2021-06

2017・5・21(日)バッティストーニ指揮東京フィル 「春の祭典」

     Bunkamuraオーチャードホール  3時

 夏日の午後、渋谷の道玄坂下から東急へ向かう道は、夏祭りの真っ最中。道路は踊りの軍団で埋まり、横断も出来ぬほど。そしてオーチャードホールでの東京フィルの5月定期も、バレエ/ダンスの大特集である。

 プログラムは、ヴェルディのオペラ「オテロ」のバレエ音楽、ザンドナーイのオペラ「ジュリエッタとロメオ」のバレエ音楽、後半がストラヴィンスキーのバレエ音楽「春の祭典」、おまけにアンコールは、外山雄三の「ラプソディ」からの「八木節」であった。

 熱血の首席指揮者アンドレア・バッティストーニのリードのもと、東京フィルハーモニー交響楽団(コンサートマスター三浦章宏)が、文字通り「空前の大音響」による演奏で応じた。
 巨大なオーチャードホールが家鳴り震動するといった感で、耳を聾するその大音響は、しかし、シカゴ交響楽団のような根っからの豊麗なサウンドとは少し違い、作為的な怒号絶叫の要素が強いものだったと言えぬことはない。
 それでも、金管群にはブリリアントな音色があふれていたし、一種の痛快無類な演奏ではあったことは確かである。

 「オテロ」のバレエ音楽は、実際のオペラ上演では先ず演奏されることのないものだが、趣旨としては、今秋の全曲上演の予告編の意味もあっただろう。バッティストーニは、かなり派手に、ダイナミックに演奏を開始した。
 だが、これは未だ序の口。次のザンドナーイの作品では、オケを鳴らすのなんの。ただでさえ賑やかな音楽が、いやが上にも騒々しい音楽となって沸騰した。これでは次の「春の祭典」が霞んでしまうのではないかと危惧したほどだったが、案に相違して、それもまた更に猛烈かつ壮烈な激演となって行ったのである。

 しかし、この「春の祭典」は、ただ大きな音でまくし立てただけの演奏だったというわけではない。バッティストーニは、作品の細部に神経を行き届かせ、楽譜の其処此処に新機軸を施していたのである。それは、実に面白いものだった。

 たとえば冒頭、並みの長さの数倍もあろうかというくらい引き延ばされたフェルマータの、かつ豊富なヴィブラートをかけられた明るい音色のファゴット・ソロ。この瞬間からして、今日はいろんな新しいことをやってくれそうだ、という期待が拡がるわけである。
 その他、たとえば練習番号【25】のホルンのソロが入るのに先立ち、第2ヴァイオリンがいきなり8分音符を強調したり、練習番号【181】からの最後の法悦の踊りに入る瞬間のトロンボーンに物凄いグリッサンドを吹かせたり、・・・・それらはしかし、いずれもスコアに書いてあるものの中から一部分を浮き彫りにして強調した演奏なのであって、所謂改ざんなどでは毛頭ないのだから、バッティストーニのセンスも冴えていると言ってもいいだろう。

 それにしても、これほど開放的な大音響で日本のオーケストラを鳴らした外国人指揮者は、私の体験の範囲では、1950年代半ばにN響に客演したローゼンストック以来ではなかろうか。
 ただ、バッティストーニの場合、同じ鳴らすにしても「四六時中鳴らしまくる」ので、起伏がやや単調になり、真のクライマックスが何処にあるのかが曖昧になるという傾向も無しとは言えないだろう。それは、コンサート全体のプログラムにおいてどこに頂点を作るかという問題でも然り、「春の祭典」の頂点の個所はどこかという問題についてもしかり。そのあたりを構わず、勢いに任せて押し切ってしまうのは、未だ若い彼の熱血のゆえだろう。

 「春の祭典」のあとに、これまた賑やかなアンコールのダンスを演奏するというのも、ちょっと変わっている。いやもう、若いエネルギーというのは凄い。しかし、東京フィルのエネルギーも並みではなかった。
 この数日間、バケモノのような音楽ばかりを聴いて来た後に、今日はまさにとどめを刺された感である。
  別稿 音楽の友7月号 Concert Reviews

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