2024-03

2019・3・10(日)Memory of Zero 

    神奈川県民ホール 大ホール  3時

 「一柳慧×白井晃 神奈川芸術文化財団芸術監督プロジェクト」としてのダンス公演。
 構成と演出を白井晃、音楽監督を一柳慧、振付を遠藤康行。
 演奏が板倉康明指揮の東京シンフォニエッタ、ピアノは一柳慧と藤原亜美。
 ダンスは小池ミモザ、鳥居かほり、高岸直樹、引間文佳ほかアンサンブル。
 第1部が「身体の記憶」、第2部が「最後の物たちの国で」(ポール・オースター原作、柴田元幸訳、白井晃のナレーション付)と題されている。

 大ホールを会場としてはいるものの、われわれ観客は通常の客席ではなく、舞台奥に階段状に特設された席に座らされ、舞台の「前方」いっぱいに展開されるダンスを奥の方から鑑賞するという形だ。オーケストラは舞台下手の袖の位置に配置されているが、第2部の最後の部分で一柳慧が弾くピアノだけは、上手側に置かれている。

 なお、その階段状の客席には柔らかいクッションが1人分ずつ置かれており、座り易いのは確かだが、私のような年齢と身体状態の者にとっては、背もたれのない場所に2時間も動かずに座っていることが如何に「よろしくないこと」かを実感させられる羽目になってしまった。「自由席なので、休憩時間に他の席に移動し、違った角度からダンスをお楽しみ下さい」との触れ込みなのだが、なんせぎっしりの満席状態では、「他の席」に移りようもないのである。

 音楽は、第1部では一柳慧の「レゾナント・スペース」「タイム・シークエンス」「リカレンス」が使われ、第2部では彼の「交響曲第8番「リヴェレーション2011」(室内オーケストラ版)及び「水炎伝説」の一部、それにバッハの「パルティータ第2番」からの「サラバンド」、ベートーヴェンの「葬送ソナタ」第3楽章が使われていた。

 特に一柳の「第8交響曲」は、あの「3・11」の意識が投影されているという作品だけに、破壊・荒廃・暴力・破滅を激烈に描くこの「最後の物たちの国で」の物語と、これ以上はないほど完璧に合致する。一方、その中に混じって聞こえて来るバッハとベートーヴェンの音楽は、不思議なほどに束の間の安らぎや、仄かに見える希望のようなものを感じさせて、これまた実に効果的なのである。
 今日この頃の世界情勢を思えば、これまでにないほど現実味を帯びて感じられるようになって来たこのストーリーと音楽に、異様な恐怖感を覚えてしまったのは私だけだろうか? 
 一柳慧が静かに弾くピアノにダンサーたちが救いを求めるように集まり、物語が溶暗の中に終って行く時、遥か彼方の2階席後方にたった一つ開かれたドアから眩しい光が希望の象徴のように差し込んで来る、という演出は、見事なものだった。

 アフタートークが一柳、白井、遠藤、小池という顔ぶれで行なわれる準備が整いつつあったようで、これも是非聞きたかったところだが、前述の通り、悪い姿勢のまま座っていたのが災いして、両腕にも軽い痺れを感じるという状態に陥ってしまったので、残念ながら聞かずに失礼した。脊椎の所為だか何だか判らぬが、厄介なものである。

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