2021-06

2017・9・28(木)バイエルン州立歌劇場日本公演「タンホイザー」

      NHKホール  3時

 3回公演の最終日。
 話題の指揮者キリル・ペトレンコの、日本初登場のオペラ指揮。今回は「タンホイザー」と、演奏会の指揮(別項)だったが、お客さんの支持もどうやら絶大(に近いもの)だったようである。
 NHKホールのピットからこれだけバランスのいいオーケストラの響きが沸き上がって来るのを聴いたことは稀だったし、各幕の最後の盛り上がりなどは流石に見事だったことは事実だ。

 しかし、彼の指揮するこの「タンホイザー」、叙情的な個所では、とにかくテンポが遅い。第2幕冒頭のエリーザベトと領主ヘルマンの場面、第3幕前半のヴォルフラムとエリーザベトの場面などがそれだ。
 こういうのを聴くと、ペトレンコもやはり、叙情的な個所ではテンポを非常に誇張して遅くするという、現代の若い指揮者のパターンなのかなと思ってしまう。
 だが彼は、バイロイトでの「指環」では中庸を得た、安定したテンポを採っていたし、その後ミュンヘンで聴いた「神々の黄昏」でも、全体に切れのいい颯爽とした、快速なテンポを採っていたのである。いつから、こんな遅いテンポを採る人になったのだろう? 

 ワーグナーの作品の場合、「パルジファル」は遅くてもいいが、前期の作品は、こういうテンポには耐えられないのではないか、とも思う。とにかく、このテンポのおかげで、音楽は全体に押し殺したような陰鬱な気分に支配され、寸時も解放的な気分に浸ることのない「タンホイザー」になっていた。もちろんそれには、演出から来る視覚的な影響もなくはなかっただろう。

●演出のこと
 その演出は、ロメオ・カステルッチが担当していた。彼は他にも、舞台美術・衣装・照明を全部ひとりで担当した。舞台は全体に暗鬱な色調が支配的で、強烈な圧迫感が漂う。確かに「タンホイザー」のドラマの本質は、このような主人公の抑圧された精神の苦悩の葛藤にあるだろう。愉しくはないが、眼を逸らしてはいけないものが、この舞台にはあるようである。

 ダンサーたちが視覚的に重要な役割を担うのは、最近の流行のスタイルのようだ。この演出でも、「バッカナール」では、半裸の女性たちが、あたかもキューピッドの如く背景の「顔の画像」に矢を射かけ続けるというユニークな場面が映えた。この射矢の、射損じが皆無に近い見事さには舌を巻く。
 そこで使われていた「弓」が、あとで歌合戦(「愛」がテーマ)の際に小道具として使われるのも、凝っていてちょっと面白い。

 第2幕の前半を「明」、後半を「暗」とするなら、前者におけるカーテンと照明のみを活用した舞台は適切で、極めて美しい。
 詩人たちや宮廷の群衆が、ひっきりなしに退場したりまた入場したり、あるいは倒れたり立ち上がったり(寝たり起きたり、と言った方がいいか)するのは視覚的にも少々煩わしいが、この意味については、私には今のところ想像の域を出ない。あとの「ローマ語り」の場面に象徴される如く、あらゆる場面が単にその場限りの出来事ではなく、永遠の長い時間の経過の中のものとして描かれているがゆえのもの、とみていいのかもしれない。

 だがこの演出では、登場人物同士の劇的な反応についてはあまり重要視されていないようで、歌合戦の際にタンホイザーが最初に官能愛の魅力を口にする時、エリーザベトがいっとき賛意を表しかける━━という重要な場面でも、その時に彼女は何故か舞台にいないので、オリジナルの台本の意味は無視されていることになる。

 第3幕の「夕星の歌」から「ローマ語り」にかけては、何と「KLAUS」「ANNETTE」とそれぞれ出演歌手(!)の名が刻まれた台の上に、タンホイザーとエリーザベトの「分身」の遺体が横たえられ、それが次々とグロテスクな形に、ミイラから白骨へ、最後は灰の形になるまで置き換えられて行く。
 このしつこさには、ほとほとうんざりさせられたが、このタンホイザーが語る「神という名の存在の冷酷さ」と、「人類の絶望感」との葛藤が、無限の長い時間の経過を要する永遠の問題であることを象徴するなら、それもまあ仕方がない、ということになるだろう。
 幕切れではタンホイザーとエリーザベトが並んで立つあたりに僅かな救済が垣間見られ、やっと音楽との整合性が感じられるようになる。

●歌手たちのこと
 今回の配役では、クラウス・フローリアン・フォークトが題名役を歌い、マティアス・ゲルネがヴォルフラムを、アンネッテ・ダッシュがエリーザベトを、エレーナ・パンクトラヴァがヴェーヌスを、ゲオルク・ツェッペンフェルトが領主ヘルマンを歌った。
 詩人たちの中には、先年日本での飯守泰次郎指揮の演奏会形式「ヴァルキューレ」第3幕でヴォータンを歌っていたラルフ・ルーカスも出ていたが、ラインマルという全く目立たぬ役だったのは残念。そして、バイエルン州立管弦楽団と同州立歌劇場合唱団。ダンサーたちに関してはクレジットが無い。

 フォークトの歌唱は、タンホイザー役としては叙情性の濃い声質ではあったが、往年のヴィントガッセンとかルネ・コロとかいったヘルデン・テナー的な同役の表現と違い、純粋な青年としての魅力が出ていて興味深い。「ローマ語り」での歌唱は、極めて劇的な、激しい感情に富むものだった。
 アンネッテ・ダッシュ(エリーザベト)は悪くなかったが、ペトレンコの遅いテンポを少々扱いかねているようにも感じられたけれど、気の所為か? ゲルネの声が妙に籠っていて、こんなはずではなかったかなと。

●楽譜のこと
 このプロダクションでは、基本的には「パリ版/ウィーン版」が使用されていた。
 (以前は「ドレスデン版」または「パリ版」、という2分類だけだったのが、最近わが国では「パリ版」を「パリ版」と「ウィーン版」に分けよという、ウルサイ(?)論が主流を占めるようになってしまった)。
 ただし今回の上演における第2幕の歌合戦の場では、パリ版では削除されていたヴァルターの歌の部分が復活されており、ドレスデン版との折衷の形が採られている。

 なお、この第2幕の初め、タンホイザーとエリーザベトの二重唱の中で、しばしばカットされるヴォルフラムの短い「落胆のモノローグ」がオリジナル通りに歌われていたことは、彼のこのドラマにおける立ち位置を明確に顕わせたという点で、わが意を得たり、である。
 また第2幕の最後の大アンサンブルの前半でも、カットされることが多いタンホイザーのパートもほぼそのまま生かされていたのは(フォークトのためにも)立派と言っていいだろう。ただし後半では、アンサンブルそのものに、所謂慣習的なカットが行われていた。

●余計なこと
 字幕は、格調の高さを狙ったのかもしれないが、文体がごつごつしていて、必ずしも読みやすいとは言えない。初めて観るお客さんには、もう少し解り易い方がいいだろう。
 ついでにひとつ。よく思うのだが、所謂「読み替え演出」が採られる場合、観客の理解に供するために、やはりその演出についての解説を多少なりともプログラム冊子に掲載しておくべきではないだろうかということ。読み解きには些かの自負がある私にも、このカステルッチ演出には少々解り辛い部分があり━━こじつけて勝手に知ったかぶりして解釈していいというなら、いくらでも出来るが━━識者の卓見を聞きたいと思うところもあるのだ。

 当該公演が完全なプレミエで、冊子の印刷が間に合わぬというなら仕方がないが━━それなら演出家へのインタヴュ―を載せるというテもあるだろうし━━今回のように、既にミュンヘンで5月にプレミエが行なわれており、しかもそれを観に行った人のエッセイまで載っているのだから、充分その時間はあったはずである。
 しかも今回の冊子には、「タンホイザー」にとって重要な「使用版」の件も冊子のメインタイトルには記載されておらず、記事を読み進んで、寺倉正太郎さんの解説に入ったところで初めて判明するというのは、これも観客にとって些か不親切の誹りを免れないだろう。まあ、興味のある奴なら、実際に聴きゃ判るだろが、ということなのかもしれないが・・・・。

コメント

非常に詳細なレビューをありがとうございます。
演奏、演出、歌手、字幕等々、それぞれに対する視点を興味深く拝読しました。

演出に関しては、ミュンヘンでのプレミエのハイライト動画などで見る限り、
何かすごくコンセプトがあるんだろう
なぁ、と思いました。
演出のかたが美術なども担当されているとあってか、舞台全体に一貫性はありそうですね。

実際に見ていない公演でも、こうして想像を重ねながら読ませていただいています。いつもありがとうございます!

28日に3階左後方で聴きました。非常に興味深い印象的な公演でした。
ぺトレンコは演出家とも十分に打合せての指揮であったろう。
17日のマーラー5番の指揮での細かいかつ大熱演の勢いある指揮と音楽とは
違っていました。

リリシズム溢れ,歌手とオーケストラが渾然一体のなるように、オケ、合唱、歌手に細かく指示を出す指揮、良く統率された演奏。
特に第三幕の夕星からエリザベートの歌はデリケートな響きのオケと共に三階席でも染入る様に聴こえて来ました。歌手とも入念に準備していると思います。

ワーグナーの静穏なところからうねり、粘り、盛上り、崩れ落ちてく、壮麗壮大かつ聴くものを圧倒し、引きずり込んでいく音楽世界をイメージを一新するような、ワーグナー音楽の懐の深さを示すような演奏でした。
5,6月のワーグナー地元の上演で支持を得た(主催者情報ですが)のが理解できたような気がします。
フォークトのタンホイザーや他の歌手の歌唱とももに、違和感を持った日本のワグネリアンが多くいたと思います。

演出は事前に公演サイト等で予習をしたものの、意図が分からないところ多々あり、字幕を見ながらかつ演奏を聴き舞台の進行を見るのは、1回限りの鑑賞では、正直難しいでした、但しひと頃のような歌手や演奏の妨げとなる演出ではなく、シンプルな装置と落着いた照明でした。

昨日聴いた新国立劇場神々の黄昏や昨秋のウイーン国立劇場公演のような従来タイプの演奏や歌唱とは違う貴重な公演でした。(共に堪能しましたが)
これも今のワーグナー演奏、上演の最先端なのでしょう。




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