2019-07

2019・3・3(日)ワーグナー:「ジークフリート」2日目

      滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール  2時

 今日のキャストは、ジークフリートをクリスティアン・フォイクト、ブリュンヒルデをステファニー・ミュター、さすらい人(ヴォータン)をユルゲン・リン、ミーメを高橋淳、アルベリヒを大山大輔、ファフナーを斉木健司、エルダを八木寿子、森の小鳥は昨日と同じ𠮷川日奈子、助演の熊も同様に小嶋卓也。

 京都市交響楽団は、予想通り、昨日とは格段の差、「良い時の京響」らしい出来を示した。特に弦の厚みはこのオケならではのもので、第3幕のみならず、その前の2つの幕でも瑞々しい響きを聴かせてくれた。福川伸陽の「角笛」も快調である。

 ところが好事魔多し。今日のジークフリートが、いかにも弱い。深窓の令息(?)とでも言ったような雰囲気で、綺麗な声なのだが、「恐れを知らぬ英雄」としての力強さが、まるきり乏しいのである。
 第1幕最後の鍛冶の場での声のおとなしさはもどかしいほどで、これでは大蛇ファフナーを斃すのも覚束なく、もしかしたら返り討ちに逢ってしまうんじゃないか、ストーリーを変えざるを得ないんじゃないか━━とまで思わせる頼りなさ。

 それでも何とか予定通り大蛇を退治したものの、第3幕でのヴォータンとの対決場面、続くブリュンヒルデとの長大な二重唱では、それぞれ相手がパワー充分の歌唱を聴かせただけに、それと張り合うには何とも分が悪く、声量のバランスの悪い状態になってしまったのである。昨日のクリスティアン・フランツはやはり凄かったよなあ、というのが、われわれロビー雀たちのさえずりであった。

 ブリュンヒルデのミュターは、昨日の池田香織のまろやかな美しい声と正反対に、ダイナミックな輝かしい声で最後の場面を飾った。
 ミーメの高橋淳はいかにもこの役らしい芝居巧者の歌唱表現と演技で、要領の悪い小人の鍛冶屋を見事に表現していた。だが、それでもやはり昨日のホフマン同様、あまり哀れっぽくて騒々しいキャラクターとしてこのミーメを演じていなかったのは、ハンぺの演出上の注文だったのだろうか? 

 一方、ユルゲン・リンのさすらい人は力感充分ではあるものの、第3幕のエルダとの場面では、声も表情も荒々しく、かなりやくざっぽいヴォータンという雰囲気になってしまっていた。ヴォータンをガラの悪い権力指向の大親分として描く演出もないではないが、少なくともこのハンぺ演出はトラディショナルな、神がまだ神としての尊厳を失っていなかった時代のヴォータン像を求めているスタイルのもののはずであり、その意味ではもう少し気品と威厳をこめて歌ってもらいたかった、と思う。
 ただし見方を変えれば、この場での歌い方は、ワーグナーが巧みに描いているヴォータンの自暴自棄的な心理状態を、極度に強調したものだった、とも解釈できるのである。その他の場面では、これほどまでに荒っぽい歌い方はしていなかったからだ。

 沼尻竜典の指揮は、正確で緻密である。オーケストラが昨日と違って好調さを取り戻していただけに、特に第3幕を中心として、作品本来の力強さを蘇らせた演奏をつくり出していた。このツィクルスで、これだけ京響が見事な演奏を聴かせる要因の一つには、やはり沼尻がこのびわ湖ホールのアコースティックを熟知して、ピットでオケをバランスよく鳴らすコツを心得ていることも挙げられるだろう。

  ただし、沼尻のテンポは、昨日と同様、遅い。その遅いテンポは、時として作品の昂揚感を薄めさせてしまう傾向もなくはない。特に幕切れの頂点に向かって音楽が昂揚に次ぐ昂揚を重ねて行くはずの個所でも、テンポが抑制されているため、ワーグナー特有のデモーニッシュな熱狂が今一つ薄く、聴き手の側でも興奮に駆り立てられる度合いが低くなってしまう━━という感もあるのだ。
 もともと沼尻は、クールな音楽構築を特徴とする指揮者だった。それゆえ、この「指環」におけるこのような演奏も、指揮者の個性の為すところなのであり、あとは、聴き手の好みの問題である。

 かくして、来年はいよいよ「神々の黄昏」だ。

コメント

来年もこの演出かと思うと…

私は、この演出には批判的です。来年もまたこんな舞台を見ることになるのが確実というのも勘弁してほしい気もしますが、四部作として契約してるんだろうから如何ともしがたいでしょうね。ト書きに忠実で音楽を邪魔しない舞台ということで歓迎する向きも多いとは思いますが。

二日連続で観た人も少なくないようで、たぶん同じ人たちがブーイングを飛ばしていたのでしょう。演出のミヒャエル・ハンペと美術・衣裳のヘニング・フォン・ギールケを狙い撃ちというのも同じでした。執拗すぎるブーイングはどうかとも思いますが、この程度だったら客席からの評価としては妥当なものだと思います。これぐらいの意思表明をしなくては、劇場が活性化しないですから。

もうこの人たちは過去の人だと思います。音楽を邪魔しないでドラマの本質を訴える演出こそ重要というような、ハンペが著書に書いていることは妥当だし同意できるところが多いのですが、その実践がこれかというのが正直なところです。

確かにト書きには忠実です。ノートゥンクの鍛造にしても、音楽で表現されている工程を丁寧に辿っています。剣を叩けば火花まで飛び散るし、焼き入れをするとジュッと蒸気が噴き出します。そんなことをやるものだから、完成した剣を素手で掴むアホらしさが際立つのです。どだいわずかな時間で砕けた剣を復元することなど無理なのに、ヘンにリアリスティックにやろうして足を掬われています。

森の小鳥の稚拙なCGは無残。この高齢の人たちには最新テクノロジーへのキャッチアップを期待できないし、欠けているものを補う優秀な技術スタッフもいないのだと推測します。その結果が中途半端な映像や装置になっています。具象化につとめた大蛇ファフナーも滑稽。尻尾だけが舞台上を動き、ジークフリートに巻き付いたりするのに、ノートゥンクを突き立てる頭部から心臓のあたりがはっきり見えることはない。なんだこりゃ。

終幕に関しては、何をかいわんやという感じ。エルダが迫り上がってく装置はまるで掘建小屋だし、第3場の岩山は明らかに男性器を模したもの、幕切れには星屑のようなものが紗幕に飛び散り、挙げ句に赤く染まる映像という始末。音楽とドラマに即したものと言えなくもないですが、才気を感じるものではないし、あまりに単純な発想じゃないのかなと思います。

まあ、好き勝手言うのは金を払っている観客の特権だし、もう三作まで来たのだから、あと一つ付き合うしかないかと諦めます。来年はやはり舞台が見えない安い席がいいかなと思う次第。

そんなに演出が気にくわないならわざわざ観に行くことはないのにと思います。私は演出家のマスターベーションで音楽が邪魔される公演ばかりでうんざりしているので干天の慈雨といった思いで観ました。ただ、最新の技術をもってすればCGの動きはもっと自然にできるはずなので来年は是非改善を期待します。

演出家の名前を見れば、「ト書きに忠実」系か、「マスターベーション」系wwwかはある程度予想が付くはずです。
演出(の方向性)が「金返せ!」となるほどにイヤなのであれば最初から行かなければいい…というのはどちらの陣営にも当てはまることですよね?w
が、観た上であれこれ喧々諤々と議論するのがオペラを観る楽しみの一つだと思っているので、個人的にはブーイングやボロカス批評も大いに楽しんでいます。

今回のハンペ演出ですが…
もちろん方向性はわかっていましたが、古臭さとダサさは予想以上でしたので、私個人はおじいちゃんに向かってブーインしなかったものの、心の中では近隣のブーイングおじさんに思いっ切り賛同していましたw

ブーイングおじさんは去年もいたし、来年も来るのでしょう。1万円以上のチケットを買い、5時間座って最後に「俺はわかってるんだ」とアピールするかのようなブーイング。もしかして遠方から来てるのかも知れません。
「ワグネリアン」という言葉に微妙に揶揄するようなニュアンスを感じるのも、致し方ない気がします。

おかしなブー

ハンペは依頼され、そしてその依頼には十分応えていたでしょう。最後になるだろうリング演出であり、彼としては渾身のものとなっていたのではないでしょうか。
手抜きとかしてなかったら、ブーはやはりおかしい、筋違い。前衛的とか、異常な読み替えでもない、伝統的な演出でブーはないでしょう。面白くはなくても、ハンペはちゃんと仕事はされた。
ああいう演出に不満ならば、アンケートに書くとか、企画したホールに直接言うとか、採用した沼尻監督のカーテンコール時にすればいい。
なお、2日目の題名役に不満のあった人が少なからずいたが、ハンペにブーを飛ばしても題名役には彼等はブーをしなかった。何かとても非常に不自然に感じた。
何かの「かぶれ」のようなああいうどうしようもないのはある一定数はどうしてもいるが、しかし敢えて言うと、本当にもう少し勉強して欲しい。
追加
今年のプログラムは素晴らしかった。東条先生の解説は面白くかつ冴えていたし、そしてハンペさんの論稿も大変読みごたえがありました。

 この公演は見ていないので詳しいコメントはできませんし、ワーグナーは詳しくないのですが、ドイツの人々にとっても、彼の作品は言葉やその繋がりが元々難しい、とのことなので、公演の度に意見も多く飛び交いやすいのでしょう。演出も、廻り舞台などの装置を様々に駆使しても難しい部分が本質的にあるかもしれません。
 いずれにせよ、オペラの場合、まずは音楽、歌唱なので、演出が音楽、歌唱を邪魔せず、歌手を引き立たせる努力が、まず大切だと思うのですが、その辺りはいかがだったでしょうか。例えば歌舞伎(廻り舞台は大阪道頓堀の歌舞伎が発祥です。)や能楽などの場合は、演出は長年の上演を通して殆ど決まっている演目も多く、そうした定まった範疇で、役者個々のの台詞回し、演技の切れや絶妙な間合いなどの良し悪しを比較し、鑑賞してゆくわけですが、オペラの演出の場合でも、歌手個々が定められた歌唱をどう歌うか、ということに加える形で、歌手が役柄に適した細かい演技の幅、美しさ、工夫を見せられる余地があるかどうかが大切なのだと思います。
 日本の若手の人気演出家の中には、残念ながら、やたら多くの動きを歌手に要求したために歌手の息が上がってしまって歌唱に悪影響が出たり、序曲の時から群集をバタバタ動かして、音楽の鑑賞に支障が出るのを無視しているのに、メディアや主催者が過剰な評価をしている例があります。また、やたら大きく、変にこだわりのあるセットを作って、超一流とされている人もあるように思います。先日、北欧の劇場で、世界的(といわれる)演出家が解任される事件がありましたが、彼がどの程度、音楽そのものや演奏家をリスペクトしていたのか、というところには、報道を見聞する限りでは?マークがつくのかもしれません。歌手個々の持ち味や音楽の内容を引き立たせているか、この有無が古典的な演出でも、前衛的な演出でも大切なように思います。
 一方で聴衆の側も演出を考えるにあたっては、ある程度のオペラ鑑賞歴だけでなく、東条先生のように、良質な演劇の鑑賞をコンスタントに続けていることも必要だと思われます。筆者も主観的かつ手前味噌で恐縮ですが、古典演劇に加え、新派、文学座、前進座、民芸、昴、四季…など代表的劇団の鑑賞が、ある程度、オペラ鑑賞の役に立っていると感じています。ブーイングの方も、オペラだけでなく、どれ程の芸術的バックヤードをお持ちなのかは少々問われるところでしょう。
 また、ブーイングとは逆に、来る度にうるさいブラボーを見境無く連発し、時にフライングを犯して、多くの人に迷惑をかけている人物も複数見受けられます。10年ほど前、都内のホール(1000人以下)でお互いに「あなたのブラボーはうまかった」などと、ブラボーを叫ぶこと自体を快感として来場しているらしい団塊の世代のグループに対し、注意したことがあるのですが、こうした人々を、主催者やホールはしっかりと把握し、対処をお願いしたいところです。

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