4・9(月)ザルツブルク・イースター音楽祭 「ラインの黄金」
ザルツブルク祝祭大劇場
イースター注目のヴァーグナーの「ニーベルングの指環」がついに発進。
演出と装置とビデオ制作(流行る!)は、シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイク。
舞台は至極シンプルで、小さな窓が一つある牢獄のような空間。奥にセリが多数生じて変化を持たせるが、その他は照明および3面の壁に映写されるビデオで動きを出すのみ。この種の舞台は、近年とみに増えてきたような気がする。今回のビデオは、ライン河の場では水、ヴァルハルの場では雲、ローゲ登場の場では焔が映写される。そして、アルベリヒが化ける場面では大蛇のウロコ、最終場面では雲と山の峰が映される、といったエフェクト的なもので、まあ書き割りより少しはイメージが良いというところだろう。
ライン河の場面では、奥のセリの段差の間で演技が行なわれる。曲の開始前から椅子に一人の男が寝ているが、これはアルベリヒかと思いきや、ヴォータン(ウィラード・ホワイト)であった。彼は一貫してクール・ビズみたいな背広姿である。ローゲ(ロバート・ギャンビル)は、金ピカのいでたちのホモ男。巨人2人(ファーゾルト=イアイン・パターソンとファーフナー=アルフレッド・ライター)は、きちんとした服装のビジネスマンで、これは債権取り立ての銀行員というところか。
アルベリヒ(デイル・デューシング)は、最初ホームレスのような格好をしているが、財産を得ると羽振りのいい軍人になる。エルダ(アンナ・ラーソン)はセリの端から歩いて登場し、ヴォータンを愛しげに説く。ニーベルングのこびとたちは、ここでは工員であり、宝物はすべて札束だ。
大詰では、ヴォータンとフリッカ(リリー・パーシキヴィ)が手を取り合って背景の壁に向かって進むという、ケレンも何もない、あっさりした舞台になっている。こういう傾向の舞台は、費用節減路線か。
面白くない舞台だね、とぼやいていたら、情報通の知人いわく、共同制作のエクサン・プロヴァンス音楽祭(昨年夏)での上演の際に旧い小さな劇場を使わなければならなかったので(新劇場の竣工が遅れたとか)、舞台上の制約が生じ、それでこういう舞台装置にならざるを得なかったのだ、と。次年の「ヴァルキューレ」に期待するか。
ラトルの指揮には、実に興味津々たるものがある。冒頭ではコントラバスの持続音にさえ軽いリズムとアクセントが付されており、ラインの乙女たちの歌のオーケストラのモティーフには、弾むような躍動感が与えられていた。最近の彼の録音「ドイツ・レクィエム」でも聴かれた、あの独特のリズム感と共通するだろう。
しかも、演奏にあふれる叙情性が見事だ。ふっくらと拡がる豊かな柔らかい木管の和声など、惚れぼれするほどの美しさにあふれている(きっと「ヴァルキューレ」第1幕など聴きものになるのではないかと思う)。多くのモティーフはあまり浮き出さずに、きれいに流れる。もともとこの作品では、モティーフが裸で登場するため、ゴツゴツと、かつバラバラな音楽のイメージになりかねないのだが、今回は希有なほどに流れが良い。
だがその一方、ニーベルハイムへの下降と帰還の音楽や、終結のヴァルハル入城の音楽などでは、まさに総力を揚げた大強奏となる。その凄まじい咆哮は、さすが巨艦ベルリン・フィルだ。テンポは非常に遅く感じられたが、手元の時計では大体2時間35分位ではなかったかと思う。
総じて、舞台は平凡ながら、演奏は新鮮そのもの、というところ。
今年のザルツブルク・イースター・フェスティヴァル体験はこれで終了。めずらしく滞在期間中は好天に恵まれた。
イースター注目のヴァーグナーの「ニーベルングの指環」がついに発進。
演出と装置とビデオ制作(流行る!)は、シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイク。
舞台は至極シンプルで、小さな窓が一つある牢獄のような空間。奥にセリが多数生じて変化を持たせるが、その他は照明および3面の壁に映写されるビデオで動きを出すのみ。この種の舞台は、近年とみに増えてきたような気がする。今回のビデオは、ライン河の場では水、ヴァルハルの場では雲、ローゲ登場の場では焔が映写される。そして、アルベリヒが化ける場面では大蛇のウロコ、最終場面では雲と山の峰が映される、といったエフェクト的なもので、まあ書き割りより少しはイメージが良いというところだろう。
ライン河の場面では、奥のセリの段差の間で演技が行なわれる。曲の開始前から椅子に一人の男が寝ているが、これはアルベリヒかと思いきや、ヴォータン(ウィラード・ホワイト)であった。彼は一貫してクール・ビズみたいな背広姿である。ローゲ(ロバート・ギャンビル)は、金ピカのいでたちのホモ男。巨人2人(ファーゾルト=イアイン・パターソンとファーフナー=アルフレッド・ライター)は、きちんとした服装のビジネスマンで、これは債権取り立ての銀行員というところか。
アルベリヒ(デイル・デューシング)は、最初ホームレスのような格好をしているが、財産を得ると羽振りのいい軍人になる。エルダ(アンナ・ラーソン)はセリの端から歩いて登場し、ヴォータンを愛しげに説く。ニーベルングのこびとたちは、ここでは工員であり、宝物はすべて札束だ。
大詰では、ヴォータンとフリッカ(リリー・パーシキヴィ)が手を取り合って背景の壁に向かって進むという、ケレンも何もない、あっさりした舞台になっている。こういう傾向の舞台は、費用節減路線か。
面白くない舞台だね、とぼやいていたら、情報通の知人いわく、共同制作のエクサン・プロヴァンス音楽祭(昨年夏)での上演の際に旧い小さな劇場を使わなければならなかったので(新劇場の竣工が遅れたとか)、舞台上の制約が生じ、それでこういう舞台装置にならざるを得なかったのだ、と。次年の「ヴァルキューレ」に期待するか。
ラトルの指揮には、実に興味津々たるものがある。冒頭ではコントラバスの持続音にさえ軽いリズムとアクセントが付されており、ラインの乙女たちの歌のオーケストラのモティーフには、弾むような躍動感が与えられていた。最近の彼の録音「ドイツ・レクィエム」でも聴かれた、あの独特のリズム感と共通するだろう。
しかも、演奏にあふれる叙情性が見事だ。ふっくらと拡がる豊かな柔らかい木管の和声など、惚れぼれするほどの美しさにあふれている(きっと「ヴァルキューレ」第1幕など聴きものになるのではないかと思う)。多くのモティーフはあまり浮き出さずに、きれいに流れる。もともとこの作品では、モティーフが裸で登場するため、ゴツゴツと、かつバラバラな音楽のイメージになりかねないのだが、今回は希有なほどに流れが良い。
だがその一方、ニーベルハイムへの下降と帰還の音楽や、終結のヴァルハル入城の音楽などでは、まさに総力を揚げた大強奏となる。その凄まじい咆哮は、さすが巨艦ベルリン・フィルだ。テンポは非常に遅く感じられたが、手元の時計では大体2時間35分位ではなかったかと思う。
総じて、舞台は平凡ながら、演奏は新鮮そのもの、というところ。
今年のザルツブルク・イースター・フェスティヴァル体験はこれで終了。めずらしく滞在期間中は好天に恵まれた。
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「ヴァルキューレ」に期待しています。
(以前の、BPO定期での「ヴァルキューレ」一幕のみ、の演奏には感心しましたので。)