2020-01

1・17(土)ラザレフと日本フィルの
「プロコフィエフ・ツィクルス」第1弾

  サントリーホール

 アレクサンドル・ラザレフが日本フィルの首席指揮者に就任するにあたり、最初に掲げた看板がこのプロコフィエフの全交響曲の連続演奏である。その第1回が1月定期に組み込まれて、いよいよスタートの運びとなった。

 結果は、ともかくも上々の出来と言って間違いない。
 第1回に取り上げられたのは、第1番「古典交響曲」と、第7番「青春」。

 ラザレフは、前者を比較的端整に、形式美を重視するような形で演奏し、それと対照的に後者を非常にラディカルに荒々しく、近代音楽家としてのプロコフィエフ像を擁護するような解釈で描き出して見せた。
 つまり「7番」については、所謂平易な「保守回帰」路線でなく、むしろ逆に、晩年までアイロニー精神を貫いた作曲家の遺言のような性格を聴き手に感じさせる、といった演奏だったのである。そして特に最後が消え入るように終る「原典版」の第4楽章においては、プロコフィエフの心情に何か異様な絶望感と虚無感が漂っていたことが、鮮やかなほど浮き彫りにされたのであった。「青春」などというサブ・タイトルが如何に無意味なものであるかを証明する一例である。
 こういったラザレフの解釈は、先頃のゲルギエフとはまた異なったスタイルのものとして、非常に興味深い。
 全曲が終った後、彼はアンコールの形で第4楽章の後半を――賑やかな結尾を持つ版で比較演奏して聴かせた。ほんの数小節が付加されただけで、作品の性格はこんなにも正反対になってしまうのだ、ということを明快に提示してみせたラザレフの指揮である。

 猛烈な練習の甲斐あって、日本フィルの演奏も、1週間前とは格段の差を示した。いつも肝心の聴かせどころでコケるトランペット群にはもっとプロ根性を見せてもらいたいが、弦は充分鳴っており、しかも全合奏においても音色に明晰さが蘇っていた。

 2曲の間に演奏されたモーツァルトの「協奏交響曲K.364(320d)」が、漆原朝子と今井信子のソロを含め、実に良かったのも嬉しい。特に第3楽章など、夢のような美しいハーモニーになっていた。日本フィルからこんなに綺麗な音を聴けたのは、なんか久しぶりのような気がする。

 ともあれ日本フィルには、この勢いで復活の道を驀進してもらいたいと願うこと切である。また変な指揮者によってアンサンブルがバラバラにされなければいいと思うが、そうなったらもうむしろオーケストラ自身の責任といわねばなるまい。
 客席はすでに満員。一頃は定期もガラガラだったことを思えば、祝着の極みだ。

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