2021-06

2018・11・25(日)東京二期会 モーツァルト:「後宮よりの逃走」

      日生劇場  2時

 22日からの連続4公演で、今日が千穐楽。
 今回はギー・ヨーステンを招いての新演出、ラモン・イヴァルスの舞台美術。

 ハーレムの浴場のシーンや、古代オリエント系のような黄金色の宮殿を見せたりするが、特に読み替えという種のものではなく、服装は現代風に設定。背広姿の太守はハーレムの美女(7人)を従えての闊歩だ。太守の宮殿の番人オスミンは、現代のガードマンの隊長であり、冷酷で無表情な警備隊が彼に従う。冒頭ではオスミン隊長とガードマンたちがベルモンテやペドリッロに殴る蹴るの暴行を繰り返すなど、暴力的な演技も散見される(これはヨーロッパの歌劇場では日常茶飯事のように行われる演出だが、私はこういうのだけは大嫌いである)。

 また、4人の若者が「愛」を知り、考える━━とかいう演出上の触れ込みになっているが、しかしこの舞台からは、それは必ずしも明確に伝わって来るとは言い難い。コンスタンツェとベルモンテはト書き通り愛し合っているようだが、ブロンデのみはこんな騒ぎに巻き込まれて迷惑極まりない(第3幕)という表情を続けていたので、この辺に捻りがあったのかと思われたものの、定かではない。
 いずれにせよこの演出は、このオペラで見慣れていた「異国風の喜劇」といった要素を一切排し、極めてシリアスなドラマとして再構築したものと言えよう。ただし太守が「復讐こそは無意味、大切なのは寛容と愛」と宣言するくだりで客席の照明を明るくし、賛同を誘うような演出が行なわれたが、このテは少々陳腐に感じられる。

 こういった演出に歩調を合わせるように、下野竜也は遅めのテンポを採り、聴き慣れたあの軽快な歌の数々においてさえ、弾むような快さを排除していた。これほど「後宮よりの逃走」の音楽が、所謂「楽しくない」演奏になっていたのを聴いたのは初めてだが、解釈としてはユニークで興味深い手法だと言えるかもしれぬ(マエストロみずからトライアングルを叩きながら走り回っていたネットの広告動画とはかなりイメージが違うようである)。
 とはいえ、音楽の瑞々しさや、モーツァルトが音楽を通じて巧みに表現しているはずの、あの生き生きした人間性表現までが失われた印象になっていたことは、残念である。もっともこれは、歌手たちの歌唱力の所為でもあったろう。

 その歌手陣はダブルキャストで、今日の出演は、安田麻佑子(コンスタンツェ)、宮地江奈(ブロンデ)、山本耕平(ベルモンテ)、北嶋信也(ペドリッロ)、斉木健詞(オスミン)という顔ぶれだった。
 この中では、経験豊かな斉木健詞のみが安定した味を出していたが、その他の若手の歌手たちは未だこれからだ。歯に衣着せで言えば、最近接した日本のオペラ公演の中では、最も歌唱面に不満を残した上演、と断じざるを得ないのである。

 歌わずに、セリフのみ喋るセリム(太守)役は、大和田伸也が全日出演していた。歌詞と台詞はドイツ語だが、セリムのみは日本語とドイツ語をチャンポンに喋る。その是非はともかくとしても、彼の台詞回しが極度にゆっくりで、しかも回りくどいため、第3幕での聞かせどころは著しく間延びしてしまっていたのは事実だろう。
 ただ、彼の台詞の発声がはっきり聞こえていたことには安心した━━実は遥かな昔、1966年にこの日生劇場で「ベルリン・ドイツオペラ」が「後宮よりの逃走」を上演した際、太守役に当時の世界的名優クルト・ユルゲンスが特別出演したのだが、発声の仕方が全く歌手と異なるため、声量が弱く聞こえ、セリムの凄みも何も皆無になって落胆したという経験があったので。

 オーケストラは、東京交響楽団である。考えてみると、このオペラの上演と同じ期間に浜松の国際ピアノコンクールでずっと演奏していたのも同じオケだった。大所帯の東京フィルならともなく、正団員数88名(2018年3月1日時点)の東京響までが2ヵ所に分かれて演奏することもあり得るのか。
 浜松と東京のどちらがどのくらいエキストラを多く入れていたのかは私の知る限りではないが、そういう状況を客観的に見て、両方とも高水準の演奏を保てるということは、俄かに信じ難い。浜松の方は、お世辞にもいい演奏だったとは言い難かった。こちら日生劇場のモーツァルトの方が、演奏もまとまっていたと思う。

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ニッセイオペラの使命は終わったか

最終日を鑑賞しましたが公演内容は東条先生のご意見に全く賛同します。
ここ数年のニッセイオペラのレベル低下は本当に残念です。上質な劇場空間で上質なオペラを鑑賞出来る喜びはニッセイオペラならのものでした。空席の目立つ劇場では気分も滅入ります。高いギャラ?を支払って大和田氏にご登場頂いた意味も不明、今更50年以上前のゼルナー演出と比較するのは野暮ですが、海外の演出家の招へいも、行かすも殺すも受け入れ団体次第、日本のエンターテイメントのリーダーとして果たした日生劇場本来の姿に立ち戻っていただきたいです。日本人演出家と豪華でなくても日生の舞台装置を最大限利用した舞台で楽しめる舞台作りをしていただき劇場出る時に微笑みを浮かべられる様な公演を願いたいです。

日生劇場で初夏に行われた藤原歌劇団の「ドン・ジョヴァンニ」公演においても、オーケストラ(東京シティフィル)はエキストラを入れて二分割され、同じ時間に別の場所でバレエ公演を請け負っていました。経営とクオリティとの間で、オーケストラも悩むところではありましょう。

誤解です

ばすひきさん

今年日生劇場で上演されたモーツアルトの四つの作品のうち、「魔笛」「コジ・ファン・トゥッテ」が日生劇場、「ドン・ジョヴァンニ」が藤原歌劇団、そしてこの「後宮よりの逃走」が東京二期会の主催でした。四つの舞台を観て歌唱レベルについて正直に言えば、「使命が終わった」のは日生劇場の方ではなかった気がします。

 日生劇場は今も普及公演や伝統芸能も含めて(歌舞伎の通し狂言の上演など)、意欲的に芸術機会を提供しているように思います。ただ、上記のご指摘の通り、オペラにおいては、日生に限らないと思うのですが、主催によってはキャスト、演出家の選定からまず問題があるように思います。ダブルキャストの内、一方は若い人を一応、オーディションで登用するが、結局、それっきりであとが続かない、もう片方はいつも大体、数十人の決まった人から…そんな傾向がある団体については、今後、多大な数の会員を抱えて、どうしてゆくのか、根本的な問題でもあると思います。
 これに加え、演出でも、斬新と騒がれるものの、結局、歌唱を無視した過剰な動きを歌手に要求したり、序曲の段階から音楽鑑賞に邪魔な雑音がうるさいほどドタバタ、ステージ上で歌手を動かそうとする演出家や、結果的に見た目、ネームヴァリューなどで目新しい演出家を招聘したり、やたらに暗くて見えない照明プランナーが変に、経歴などで過剰に評価されてきたことが、ここに来て(大声ブラボーや大きい拍手の愛好家の方々はともかく、)、理解ある聴衆の方々には手詰まり感を与えてしまっているのだと思います。良い演出家も多く活躍していますが、古典的な、一般的な芝居の手法からしっかり理解し、歌手や音楽の特性を理解して、その長所を最大限に生かすことのできる演出家を基本に立ち返って招聘してほしいと思います。

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