2019-05

9・24(木)スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ指揮 読売日本交響楽団

   サントリーホール (名曲シリーズ)

 今シーズンを最後に常任指揮者のポストから去るスクロヴァチェフスキの演奏会。今月は3プログラム、4回の演奏会が組まれた。残るは30日の定期。

 前半はベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番。
 オーケストラにあふれる柔らかい安息と叙情がすばらしく、この作品の演奏における一つの典型と言ってもいいほどである。ただしその端整さと、アンドレ・ワッツの極めて自由な(自由すぎる?)感興にあふれたソロとは、些か不思議なギャップを感じさせる。
 それにしてもワッツ、札幌での「皇帝」の時には、こんなにリズムを崩すような演奏はしていなかったが・・・・。

 後半には、スクロバ氏定番のブルックナー。「9番」である。読売日響は痛快なほど鳴り渡った。
 それはいいのだが、なぜか音色が非常に汚い。弦も粗いし、木管は不揃いだし、金管は耳を覆いたくなるほど荒々しい。全曲最後のホルンとワーグナー・テューバ、トロンボーンなどによる終結和音のバランスの悪さは、そのダメ押しとなった。協奏曲に比べると、君子豹変である。
 もともと近年のスクロヴァチェフスキは、細部のバランスやアンサンブルについて気にする人ではない。そして彼のブルックナーは、荘重というよりはむしろ常に壮絶である。それは重々承知の上だ。しかし、それにしてもこれは――。

 昨年、私がインタビューしたロンドン響のある楽員は、「われわれは指揮者のバトン・テクニックに従って演奏するのではなく、指揮者のパーソナリティに反応して演奏するのです」と語っていた。味わうべき言葉だと思う。
 ロンドン響に限らず、世界の一流といわれるオーケストラの人たちは、概してそういう考えを口にしているのである。
 今夜の読売日響も、音楽の骨格の上では、紛れもなくスクロヴァチェフスキのそれを既に具現しているのだ。それならいっそ、音色、アンサンブル、和声上のバランスなどは、指揮者に頼らなくても、みずからの規範に従って創り出してもいいのではなかろうか。

 アルブレヒト時代の読売日響には、そういう自律的な力が備わっていた。だが、彼が去って数年、危惧されたことがそろそろ頭を擡げて来たのではないか? 昔のような、「荒馬のような読響」に戻る傾向なきにしもあらずといった様相が、ここ1年来というもの、演奏には感じられるのだ。
 今の状態だと、来年3月のブルックナーの「8番」は、少々心配になるが・・・・。。

 弁護のために付け加えるが、演奏における音楽のエネルギー自体は、壮烈なものがあった。第2楽章での、冒頭の神秘的な音楽が忽ち轟くリズムの大進軍と化すところなど、ブルックナーの悪魔的な側面を抉り出したような演奏である。第3楽章は「生からの別れ」(ブルックナー)や浄化の世界どころか、ほとんど苦悩の絶叫に近い(音色の問題とは別の次元の話としてだが)。スクロヴァチェフスキのブルックナー解釈はいつもながら人間的で、そこに彼の魅力があるだろう。

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