2019-08

8・27(木)バイロイト音楽祭 ワーグナー:「パルジファル」

  バイロイト祝祭劇場

 「パルジファル」は、不思議な曲だ。これを聴いていると、寂しい曇り空の下の、ドイツの何処とも知れぬ静寂な村の光景が朧げに浮かんで来たり、遥か遠い昔の思い出の中に息苦しくなるほど引き込まれるような気持になったりしてしまうのである。

 それゆえ私のこの作品への最大の関心は、まず音楽にある。――今回のプロダクションの指揮はダニエレ・ガッティであることを聞いて、私は半信半疑を通り越し、あまり期待していなかったというのが正直なところだが、案に相違して実に瑞々しい演奏が創られていたのに驚愕した。遅いテンポの中に緊張感を保ちきれないという傾向は拭えないにしても、「パルジファル」の音楽からこれほど旋律的な美しさを浮き彫りにした指揮者は稀だろう。
 陰翳豊かな和声の厚みは、「この劇場で演奏されるこの作品」なら自然に生まれるものだろうが、しかしガッティの「ワーグナーの音」の構築もなかなかしっかりしたものだ。十全とは言わぬまでも、満足できた演奏であった。カーテンコールでは若干のブーイングも飛んでいたが、私はそれには賛成できない。

 昨年プレミエされたこの「パルジファル」の舞台は、ノルウェー出身の演出家シュテファン・ヘアハイムによるものだ。
 まさに全篇、目まぐるしいほどに変化する光景の連続で、ありとあらゆる趣向が織り込まれている。しかし、どんな奇抜な出来事や演技であっても、それらが完璧に音楽の動きと合致しているので、自然に納得させられるところがある。
 ヘアハイムは、2003年にザルツブルク音楽祭へ「後宮よりの逃走」の滅茶苦茶な演出でデビュー、客席挙げてのブーイングで演奏を中断させたこともあるし、また今年4月にもベルリンで煩わしい「ローエングリン」を演出したばかりだが、いったん真正面からワーグナーに取り組めば、このようにスコアと寸分の違いもない緻密な構築をやってのけることもできる人である。興味深い。

 前奏曲の途中から幕が開き、パルジファルの母ヘルツェライデの臨終場面が描かれる。その母の苦しみを直視できずに逃避してしまったパルジファル少年が、やがて記憶の中に現われる母や、重傷を負ったアムフォルタス王の苦しみを理解できるようになって行く過程も、この演出の基底を為す重要なテーマといえよう。
 ヘルツェライデが息を引き取ったベッドは中央に全曲最後まで置かれたままで、そこでは物語が進むに従い、彼女やアムフォルタス、クンドリー、あるいはクリングゾルまでが、全く同じ白衣の姿と化してマジックのように入れ替わる。人物や出来事に関する「記憶」や「イメージの重ねあわせ」を、見事に描き出した演出だ。パルジファルが射てしまう白鳥も、幼い頃の自分自身の姿に変るのである。

 こうした複雑な出来事は、深層心理的に全篇にわたって続くのだが、それを逐一綴って行くスペースはない。
 が、特に印象深かったのは、バイロイトのワーグナー邸ヴァーンフリートの庭と建物をモティーフとして変化して行く舞台の光景であった。第1幕ではそれが1882年にこのオペラが初演された際の舞台装置と同じ聖堂に変化したり、第2幕第1場では傷病兵収容の病室となったりする。
 しかもそこには、この1世紀におよぶ時代の流れが、映像や実際の装置、登場する群衆により描き出される。作品初演の時代から欧州大戦、出征、移民や亡命による別れの光景が順に現われる。マレーネ・ディートリヒ的な姿でパルジファルを誘惑するクンドリー。ナチス(クリングゾル)のハーケンクロイツの旗は、パルジファルの槍の一閃で木っ端微塵にされる。

 そしてその後も、空襲で破壊されたヴァーンフリート荘、焼跡に暮らす人々、ドイツの復興――と続き、大詰めではドイツ国会議事堂の場面や現時点のバイロイト祝祭劇場(奥の巨大な鏡には我々が座っている客席が映される)の場面となる。
 国会議員たちから攻撃され、自らの脇腹の傷口を示して激しく応酬するアムフォルタスの姿は、あたかも――歴史の苦悩を背負った人間が、裁判官気取りの者たち相手に闘う光景にも似ており、もしくはナチスとの関連を弾劾されて憤り反論する、自らも傷を負ったバイロイトを象徴しているかのようにも見える。

 全篇にわたり舞台手前に設置されていたのは、ヴァーンフリート荘との位置関係とも一致するワーグナーの墓。これが終始パルジファルその他の者たちから、一種の祭壇のように扱われていたのが意味深い。
 最後に、パルジファルは槍とともに血の池の中に沈み、アムフォルタスは父の棺の上で息絶える。一方、クンドリーとグルネマンツは結ばれ(?)、幼かったパルジファルと同一の姿をした少年ともに前景に立つ――クンドリーは新たなヘルツェライデとなり、新たなパルジファルの物語が始まるのかもしれぬ。
 舞台には、現代ドイツの国旗マークが輝く。「マイスタージンガー」の逆を行くような幕切れだ。

 これら一連の動きの中における舞台の転換、装飾、照明の変化は、言いようもなくすばらしい。これはヘアハイムの演出の冴えももちろんだが、舞台美術担当のハイケ・シーレと、照明担当のウルリヒ・ニーペルの手腕が大きな役割を果たしているだろう。久しぶりにバイロイトならではの幻想的な舞台転換のテクニックに巡り合ったという感じだ。これなら、もう一度観てもいいという気持になる。

 歌手陣では、グルネマンツを歌ったクヮンチュル・ユンが真摯で重厚な存在感を示し、今やバイロイト最大のスターとなっている感がある。
 クンドリーはわれらの藤村実穂子、かなり特異なキャラクター表現で、私としては少々掴みにくい面もあったが、ドイツ文化の要塞バイロイトで主役を張るのだから、やはり凄い人だ。
 アムフォルタスのデトレフ・ロートも不気味なメイクで、シャープな演技と歌唱を示して成功。クリングゾルのトマス・イェサツコも、男版クンドリー(もしくは男版マレーネ・ディートリヒ)といった姿でユニークな味を出していた。パルジファルのクリストファー・ヴェントリスはまだ荒削りなところもあるけれど、力はあるだろう。

 そして、文字通り圧倒的な男声合唱の迫力を聴かせたのが、バイロイト祝祭合唱団。第3幕は特に凄い。往年のソフィア国立歌劇場合唱団をも凌ぐ力感だ。それに、全員がモロ国会議員という雰囲気を出すその扮装と演技の巧いこと!

 幕が先に降りて、最後の和音がまだ鳴っている最中に前列の方でブラヴォーを喚いた男がいた。場内失笑、制止の声、怒りのざわめき。

グランド・オペラ 2009年秋号

コメント

8/19に観ました

前日までのトリスタン・マイスタージンガーとは打って変ってすばらしい出来でした。演出は舞台上で次々と時代が移り変わり、少々難解ながら、ガッティの演奏はすばらしく、歌手も良い出来でした。特に藤村はいいですね。
ところでバレンボイムがバイロイトに復帰するという噂がありますが本当ですか?

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