2021-06

2021・5・21(金)二期会ニューウェーブ ヘンデル:「セルセ」GP

     めぐろパーシモンホール 大ホール  4時

 二期会創立70周年記念行事の一環、「ニューウェーブ・オペラ劇場」の最新作として、ヘンデルのオペラ「セルセ」が上演される。「オンブラ・マイ・フ」が出て来るあのオペラである。

 本番は22日と23日だが、こちらは明日が例のワクチン・シリーズの第1回にぶつかってしまったので、今日のゲネプロ2日目を取材させてもらうことにした。
 実はこの土・日は、「セルセ」だけでなく、原田慶太楼とN響とか、沼尻竜典と神奈川フィルとか、田中祐子と日本フィルとか、聴いてみたい顔合わせの演奏会がいろいろあるのだが、ワクチンを打った直後に第三京浜をクルマで飛ばすなどというのは傍迷惑になりかねないだろうし、ここは家でおとなしくしていようと決めた次第。

 この二期会の「ニューウェーブ」のシリーズは、6年前の「ジューリオ・チェーザレ」(→2015年5月24日)も日本のオペラ演出としてはかなり翔んでいて笑えたものだ(欧州でのそれに比べれば未だまだ可愛い程度だろうが)。
 今回の「セルセ」は、鈴木秀美の指揮に、コンテンポラリー・ダンスの中村蓉が演出を行なうという新制作ものである。事実、全篇すべてダンスの連続という舞台になっていた。歌いながら激しく踊るというアスリート並みの仕事を、若手歌手たちが懸命にこなしている様子が微笑ましい。第1幕だけを観せてもらった。

コメント

先ずは「踊り」よりも音楽を。

 私はこの公演はスルーし、東条先生もお考えになっていた神奈川フィルへ行ったのですが、この「セルセ」は、舞踊が目立ち、音楽中心で聴きたいファンには不評の意見が強かったようで残念です。前の「ジュリオ=チェザーレ」は私も拝見しているのですが、この時も動きが多すぎて息が上がってしまい、歌唱に影響が出ていた歌手も複数見受けられたのですが、今回も似た轍を踏んでしまった印象を各種の論評からは、個人的には感じています。
 いろいろな演出があって良いとは思うのですが、最終的には、演出によって、より大きく歌や音楽が映えることが最も大事なのだと思います。今回の演出家とは別の人のことなのですが、昨今、若い演出家の一部に、有名序曲や音楽の大事なところでもわざわざ、バタバタ大きな足音をさせ、自分の演出のためにはお構いなし、という人も見かけますが、正直、こうした方々は演劇、芝居そのものにも理解がないように、私には感じられます。
 ヘンデルのオペラについては、以前、関西で武庫川女子大の大森地塩先生が大変、意義深い公演をシリーズで続けておられたのが印象に残っています。こちらのシリーズは終了を明言されているようですが、落ち着いた、正統的で濃密なステージ内容に感銘を受けて、いまだに復活を望むファンも多いようです。二期会も先ずは、オーソドックスな演出で公演をしてみては、と思います。
 一方、神奈川フィルの方は、マーラーの4番で、とりわけコンマスの石田氏の数か所のソロが、特徴的で、全体としても表現が多様で、オリジナリティの高い演奏だと思いました。ただ、少々、思い入れが過ぎたのか、マエストロの指揮が、特に一楽章で、フワフワと、南国の手踊りのように(時に腰も、ちょっとフリフリ‥)なってしまい、指揮の打点が定まらないので、管楽器を中心に、音が揃わない箇所が見受けられました。
 音楽を盛り上げる、ということも大事ではあるのですが、あまりに「踊り」の域に入らないよう、まずは本番でも客観的に、冷静に音楽を楽員に伝え、充実させることが大事なように思いました。

セルセ

自分が鑑賞していない舞台の「印象」を「各種の論評」を参考にしてコメントすること、そのコメントを影響力の多いブログにアップすることには大変憂慮を覚えます。私は初日の演奏を鑑賞しましたが、そのような感想は全く抱きませんでした。むしろ若い歌手たちは演出家の要求に十二分に応え(相当に練習を重ねたことと思います)、歌唱において舞踏が影響を及ぼした場面はなかったものと思います。また、演出上施された創意(オン・ブラ・マイフを本演出第1部の最後(アルサメーネが実らぬ恋を愁傷する)と第2部の最後(フィナーレの大団円が終わった後に第1部冒頭のシーンを再現する)に、大変非凡なものを感じました。もちろんその是非は真摯な批評の対象となるべきでしょうが、少なくとも、色々なことを考えさせられた点で、私には、「オーソドックスな演出」以上の価値があるように思われました。

推して知ること

 SK様の、拙文へのコメント、わざわざありがとうございます。参考にさせていただきたく思います。
 ただ、タイトルの通り、東条先生のコメントの分量からの推察、また、SK様は気にならなかったとのことですし、SK様のコメントからすれば、元の木阿弥的な書きようにはなるのですが、複数の方々が「足音がかなり気になった」と感じた時点で、演出として、芸術音楽として、もはや初期的なレベルでの問題点は確実に存在してしまったのだと思います。

 例えば、このサイトのコメントにも、ごく一部ですが、「〇響を〇氏が指揮したから絶対にいい演奏だったに違いない」という記述を見かけることがありました。私も、こうした肩書だけへの思い込みは、芸術鑑賞として、絶対に避けねばならないことだと思います。
 しかし、複数の、信用にするに足る鑑賞力をお持ちの方々の「論評を参考」にすることや、主催者の事前の説明、解説、コメント、広告・宣伝を参考に、行けなかった演奏会をある程度の「推察」をしてゆくことは、普通に行われていることだと思います。そうしたことを目的に演奏批評を掲載している雑誌も存在しますし、そうでなければ、音楽評論というジャンルも成立はし得ないでしょう。また、この東条先生のサイトも、そうした音楽論評集として、価値ある、代表的なものの一つであるのだと思います。
 時々の、私の拙文も、少なからず、折々に、様々な方々のご意見、感想を参考にさせていただいていますが、今後も、さらに、いろいろと推敲を重ねるようにしてゆきたいと考えています。

他人の感想による批判―健全な議論のために

ファン.N.K.N.T.氏の応答、拝読いたしました。「複数の方々が『足音がかなり気になった』と感じた時点で、演出として、芸術音楽として、もはや初期的なレベルでの問題点は確実に存在してしまったのだと思います」。大変失礼ながら、この文章のどこがフェアなコメントではないか、「いろいろと推敲を重ね」ていただければと思います。なお、一言付言すれば、今回のご主張の根拠となっている「足音がかなり気になった」かどうかは、まさに主観に基づくものであり、私はそうは思いませんでした(ちなみに、私の座席は1階10列、客席としては前から5列目くらいでした)が、たとえ、「複数の、信用にするに足る鑑賞力をお持ちの方々」がそのようにお感じになったのかもしれないとしても、そのことだけをもって、本公演に否定的評価を下すことには異論もありうるものと考えます。少なくとも、自らが鑑賞していない舞台である以上、ありうる異なった評価に対しては、肯定も否定もできないはずです。
オペラ上演の評価は、演出を含む、舞台全体の出来で決まるものだと私は思います。本公演は、登場人物の内面の機微をダンスという身体的表現によって余すことなく再現していた点で、舞踏が歌唱の邪魔をすると感じられるような、凡庸な演出とは異なり、大変優れていたものであったと思います。ダンスにはまだまだ可能性があるということに改めて気づかされた点で、まさにニュー・ウェィヴを標榜するに足る素晴らしい上演であったと私は受け止めました。東條先生におかれましては、今後もいろいろとご教示下さることを大変楽しみにしております。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

ブログ内検索

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」