と白の比率が変わっているではないか。どんどん白くなっている。デズデーモナはこの枠に触る場面があるが特に服にペイントがついている様子はないのに…。結局最後はほとんど白い枠になっていた。
そこへオテロが登場。「お祈りは済んだか」と語る頃、枠を見ると一部から一筋の黒い線が流れている。「えー、また、これから黒くなるの?」と思って観ているとデズデーモナの首を絞める頃にはまた白になっていた。
いやー、変わったことをする人ですね。

茂木健一さんの提唱する「アハ体験」をこんなところで体験するとは…。歌を聴くことに集中している人や舞台から距離のある人は気付かずにいたかも知れない。私のように気になり出すと歌どころではない…という感じもしたが非常に興味深い「アハ体験」であった。

この後、複数の人物が登場するが、普通ならここで演出家は結構人を動かすのに白井演出ではオテロ以外はぼーっと立ったままとなっていて不思議。オテロ以外の人物を動かさないのであれば、例えば、ここで舞台が二つに割れて、オテロとデズデーモナが小さく残されるという演出などをしたら面白いのではないかと感じながら観た(ちょうどクプファー演出の「ラ・ボエーム」でベッドに寝たミミが1人残されたように)。あるいは、今回の演出は磨りガラスのパネルを多用した演出なので、その他の登場人物は磨りガラスの向こう側にいるとか…。

ラストでイアーゴはどうしたのだろうと思っていると幕の手前で1人イアーゴが残るという演出。少し考え過ぎのような気もするが、最初はイアーゴが幕を切って落とし、最後はイアーゴが幕引きをするので筋は通っているのかも知れない。

指揮・演奏について
冒頭は鳴らし過ぎではないか。その他何箇所が鳴らし過ぎで気に入らないところがあったものの、他はなかなかの好演。前日の新国立劇場の東フィルも良かったし、この日の東京交響楽団も良かった。東京のオーケストラはなかなか頑張っていると感じた。

プログラムについて
堀内修さんが二期会でのオテロ上演史を書いておられて興味深かった。今回の「オテロ」は二期会にとって35年ぶり、かつ、初の原語上演と知った。だから歌手の力の入り方が違うのか。本当に力が入っていた。これがセカンド・キャストなのだから二期会は底力がついたなぁと感じた。

前々週の藤原歌劇団の「カルメル会修道女の対話」も良かったが、どこかに物足りなさと言うか隙間を感じた。それは各キャスト1回しか上演できないことによる手探り感ではないか。何年か前から二期会は3回公演から各キャストが2回上演するスタイルになった。各キャストともに2回目は深み、こなれた感じが出せる。それがまた、次の公演にもつながっている。

今回の公演は非常に好演で、両キャストを比較したら面白かったかも知れない。白井さんは一歩一歩を演出するタイプなのか、演技者に自由を与える演出家なのか、両方を比較すればそのようなことも感じることが出来ただろう。

白井さんがカーテンコールで出てきたらスタンディングオベーションしたいくらいに気に入った演出であった。残念ながらカーテンコールには登場されなかった。二期会は宮本亜門に3作品くらい演出してもらっているが、白井シリーズをやるべきなのではないか。今回の作品は外国で上演して欲しいとも感じた。二期会は外国劇場と共同制作もしているのだから演出の輸出も考えたらどうか。

この日、唯一残念だったのは終演後のやや早いパラバラ拍手と旱魃入れない一人の女性の甲高いブラボー。愚かな嫉妬のために妻を殺し、殺害した後でそのことに気付く愚かな英雄の姿を静かに描いて終わる作品。どんなに上演が素晴らしくても、この作品にこういうブラボーの掛け方は正解とは言えないのではないか。静かに味わいじわじわとブラボーを掛けたいものである。

インフルエンザの影響もあって、咳エチケットが推奨されているが、会場では大音響の咳が多く鳴り響いていたのも残念。ハンカチで覆うだけで全く気にならなくなるのに。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://concertdiary.blog118.fc2.com/tb.php/674-5b95676e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

お知らせ

●2007年7月以前のArchivesを順次、アップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2006年7月

Category

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」