2020-04

11・28(土)ワレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場管弦楽団

   サントリーホール

 22日に熊本から始まった今回の来日公演が、今夜でやっと東京初日となった。
 ムソルグスキー・プログラムで、「ホヴァーンシチナ」前奏曲と「禿山の一夜」、「死の歌と踊り」、「展覧会の絵」。

 ただし最初の2曲はブラス・アンサンブル編曲版(金管奏者11人および打楽器奏者2人)であり、しかも後者はリムスキー=コルサコフ版を基にした編曲なので、ムソルグスキーその人は、実際には存在しないようなものである。「展覧会の絵」にしても、華やかな管弦楽は周知のごとくラヴェルの編曲なのだから。

 結局、ムソルグスキーの素顔が現われたのは――それがショスタコーヴィチの管弦楽編曲版ではあっても――「死の歌と踊り」のみだったと言えよう。楽屋に訪ねるとゲルギエフは「どうだ、今回のプログラム(作曲家別4種)はなかなか面白いだろう?」と得意満面だったが、他の日のことはともかく、今夜のプログラム構成に関しては、こちらはなんとなく生返事しかできないのが辛いところ。

 しかし、「死の歌と踊り」に聴かれた暗く重々しい、陰鬱かつ不気味に美しい音楽は、まさにムソルグスキーの真髄ここにありといった演奏であった。これ1曲だけでも充分満足できるコンサートと言っても良かったほどである。しかも、ソロのミハイル・ペトレンコが絶品であり、オペラのような劇的な歌唱の裡に悪魔的な凄味を織り込んだ表現の巧みさは、この歌手が今やロシアを代表するバスに成長したことを示すものであった。

 アンコールは、チャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」の「ポロネーズ」と、リャードフの「バーバ・ヤガー」。
 このオーケストラの弦は、以前のしっとりとした瑞々しさを再び取り戻したようである。ゲルギエフは「ポロネーズ」の弦を浮彫りにして、踊りの音楽というより叙情的なバラードといった雰囲気を持たせて演奏した。「展覧会の絵」でも、テンポと音量をむしろ抑制気味にして、ラヴェルの華麗さを陰翳の濃いものに変えようとするかのようであった。彼の指揮スタイルにも、あれこれ変貌が生じているようである。

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11月28日公演(広島公演との比較)

前半3曲は広島公演と同じ。比較をしながら印象を記載

広島公演は他公演からはるかに遅れて公表されたが、最初の2曲がブラス版であることは最初から発表されていた。東京公演は「ゲルギエフの強い希望によりブラス版が演奏される」と直前に公表されたが、そもそも本人は最初からそのつもりだったのではないかと思う(何かの間違いで主催者に伝わらなかっただけではないか)。

(広島公演)広島厚生年金会館。主催者である広島テレビの集客力が極めて悪い。1階は半分強、2階はまばら。周年記念かどうか、広島文化学園大学・同短期大学のスペシャル協賛により実施された。本来ならこの日の夜、彼らはオフで鋭気を養う日だったはずだが、それが消えた。そうであれば、主催者の広島テレビや特別協賛団体は会場を満席にする責任を負っているのではないか。日本一人気ある指揮者(「音楽の友」誌による現時点の最新情報)による初の広島公演としては寂しい客席。
ゲルギエフは基本的にポディアムが嫌いなのでポディアムなし。チャイコフスキー「交響曲第5番」は暗譜で指揮棒なし(それ以外は、例の爪楊枝型でなく、普通の長さの指揮棒を使用)。ゲルギエフの衣装は神父服風詰襟のようなもの。
→(東京公演)サントリーホールでの4日公演の初日。所沢公演を加えると東京近辺で5回公演があるので、客席は満席とは言えない状況(7-8割程度)。ポディアムなしは広島と同じ。「展覧会の絵」だけ暗譜。この日は全て指揮棒(普通のもの)を使用。衣装は燕尾服(因みに翌日の衣装はまた、神父服風詰襟のようなもの)。

「モスクワ河の夜明け」
(広島公演)2008年のマリインスキー・オペラ来日公演でこの曲をオーケストラの素晴らしい演奏で聴いたばかりの耳にとって、「ブラス版では魅力が出ない」「無理がある」と感じながら聴いた。モスクワ河も赤の広場も脳裏には浮かんで来ない。演奏が終わっても夜も明けきらない感じ。
2008年のオペラ来日時は「ホヴァーンシチナ」を2回鑑賞したが、初日のメモでは「モスクワ川はゆったり流れ、ホヴァーンシチナの舞台である時代から今日までの歴史をずっと見続けていると感じる幕開け。演奏は予想以上にゆっくりしたテンポ。この日は1階2列目で鑑賞したので幕が開くと朝もやに霞む舞台からカビくさいようなマリインスキー劇場の匂いがしてくる。倉庫から出して来た舞台装置の匂いだろう。これで一気にロシアで聴いているような気分になる」などと書いていた。2日目は1日目より早い演奏であったとのメモになっていた。
→(東京公演)サントリーホールなので広島厚生年金会館とはホールの響きが全く違う。空中によくこだました。楽器間で音をつなぐ部分では、音のうねりもよく感じられた。鉄琴の音も心地よく響いた。クレムリンの教会の尖塔のイメージもかすかに眼前に浮かんだ。
印象の違いは、半分は座席に因るかも知れない。広島では5列24番と言う前方かつ下手寄り。サントリーホールは7列19番というほぼ中央(理想は9―11列なのだが、今回は11月29日のユンディ・リとの共演による公演を予約する人が殺到して電話が数日つながらず7列中央となった)。

「はげ山の一夜」
(広島公演)広島でもそこそこの演奏であり良かった。広島公演での1曲目では「ブラス版でやる意味はあるの?」とのスタートであったが、2曲目は「こういうことがやりたい訳か」とブラス版の意味も理解出来るレベル。
ブラス版はオーケストラ版より「ボリス・ゴドゥノフ」など他の曲を連想する部分がより強く感じられるような気がした。
→(東京公演)サントリーホールの響きには広島公演は全くかなわない。広島とは全く違うまとまり。このまとまりは「2回目である」ということもあるだろう。ゲルギエフが演奏後に奏者一人ひとりと握手をしており、ゲルギエフの満足度も感じられた(広島ではこれはなし)。

と、ここまで比較としては書いたものの、広島公演で、まず、団員が出てきて、まだ、誰かを待っているのを見て初めて、「譜面台がある」「ゲルギエフが指揮する」と気付いた。実際に彼が入って来て「うーん、指揮者が必要なのか?」と思わずつぶやいてしまった。

以前の来日公演で、コンサートの1曲目にブラス版でリムスキー=コルサコフの「歌劇『ムラーダ』より≪貴族たちの行進≫」を演奏した時は当然指揮者はなし。目配せ、頷き合いがとても魅力的な演奏だった。今回、特に広島公演では、「この2曲は指揮者なしで聴きたいなあ」と強く感じる遠慮の塊的演奏。東京ではそれほどでもないものの、東京公演もやはり、「指揮者なしならどうなんだろう。更に緊迫感・緊張感があるのではないか」と思ったのは確か。こういう演奏は目と目で合図してうまく行ったり行かなかったりする所が面白いのではないだろうかと感じる。指揮者なしなら、多少の演奏の乱れはあるかも知れないが、綺麗にまとまった演奏よりも、乱れも含めて「生」の演奏の魅力ではないかと感じる。

2007年にマリインスキー・ブラス公演をやった時は今回の2曲も含まれているので指揮者なしでやっているはず(私は残念ながらこれは聴いていないし、その後何度もテレビで放送されているにもかかわらず機会がなくて観ていない)。

ゲルギエフがブラスの上手さを自慢したい気持ちはよく理解出来る実力だった。

「死の歌と踊り」
(広島公演)ペトレンコはオペラではあんなに堂々とした演技をする人なのに歌曲のステージ・マナーはなんだか可愛くて初々しい。「相当なキャリアもある人なのに…」「ゲルギエフとの1対1の舞台は緊張するのかなぁ」と微笑ましいような、「早く大人になれ」と言いたいような感じで演奏開始(年齢はもっと若いと思っていたが、実は『39歳と●ケ月と●日』と本人が言っていた。40歳になることを気にしているのでこんなに細かく言えるのだろう)。
広島では声が充分出ていないのが残念。歌そのものは良いものの、「本来はもっといいでしょう」と励ましたくなる感じ。高音はやや苦しい感じでやっぱり充分は声が出ていない。私の席は前から5列目だが、「2階まで届いているのだろうか」と感じながら聴いた。また、楽譜を見ながらの歌唱なので、全体に優等生的になり、かつセーブ気味。もちろん表情もつけていたし、身振りもあったし1列目なら唾も飛んで来そうではあったものの…。4曲目のみ楽譜を横に除けて暗譜。身振りも他3曲よりは少し大きかった。薄笑いするところは不気味ながら、ちょっととってつけた感じもした。
→(東京公演)ペトレンコの入場、カーテンコールのステージ・マナーの可愛さは広島と同じ。
歌は一転して魅力的。また、ホールとの一体感が広島とは全く違う。ホール全体がペトレンコの身体となったかのような大きな歌。サントリーホール公演は暗譜であり、表情、身振りともに広島よりは大きく、オペラでのペトレンコの演技を思い出すようなものだった。広島では高音が難しそうだったところもサントリーホール公演ではよく出て安心(ちょっとひっくり返ったところもあったけど、歌の勢いがあり全く問題なし)。4曲目の薄笑いのところは広島公演より自然で更に不気味。この曲では指差すなどの身振りも大迫力だし、乗り出して舞台から落ちそうになるところもあった。また、唾が涎になりそうなくらいの勢い(実際、唾を拭いていた)。

今回の来日で団員はシベリア公演経由だが、ペトレンコは別行動で広島公演前日にペテルブルクから日本入り。他団員の時差ぼけは少ないが、広島公演のペトレンコは時差ぼけの中だった。
広島で彼と話をしたら、「時差ボケでまだ声が充分出ない。東京は絶対もっと良いはず」と言っていた。そして、東京公演の後「東京公演は良かっただろう」と言って自信の公演。「時差ボケだと頭が回らず楽譜を見ないと歌えない」とのことで、広島では充分予習していないから楽譜を見ているということではないらしい。
ちなみに彼はこの曲を初めて歌ったのはドイツ(確か、ベルリンと言った)で指揮者はエッシェンバッハで、「とてもうまく行った」と言っていた。
「広島の会場のアコースティックは問題なかったか、歌いにくくないか」と聞くと、「歌うには広島も全く問題なかった。サントリーホールは世界一と言って良いようなホールだから、もちろんサントリーホールの方が良いが…」とのこと(また、彼によれば「歌手にとって良いホールと観客にとって良いホールは必ずしも一致しない。サンフランシスコのウォルト・ディズニー・ホールとマリインスキーⅢは歌手としてはいずれもすごく歌いにくい。マリインスキーⅢ(客席の傾斜が極めてきつい)はあごを出して見上げて歌わなければならず歌いにくいし、自分の声が自分で全然聞こえないのも問題。ところが、観客としてマリインスキーⅢで聴くと音のボールが空中に浮いているようですごく良い響き」とのことだった)。

私はこの曲のCDを2枚持っている。2枚ともホロストフスキー。
そのCDの訳で死神は男だと思っていたが、今回のプログラムの翻訳では1曲目の死神が明確に女になっていてびっくり。また、訳も読みやすいので「誰が訳しているのだろう」と見ると田辺先生(さすが田辺先生)。東京公演終了後に田辺先生をお見かけしたので、「先生の訳はとても分かりやすいです。1曲目の死神は女なんですか。ずっと男だと思って聴いていたのでびっくりしました」と言うと、先生は「4曲中、少なくとも2曲(1と3)は女だと思うの」とのことだった。

そこで、ペトレンコに「死神は男か女か」と尋ねると「ロシアでは死は女性名詞。だから全て女だ」とのこと。「えっ?4曲目も女?」と聞くと、「そうだ」との回答。そこで、重ねて「訳した人は2曲が女だと言っているがどうか」と聞くと、「そうだね。1と3が女、2と4が男だと言えるね」とのこと。この曲のテーマは「Reliefだ」「4曲とも『生は苦しく、死は甘美である。死だけが救いを与える』という歌だ」と言って以下を説明してくれた。

1曲目 母親は病気の子供をあやしているが、もう子供の命の灯は消えかけている。母親も看病で疲弊している。そこに死神が来て、子供をやさしくあやして死に誘ってくれるのだ
2曲目 いつか白馬の王子が来てくれると夢見る不治の病に犯された乙女のところに死神が騎士の姿で訪れる。待ち望んでいた人が来たのだから乙女にとってこれ以上の幸せがあろうか。
3曲目 酔っ払って雪の中に倒れた農夫。この人は凍え死ぬが、死の前にはまず気持ちの良い眠りがある。その後に死がゆっくり訪れる。農夫の現世の生活は苦しいものだが、もう現世の苦しみを味わう必要がない。この人も苦しまずに死に至る。
4曲目 「生命が諸君を戦わせたが、私が諸君を和解させた」がこの4曲目を端的に示す。生きていれば敵味方に分かれて戦わなければならないが、死んだ後は敵も味方もない。「敵味方をひとつにするのが死である」。この4曲目は日本人の宗教観には近いのではないか。

と説明してくれた。説明した後で彼は「なんで、こんな説明をしているんだろう。訳があるでしょう。訳に全て書いてあるじゃないか。訳で分からないとしたら訳は良くないんじゃないの」的な勢い。

「うーん、分かるけど、そこまで深くは分からなかった」と言うと、「そうだね。実は僕も説明して初めて分かったかも」とお茶目なのか、気遣いなのかという会話になった。私にとっては「この曲はそんな曲だったのか。私にはとにかく『恐い曲』だったんだけど…」であった。
次にこの曲を聴く時は違う態度で聴いてみようと思う。

チャイコフスキー「交響曲第5番」、ムソルグスキー「展覧会の絵」
(広島公演)広島公演はこの後、チャイコフスキー「交響曲第5番」。この曲のみゲルギエフは暗譜。指揮棒なし。私は2006年のPMFでゲルギエフが若者と丁寧なリハーサルをして作り上げた名演が忘れられない。特にキタラ公演を経た後の最後の野外公演。(キタラでの演奏を含めて)ゲルギエフもPMFオーケストラから音を引き出そうと必死の指揮だった。一方、今回の公演は団員にとっては目をつぶっていても弾ける曲。第1-第3楽章はゲルギエフもほとんど指揮らしい指揮をしていない。第4楽章のみまじめに指揮。しかし、この楽章でも、彼が神がかり的になる時に出る「ハーッ」はほとんど出ず…で指揮者の集中度も私の満足度も中位。
ゲルギエフは交響曲の各楽章を基本的につなげて演奏することが多く、極めて集中している時は楽章と楽章の空白部分も「無音という音」があるかのように聴こえる。札幌での名演がそうだった。この日はそこまでにはならず。

「上手い演奏はホールの鳴りの良し悪しを超越する」と某レコーディング・プロデューサーの方がご自身の録音の実体験から常々言っていたが、この日の演奏はそういうものではあった。このホールでもここまで鳴るか…の演奏。だから、一般の観客の満足度は高かった。

音は非常にクリーンで、インターナショナル。個性がなくなった。「昨日はロンドン交響楽団、今日はマリインスキー歌劇場管弦楽団という感じで指揮しているので、ゲルギエフは自分がどのオーケストラを指揮しているか分からなくなっているのじゃないだろうか」などとも感じた。
→(東京公演)「死の歌と踊り」がハイライトであって、その後の曲「展覧会の絵」は(過去の「展覧会の絵」の名演と比較すると)綺麗に流れた感じだった。「展覧会の絵」のみ暗譜で、「ハーッ」は結構出ていたが…。

アンコールは広島、東京ともに2曲。

東京公演は拍手が消えても拍手を続ける勇気ある1人の観客が他の観客を促し再び拍手の広がりがありソロ・カーテンコールとなった。

私がマリインスキー劇場に求める音はこんなインターナショナルな音ではない。もっと暗く重い厚みのある音。以前、「団員は全体の音を意識して少しずつずらした音を出し演奏の厚みにするのだ」と(間接的に)聞いたことがある。今回の演奏は同じ楽器は全く同じ音を出しクリーンでクリアになり過ぎ。私にとっては、(コンサートマスターの)レヴィチンがいた頃の最後の来日時の演奏が歌劇場管弦楽団公演としてベストか。ひとつの家族のような雰囲気が思い出される。
今後もゲルギエフの指揮によるオペラでは大感動する公演も多いと思うが、オーケストラ公演で震えるほどの感動をすることは極めて少なくなるような気がして寂しい(2008年のロンドン交響楽団来日公演は2公演しか聴けなかったが、私は「ピーターと狼」には感激したものの、それ以外は他の人が大感動しているほどには感動出来なかった)。

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