2021-06

2018・4・22(日)新国立劇場 ヴェルディ:「アイーダ」

     新国立劇場オペラパレス  2時

 フランコ・ゼッフィレッリの演出・美術・衣装による豪華絢爛のプロダクション。
 新国立劇場では、開場記念シリーズの一環として1998年に上演して以来、開場5周年(2003年)、10周年(2008年)、15周年(2013年)という節目の年に再演を重ねて来ており、今回が20周年記念の上演ということになる。

 何しろ写実主義的で大がかりな舞台装置で、第2幕「凱旋の場」では数百人が舞台上にひしめくという、最近では世界の歌劇場を探してみても滅多にないであろうスペクタクルなプロダクションである。大切に保存して再演して行くに如くはない。
 人気も衰えないようだ。今シーズンは4月5日から上演されていて、今日が7回目、最終上演で、満席の由。劇場の外には「アイーダ」鑑賞ツアー用にチャーターされたらしい観光バスまで停まっていた。

 今回の出演は、パオロ・カリニャーニ指揮の東京フィルハーモニー交響楽団、イム・セギョン(アイーダ)、ナジミディン・マヴリャーノフ(ラダメス)、エカテリーナ・セメンチュク(アムネリス)、上江隼人(アモナズロ)、妻屋秀和(ラムフィス)、久保田真澄(エジプト国王)、村上敏明(伝令)、小林由佳(巫女)、新国立劇場合唱団、東京シティ・バレエ団、ティアラこうとう・ジュニアバレエ団、という顔ぶれ。

 私も20年前のプレミエ時から毎回このプロダクションを観て来ているけれども、せっかくの豪華な舞台の割には、常に指揮者や歌手陣に凸凹があって、あちらが良ければこちらが少し・・・・という状態が続いているのが、何とも残念である。

 今回の題名役、韓国出身のイム・セギョンは、小柄な体躯だが声も綺麗で、大合唱をも圧するほど豊かな声量の持主━━それはそれで痛快ではある━━なのだが、重唱などの場面でもアンサンブルを無視して唯我独尊、吼えまくるのは感心しない。美しいソット・ヴォーチェを使えるように、そして一本調子にならずに感情の変化を表現できるように、早く修練を積んでもらいたいものである。
 その点、アムネリス役のセメンチュクは、アイーダを恫喝する場面(第2幕第1場)での凄みある歌唱と演技などは巧みなものだった。女奴隷の声があまりに大きいのでワリを食った感があったのは気の毒だったが・・・・。

 だが今回の歌手陣の中には、本当に音程も不安定で声も甚だ頼りなかった人もいて、この辺が前述のように凸凹と言わざるを得ぬ所以だ。残念である。
 なお、カリニャーニの指揮は、この人らしく勢いがあって、東京フィルを何とか引っ張っていた。

 ゼッフィレッリの演出(再演演出・粟国淳)には、微細な部分において巧みな演技が未だ保たれている。
 第2幕、ラダメスに勝者の冠を渡したアムネリスが優越感を丸出しにしてアイーダに一瞥をくれたり、アイーダが恨みの籠った眼差しでアムネリスを見上げたりするような細かい演技は、今回も見ることができた。
 また、ラダメスが「アモナズロ王はすでに斃れた」と一同に報告した時、アイーダが目の前にいる父アモナズロにチラリと視線を送り、アモナズロが「そういうことにしてあるのだ」と目配せをしたり、エチオピアの捕虜同士が「そうだ、(王が生きていることは)秘密にしておくのだ」とでも言うように目配せをし合ったりするような細かい演技も、ちゃんと保たれていた。
 それらが再演演出担当の粟国淳の指示によるものなのか、出演者たちの独自の判断で行なったものかどうかは判らないけれども、このゼッフィレッリの舞台が単なる大スペクタクルではないことを証明する例として、強い印象の残った場面であった。

コメント

ド派手な舞台

お疲れ様です。
14日に行きました。イム・セギョンの大きな声は、本当にびっくりしました。態度もデカイ(笑)。エカテリーナ・セメンチェクのほうが常識的。
ウィーラント・ワーグナーが亡くなった時、ハンス・ホッターが助手をしていたが、4年もすればその演出は無くなると言われて、本当にそうなった。今は演出家が亡くなっても、その場にいなくても、結構続いてるようですけど、どんな裏技があるのか。プローベなんか細かく映像に残してるんでしょうかね。アニメで、長谷川町子がいなくてもサザエさんが続いてるみたい。

25年目で、ひとまず現行演出。止めた方が好ましい。

<本題の前に>
本当に久しぶりに見た新国立劇場の公式ホームページ英語版、非常に判りにくい。ドン引きする。正直な感想です。
これでは、グローバルな世界では生き残っていけない。
中国の歌劇場も非常に判りにくい。英語版になると、外国人には不親切な内容であることは共通しています。
二か国語以上で字幕を付ける劇場のホームページは、およそ外国人が入場することを前提としているから丁寧です。

<さて>
毎度思っているのですが、トーマス・ノヴォラツスキーThomas Novohradsky芸術監督以後でまともに生き残っているイタリア物作品は、なんなんだろう。
思い当たるのは、”オテロ”程度ではなかろうでしょうか。

グラアム・ヴィック演出の”ナブッコ、ウルリヒ・ペータース(当時、ゲルトナープラッツ劇場総支配人)演出の”イル・トロヴァトーレ”、アンドレアス・クリーゲンブルグ演出の”リゴレット”。惨敗組ですよね。新国のヴェルディ作品については、これ誰が責任を取っているのでしょう。誰も責任を取ってないですよね。包括的に一括りにして、イタリア物はひどい。

1990年代の”アイーダ”の新演出で未だ残っているのは、日本の新国立劇場位なのは事実。あの1990年代は演出面はとりわけヨーロッパ圏では過渡期以外の何物でもない現実はあった。古き良きものが、クマの手で抉ったように消えていった。あの1990年代の”アイーダ”新制作された主要なものは、ロイヤルオペラハウスのNHK-BS同時生中継のイライジャ・モシンスキー演出(Sirエドワード・ダウンズ指揮、チェリル・スチューダー/デニス・オニール/ルチア―ナ・ディンティーノの組み合わせ)。1996年1月19日初日のバイエルン州立歌劇場のデイヴィット・パウントニー演出(ロベルト・アバド指揮、チェリル・スチューダー/デニス・オニール/ヴァルトラウト・マイヤーの組み合わせ ユリア・ヴァラディ/デニス・オニール/ニーナ・テレンチエワの組み合わせ)。どれも意外に長生き苦しかった。後者はズビン・メータも指揮したが8年の寿命だった。
 新国立劇場の”アイーダ”。外国誌は至って冷たかった。温かく穏やかな好意的な話はなかった。”蓼食う虫も好き好き”みたいな言われ方だった。
 こぞっていたのは、<<なんで?ゼッフィレリ>>。今から思うと、仕込んだのは、日本のバブル期・崩壊期に契約または仕込みをしていた絢爛志向が蔓延し続けた残照を/いまだ引きずり続けざるを得ない土壌を以ってして現在も上演させてしまうからでしょう。。と個人的には思います。個人的に。。

1980年代に作ったものであれば、こんなことにはならなかったと思います。
バブル時代に、代々木の国立競技場/東京ドームで野外オペラ(真冬にやってしまったヴェローナ音楽祭等々)興行してしまったことが大きい事の発端が今現行演出に突き向かわせたのだと。ネロ・サンティ指揮 トリプルキャストの”アイーダ”。”カルメン”も他の団体であったような。  行くわけないけど。。

パオロ・カリニャーニ指揮の”アイーダ”。2013年1月1日、ミュンヘンでレパートリー公演(クリストフ・ネル演出:ソンドラ・ラドヴァノフスキー/ロバート・ディーン=スミス/アンナ・スミルノヴァ/ミヒャエル・ヴォレ/ゴルダ・シュルツの巫女(この前、新国でゾフィー歌っていった))<この前日は、ミステリ―・ゲスト(誰が出てくるか当日のお楽しみ)のヨナス・カウフマンが出てきてしまった”こうもり”パオロ・カリニャーニ指揮。
この時期は、カリニャーニが重用されていた時期。良かったです。新国では勝手が違うでしょうが。

聯合ニュース日本語版で、 
(引用文:転用してしまいました。)
 新国立劇場で上演されるオペラは欧米の声楽家がキャスティングされることが多く、韓国の声楽家が主人公を務めるのは今回が初めてという。
 イムは2015年にイタリアのヴェローナ野外オペラ音楽祭で韓国人として初めてアイーダ役を務め、昨年も再びアイーダ役を務めた。

とあります。引用転載なので、管理者様の判断に委ねていきます。

25年目は、フイ・へーがまだ歌える状態なら再び日本で”アイーダ”を歌ってもらって。ひとまず、お金のかかる興行を止めましょう。
上演単位ごとに、著作権料が発生し続けているようなことであれば切り捨てていく必要もあるでしょうね。
もっと経費を圧縮して、上演作品本数を増やす路線に転換しましょう。
このプロダクション、25年目でやめてしまう実績を残し。上記に記した”ナブッコ””イル・トロヴァトーレ””リゴレット”。ノヴォラフスキー時代の”マクベス”。の差し替えを円滑に進めましょう。

もし1シーズンしか持たないものを上演するなら、もっと勇気ある新演出上演しよう。それと、

追記;
まだ、代表的なものが”1990年代の”アイーダ”にありました。
1995年5月29日新演出初日 ベルリン・シュターツオーパー
ペット・ハルメンPet Halmen演出のもの。
ズビン・メータ指揮  ニーナ・ラウティオ/マイケル・シルヴェスターの組み合わせ
(記事でしか読んだことがない)
これは、2014年2月までは続いている。この上演は再び20年ぶりにメータが振るので話題にはなっていた。メータも歳だから<最後の”アイーダ”>のつもりで振ったのかもしれない。次は、新装会場で新制作することは考えられる。

 あの時は、チューリヒに”ドンカルロ”の上演があって、ドンカルロにファビオ・サルトリFabio Sartori ということになっていた。シュターツオーパーにも全く同じ状態のにFabio Sartoriのラダメスということになっていた。チューリヒにサルトリが出て、ベルリンにヨハン・ボタに替わった。
脱線: アムステルダムに 行っていたからもう一つ行きたいということになって
 1案)ベルリン 列車でも移動できる
サイモン・ラトル/内田光子/ベルリンフィル、新国に持ってきてしまったベルリンドイツオペラ”イエヌーファ”再演及び収録、サイモン・ラトル指揮シュターツオーパーの”カーチャカバノヴァ”(モネ劇場との共同制作での新演出、モネ劇場先発上演)
 2案)ハンブルグ
レパートリー公演: マルティナ・セラフィンが歌う”マノンレスコー”、大嫌いだけ興味はあるドリス・デリー演出の”ドンジョヴァンニ” 準・メルクル指揮/ステファン・グールドの”フィデリオ”
 3案)パリ
バスチーユで”ロバート・ウィルソン演出”蝶々夫人” ニーナ・ステンメが歌うニコラウス・レーンホフ演出”西部の娘” 両者ともアムステルダムと相互に貸しあっている一方が先発。もう一方も先発で乗り入れしている。
ゲルギエフ指揮マリインスキー劇場のショスタコーヴィチ交響曲全曲演奏会(第2期 ピアノ協奏曲第2番 ヴァイオリン協奏曲全曲込み)4・6・7・8・11・12番をやる
 4案)チューリヒ
バルトリは歌わないけどアグネタ・アイヒェンホルツが歌う”アルチーナ” ルイジ指揮の”ドンカルロ”
         全部4つとも行けず、都合でピエール・アウディ演出お蔵入り決定になっていた”指輪4部作”にとどめる。 
<話をもとに戻して>
 次シーズンは<ハッ!?>と言いたくなる、「こんなことするの。ちょっとひどい」一流指揮者も初出演させての次の音楽監督選別お試しが始まる興行が伴うから。
***   ***
1995年この近辺は、バレンボイム/メータ/アバド旧知の仲がこぞって出演した時代。フェストターゲが鳴り物入りで始まったクプファー演出のワーグナー”4部作”。
「アバドがやってくる!」人気が高かったイタリア物。アバド指揮ジョナサン・ミラー演出の”ファルスタッフ”。ルッジェロ・ライモンディが題名役。1回だけアラン・タイタス。
(アラン・タイタスは、トーマス・ノヴォラツスキーが新国を退任するときジョナサン・ミラー再演の”ファルスタッフ”を歌っていった。ペーター・シュナイダーの新国での”薔薇の騎士” ジョナサン・ミラーを新演出上演した時の、芸術監督の晴れ晴れとした花道を飾ったもの)

Pet Halmenみたいなものを実物観てないけど、残していくならよくわかる。
2000年代のパリナショナルオペラのジェラール・モルティエ時代の”椿姫”をやるのだったら、1シーズンで良い。あんなのシングルキャストでないと無理。2007年6月・10月やって終わり。

勇気をもって、本当の中途半端に終わらない読み替え演出 を実現させよう。
お金をドブに捨てるわけではない。勇気あるものを、イタリア物で実現しよう。
リヨン歌劇場/エクサンプロヴァンス音楽祭/モネ劇場で既に上演されたものを実現させてもいいし、当時起用していた日本に起用されていない歌手を大胆に日本に進出させてもいい。
”トロイ人”。あれは読み替え演出が出てこない。史実に忠実であろうとするヨーロッパ圏は小細工してこない。日本にはできる。史実とは関係ない歴史認識だって土壌にはある。異国なのだから。

問題のイタリア物。グラハム・ヴィックの”ナブッコ” 暗ーいトーンの”イル・トロヴァトーレ”あれは、3回は使いまわせたはずだ。けど活用していない。

<<<高校生の鑑賞教室の前演出の”椿姫”。なんで消してしまった。>>>
あれは、高校生にはまだわかりにくい大人の世界の話だけど。寝ている人間多くてもしっかり舞台装置だけは見ていたんだ!
特に第1幕の舞台が手前側/後ろ手側が互い違いにスライドしていく合唱の場面は、高校生起きているから「おー。」と言って寝ていく人間でもしっかり見ていたんだ。表面的な高校生の態度しか劇場側の大人は観察しなかったのでしょう。
 なんで、本当に大人物の”椿姫”を新演出させてしまったの。これは、まじめな無駄使い。
 <<<<新しいヴェルディ作品は、高校生が判るものを作ろうよ。>>>>、硬直的なものにしてしまった高校生の音楽教室。

 まだ、歌舞伎の国立劇場は、高校生に分かりやすい/”松葉目もの”は、仕方がない/その家の出し物を、別な家がやる。これとても大事なことを、もっと格式ばった硬直的に映る歌舞伎の世界のほうが、柔軟だよ!!!
 どうして、<<第2>>国立劇場は、元祖 国立劇場より無駄使いをするのでしょう。

はっきり言う。<<<<新しいヴェルディ作品は、高校生が判るものを作ろうよ。>>>>
難しいものでも、高校生が見られるものはあるんだ!!

”椿姫”。高校生の鑑賞教室に使っていた舞台。お金の無駄使いでも、高校生の」ために教育事業の一環でもう一度制作して!!。それは、二重基準には当たらない。
今度の、次シーズンのベルリン・シュターツオーパーの新制作”魔笛”のようなことが二重基準になるのであって、新国の”椿姫”(前のルカ・ロンコーニ演出)が二つあることは、無駄使いにならない二重基準です。

実践して。。!!

別記(これ書くの許してください)高校生の鑑賞教室”椿姫”

実は高校生の鑑賞教室、とても好きだったんですよ。。。。
安く良い座席見られることよりも。
日本人キャストだから。ということも安心して観られたのですよ。真剣だもん日本人キャストのほうが。”カルメン”の時は、前演出に外国人起用してしまったのは失敗だよ。

総論で言うけど ルカ・ロンコーニ前演出 高校生どういう雰囲気だったか。共通点だけ。
<寝る人は寝る。><さー、課外授業さぼるぞ。>これ、まじめに居る。それも男性学生圧倒的。ところが女子学生は案外起きてる。寝てる人は本当に寝てる。
(今、祭nine のユニットが女の子の間で”キャー”と言って喜んでいるけど、ああいうの好きな人には、ルカ・ロンコーニも現行の”蝶々夫人”も苦しい。)

・第1幕のヴィオレッタの「エストラーノ(不思議だわ)」で歌いだすときまでは、みんなしっかり起きている。「不思議だわ」と言い出したら。不思議なことに冷房が程よく効いてくるから、睡魔が蔓延しているのはよくわかる。これは、第1幕終わりまで続いてしまう。
・第2幕第1場、なぜか手紙を書きだす場面は、クラリネットは一生懸命奏でていても、あれは実は高校生には心地よい眠たい旋律。しかし、アルフレードが女中に「どこへ行ったの」と云った下りは再び起きている。で、お父さんがやってきて<プロヴァンスの何とか>のアリアは、高校生には隠喩に富んだイタリア語の日本語訳はつらいらしい。
・第2幕第2場、これは起きている。女の細かい揺れる感情とアルフレードのやっけぱちな感情は、高校生にはわかりやすい。大概起きているんです。
・第3幕。前奏曲は寝ちゃう。で「アンニーナ」とヴィオレッタが歌うと、二人の女声陣のやり取りは、女子高生は起きている。男性は寝ている。その後のアリアは、女性も寝ちゃう。
・深い悲しみと窓の外のお祭りを喜ぶ50秒ほどの合唱では目を一時的に覚ます。
・アルフレードとヴィオレッタの二重唱は、高校生にはある種<バカバカしい>メロなので、”わざとらしい”という雰囲気で観てる。寝てる人も多い中寝てはいない人もいる。頭は垂れていない。
・いよいよ昏睡になっていく/ふり絞っている命をさまよって歌うさまは、<あっ、終わりだ!>だから起きている率は高い。起きているけど目覚めたばかりの人も多いから聴いていない。
・終わったから拍手する。出演者の登場順は端役から出てくることはしっかり認識できている。ジェルモン→アルフレード→ヴィオレッタ、役の重要性も認識できている。寝てた学生もそれはきちんと礼儀はある。

なぜ、観察できるのか。2階バルコニー傾斜のない座席が不思議に当たっていたから、最上階まで様子はつぶさにわかるから。

もっと、高校生。観察しようよ。。。

消滅させた代償は大きい。復活させて。お金(大金)だけど、これは先述したように、二重基準にならないよ。

くどすぎるけど。

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