2021-06

2018・7・18(水)東京二期会 ウェーバー:「魔弾の射手」初日

      東京文化会館大ホール  6時30分

 ペーター・コンヴィチュニーの演出。
 最新の演出ではない━━1999年のハンブルク州立劇場上演のライヴCDがART HAUS MUSICから出ている━━けれども、なかなかいい舞台に出逢わないこの「魔弾の射手」を、一捻りした解釈の演出で観られるのは、有難い。

 その演出に関しては、6月27日のドイツ文化センターでの彼のプレトークの項と、16日のゲネプロの項にも書いたことだが、今回は新機軸として女性に演じさせた悪魔ザミエルを、さまざまな姿で随所に登場させ、カスパルやマックスを操る行動を執らせるのが特徴だ。これは、コンヴィチュニーが「マクベス」で使ったのと同じ手法である。
 ただしその姿は、最初のうちは、悪魔に魂を売った者(カスパル)だけに視えるという設定。その部分だけ観れば、コンヴィチュニーはこのオペラを台本通りに、超自然的な物語として扱っていることになろう。

 第3幕では、魔弾が使われたという不祥事に激昂した領主がマックス追放を命じたところで幕を降ろしてドラマを「仮終結」させ、それを客席で観ていた「隠者」がたまりかねて割って入り、領主がそれに従い、再び幕を開けさせて物語の続きを始めるという手法が使われる。
 これもコンヴィチュニーがよくやるテだが、ここではあの「マイスタージンガー」や「コジ・ファン・トゥッテ」の時のような、音楽を「不当に」ストップさせることがなかったのが幸いだ。

 だがその背広姿の紳士然とした「隠者」が、森に住む高貴な老人というより、ビジネス魂胆のようなものが見え見えの男である━━というオチをはじめ、幕切れ場面がシャンパンだかワインだかのパーティになり、そこまでの超自然的な物語が、いきなり俗界の「こうもり」か「メリー・ウィドウ」の舞台のように変わってしまう━━というのも、コンヴィチュニーおなじみのシャレ。
 彼に言わせれば、これがこのストーリーの本質なのだ、ということになるのだろう。そういうコンセプトは、私は必ずしも好きではないが、しかし、理解はできる。

 演奏と配役は、アレホ・ペレス指揮読売日本交響楽団、二期会合唱団。
 ダブルキャストの今日は、片寄純也(狩人マックス)、嘉目真木子(その恋人アガーテ)、冨平安希子(従妹エンヒェン)、清水宏樹(狩人カスパル)、米谷毅彦(森林保護官クーノー)、大沼徹(領主オットカール)、金子宏(隠者)、石崎秀和(農夫キリアン)、大和悠河(悪魔ザミエル)、ナオミ・ザイラー(ヴィオラ奏者・悪魔)。

 ゲネプロ(16日)の時にも書いたことだが、アレホ・ペレスの指揮が速めのテンポで小気味よく、村人たちの活気あふれる精神を充分に描き出していた。これがドイツの指揮者だったら、弦のトレモロをもっと不気味に響かせ、ドイツ・ロマン派オペラの神秘性をより強く浮き彫りにしていたと思うが、まあそれは仕方がない。テンポをしばしば煽るため、合唱が時について行けぬように聞こえた個所もいくつかあったが、これは上演を重ねれば解決できる問題だろう。
 しかし、読響は、さすがに良かった。その安定したアンサンブルは、このオペラの音楽を安心して楽しませてくれたのは確かである。二期会合唱団も、第1幕と第3幕では━━「花嫁の合唱」を除き━━満足すべき出来だった。ただし「狼谷の場」では、精霊の合唱、魔王の軍勢の合唱ともに、些か頼りなかったのが惜しい。

 ソロ歌手陣に関しては、残念ながら、全体として、あまり満足できる段階には達していなかった、というのが正直なところだ。えらく荒い声で歌っていた男声歌手もいたし、声がさっぱり聞こえて来ない女声歌手もいた。この人ならもっと巧く歌えるはずなのに、と訝しく思えるケースもいくつかあった。何か屈託でもあったのか? 2回目の出番(21日)になれば、もう少しうまく行くのかもしれない。

 ゲネプロの項では書かなかったが、日本語のセリフ回しは、今回は明らかに失敗と思われる。
 せっかく音楽がいいテンポで進んでいるのに、セリフはテンポが遅く、間延びして、緊張感を失わせること夥しい。セリフ部分になると途端に雰囲気がだらけて来て、演劇的な効果をぶち壊してしまうのだ。
 とりわけ日本のオペラ歌手がよくやる、あの頭の天辺から出すような、歌うようなセリフの発声は、ドラマのシリアスな要素を失わせてしまう。特に女声歌手2人━━就中エンヒェン役の歌手のセリフ回しはその最たるものだろう。男声側でも、キリアン役の歌手にその傾向があった。しかも最後の「魔弾」が発射される直前にアガーテが叫ぶ「撃たないで!」の一言など━━それが幻想的な音響で響くのはもちろん構わないけれども━━そのセリフの不自然な間延びなど、聞いていて白けてしまうほどであった。

 ところが二期会に訊くと、このセリフ回しのテンポに関しては、全てコンヴィチュニーの指示によるものだったというから驚く。「なるべくゆっくり、間を取って」話せ、という注文だったそうな。
 コン様は日本語をご存じないのだから、それは無理だろう。それゆえ失礼ながら、セリフの演出においては完全に「失敗していた」と言わざるを得ないのである。
 「間を取ってセリフを言う」のも、歌手陣はあまりうまくできていない━━日本人スタッフがちゃんと演出すれば、最近の歌い手さんたちなら、できるはずなのだが・・・・。今日、それが一番まともに聞こえたのは、宝塚出身の大和悠河だけだったというのも、なさけない話である。但し、第3幕アタマで、PAから流れるマックスとカスパルの対話は緊迫感があって、ここだけはよかった。思うにみなさん、多くの部分では、コン様から要求される演技との絡みを意識して、ぎこちなくなっていたのかな、と。

 第2幕のあとの休憩を含め、終演はほぼ9時半。
    (別稿)モーストリー・クラシック10月号 公演Reviews

コメント

コンヴィチュニーの「魔弾の射手」はハンブルクで観ました(あれはいつだったろうと日記をひっくり返したら2005年4月でした)。私は前から2~3列目に座っていたのだと思います。前半は私の隣は空席だったのですが、後半はスーツを着た大柄の男性が座りました。その男性が途中からドラマの進展につれて身を乗り出したり、立ち上がったりと、ドラマに没入している様子。そして東条先生がお書きになっている第3幕の例の箇所で、朗々と声を張り上げたとき、私は初めてそれが隠者だと分かりました。その声の見事だったこと。背筋がゾクゾクしました。たしかミヒャエル・フォルだったと思います。指揮はメッツマッハーでした。

意外と楽しめました。

暑中お見舞い申し上げます。

小生は21日の公演を拝聴しました。コンヴィチュニー演出ということで、心の準備をして伺いましたが(笑)、思っていたほどの違和感、抵抗感はなく、場面によってはシンプルな舞台を美しいと感じるなど、それなりに楽しませていただきました。

マックス永久追放となって一旦幕が閉じ、隠者がそれを押しとどめて公演が再開されるという演出も、ストーリーの流れからして許容できるものと思いました。少なくとも、先日の新国立劇場のフィデリオのように原作と全く異なる結末とすることに比べると、はるかに原作への敬意を感じられるものだったかと(くどいようで恐縮ですが、小生は、あのカタリーナ・ワーグナーの演出を「もしベートヴェンが現世に生きていたならどうだったか」という論点で正当化するということにはどうしても与しえない(原作者への冒涜という感じもする)次第でありまして・・・)。

ただ、歌手は全体的にスケールが小さく(最近、新国立のフィデリオ、トスカとワールドレベルの歌手の迫力ある歌唱に接したばかりだったことも作用したかもしれません)、また、音楽の流れ・構成もウェーバーの美しい音楽を心ゆくまで堪能できたというレベルにはちょっと至らなかったかと。そして、宝塚出身女優の起用については、(東条先生が番外編でコメントされた「クロスジャンル」のメリットを理解しないわけではありませんが、)個人的には、やはりいらなかったなぁ、という感じがしております(宝塚ファンの皆様スイマセン)。

まだまだ猛暑が続きそうです。熱中症注意でご活躍ください。

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