2021-06

2021・3・4(木)山田和樹指揮読売日本交響楽団 

     サントリーホール  7時

 首席客演指揮者・山田和樹は、今月は読響との演奏会で3種のプログラムを指揮するが、いずれも比較的珍しい曲を取り上げている。もちろん名曲も含まれているものの、それもふだんあまり演奏されない作品である。
 今日は定期演奏会だから、プログラムは最もユニークだ。曰く、ウェーベルンの「パッサカリア」、別宮貞雄の「ヴィオラ協奏曲」(ソリストは読響の鈴木康浩)、グラズノフの「交響曲第5番」。どれも極めて濃密な演奏であった。コンサートマスターは長原幸太。

 「パッサカリア」は、ウェーベルンの作品の中でもまだあまり先鋭的でなかった作風の時代のもので、むしろ際立つのはオーケストラの色彩感だ。山田和樹のオーケストラの鳴らし方が実に「解り易い」ので、愉しめる。
 一つだけ希望を出すとすれば、冒頭のパッサカリアの主題を、もう少し明確に聴かせておいてもらいたかった、ということ。その基本主題を常に自分の頭の中で鳴らしつつオーケストラの演奏を聴く方が、私にとっては面白いからである。

 別宮貞雄の「ヴィオラ協奏曲」は、私にはある意味で衝撃的だ。自分の手帳を引っ張り出して見ると、どうもこの曲の公開初演の時の演奏会を聴きに行っていたらしいのだが、何一つ記憶が残っていないのである。それはもちろん、当時の私の理解力がお粗末だった所為もあるだろう。

 だがこれは当時の邦人の作品についても一般的に言えると思うのだが、当時の重い、色彩感も希薄気味のオーケストラの演奏で聴くのと、表現力も遥かに向上している現代の日本のオーケストラの演奏で聴くのとでは、随分異なった受容の仕方になるのではないか、ということだ。当時はごく限られた専門的な聴衆にしか受け入れられなかった邦人作品も、現代の活気に彩られた指揮者とオーケストラによって再現されると、はるかに多くの支持者を集めるのでないかという気がする。
 近年、そうした例にいくつか遭遇して、当時の日本の作曲家は凄いものを書いていたのだな、と思わされることが多い。その意味からも、初演以来「日の当たらなかった」日本の昔の作品を今また取り上げることは、大いに意義あることのように思う。

 今日の山田和樹と鈴木康浩と読響によるこの曲も然り。精緻な音色の交錯、強靭な音のヴィオラ・ソロと透明清澄な響きのオーケストラとの対比、フランス仕込みの音と日本の音との妙なる調和あるいはせめぎ合い━━何だか変な表現だが、要するにそういう特徴が、今日の演奏からは実にリアルに伝わって来たのだ。お客さんの拍手が驚くほど熱烈で、しかも長く続いていたのも、決して儀礼的なものとは思えない。今回は嬉しい機会を得たものである。

 この別宮貞雄の曲から、イメージから言えば水と油の感もなくはないロシアの作曲家グラズノフの「第5交響曲」に、全く違和感なく入って行けたのは不思議だが、それはこの「5番」が、ロシア民謡調の曲想も含まれていながら何故かあまり土臭くない性格を備えているためもあろう。とはいえそれは、ヤマカズと読響が、敢えてロシア色とは遠い音でこの曲を響かせた所為もあるかもしれない。もしラザレフが指揮していたら、もっと異なる効果を生んでいただろう。
 いずれにせよ、いい曲だが、ヘンな曲でもある。第4楽章後半から終結にかけての個所など、その最たるもので、聴いていると吹き出したくなる。

コメント

読響で演奏する姿で知ったのを機に室内楽で聴くこともある鈴木康浩さんの、ずっと楽しみにしていた別宮の協奏曲。一音一音を丁寧に聴かせる音色は、特に2楽章では美しかった。3楽章も力強く聴かせてくれました。
グラズノフはヤマカズ氏らしい選曲で、
うねるような、これでもかと熱を帯びた演奏も、ヤマカズ氏らしい持っていきかたでした。以前のカリンニコフなどでもそうでしたが、否応なしに(?)満足感を残すような、いわばマジックのようなものがありますね。

話戻って別宮の協奏曲。CDの入手が難しく、ネットにアップロードされているN響の録音(森さん/若杉さん)を聴いてから行きました。先生はさすが生で聴かれていたのですね(私は生まれてないので聴く由もなく…)。読響での演奏でも聴きばえのする曲で、もっと演奏されていい曲だと思いました。

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