2017-07

2017・7・14(金)井上道義指揮大阪フィル バーンスタイン「ミサ」

       フェスティバルホール(大阪) 7時

 1971年にワシントンのケネディ・センター杮落し記念として初演された、レナード・バーンスタインの「歌手、奏者、ダンサーのためのシアターピース」。
 今回は「第55回大阪国際フェスティバル2017」の新制作で、大阪フィルハーモニー交響楽団創立70周年記念としての上演。

 井上道義が総監督・指揮・演出・字幕訳のすべてを自ら行うという、彼としても渾身、入魂のプロダクションだ。演奏会形式やセミステージ形式の上演ならともかく、本格的な舞台上演としては世界でもめったに観られない作品であり、日本でも20年以上前に彼が京都市響を指揮した時以来の上演だという。私はそれも観ていないので、ナマで観るのは実はこれが初めてになる。

 今回の出演と演奏は、大阪フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター崔文洙)、大阪フィルハーモニー合唱団(指揮・福島章恭)、キッズコールOSAKA(指揮・大谷圭介)。
 主役の司祭に大山大輔、少年に込山直樹(ボーイソプラノ)。さらにストリートコーラス(ソロも受け持つ)として小川里美、小林沙羅、鷲尾麻衣、野田千恵子、幣真千子、森山京子、後藤万有美、藤木大地、古橋郷平、鈴木俊介、又吉秀樹、村上公太、加耒徹、久保和範、与那城敬、ジョン・ハオという錚々たる顔ぶれ。

 合唱団は、群衆として動き、あるいはコーラスとして背景に並ぶ。ストリート・コーラスの面々も歌い、踊るが、ふだんオペラで拝見している高貴な歌手の皆さんが、こういうタイプのダンスもおやりになるとは━━まあ、当然のことだろうけれど━━大いに感心した次第だ。小林沙羅さんの言によれば、「いろんなことやるのよ、私たちは」ということになる。ただ、普通の演技に切り替わると、ちょっと緩いところが出る。これは演出の問題だろう。

 主人公の司祭を歌い演じる大山は出ずっぱりで大奮闘、よくやったと称賛したいが、欲を言えばもう少しよい意味でどぎつく、あくどい演技が欲しいところで、今日の段階ではストリート・コーラスの歌手たちとの区別が━━舞台上の存在感の区別がつきにくいというのが、惜しかった。
 ボーイソプラノの込山が素晴らしい。
 なお、ダンスが堀内充バレエプロジェクト、大阪芸大舞台劇術学科舞踊コース。振付は堀内充、美術は倉重光則である。

 バーンスタインの音楽は、伝統的なスタイルのオーケストラ・サウンドや聖歌などはごく僅かで、ほとんどはロックやジャズやブルースなど━━手っ取り早く言えば「ウェストサイド・ストーリー」などのミュージカルで示されたような、彼の独特の音楽スタイルで構築されているものだ。
 これは、ミサ曲という伝統的なジャンルに切り込みつつも、あくまでバーンスタイン自身の「立ち位置」を明確にするという姿勢で、所謂クラシック音楽に阿らない手法として、立派なものであったと思う。その上、和声的にもリズム的にも、すこぶる複雑な性格をも備えた音楽なのだから。

 ピットに大阪フィル、舞台上にロックバンド、ブルースバンド、その他管楽ソリストたちが並び、副指揮者の角田鋼亮まで行進リーダーとして舞台に登場するという趣向が凝らされていた。
 そして御大・井上道義は、ピットの中で文字通り獅子奮迅の指揮。演奏全体は荒削りだったかもしれないが、何せ大規模上演、ここまで行けば立派なものだろうと思う。

 歌はもちろん、器楽にも一部にPA使用。時に過剰なところもあったようだが、何しろ原作では会場のあちこちから響く4チャンネルのテープによる音楽の再生もミックスされることになっているから、この音量バランスの設定は難しかったろう。上手く出来ていた方だと申し上げたい。

 舞台美術と演出。
 字幕が、正面十字架の横板に映写されるというのが洒落ている。宗教関係者はどう言うか知らないが、われわれアウトサイダーから見れば面白い。
 ギターを手に司祭が登場するという幕開きシーンでは、冒頭のテープ再生による音楽をジュークボックスが鳴らすという演出になっていて、このジュークボックスにコインを入れた「普通の男」がいつの間にか司祭の役にされる、という演出になる。

 これはもちろん、オリジナルのト書きにはない演出だが、ラストシーンへの伏線としては理屈に合っているだろう。つまり大詰めでは、ミサや宗教に疑問を持ちはじめた一同の怒号に遭遇した司祭が、ついに「私には無理です」と絶望し、聖杯を床にたたきつけ、祭壇の布を引きちぎり、自ら司祭の衣装を剥いで倒れ、結局は「普通の男」に戻るというストーリーだからである。

 この2時間近い流れの演出の中では、神は本当に存在するのか、敢えて言えば宗教はいったい平和を創れる力があるのか、という疑問まで含むこのドラマトゥルグは、よく出ていたであろう。
 正直言って、時には散漫に見え、思いつきのアイディアのようにも感じられた演出個所も、ないわけではない。しかし、プロの演出家にやらせたら━━といったところで、このキリスト教の宗教劇を、それも時には反宗教性を含んだ舞台劇を、思い切りよく、遠慮会釈なく視覚化できる演出家が、日本にいるかどうか。とすれば、もともと破天荒な、傍若無人なアイディアを持つ井上道義が自ら演出を試みるのが、やはりベストだったのである。

 歌詞は英語、ところどころ日本語訳の歌が入り、それもところどころ関西弁の歌詞になる。これも井上の訳らしいが、なだらかな標準語と違い、関西弁というものが意外に洋楽のリズムに合う「弾み」を持っているものだということを発見した(もっとも、本当の関西弁とはどんなものなのかは、私には判らない)。
 字幕の訳語も井上によるもので、かなりくだけたものにしているのも彼らしいが、あまりくだけすぎると、逆に何だか解り難いところが出る。

 今回の公演では、佐渡裕がバーンスタインの弟子として「ミュージック・パートナー」を務め、昼間の西宮での「フィガロの結婚」の指揮を終えてすぐ、こちらに駆けつけていた。彼自身もおそらく、ゆくゆくは兵庫県立芸術文化センターかどこかで、この恩師の曲を上演したいところだろう。
 明日との2日公演。客席はほぼ満席(明日は満席とか)。20分の休憩1回を入れて演奏終了は9時20分、カーテンコールはそれから15分ほども続いていた。

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