2017-05

2017・4・9(日)ジョン・ケアード演出 内野聖陽主演「ハムレット」

      東京芸術劇場プレイハウス  5時

 引き続き東京芸術劇場に留まり、2階の劇場へ向かう。
 シェイクスピアの戯曲「ハムレット」の上演。7日と8日のプレビュー公演を経て、今日が初日。
 この公演、28日まで東京芸術劇場でやり、そのあと西宮、高知、小倉、松本、上田、豊橋という具合に、5月26日までやるそうだ。もちろん休演日はあるにしても、俳優たちのエネルギーの凄さにはいつもながら感心する。

 今回の上演は、松岡和子の翻訳、ジョン・ケアードと今井麻緒子の上演台本、藤原道山の音楽・演奏、他による舞台だが、出演者数は全部で僅か14人━━ホレイショー役(北村有起哉)を除く役者たちが1人で数役を演じるという形がユニークである。

 ハムレット役(内野聖陽)がデンマーク王子フォーティンブラス役をも演じ、クローディアス王(國村隼)が先王の亡霊との両役を、オフィーリア(貫地谷しほり)が廷臣オズリックをも演じる、という話を聞いた時には仰天し、首をひねったほどだったが、いざ観てみると、全く違和感がないどころか、この「1人2役」というのはドラマトゥルギーとしても実に興味深いことを認識した。
 つまり、ワーグナーの「タンホイザー」で、エリーザベトとヴェーヌスが女性の両側面を描いていることを表わすために、ひとりのソプラノが2役を歌い演じるのとちょうど同じようなものなのである。

 ケアードも、それを狙いとして解釈しているのかと思ったが、彼の「演出メモ」には、「現実と非現実の多層的構造・・・・ハムレットは自分がなるべきだった王=フォーティンブラスとなって甦り、オフィーリアは浅はかなオズリックとなってハムレットの死に立ち会う」という程度のことしか触れられていない。仕方がないので、こちらが勝手に解釈すれば━━。

 たとえばハムレットとフォーティンブラスは、ひとりの王子の「陽」と「陰」の両面の性格を表わす存在とも考えられるだろう。決断を躊躇ってばかりいる己の性格に苛々しているハムレットは、決断力と行動力に富むフォーティンブラスの性格に憧れる。ハムレットが彼を後継者に指定し、己が果たすべき使命を託すのは、即ち彼のもう一つの性格への脱皮にほかならない。。

 また、クローディアス王と先王(亡霊)とは、ひとりの「王」の分身とも解釈できよう。「亡霊」は、いわばクローディアスの裡に残っている「良心」の具現であり、一方クローディアスは、先王の中の(おそらくあるはずの)「悪」の部分を象徴する存在とも考えられるだろう。

 オフィーリア役の女優が男の廷臣オズリックを掛け持ちで演じるというのは、単なる便宜的な方法かと一瞬思ったが、これは、観ているうちにその本来の意味が判って来る━━。 
 ハムレットに殺されたに等しいオフィーリアの心のどこかに、ハムレットを恨む感情が無かったとは考えられない。その彼女の心が、復讐心となって具現された存在が、オズリックなのである。

 ここでのオズリックは、オリヴィエ監督の映画に出て来るような軽薄な役柄ではなく、非常に「形式的な」男なのだが、ハムレットを剣試合の場に案内し、かつ毒を塗った槍を秘かにレアティーズ(加藤和樹)へ渡すという行動に出る。明らかにこれはオフィーリアのハムレットへの復讐(もしくは、自分のいる死の世界へ呼び寄せる)の具現であり、それをオフィーリア役の女優みずからが演じているところに、何とも言えぬ宿命の怖しさが感じられるだろう。
 しかも、極め付きの象徴的な描写は、そのレアティーズがオズリック(つまり妹オフィーリアの分身)の膝に頭を乗せて息絶えるという光景である。
 ━━こういう読み替え解釈を考えつつ、この芝居を観るのも面白い。

 出演は、その他に浅野ゆう子(王妃ガートルード他)、壤晴彦(ポローニャス他)、村井國夫(劇中の王他)、山口馬木也(ローゼンクランツ他)、今拓哉(ギルデンスターン他)、大重わたる、村岡哲至、内堀律子、深見由真、といった人たち。
 唯一、気になったことといえば、台詞の「発音」だろう。全体に、もう少し発音を明確にしていただきたい。人によっては、何を喋っているのかさっぱり判らない役者さんもいたのだ。
 しかしその中で、貫地谷しほりと浅野ゆう子の発音が実に明晰で綺麗なのには、感心させられた。特に貫地谷が、舞台でここまでの力量を示すとは、認識を新たにさせられた次第である。

 舞台、演技、台詞とも、第1部はイメージ的に少し軽く、何となく薄いという印象が抑え切れなかったが、これは事実上の初日だったということも影響しているかもしれない。第2部では、次第に密度が濃くなって行った。
 ホレイショーが、ハムレットの部下というよりも「友人」であるという性格が一層はっきり描かれているのも面白く、特にラストシーンは、彼がただ独り最後まで残って、この悲劇を後世に語り伝える役目にあることを象徴的に描いて結ぶ。この幕切れは、すこぶる印象的であった。

 休憩15分と、カーテンコール5分とを含め、8時25分に終演。客席は超満員である。 
 舞台下手側にも観客席が設置されていたが、これはむしろ、「役者たちと観客たち」の構図を舞台上に作り出す意図によるものだったのではなかろうか。

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