2018-10

2018・5・24(木)新国立劇場 ベートーヴェン:「フィデリオ」(2日目)

      新国立劇場オペラパレス  2時

 バイロイト祝祭総監督のカタリーナ・ワーグナーによる新演出。
 今日は2日目のためご本人はいないので、ブラヴォーもブーイングもそこそこの量だったが、初日は演出家へのブーイングが大爆発したとのこと、その反応の大きさに、彼女も「してやったり」という表情でご満悦だったという。
 欧州のオペラ界では、ブーイングは演出家の勲章と言われる。観客が賛同とともに不賛同をも熱心かつ明確に(音として表わさなければ判らない)表明してくれることは、その演出が真剣に受容され、喧々諤々の議論の対象となった証明だからである。

 ともあれこの「フィデリオ」は、新国立劇場としては異例の、非常に刺激的なプロダクションであり、欧州オペラ界の動向を一つの具体例としてわが国に示すという意味でも、意欲的な上演だったと言い切って間違いはない。

 マルク・レーラーによる舞台装置は、およそ3層に分けられた構造で、最上層はマルツェリーネやヤキーノが仕事をしている普通の階(但しドン・ピツァロの居間のような中2階もある)で、その下にフロレスタンの幽閉されている地下牢があり、それは第1幕からずっと見えている。その他多くの囚人たちがいる最下層は必要に応じエレベーターで上下する仕組だ(「危険囚」フロレスタンよりも一般囚人たちが深い地下牢に入っているというのもおかしいが)。

 さて、この舞台で展開されるドラマだが━━開演前にプログラム冊子に掲載されているダニエル・ウェーバーの「ドラマトゥルグ」を読めば、世界のオペラ上演に詳しい愛好家であれば、どんな演出になるか大体見当がつくというものである。
 第1幕では、フロレスタンが地下牢で妻レオノーレ=救済の女性の絵を壁に書き続けていることや、ドン・ピツァロの部下の兵士たちが著しく暴力的であることなどを除けば、一般の演出とそれほど大きく異なるものではない。

 だが第2幕では、原作の台本と全く異なった様相を呈する。ロッコが、フィデリオが女性であり、フロレスタンが壁に書いていた女性に酷似していることにいち早く気づいてしまうのはともかくとして、悪役ドン・ピツァロがフロレスタンとレオノーレを刺殺し、彼らを地下に埋めてしまうだけでなく、大臣ドン・フェルナンド(多分本物の大臣ではない)と手を結び、自ら亡きフロレスタンに化け、素性の知れぬ女(ピツァロの情婦か?)を偽物のレオノーレに仕立て、一同の前で釈放されるふりをする━━というのだから、話は甚だややこしい。

 恋人フィデリオの奇怪な変貌に疑念の目を向けるのはマルツェリーネのみだが、そんなことには誰も頓着しない。
 そもそも、フィデリオの素顔(レオノーレ)など、誰も知らないのだ。また、フロレスタンの顔を知っているのは妻レオノーレと大臣だけである。その妻が既に殺されており、大臣が偽物だったら、あるいは大臣が本物だったとしても、長い幽閉生活のため変わってしまったであろうフロレスタンの顔が識別できなかったら・・・・?

 しかも幕切れ寸前、「偽フロレスタン」と「偽レオノーレ」が本性を顕わして一同を再び地下牢に閉じ込めてしまうとなると、これはもう「救済」など全て果敢ない幻影に過ぎず、「自由」も「解放」も「正義」すらも、現実にはすべて見せかけのものであることを痛烈に問題提起したドラマということになるだろう。解放者として出現したはずの人物が、実は仮面をかぶった新たな抑圧者だった━━という例は、歴史的にも数限りないからだ。
 レオノーレが男フィデリオに仮装して登場したからには、今度はドン・ピツァロがフロレスタンに仮装する。このオペラは畢竟、一つの仮面劇だ━━という発想が、前出の「ドラマトゥルク」からも、もちろんカタリーナの舞台からも伝わって来る。

 セリフも後半では一部変更されたり、新たに付加されたりしているけれども、音楽そのものは、あくまで不動だ。
 レオノーレと、重傷を負ったフロレスタンとの二重唱のあと、場面転換で演奏された「《レオノーレ》序曲第3番」は、音楽の起伏と絡めて有効に使われている。序奏の間にレオノーレはピツァロに束縛されて刺され(その瞬間のフォルテ3つの最強奏は衝撃的だ)、主部の前半では、喘ぐ2人の前にコンクリート・ブロックが積み上げられ、冷徹な死の壁が出現する。
 従ってフィナーレで聞こえる「本物の」フロレスタンとレオノーレの声は、人々から遠く離れた場所━━別の世界から響いて来ることになる。2人は死して救済された・・・・ということになるのだろう。
 何とも気の滅入る「フィデリオ」ではある。

 歌手陣は充実していた。フロレスタンがシュテファン・グールド、フィデリオ(レオノーレ)がリカルダ・メルベート、ロッコを妻屋秀和、マルツェリーネが石橋栄美、ドン・ピツァロがミヒャエル・クプファー=ラデツキー、ドン・フェルナンドが黒田博、ヤキーノが鈴木准、囚人1が片寄純也、囚人2が大沼徹という配役。新国立劇場合唱団も強力だった。

 そして、これが新国立劇場オペラ部門芸術監督としての最後の指揮になる飯守泰次郎は、東京交響楽団を指揮して、引き締まった「フィデリオ」をつくり上げた。彼が東京響と組んでの演奏はこれまでにもいくつか聴いて来たが、その中では、今日はベストの出来と言っていいだろう。
 これは、彼の任期の締め括りを飾る指揮に相応しい出しものであった。彼は劇場芸術監督としての最初のシーズンを、クプファーの斬新な演出による「パルジファル」を指揮して開始していたが、この最後のシーズンの、その最後の指揮にあたり再びこのような先鋭的で斬新なプロダクションを選んだことは、彼がプロデューサーとして本来抱いていた意欲的な姿勢を如実に示すものであったと言えるだろう。

 上演時間は、休憩30分を挟み、計3時間弱。6月2日までの間にあと3回上演される。
      →別稿 モーストリー・クラシック8月号 公演Reviews

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初日行きました

お疲れ様です。
あの3層は、「指環」の天上、地上、地下、を連想させた。最終場面は、矛盾があり、無理があるように思えるが、ひいお爺さんも、それでありながら説得力ある作品つくったのだから、お血筋なのでしょう。
指揮は、初日ゆえか、力みが目立ったが、好演。歌手陣では、マルツェリーナの歌唱が、声量声質ともに目立った。

う・・・・ん

開場20周年記念特別公演に相応しい、指揮、歌手、オケ、合唱全てが高い水準にある好演でした。このオペラに精通している飯守さんの指揮の下、東京交響楽団は重厚なるも艶やかな響きを聴かせてくれましたし、ソロはみな粒ぞろい。日本人歌手では、小生イチオシの石橋栄実さんが絶好調の美声を聴かせ(その艶のある美声は今や中村恵理さんを超えるとすら思われました)、妻屋秀和さんは相変わらず安定(アンサンブル重視のためか、いつもの凄い声量はあまり感じられませんでしたが)、鈴木准さんも少々小粒ながら美声を聴かせました。外国人歌手も全て好調でしたが、なかでもフロレスタン役のステファン・グールドが凄かった。その第一声(Gott!)からとてつもない声量を轟かせ、これが世界レベルのヘルデンテノールの声か、と溜息が出るほどの実力を見せつけてくれました。三澤さん率いる新国立劇場合唱団も相変わらずの素晴らしさ。

ところが、唯一、演出が「う・・・・ん」でした。舞台は重厚なつくりで、衣装も含め、決して悪いとは思いませんでしたが、問題は筋書の方。偽フロレスタンらしき人物が登場したあたりから、え、一体これはどういうこと、あれは誰なの、フロレスタンの亡霊?と、物語の展開についていけなくなりました。戸惑いを感じたまま終わりを迎え、最後の最後になって、なんだ、そういうことだったのか、と納得しましたが、なぜこんなストーリー展開に変えなければならないのか。

「フィデリオ」というオペラ、音楽は楽しいけど、ストーリー自体は実に陳腐というか面白みがないので、何とかして聴衆をアッと驚かせようとしたのでしょうが、でも、やはりこのオペラは勧善懲悪と夫婦愛賛美の物語である(それ以上のものでもそれ以下のものでもない)と思うわけで、それを全く異なる結末に仕立て上げるというのは(このオペラがあまり上演されない日本においては、なおさら)ちょっといかがなものかと思いました。

以上、あまりオペラの熱心な鑑賞者ではない立場からの、初心者的なコメントにて失礼いたしました。

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