2021-06

2020・8・6(木)広島交響楽団「平和の夕べ」コンサート

      広島文化学園HBGホール  6時45分

 朝、テレビで「平和の祭典」生中継を見てから東京を発ち、夜は現地で恒例の広響の「平和の夕べMusic for Peace」を聴く。

 例年なら「広島原爆の日」の前夜に行われるこの「平和の夕べ」演奏会だが、今年は被爆75年の節目とあって、5日と6日の2回公演となった。
 今日は朝の平和祭典行事に出席した駐日の大使館・公使館関係の人たちが何人か来館していたのが目を惹いた。ただし日本人客の方は前日と分散したためなのか、目測400人ほどの入りというところだろうか。当初の計画では、「節目」と「オリンピック」関連とで大規模な行事となるはずだったようだが、コロナ禍騒動により幾分か縮小されてしまったのは残念である。

 また、当初の予定では「広響平和音楽大使」アルゲリッチが客演し、藤倉大が彼女に捧げた広響委嘱作「ピアノ協奏曲第4番《Akiko’s Piano》」を世界初演することになっていた。だがコロナ禍の影響のため彼女が来日不可能となったため、代わりに広島出身の萩原麻未が弾くことになった(これはこれでいいだろう)。

 その他、プログラムも一部変更になっている。今日演奏されたのは、第1部にペンデレツキの「ポーランド・レクイエム」からの「シャコンヌ」と、藤倉大の前掲曲。第2部にベートーヴェンの「弦楽四重奏曲第13番」からの「カヴァティーナ」、マーラーの「亡き子をしのぶ歌」(ソロは藤村実穂子)、バッハ~齋藤秀雄編の「シャコンヌ」。アンコールにプーランク~下野竜也編の「平和のために祈って下さい」。
 指揮は広響音楽総監督・下野竜也。コンサートマスターは佐久間聡一。

 開演前に、ステージ下手側に設置された大きなモニター画面に、訪日できなかったことへのお詫びのメッセージを語るアルゲリッチの映像と、藤倉大の新作に登場する「明子のピアノ」(原爆で亡くなった故・河本明子さんの遺品━━奇蹟的に焼け残った所謂『原爆のピアノ』)についての動画などがプロジェクターで映写され、そのあと松井一實・広島市長が実際にステージへ登壇しての挨拶も織り込まれた。

 1曲目、ペンデレツキの「シャコンヌ」は、彼の有名な「ヒロシマの犠牲者に捧げる哀歌」とは全く異なって、後年の彼の作品の傾向を示すロマン的で抒情的な性格に満ちた作品。だからというわけではないけれども、あまり印象に残る曲ではない。
 それよりもやはり、同じ抒情性でも、藤倉大の作品の方が遥かに興味を惹くだろう。

 最初の部分を聴いた時、私は一瞬、澄んだ大気の中の日本庭園にいるかのような感覚に誘われてしまったが、もちろんこれは標題音楽ではない。ドビュッシーの現代版といったような雰囲気もあり、抒情的な曲想が主流を占めながらも、常にムーヴマン=動きに富んだ作品である。
 ソロ・ピアノは雄弁で、最初からオーケストラと対等に語り続けるが、開始後16分ほど経った頃、突然沈黙し、しばしオーケストラに席を譲る。ソリストはこの間に、それまで弾いていた中央のグランドピアノから離れ、ステージ上手側に置いてあった「明子のピアノ」の前に移る。次いでオーケストラ側の照明は落されて闇となり、スポットの当たった「明子のピアノ」のみが長いモノローグを語り続けて行く。やがてそのピアノも沈黙すると、ステージは暗くなり、それで全てが終る。21分ほどのコンチェルトだ。

 萩原麻未の演奏は清楚そのもので、清冽な叙情美に満ちていた。もし当初の予定通りアルゲリッチが弾いていたら、曲の性格ももっと濃厚で劇的なものになっていただろうけれど、萩原の日本的な感性による今回の演奏も、それはそれで一つのアプローチではないかと思われる。
 なお、この「明子のピアノ」はアップライトだが、修復されてからの保管と調律も良いらしく、いい音だし、音量も充分である。

 演奏のあとには、下手側のモニター画面に拍手を贈る藤倉大の映像が、平和の折鶴や「ロンドンから」と書いたボードなどとともに映写された。

 休憩を挟んでの第2部は、「平和の夕べ」という演奏会のイメージとは逆に、あたかも原爆犠牲者への追悼演奏会のような雰囲気を呈した。作品の性格のせいもあるだろうが、マエストロ下野が、殊更に深刻な表情をして指揮をするので、オーケストラの演奏自体も打ち沈んで暗いものになる。
 バッハの「シャコンヌ」など、かつて下野が読響の正指揮者就任記念演奏会で指揮した時の、凄まじいほどの緊張感に溢れた、気負った演奏を今でも記憶しているのだが、どういうわけか今日は、それとは全く逆の、暗くて生気のない演奏になっていた。

 また、「亡き子をしのぶ歌」も、全体に抑制された、沈み切った演奏の連続だったため、全曲最後の落ち着いた静かなエピローグ的な音楽が醸し出すはずの凄愴な諦めきった感情が、ほとんど浮き彫りにされぬ結果となってしまったのである。藤村実穂子の歌は深々としてはいたが、これも彼女だったらもっと感情の変化の激しさを表出できたはずなのに、と思わせる歌唱だった。
 なおこの演奏の時には日本語字幕がついたが、藤村自身の訳文がかなり砕けたものになっていたのは、演奏のシリアスなイメージと合致しない感がある。また曲のフレーズに合わせて言葉を短く切っての字幕表示だったため、文脈全体が掴みにくくなるという、字幕では一番やってはいけないスタイルだったのが残念である。

 広響の演奏は極めて充実していた。この4週間に2回の演奏会を聴いたわけだが、いずれも聴き応えがあった。地方オーケストラの水準が目覚ましく上がっていることは、本当に喜ばしい。

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