2019-04

2018・3・30(金)エリアフ・インバル指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場 コンサートホール  2時

 シューベルトの「未完成交響曲」と、チャイコフスキーの「悲愴交響曲」という2大名曲プログラム。コンサートマスターは矢部達哉。客席は、ほぼ満杯だ。

 インバルの創る演奏は、「未完成」のような作品では彼の持ち味たる剛毅で引き締まった構築を示すのに対し、「悲愴」のように感情の露出の激しい交響曲では、近年ますますその激烈さの度合いを増して行っているように見える。
 今日の「悲愴」の演奏など、その原題「パテティーク」という名称に━━その語の本来の意味たる「感情豊かな、激しい感情の動き」という題名に、これほど相応しい演奏は、そう多くはなかっただろう。

 都響もそれに応えて、時には狂気のような沸騰を示した。たとえば、第1楽章再現部における息の長い昂揚個所(第277小節以降)で弦楽器群が響かせた魔性的な音の坩堝、あるいは第3楽章の第2部の後半(第283小節以降)からコーダにかけての狂おしい興奮、そして第4楽章後半(第108小節以降)での自暴自棄的な嘆きの告白、といったように━━。

 しかもその昂揚も沈潜も、率直な力に満ちている。といって、ただ一気呵成に突き進むだけという演奏でないことはもちろんである。たとえば第1楽章再現部に入る直前(第244小節あたり)から大きくテンポを落し、フォルテ3つで再現する第1主題を極端に際立たせる、というような手法は、使われている。だが、基本的に所謂ストレートな演奏の範疇に入ることは、言うまでもない。

 世の中には、殊更に管弦楽のパートのバランスをユニークなものにしてみたり、テンポを作為的にいじったりする演奏もしばしば見受けられる。
 断わっておくが、そういう演奏は非難されるべきだなどと言っているわけではない。だが今の私には、このインバルと都響のような演奏の方が、よほどチャイコフスキーの管弦楽構築の巧みさを堪能させてくれるし、その音楽の並はずれた推進性の凄さをも味わわせてくれるように感じられるのである。
 というわけで、私は実に久しぶりに、この曲から強い感銘を受けることができたのだった。

コメント

私は昨日、ミューザにて同じプログラムを聴いてきました。
「第6番」第三楽章終了時に若干の拍手と『ブラボー』1名。
名だたる「危険個所」とはいえ、どういうつもりなのかなぁ。
初めて聴いたのかな、ダダダダン!を…。声質からすると、
若くはなかったね。

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