2021-06

2017・8・21(月)バイロイト音楽祭(終)ワーグナー:「パルジファル」

     バイロイト祝祭劇場  4時

 昨年プレミエされたプロダクション。ウーヴェ・エリック・ラウフェンベルクの演出、ハルトムート・ヘンヒェンの指揮。

 ヘンヒェンの評判は、オーケストラにはともかく、大方にはすこぶるよろしいようだ。たしかに誇張なく、しかもオーケストラを自然体に歌わせ、この曲の美しさを余すところなく出している。その意味で、これほど肩の力を入れずに聴ける「パルジファル」の演奏は、そう多くないと言えるだろう。

 だが彼の指揮でたった一つ、それも極めて大きな不満は、この作品に不可欠な、デモーニッシュな雰囲気がほとんど感じられない、ということだ。
 たとえば第1幕の場面転換の音楽、第2幕の序奏、第3幕の場面転換の音楽、あるいは全曲終了の1分半ほど前に突如出現する謎めいた暗い和音━━クリングゾルの影━━などといった個所は、真摯なワグネリアンだったら、その魔性的な音楽に、ぞっとさせられるような感覚を抑えきれないのではないか? このヘンヒェンの指揮は、そういう個所をさえ、いとも無造作に、何気ない調子で通り過ぎてしまうのである。

 しかし、そうではあっても、このバイロイトのオーケストラの素晴らしさは唯一無二のものだ。そして一昨日の「マイスタージンガー」の項では書き落してしまったが、バイロイトの合唱(合唱指揮はエバーハルト・フリードリヒ)の見事さは比類ない。それらをこのバイロイトの独特のアコースティックを持った劇場で聴くだけでも、幸せと言わなければならない。今日も昨日と同様、前から3列目で聴いたが、これはまさに至福の音響であった!

 一方、ラウフェンベルクの演出も、結構評判がいいようだ。が、本当にその賛辞に相応しいものか? 
 第1幕での「聖杯守護城の森」の場面は、今回は小さなドーム状の建物の中。銃を構えた現代の兵士たちが駐屯し、クンドリ(エレーナ・パンクラトーヴァ)がイスラムの女性の服装をしている。そういう光景を見れば、この演出に、一つの方向性が予感できるというものだろう。

 だが、━━それが実際には、その後どうなるか。第2幕では魔人クリングゾル(デレク・ウェルトン)が十字架を蒐集して満悦なのはいいとしても、彼の魔城は、アラビアン・ナイト風の半裸の美女がひしめく、ハーレムの浴場である。その美女たちが、迷彩色の軍服を着て押し入って来たパルジファル(アンドレアス・シャーガー)を囲み、服を脱がせて風呂に入れ、弄ぶ。
 最後は、彼がクリングゾルから十字架を奪い取る(これがのちに聖槍になる)と同時にクリングゾルは打ち倒され、背景では多くの十字架が落下し、幕が締まる。━━と、それだけのことである。

 これでは、結局西洋とアラブ社会との関係を、やはり単に対立状態として━━それもかなり低次元のレベルで、もしくは昔ながらのお伽噺のような次元で━━描いただけの話ではないのか。まして、イスラム思想の問題や、テロリズムの問題をこのストーリーに適用するには、この程度の演出では、遥かに及ぶまい。ラウフェンベルクの狙いをあれこれ拡大解釈して絶賛するのはそれぞれの評者の勝手だが、少なくとも私には、正確には掴みきれなかった。

 それよりも第1幕で、グルネマンツ(ゲオルク・ツェッペンフェルト)が「ここでは時間が空間になるのだ」とパルジファルに語り、場面転換の音楽になるところで投映される大規模な映像の方が、より多くを語っているように感じられた。
 ここでは中近東のある場所━━しかとは判らなかったが、トルコとアラブ諸国との国境に近い場所か?━━にある建物からカメラが一気に宇宙の高さまで引いて行き、太陽系、大宇宙を横断した挙句、再び地球の同一の場所へ戻って来る。まるで、この大宇宙に比べれば、このような宗教的な対立などにどれほどの意味があるのだ、と問いかけるような効果を生み出しているように思われる。

 なお第1幕では、ティトゥレル老王(カール=ハインツ・レーナー)が現実の姿で現われ、聖杯の儀式に参加するという手法が採られる。
 アムフォルタス王(ライアン・マッキンニー)はキリストに擬せられるが、これはまた随分格上げされたものである。聖杯の儀式も、オリジナルの台本にあるような、聖杯を掲げて祈るスタイルではない。キリストの姿に模されたアムフォルタスが恐怖に震えつつナイフで身体を傷つけられ、血を流し、その流れる血を一同が盃に受けて飲むという儀式だ(互いに血を呑みあうという儀式は多いらしいが、私はこういうのを視ると怖気が立つ)。

 そのアムフォルタスを、第2幕のクリングゾルの城にも登場させるという発想は、今日の演出の中でも、最も興味深い例のひとつだろう。もともとアムフォルタスは、クンドリの誘惑に陥った隙にクリングゾルに襲われ、重傷を負わされた不注意な王である━━ということは、事実上クリングゾルの囚人に等しいからだ。
 アムフォルタスは、最初は拘束衣のようなものを着せられ悄然としているが、そのあとの場面では、彼は幽鬼の如く動き回り、クンドリとの情事を舞台上で現実に視覚化し再現する。これが、パルジファルがクンドリの口づけを受けた瞬間に、悲劇の全てを知り、「アムフォルタス!」と絶叫する場面の説明となっていることは、言うまでもない。
 こういう、説明過剰とも取れる演出は必ずしも珍しくはないが、発想としては興味深い。

 第3幕は、長い月日が過ぎたあとの物語だから、グルネマンツが老齢化するのは解るが、クンドリ―まで穏やかな、しかも認知症的な雰囲気のおばあさんになってしまうとは。
 「聖金曜日の音楽」の場面では、建物の向こう側に明るい陽光が拡がり、かつ強い雨が降り、その中で美しい少女たちが水浴を繰り広げる。それはいかにも、束の間の平和なひとときであり、この「聖金曜日の音楽」がいかにもその優しい光景に合致している性格を秘めていたものだったかを、改めて気づかされる思いだった。
 クンドリもその雨を浴びるのだが、そのあとの彼女は皆に愛され労わられ、車椅子に乗せられて、すっかり穏やかな表情になってしまう。こうした「救済」は、彼女に相応しいものだろうか? 
 いずれにせよ、それらの光景は美しくはあるものの、それにより観客の注意力が、この有名な音楽から逸らされかねないとはいえまい。

 歌手の中では、何といっても、ツェッペンフェルトが抜群の存在だった。この人の声はグルネマンツにしては若々し過ぎる気もするが、胸のすくような歌唱を聴かせてくれる。特に第1幕と第3幕の各前半では、底力のある、豊かで明晰な表現で、演奏全体を支配していた感がある。
 シャーガーは、ベルリンでは既に「パルジファル」を歌っているものの、バイロイトでは今年が初めてということで注目されていたが、なかなか良い。冒頭の登場シーンは、「全くその場に相応しくない異質な青年」であり、かつ所謂「ワーグナーのオペラっぽくない親しみやすい青年」という雰囲気があって、しかも「救済者」となるべき最終場面にいたっても全然「神々しくならない」感があったが、これはこれで一つの表現なのだろう(DVDで観る限りはベルリンでの方がドラマティックだった)。歌唱もやや粗いところがあるにしても、初年度にしてはよくやったと称賛されよう。特に第2幕、ドラマの大転機となる彼の「アムフォルタス!」という絶叫の場面は、迫力満点であった。今後が楽しみである。

 10時演奏終了、10時10分カーテンコール終了。外はかなり涼しく、快適な気候だ。これで、今年のバイロイト旅行を終る。
 昔に比べると、日本人客がかなり減っているようである。日本レストラン「誠」の女将さんに言わせると、「良い上演をやっていないと、皆さんいらっしゃらないですよね」とのこと。「指環」のことを言っていると思われるが、女将さんにそう批判されるようでは、バイロイトも立つ瀬があるまい。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://concertdiary.blog118.fc2.com/tb.php/2771-5ba39d90
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | HOME |  »

























Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

ブログ内検索

最近の記事

Category

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」