2018-12

2007・8・18(土) ザルツブルク音楽祭
ハイドン:歌劇「アルミーダ」

     フェルゼンライトシューレ  3時

 前方上手よりの席で聴いたアイヴォー・ボルトンとザルツブルク・モーツァルテウム管の演奏はすばらしく、この曲の響きの豊かさと官能的な美しさを浮き彫りにしていた。アーノンクールのCDなどではゴツゴツした音ばかりが耳につき、やや抵抗感を抱いたものだが、こうしてナマで聴くと、ハイドンらしくしなやかで瑞々しい音楽さが愉しめる。

 歌手ではゼルミーラ役に予定されていたパトリシア・プティボンがモイカ・エルトマンに変更になったが、上演の性格からいって、さほど問題になることではない。十字軍の騎士リナルドは、音楽祭常連のミヒャエル・シャーデ。
 一方、彼を愛するサラセン側の魔女アルミーダはアネッテ・ダッシュで、数メートルもある高さのスロープから物凄い勢いで転げ落ちるような演技もやってのけ、観客の度胆を抜いた。コロラトゥーラの凄味ではバルトリに遠く及ばないが、バルトリだったらこんな演技はできないだろう。彼女に劣らずコーラス(実際には歌わない)も走ったりぶら下ったり転落したりと激しい動きをする。

 舞台装置(ダーク・ベッカー)は、中央やや上手寄りに巨大な材木の山、下手側に巨大なスロープがあるだけのシンプルなもの。衣装(ベッティーナ・ワルター)はすべて現代風で、十字軍兵士は青色、サラセン(シリア)軍兵士は赤色という衣装の色分けである。

 ダマスカスに侵攻した十字軍と、迎え撃つサラセン軍の戦闘を背景に、十字軍兵士たちとサラセンの女性たちとのひそかな愛を描いたこのオペラは、最も今日的な意味合いをもつドラマといえるかもしれない。
 クリストフ・ロイの新演出は、非常に微細な演技をともなう現代演劇風のもので、予想されたとおり現代の戦争に場面を置き換えた設定だ。戦争に圧し潰される個人の感情というものに大きな関心が寄せられ、リナルドが兵士としての意識を次第に失って行く過程も詳しく描かれる。オリジナルのオペラがせいぜい恋人たちの苦悩を描く程度のものであったのに対し、この演出では、戦争の中における個人の悲劇が描かれており、それ自体はすこぶる当を得た、魅力的な解釈ではある。

 だが結局ロイも、その悲劇の根幹をどう解釈するかにおいては、従来の西欧の歴史観から一歩も出ていないようだ。
 シリアの王イドレーノ(ヴィート・プリアンテ)を野卑で暴力的な人物に設定し、拷問された十字軍兵士クロタルコ(バーナード・リヒター)が己れの立場の正しさを誇らしげに歌って死ぬと、彼を愛するサラセンの女ゼルミーラが慟哭して彼に縋りついてイドレーノに非難の目を向け、サラセン軍兵士たちもそのリーダーから離反していくという、お定まりの構図にとどまっているのである。
 こうした欧米的倫理感を批判的に解釈し直してみせるような手法が、そろそろ生まれてこないものか。東洋人の演出家で、それを試みる人はいないだろうか。

 ラストシーンを妙な大団円にせずに、オリジナルの台本に従い、主人公たちの運命を未解決のままにしたのは、賢明な手法であろう。
     東京新聞9月15日

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