2020-05

2018・9・29(土)サイモン・ラトル指揮ロンドン交響楽団

     サントリーホール  2時

 日本ワーグナー協会の例会━━毎年恒例の「バイロイト祝祭報告」と時間がかち合い、土壇場まで迷っていたものの、結局「今のラトルとロンドン響」を更に見極めておきたいという欲求が先に立ってしまい、結局こちらを選ぶ。

 今日は今次日本公演の最終日。プログラムは、ラヴェルの「マ・メール・ロワ」、シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」(ソリストはジャニーヌ・ヤンセン)、シベリウスの「交響曲第5番」。
 これもまた、ラトルの本領を窺うには絶好のものではなかったか。

 ベルリン・フィル時代のラトルも、それはそれなりに実績もあったし、見事な演奏を何度も聴かせてもらったことは事実だ。が、いま彼の故国のオーケストラ━━このロンドン響との演奏を聴くと、ベルリン・フィルとの演奏の時には感じられなかった解放感と言ったらいいか、自由で愉し気な生気とでもいった雰囲気が感じられるのである。
 これに関して、プログラム冊子に掲載されている城所孝吉さんの「サイモン・ラトル、ベルリンでの16年━━そしてロンドンへ」というエッセイが実に興味深い。これまでベルリンやザルツブルク、エクサン・プロヴァンスなどで聴いて来たラトルとベルリン・フィルの演奏が、立派で風格に富むものではあったけれども、それは恰も巨岩のような、もしくは巨大戦艦のような厳めしさが目立ち、どこか自由さが感じられない、つまり━━敢えて言えば━━水と油のような組み合わせという印象が私には付いて回っていたのだが、その漠然たる思いを、裏面から明確に解き明かしてくれたような文章なのだ。

 さてそのロンドン響とのコンビだが、今日の演奏を聴くと、「マ・メール・ロワ」での、この曲にしては壮大なつくりではあるものの、豊麗で瑞々しく、しなやかで、あたたかみを帯びた表情、かつ終曲の「妖精の園」で最後の頂点へ昂揚して行く個所での自然さ、解放感のある息づきなど、いずれもラトル本来の闊達な感性が蘇っているような印象を受ける。

 あるいはシベリウスの「5番」での、テンポやや遅めに取り、時に大音響を轟かせながらゆっくりと大団円に近づいて行く演奏構築にも、ベルリン・フィルとの演奏とはまた異なった自由な寛ぎのようなものが感じられるのだが━━。
 ただ、この「5番」の最後の個所では、先日の「シンフォニエッタ」の終結部分と同様、今ひとつ強力な一押しが欲しいと思わないでもなかった。このあたりは両者の呼吸が今後さらに合って来れば解決できるだろう。

 シマノフスキの「ヴァイオリン協奏曲第1番」を、2日続けて聴く機会があったのは珍しい。ジャニーヌ・ヤンセンのソロの瑞々しさと併せ、これまた息づきの大きな演奏が繰り広げられた。大編成のオーケストラもかなりダイナミックに自己を主張したが、その発言がヤンセンの美しいソロを打ち消すことがほとんどなかったのは、さすがというべきであった。
 そして指揮者とソリストは、何度かのカーテンコールに応えたあと、ステージ後方のピアノの傍へ一緒に歩いて行き、ラトルが両手をメガフォンのようにして「ラヴェル!」と叫び、ともに演奏したのが「ハバネラ形式の小品」。これがまた実に色気のある演奏であり、ラトルの重々しい物憂げなピアノもなかなか雰囲気にあふれていたのである。

 シベリウスを堪能させてくれたあとのオーケストラのアンコールは、ドヴォルジャークの「スラヴ舞曲Op.72-7」で、これはちょっとそれまでの流れに沿わぬ選曲だった。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

ブログ内検索

お知らせ

●2007年8月以前のArchivesを順次、アップロード中です。併せてご覧下さい。
2007年8月
2007年7月
2007年6月
2007年5月
2007年4月
2007年3月
2006年8月
2006年7月
2006年4月
2006年3月
2005年12月
2005年8月
2005年4月
2005年3月
2004年4月

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」