2019・11・30(土)ゲルギエフ&マリインスキー:「スペードの女王」
東京文化会館大ホール 3時
チャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」━━全曲冒頭、あの「第5交響曲」第1楽章第1主題と全く同じリズム動機を持つ愁いを含んだ序奏を聴くと、初めて真冬にロシアに行った時に見た光景が美しく蘇って来る。
深い雪に包まれた街路、訪れた音楽団体の事務所に暖かく置かれていた優美で豪華な姿のサモワール・・・・。
その雰囲気を一番気持快く思い出させてくれるのが、ワレリー・ゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団の演奏なのだ。
そのゲルギエフとマリインスキー管、今回は練習不足だったのか、アンサンブルがずれたり、金管が時々飛び出したりすることはあったけれど、全体としてはきれいな音を出した(聴いた席は1階19列)。
1992年暮に初めて現地で聴いた時のような暗い色合いの音は既に全く失われ、今や透明で澄んだ音色が主体のオーケストラになっている。それも時代の変遷を物語るものだろう。何より、ゲルギエフ自身の音楽そのものが昔とは変貌しているのである。
ところでこの「スペードの女王」は、マリインスキーが日本に持って来たプロダクションとしては、3つ目のものだ。最初はテミルカーノフの演出版(1993年の来日公演)、次がアレクサンドル・ガリービンの演出版(2000年の来日公演)。
今回のは、2015年に制作されたアレクセイ・ステパニュクの演出になる舞台である。衣装(イリーナ・チェレドニコワ)こそロシア皇朝時代の華麗なものだが、その他の写実的な要素は一切排除し、どちらかと言えば象徴的なスタイルを採る。
細かい演技を見せるのは、極端に言えば士官ゲルマン(ミハイル・ヴェクワ)と恋人リーザ(イリーナ・チュリロワ)のみだ。老伯爵夫人(アンナ・キクナーゼ)も、ゲルマンの友人たちのトムスキー伯爵(ウラディスラフ・スリムスキー)やエレツキー公爵(ロマン・プルデンコ)らも、みんな影のように動く。まして街路を歩く群衆や、パーティの客人たちや、賭博場で騒ぐ連中などは、全て背景の舞台装置の一環のようにしか設定されていない。
さらに注目すべきは舞台装置(アレクサンドル・オルローフ)の一つ、12本ほどの大きな円柱で、これは頻繁に舞台全体を移動し、巧みに場面を構築する。例えばリーザとゲルマンが初めて愛を交わし合う場面では、音楽の高まりとともに、邸宅の居間を構築していたこの円柱群が激しく移動して視界から消え、2人が広い空間に解放されたことが表わされる。良いアイディアであろう。
もう一つのポイントは、冒頭の序奏の間に1人の少年がカードで組み立てた城のようなものを弄び、1人の女性から3枚のカード(3、7、エース)を与えられるというシーンがあり、そしてラストシーンでは賭けに敗れた後に舞台前方に蹲るゲルマンの目を少年が優しく閉じてやる━━もしくは執念から解き放ってやる━━というシーンが設定されていることである。
これは、さながらこの物語が、少年の一場の夢か、あるいはゲルマンの果敢ない幻想に過ぎないものだったのか、と疑わせるような効果を生み出していたのではないか。
ゲルマンがト書きのように「自殺」しなかった設定は、あるいはプーシキンの原作をイメージしたのかもしれない(原作では、ゲルマンは精神病院に入る)。そういえば、この演出ではリーザもト書きのように運河に身投げする設定ではなかった(原作では、リーザはのちに幸せな結婚をすることになる)。
全体として、よくまとまったプロダクションということが出来よう。前回のガリービン演出版よりは、完成度が高いと思われる。
チャイコフスキーのオペラ「スペードの女王」━━全曲冒頭、あの「第5交響曲」第1楽章第1主題と全く同じリズム動機を持つ愁いを含んだ序奏を聴くと、初めて真冬にロシアに行った時に見た光景が美しく蘇って来る。
深い雪に包まれた街路、訪れた音楽団体の事務所に暖かく置かれていた優美で豪華な姿のサモワール・・・・。
その雰囲気を一番気持快く思い出させてくれるのが、ワレリー・ゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団の演奏なのだ。
そのゲルギエフとマリインスキー管、今回は練習不足だったのか、アンサンブルがずれたり、金管が時々飛び出したりすることはあったけれど、全体としてはきれいな音を出した(聴いた席は1階19列)。
1992年暮に初めて現地で聴いた時のような暗い色合いの音は既に全く失われ、今や透明で澄んだ音色が主体のオーケストラになっている。それも時代の変遷を物語るものだろう。何より、ゲルギエフ自身の音楽そのものが昔とは変貌しているのである。
ところでこの「スペードの女王」は、マリインスキーが日本に持って来たプロダクションとしては、3つ目のものだ。最初はテミルカーノフの演出版(1993年の来日公演)、次がアレクサンドル・ガリービンの演出版(2000年の来日公演)。
今回のは、2015年に制作されたアレクセイ・ステパニュクの演出になる舞台である。衣装(イリーナ・チェレドニコワ)こそロシア皇朝時代の華麗なものだが、その他の写実的な要素は一切排除し、どちらかと言えば象徴的なスタイルを採る。
細かい演技を見せるのは、極端に言えば士官ゲルマン(ミハイル・ヴェクワ)と恋人リーザ(イリーナ・チュリロワ)のみだ。老伯爵夫人(アンナ・キクナーゼ)も、ゲルマンの友人たちのトムスキー伯爵(ウラディスラフ・スリムスキー)やエレツキー公爵(ロマン・プルデンコ)らも、みんな影のように動く。まして街路を歩く群衆や、パーティの客人たちや、賭博場で騒ぐ連中などは、全て背景の舞台装置の一環のようにしか設定されていない。
さらに注目すべきは舞台装置(アレクサンドル・オルローフ)の一つ、12本ほどの大きな円柱で、これは頻繁に舞台全体を移動し、巧みに場面を構築する。例えばリーザとゲルマンが初めて愛を交わし合う場面では、音楽の高まりとともに、邸宅の居間を構築していたこの円柱群が激しく移動して視界から消え、2人が広い空間に解放されたことが表わされる。良いアイディアであろう。
もう一つのポイントは、冒頭の序奏の間に1人の少年がカードで組み立てた城のようなものを弄び、1人の女性から3枚のカード(3、7、エース)を与えられるというシーンがあり、そしてラストシーンでは賭けに敗れた後に舞台前方に蹲るゲルマンの目を少年が優しく閉じてやる━━もしくは執念から解き放ってやる━━というシーンが設定されていることである。
これは、さながらこの物語が、少年の一場の夢か、あるいはゲルマンの果敢ない幻想に過ぎないものだったのか、と疑わせるような効果を生み出していたのではないか。
ゲルマンがト書きのように「自殺」しなかった設定は、あるいはプーシキンの原作をイメージしたのかもしれない(原作では、ゲルマンは精神病院に入る)。そういえば、この演出ではリーザもト書きのように運河に身投げする設定ではなかった(原作では、リーザはのちに幸せな結婚をすることになる)。
全体として、よくまとまったプロダクションということが出来よう。前回のガリービン演出版よりは、完成度が高いと思われる。
12月1日日曜公演で、ポリーナが、セルゲーエワ予定が、マトーチュキナに変更されてます。冒頭に児童合唱があり、サンクトペテルブルクから子供達を連れて来るのかと思ったら、杉並児童合唱団と来た。ロシア人の母親達が、日本人の子供を引き連れるのは、ギャップがあって面白かったが。
2幕のパストラルプレイも各幕のアリアも纏綿たるところはなく、引き締まった音楽が、終幕の悲劇まで引っ張って行く。最後は東条先生言われるように、突き落とすまでは行かない設定だが。チャイコフスキーとしては、一風変わっているので、一般には馴染みにくかったかも。私も全曲版を何回か通したが、慣れるまで時間が掛かった。