2020-04

2・10(水)旅行日記 ベルリン2日目
 ワーグナー:「リエンツィ~最後の護民官」

    ベルリン・ドイツオペラ

 相変わらずきつい冷えである。朝降っていた雪は昼までにやんだが、道路はまた凍りついた。

 ワーグナー初期のグランドオペラ、「リエンツィ~最後の護民官」を観る。1月24日にプレミエされたばかりの、今シーズンのニュー・プロダクションだ。

 原曲の全5幕を2部に分けた構成。午後7時30分開演で、30分の休憩1回を含み10時40分終演という時間配分だから、相当なカットが行なわれている。
 まあ、この作品を歌劇場で観たり聴いたりするには、このへんの長さが手頃かもしれない。
 ただし、物語の舞台を20世紀のローマに読み替え――「新しいローマ」という映像が随所に出て来る――リエンツィ(トルステン・ケルル)の丸々した体形を利用して往年のだれやらの「肥った独裁者」に比定する解釈を採ったため、彼と教会との対立場面(破門など)を大部分カットしてしまったので、民衆の英雄だったリエンツィが支持を失う理由の一つが失われ、物語が単純化されてしまう危険性も生じたわけだが。

 今回の演出は、フィリップ・シュテルツル。先年のザルツブルク音楽祭の「ベンヴェヌート・チェルリーニ」では、世にも稀なる騒々しい舞台を創った人だ。
 それゆえこの「リエンツィ」でも、作品の性格からして同じようにやるのではないかと予想していたが、案の定。舞台上にはいつも民衆や兵士がひしめき合い、騒々しくごった返す。主人公のモノローグの場面においても、常に背景や周囲に大勢が群がっている。

 しかし、後半に近づくにつれ、群集の動きは明らかに一つの流れを示すようになって行く。
 リエンツィの失政――彼が民衆の要求を無視し、一時の情にほだされて看過してしまった反乱軍から手酷い攻撃を受け、ローマが廃墟と化してしまったことなど――から、指導者の正体が虚栄心と自己満足の傀儡であったことに気づき、リエンツィに反旗を翻すあたりの民衆の描き方は、原作の台本におけるよりも、よほど明確で、解り易くなっていた。
 終わり近く、上層が破壊されたローマの市街、下層がリエンツィの「地下壕」として設定された舞台構造も気の利いたアイディアであり、これも人物の相関を解り易く描くのに役立ったであろう。

 かくのごとくリエンツィは、この演出では、没落する独裁者として描かれる。
 序曲の間、執務室で独り世界雄飛の夢に浸り、アクロバットをやりながら興奮している(映画「チャップリンの独裁者」のもじりだろう)。
 彼の演説の映像は、しばしば背景一杯に投影される。ユーゲントか黒シャツ党みたいな制服を着た民衆は、最初のうちそれに熱狂する(マス・メディアを有効に使ったヒトラーを想起させる)が、次第に見向きもしなくなる。
 ラストシーンでは、リエンツィとその妹イレーネ(カミッラ・ニールント)は、原作のように炎上するカピトールの中へ消えるのではなく、民衆に虐殺され、曝される――あの独裁者ムッソリーニたちがそうされたように。

 しかし、もともと原作ではリエンツィは、世間知らずの妹イレーネとその恋人アドリアーノへの情に絆され、政敵に恩赦を与えた――それが墓穴となったのだが――男なのであった。それを思えば、彼が単に暴虐な独裁者として描かれてしまうのは少々場違いでもあり、酷であるような気もするのだが・・・・。
 トルステン・ケルルは、この演出ではほとんど出ずっぱり。ハイ・テンションのテノールの高音を聞かせ、大写しになる演説映像のためにのべつ百面相を披露し続け、文字通り大熱演であった。ご苦労様でした。

 リエンツィと、反乱軍の総帥である父親コロンナ(アンテ・イェルクニカ)との間を揺れ動き、結局はリエンツィに反旗を翻すアドリアーノ(メゾ・ソプラノが演じる)――この世間知らずで、優柔不断で、常に行く先の定まらない身勝手な若者には、原作のオペラでも苛々させられるが――この演出では常におどおどしながらも肩肘を張ろうとする青年として描かれた。これは、比較的同情を買いそうなキャラクター表現であろう。
 ラストシーンでは、アドリアーノは惨殺されたイレーネの上に倒れ伏して慟哭する――やっと自らの進むべき道を見出したかのごとく。
 今回のこの役では、燕尾服姿のケート・アルドリッチが、これもリエンツィ以上に大熱演を展開。
 彼女は前出「ベンヴェヌート・チェルリーニ」で見事なアスカーニオ(正体はロボット)を、また昨年東京での大野和士指揮の「ウェルテル」でも素晴しいシャルロットを歌った人だが、今回の体当たり的な演技と劇的な歌唱は、絶賛に値しよう。カーテンコールでも、彼女への拍手と歓声は群を抜いていた。

 その他の歌手たちも、脇役に至るまで、いずれも隙がない。舞台がいかにドタバタしていようと、演出上の解釈に疑問があろうと、音楽的水準が優れていれば、手ごたえのある上演になるのである。

 セバスティアン・ラング=レッシングが指揮する(私はこの人の指揮を初めて聴いた)ベルリン・ドイツオペラ管弦楽団もすこぶる立派で美しく、序曲からして徒に吠えず、華美に陥らず、グランドオペラ的な空虚な華麗さに対し一線を引くようなアプローチが良かった。合唱団も、前夜に続き非常に優れた演奏と演技を繰り広げていた。

 「リエンツィ」――音楽には次作「さまよえるオランダ人」を先取りした部分もあるが、合唱はむしろ「ローエングリン」のそれを予告するところもあろう。「オランダ人」以降の高峰と肩を並べるにはやや苦しいが、さりとて無視するには忍びない。特に合唱の迫力と魅力は、演奏の良さのせいもあって、すこぶる印象的である。
 カットの良し悪しは別として、このオペラがバイロイトの上演ラインナップに加えられても、ほとんど遜色はない存在となり得るのではないか? ワーグナー生誕200年に向け、バイロイトにもそろそろレパートリーの変化が起こってもよさそうだ。

 総じて今回のシュテルツルによる演出プロダクションは、リエンツィという人間の解釈をめぐって大きな矛盾を含んでおり、未解決の要素が多分に残されていたことは否めまい。
 だがそれにもかかわらず、私にとっては、かつて藤沢市民オペラが日本初演した時の、精一杯だったが情けない解釈の舞台での悪夢を振り払ってくれた上演だったことは確かなのである。

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