2019-05

2019・1・26(土)オペラ×ダンス 「ドン・ジョヴァンニ」

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 早稲田大学オープンカレッジのオペラ講座(今日は「復讐と殺人の美学」という物騒なテーマ)を12時10分に終講。午後1時には東京芸術劇場に入る。
 早すぎたので、1階でお握りを2個買い、建物の外で行き交う人々や車を眺めながら立ち食い。この「吾ん田」という店のお握りは、種類も多彩で、ヒューマンな温かみがあり、味も壮麗で魅力的だが、単に球形に纏めただけという感のある柔らかい構築なので、片手のみによる立食形式には必ずしも適していない。

 お握り評論はともかく、今日は「東京芸術劇場シアターオペラVol,12」の、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」(セミステージ形式上演)の初日だ。
 総監督と指揮を井上道義、オケは読売日本交響楽団、演出と振付を森山開次、照明を櫛田晃代。歌手陣はヴィタリ・コシュマノフ(ドン・ジョヴァンニ)、三戸大久(レポレッロ)、高橋絵里(ドンナ・アンナ)、デニス・ビシュニャ(騎士長)、鷲尾麻衣(ドンナ・エルヴィーラ)、金山京介(ドン・オッターヴィオ)、近藤圭(マゼット)、小林沙羅(ツェルリーナ)、東響コーラス━━という顔ぶれ。

 今回は、ステージ中央に浅いオケ・ピットが設置され、演技空間は舞台前方および後方の階段を含めた特設舞台に設定されていた。この配置で演奏したオーケストラは、音がまとまってバランス良く響き、かなりの音量で鳴りわたっても歌手の声をマスクすることはない。
 また、舞台装置にも工夫を凝らしたのだろうか、これまでのこのホールでのオペラ上演におけるような、歌手の声がワンワン響き過ぎるという不具合(本来ここはコンサートホールなのだから、普通の場合はそれが長所になるわけだが)も消えていた。少なくとも、私が聴いた2階席正面最前列からは、そういう印象を得た。この巧みな吸音処理をついに実現させたことには、敬意を表したい。

 さて、本作の大きな特徴の一つは、森山開次によるダンスの挿入だった。ダンスは、近年の欧州のオペラ演出でも少なからず見られる手法である。そして、今回の舞台でも、音楽の視覚化という面において、これが大いに効果を発揮していたことは疑いの無い事実であろう。
 ドン・ジョヴァンニが闊達に己の信条を歌う「シャンパンのアリア」で、舞台が瞬時に明るく輝き、ダンサーたちが一斉に乱舞する手法は成功していたし、モーツァルトの音楽の明快なリズム感がいかにダンスとよく合うかをも実証していた。また第1幕フィナーレの中で、オッターヴィオ、アンナ、エルヴィラが重苦しい復讐の三重唱を繰り広げる時、背景で当のドン・ジョヴァンニが女性たち(ダンサー)にかしづかれている、といった「対比の光景」も面白いアイディアだった。

 ただ、それらのダンスは、もっと徹底的にドン・ジョヴァンニら登場人物の心理を視覚的に表現するのかと思っていたのだが、必ずしもそうでもないらしかった。実際にはあったのかもしれないが、私にはあまり明確には感じられなかったのである。
 「地獄落ち」のような超自然的な場面では、さらに強烈な、全曲のクライマックスに相応しいスペクタクルなダンスが展開されるのかと期待したが━━たしかにそこでは、悪鬼に扮したダンサーたちがジョヴァンニを赤いベルトで絡み、劫火に包む様子が描かれてはいたが、それはさほど目新しい趣向でもなかっただろう。
 とはいえ今回のダンスが、あのベルリンとスカラで上演された「指環」での、悪名高いギイ・カシアスの演出ほどにはしつこくなかったのは有難い。

 その一方、登場人物の演技という面では、演劇的要素には乏しく、さりとて様式的なものでもなく、やや中途半端なところもあった。ダンスの専門家が手がけた演出の、これが限界ともいうべきものだろうか。
 だがその中で、全曲の幕切れのシーンで「悪事の果てはかくの如し」とばかり、女性3人が男3人に引導を渡すかのような行動に出るというアイディアは、興味深かった。

 もう一つの特徴は、日本語上演である。敢えて日本語上演にしたのは井上道義の意向のようだが、相変わらず大半の歌手は、歌詞が聴き取れない。明確に聞こえたのはツェルリーナの小林沙羅、次いでマゼットの近藤圭くらいか。
 他の2人の女声歌手に至っては、字幕を見ない限り、歌詞が全く理解できぬ歌唱だったのである。これでは、わざわざ日本語歌詞にした意味は無いに等しいだろう。

 昔は日本語上演も多かったし、私たちもさほど違和感なく聴いていたものだが、字幕付き原語上演に親しむようになった現代では、やはり違和感がある。
 それは、歌詞と音楽とはもともと一体になったものであり、洋楽に日本語を無理に当てはめると、音楽そのものの流れがどうしても不自然になってしまうからだ。

 たとえば外国人2人の日本語歌唱(それ自体は上手い日本語だったが)に聞かれたように、日本語特有のなだらかな発音が、音楽そのものをもメリハリのないものにしてしまっていた。それはドン・ジョヴァンニの性格をも、奔放な自由主義者とか、破天荒な反逆児とかいったものでなく、何かヌメッとした、単なる女たらしのような存在に変えてしまったという結果を招いたのではないか? コシュマノフの意外な音程の悪さ(「セレナーデ」の個所など、唖然とさせられるほどだったが)も、このなだらかなリズムに慣れなかったせいだったのではないか?
 むしろ、いちばん日本語を明確に歌っていた小林沙羅の方がはるかにメリハリのある音楽をつくっていたように思えたのである。

 井上と読響の演奏は極めて確信的で、序曲冒頭のニ短調のドラマティックな第一撃からして緊迫感にあふれていた。モーツァルトの音楽の精緻なニュアンスへの配慮とともに、その力と量感、明朗さや魔性的な性格なども併せ再現した、シンフォニックな快演だったといえよう。
 第1幕の終り近く、「3つの階級」の者たちによる3種の舞曲が同時に響く有名な個所では、オケ・ピットの中でそれぞれが際立つように演奏されていたのも印象的だった。アンサンブルなどの細部にはオヤと思わせる個所もないではなかったが、そんなものは2回目の上演の際には解決されているだろう。
 ともあれ今回の演奏は、声楽とのバランスを含め、以前のプロダクション「フィガロの結婚」の時の演奏を、格段に上回る出来だったと言っていい。

 ただし全曲大詰め、「地獄落ち」のあと、人々が出て来るアレグロ・アッサイの部分を全部カットし、いきなり最後のプレストに飛んだのは、いかがなものだろうか? 
 確かにあのアンサンブルの個所は、「家に帰って食事しよう」だの、「新しい主人を探そう」だのという歌詞に見られるように、妙に日常的な要素が突然加わって来るという点で、ドラマの上で違和感がなくはない。
 その一方、このオペラの所謂「ウィーン上演版」は、地獄落ちの場面で終ることになっているが、そうするとザルツブルクのクラウス・グート演出のように、何となくちょん切れの印象にもなってしまうのも事実だろう。となれば、今日の上演でのやり方は、いわばプラハ版とウィーン版との折衷版とでもいうことになるか? 
 まあ、私としては、これについては「何だかなあ」という気持を抱いたままでいるほかはないようである。

 5時半頃終演。明日のびわこホール「ジークフリート」入門講座第2回講演に備えるため、直ちに品川駅へ向かい、6時27分の新幹線に乗り、夜9時頃には琵琶湖ホテルに入る。こちらは雪が降り続いていて、凄まじく冷える。明日の聴講の申込人数は160人とのこと。熱心なお客さんが本当に多い。

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