2021-06

2020・12・10(木)ロッセン・ゲルゴフ指揮東京都交響楽団

      サントリーホール  7時

 ブルガリア出身の俊英ロッセン・ゲルゴフ(1981年生れ)が来日。
 メンデルスゾーンの序曲「ルイ・ブラス」、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストは南紫音)、サン=サーンスの「交響曲第3番」(オルガン・ソロは大木麻理)が演奏された。コンサートマスターは矢部達哉。

 きびきびした指揮ぶりから生まれる歯切れのいい演奏。とりわけデュナミークの起伏は大きく激しく、都響が久しぶりに咆哮怒号したといった感。
 ゲルゴフの指揮には、ブルッフでもサン=サーンスでも、幕開きの部分で遅いテンポを採って物々しい序奏気分を出したり、あるいはその「3番」の大詰で定石通りテンポを煽って盛り上げ、このままの勢いで終ると思わせながら、突然最後でテンポを落し、大見得を切って結んだり、という、やや小細工的な演奏をつくるという癖もあるようだが、まずその元気いっぱいの音楽性を評価したい。

 だが━━昨日の読響もそうだったが、今日の都響も、強いアクセントを持ったフォルティッシモになると、異様に音が硬く、荒く、汚くなる。
 ゲルゴフも外国人指揮者らしく、大きなデュナミークと強烈なアクセント、激烈な最強奏を要求するのだが、つい昨年までは指揮者のそのような要求など苦もなくこなしていたはずの都響が、いつの間にかそれに満足に応じられなくなっているのか? 

 コロナ禍のために久しく外国人指揮者との協演の機会が持てず、日本人の指揮者とのみの演奏が続いていると、次第に日本の演奏家特有のなだらかな音楽づくりがその習慣となり、強烈なメリハリのある演奏から遠ざかってしまうという傾向が、どうやらあるようだ。

 私は、西洋の音楽家たちが作るようなスタイルだけが絶対的に正しい、とは思っていない。数年前に日本オーケストラ連盟が主催した英・独・仏・米の評論家を招いてのパネル・ディスカッションでは、彼らは日本のオケの「なだらかな演奏」を非難していたが、日本側パネリストとして出席していた私は、それも日本語の特徴などから生まれる日本独特の感性による演奏スタイルなのだ、と反論したことがある。

 それゆえ、どちらも正しいと思うが、しかしオーケストラたるもの、そのいずれのスタイルをもこなせることが必要だろう。
 日本の一流オケも、つい昨年まではその両方のスタイルを巧くこなすことができていたはずだが、コロナ禍による「鎖国」状態が1年近く続いた今では、どうやらそれがまたアンバランスになってしまったのかもしれない。とすれば、これは由々しき問題ではないかと思う。

 昨年までの水準を取り返すのに、今後どのくらいの期間がかかるだろうか? なんとかやらなければならない。

コメント

全く同感です

指揮者のダイナミックな演奏は楽しみましたが、オケの音の濁りはとても気になりました。先月の沼尻さんの時はあまりなかったので、指揮者のダイナミズムに適応できない音の汚さと思います。なかなか先は遠いようですね

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今頃になっての書き込み恐縮です。この日は最近の都響としては客入りはよかったですね。ゲルゴフさんの大胆で激しい演奏には、「都響らしからぬ」濁った響きはむしろ合っているように個人的に思えました。先生のおっしゃる通り和と洋のバランスが日本のオーケストラの音を作ってきた歴史があり、最近はパーヴォさんやカンブルランさん、ノットさん、インキネンさんのような手練れが籍をおき、ルイージさん、ソヒエフさん、フルシャさん、ネトピルさんなど個性派が客演するようになり、各楽団の演奏力の「洋的」な底上げに磨きをかけてきた歴史があります。今年は来日音楽家が少なく「洋」からの養分が得られないのは残念ですが、コロナ禍で奇禍とすることがあるならば、駆け出しの若手から、地味ながら実は聴かせる名匠まで、多くの日本人指揮者を聴くことで、ややスター不在ながら底力のある日本の指揮界の今を知るいい機会になったことです。20代の若手も機会を与えられ、その後の成長に役立つと祈りたいものです。

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