2024-03

2021・11・24(水)新国立劇場 大野和士指揮 ヘルツォーク演出
ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」

        新国立劇場 オペラパレス  2時

 新国立劇場と東京文化会館の共同制作━━「国」と「都」の初の共同プロジェクトの一環として、新国立劇場オペラ芸術監督と東京都交響楽団の音楽監督を兼任する大野和士がこの上演を高らかに宣言してから、もうずいぶん時が経ったような気がする。

 とにかく、第1弾「トゥーランドット」は2019年に予定通り上演されたが、この「マイスタージンガー」の方は昨年の上演予定が新型コロナ蔓延の影響で今年に延期され、今年夏には東京文化会館での上演が同じくコロナの影響で、土壇場で中止されてしまっていた。そしてやっと、この秋の新国立劇場の上演が、めでたく実現の運びに至ったわけである。制作に携わった多くの人々の、特に総帥の大野和士の感慨は如何ばかりかと思う。

 このプロダクションの制作には、他にザルツブルク・イースター音楽祭と、ザクセン州立劇場(ドレスデン)も名を連ねている。
 演出はイェンス=ダニエル・ヘルツォーク、舞台美術はマティス・ナイトハルト。大野和士の指揮のもと、東京都交響楽団と新国立劇場合唱団・二期会合唱団が出演。

 歌手陣には、トーマス・ヨハネス・マイヤー(親方ハンス・ザックス)、アドリアン・エレート(同ベックメッサー)、ギド・イェンティンス(同ポーグナー)、林正子(その娘エーファ)、シュテファン・フィンケ(騎士ヴァルター)、伊藤達人(徒弟ダーヴィット)、山下牧子(マクダレーネ)、志村文彦(夜警)。また親方衆には、村上公太、与那城敬、青山貴、妻屋秀和、秋谷直之、鈴木准、菅野敦、大沼徹、長谷川顯━━といった、錚々たる顔ぶれが並んでいた。

 総合的に言って、これは優れた上演だったことは間違いない。
 まず大野和士の指揮。モネやリヨンなど、欧州の歌劇場のシェフとしてキャリアを積んだ彼の本領が、今回は全開していた。劇的な起伏感、明晰なカンタービレ(第2幕のザックスの「ニワトコの歌」や第3幕でのエーファの歌など)、モティーフの巧みな扱い(第3幕での「トリスタン」の引用)などをはじめとして、彼がこの作品を完全に自家薬籠中のものとしていることを示しているだろう。

 東京都響の演奏も、重量感と厚みには多少不足するところがあったにせよ、この劇場のピットから響いた演奏としては、近年出色の濃密なものであった。このピットに入る他のオケ(複数)が、いつもこういう演奏をしていてくれれば、新国立劇場のオペラももっと愉しくなるのだが━━。

 歌手陣も安定していた。来日勢では、ヴァルター役のフィンケが少し声に癖があるものの、まず不足はない。ザックス役のマイヤーも滋味あふれる歌唱と演技で、この演出における落ち着いた家父長ともいうべき役柄の責任を果たしていた。

 中でも、エレートのベックメッサーはまさに当たり役というべく、今回の演出では比較的物静かなキャラ表現だったが、歌といい演技といい堂に入ったもの。
 第3幕で、自分が失敗したヴァルター作の歌詞を彼が見事に歌うのを聞いて感心し納得するものの、突然「だから何だ」と怒りに燃えるといった感情の変化の表現の巧さをはじめ、細かい演技も見せてくれる。彼が予定通り来日できて本当に幸いであった。

 細かい演技といえば日本人歌手が演じる親方連も同様で、歌唱ではあまり目立つ個所が無いものの、常に全員が演技をしているということが舞台を引き締めていたのである。
 林正子のエーファもかなり華やかな歌唱と演技で、とかく埋没しがちなこの役を目立たせていた。ダーヴィットの伊藤達人も、この役にしては少し声が軽いという印象もあったが、手堅い存在感を示していた。久しぶりに演劇的なオペラの舞台を観たという感だ。

 とはいうものの、この演出で、ドラマの場所をニュルンベルクの街中でなく、ある劇場の中に設定、ザックスをその劇場監督か支配人にしたあたりは面白い発想と思われたが、全体を見終ってみると、その設定はさほど意味を持っていなかったような気もする。

 演出形態は、基本的にはストレートな解釈で進められるが、大詰めはやはり近年の演出の趨勢と同様、ザックスがその大演説で最後に提言するナショナリズムが彼自身の墓穴を掘る、という結末が選ばれている。
 最近の演出では、ザックスが民衆から愛され讃えられ、平和な大団円になるというト書き通りの演出はほとんど見られないというのは周知の通りで、多くは、人々がザックスから離反して行くという流れになる。あるいはバイロイトの最新のバリー・コスキー演出(→2017年8月19日の項参照)のように、孤独のザックスが世の人々(観客)に対し必死の弁明を試みるとかいった手法が試みられるものもある。

 ただ今回のヘルツォーク演出で理に適っていると思われるのは━━硬直した芸術の規則を嫌い、マイスター就任を拒否したヴァルターが、そのあとザックスから「ドイツ芸術礼賛のナショナリズム」を聞かされたことで反感を決定的にすることと、一度はそれをなだめようとしたエーファが、結局は恋人の選択に合わせてしまう、という流れを、順を追って細かく明晰に描いていることではなかろうか。

 ザックスも、「ニュルンベルクの民衆」からも反感を抱かれるという設定までには至っていない。これにより、一般の演出に見られる「ザックスからの人びとの唐突な離反」とは、一線を画していると思われるのである。
 それにしても、あれほど面倒を見てやった若い2人から瞬時に裏切られる設定にされるとは、ザックスも気の毒なことよ。

 30分の休憩2回を含み、終演は8時。やはり長い。

コメント

ひたすら眠気を誘い、五重唱からヨハネ祭のはじまりにかけてでさえウキウキしてこない鈍重なオケ。♭なワルター。パッとしないザックス。など落胆の極みでした。オケがもう少しバックアップして盛り上げればもっと伝わる歌唱ができたようにも思いますが。なお、ベックメッサーとダーヴィッドは良かったと思いました。
3月のワルキューレでもそうでしたが監督はもうワーグナーは振らないほうが良いのでは?それをはるかにうわまわるワーグナーを振れるひとが近くにいるのに。

作品の芸術の奥深さを再認識

18日のプレミエと昨日の最終公演を鑑賞しました。演出の意図であるワルターの旧態(旧体制)への反乱と、自尊心に裏打ちされた知的優位者たるベックメッサーへの強烈な精神的殴打が鮮明に引き出されていました。大野さんの細部まで研究を尽くされている音楽づくりは、楽譜を体内に収めたかのような絶妙な指揮ぶりと共に舞台全体の統率力の見事さを大いに感じるものでした。ベックメッサーとダーヴィッドは、作品上キャラクターで見せる役として印象付けるものですので楽しめましたが、「マイスタージンガー」の柱は周知のごとくハンス・ザックス。トーマス・ヨハネス・マイヤーの落ち着いた渋みを聴かせたザックスの味わい深さを堪能できたことは幸せでした。「マイスタージンガー」は祝典劇として表面的にみられることがありますが、とても奥深い精神性に魅力をたっぷりと有している特別に素敵なオペラであることを今回の公演でも再認識させられました。1980年代からの舞台鑑賞の経験にすぎませんが、新たな思い出に残るページを飾る公演でした。

お久しぶりです。2度のキャンセルを乗り越えた「思い」の詰まった大野マエストロの指揮。思いが込もり過ぎて停滞する印象もありましたが、夏至の夜(作品の舞台でかつ本来演奏予定だった)の気怠さと、登場人物達の心の揺らぎ(=迷い)を感じさせ、特に2幕ではこの作品の心理劇としての側面を見事に描き出し感銘を受けました!
ザックスのマイヤーは暗い声が男の色気を感じさせないのが残念でしたが、アロガントなフィンケとシニカルなエレート、そしてダーヴィトの伊藤がドラマの推進力になったと思います。
一方で、歴史ロマンもメルヘン性も政治性も「除菌」した「安全安心」の演出は変異がイマイチで感染力が低かった。

満足感も大きかったのですが、細かく振返ると、長丁場の中で課題もいろいろあったとも思われ(音楽的には、平坦な所も多かったような気がする‥)、ワーグナー作品上演の難しさも考えました。
 個人的な感想としては、演出面で、衣装、美術も含めて、変に凝った部分と、あっさりした部分のバランスが取れていなかった感じがしました。例えば、序曲後の合唱では、随分動いて歌っていたのですが、地声で、まとまりが薄くなってしまったように思いました。一方で、独唱陣個々のの演出は、動きが少なく、手持無沙汰な感じが多かった印象があります。このことが、今一つ、流れが不自然で、ザックス、ヴァルターが何か印象にかけることにもつながったように思います。かと思うと、ベックメッサーが、急に変に浮いた衣装で出てきたりと…結果的に、通常の時代設定や解釈で、無理なく進行させた方が、結果的に、演技も歌唱もより堂々と見えたのではないかと考えました。
 一方、収穫が大きかったと思うのは、彩りのある歌唱、演技を展開した女声陣の健闘です。林さんは凛とした、くっきりとした人物像を、山下さんも各場面に即し、愛嬌ある、魅力的な人物像を描き出すことに成功し、上演全体を盛り上げていたように思いました。

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