2017-11

2017・3・9(木)飯守泰次郎指揮東京都交響楽団

      東京芸術劇場コンサートホール  2時

 これは定期演奏会のCシリーズ。
 最近東京でも増えて来た平日マチネーの定期は好評のようで、客の入りもなかなか良い。年輩の客ももちろん多いが、まだ現役のように見える中年の客も結構来ているようで、━━拍手はやはり温和しい。大きな音で手を叩かないタイプのお客さんが大半か。ただし今日は、飯守ファンもかなり詰めかけていたようで、そういう人たちがブラヴォーを叫んで客席を盛り上げていた。

 プログラムは、前半がベートーヴェンで、「《レオノーレ》序曲第3番」と、「交響曲第8番」。後半がワーグナーで、「《さまよえるオランダ人》序曲」、「《ローエングリン》第1幕前奏曲」、「《ニュルンベルクのマイスタージンガー》第1幕前奏曲」、アンコールに「《ローエングリン》第3幕前奏曲」。コンサートマスターは四方恭子。

 ベートーヴェンの2曲は、比較的大きな編成で、どっしりとした響きの裡に、風格を湛えて演奏された。「レオノーレ」ではやや遅いテンポが採られ、「8番」に入ると演奏もその作品の性格にふさわしく闊達に変化するものの、ここでもやはり、良き時代のドイツの指揮者のスタイルの流れを曳くような、重心豊かな、毅然とした音楽が続く。

 そして後半のワーグナーの作品に入るや否や、オーケストラの音量は突如として2倍ほど増大し、金管群の咆哮が壮烈に轟きわたる。これで弦のトレモロなどにもう少し分厚い力と陰翳が加われば文句ないのだが━━。いずれにせよ、この鳴りっぷりの良さには、特に「さまよえるオランダ人」など、久しぶりに昔、フランツ・コンヴィチュニー指揮の全曲盤を聴いて興奮した時の感覚が蘇ったくらいである。
 ベートーヴェンにしても、このワーグナーにしてもそうだが、いずれも飯守の個性が発揮されている。そこには、己の指揮スタイルを頑固に貫き続ける彼の信念が感じられる。

 演奏を聴いていると、どうも飯守と都響との相性は必ずしも良いとは感じられない。彼はもともとアンサンブルをぴたりと整えるタイプの指揮者ではないから、それはある程度オーケストラ側の自主性に任されることになろう。
 ただ、都響のアンサンブルは、今日はかなりガサガサしていて、とりわけ最強奏になると音が非常に硬くなり、美しさの片鱗も無くなってしまっていた。あのインバルから鍛えられて強固な均衡をつくり出したはずの都響も、いったん指揮者が変われば、こうもすべてが粗っぽくなってしまうのかと、些か落胆する。
 楽員の腕は相変わらず確かであることは感じられるし、マチネーだからと言って手を抜いているわけではないだろうけれども━━。
      ☞別稿 音楽の友5月号 Concert Reviews

コメント

なんでも盛り上げ

この演奏会へは行ってませんが・・・
最近思うんですが、日本では、ブラボーを言ってる人間の質が昔とかなり変わってきてると思います。
先生もお感じのような書き方ですが、最近の多くは本当にただ「盛り上げ」だけのように思えます。
中には、一曲毎に立ち上がって叫んでる者もいます。それも冒頭の「お通し」の序曲ようなのから。
「人それぞれだし、もうそういうおかしな時代なんだよ」と友人には言われますが、なんでもかんでもでは、逆に演奏者に失礼だと思えます。ラーメンのチャルメラでも立ち上がって叫ぶんでしょう。
はっきり言って不愉快です。
最近思うのは、レベルの低い者に合わせるのは釈然としませんが、もう日本では、叫ぶのも無しにすれば(ルール化)とさえ思います。
ああいう人間は、音楽会をアトラクションイベントのようにでも考えて来てるのではと思います。

コメントの件

たとえ「序曲」や小品であっても唯一無二の演奏に遭遇する事があります。 例を挙げれば、昨日聴いたばかりのNDRエルプ・フィル(K・ウルバンスキ指揮)(愛知県芸術劇場)。1曲目ではグリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲が演奏されました。無意味な弾き跳ばしは皆無で丁寧に創り込まれており、ピッコロが強調されていてモーツァルトの「後宮からの誘拐」のように聞こえて楽しかったです (今日演奏される「レオノーレ」第3番でもそれなりのものを出してくると予想されます)。少なくともこの指揮者は、1曲目の「序曲」を「お通し」「前座」、まして「遅刻対策」などとは捉えていないということです (東京響首席客演時代にもブラームス「悲劇的序曲」でとんでもない演奏をやってのけたこともあります。この時は、いきなりメインディッシュを出されたような気がした)。このような場合でのブラヴォーなら単なる「盛り上げ」ではなく、寧ろわかっている聞き手と私なら考えます。 確かに雰囲気、間を弁えない、いらぬブラヴォーも数多く存在する事も事実です (このブログでは此迄散々取り沙汰されているので繰り返しませんが)。それに本来、ブラヴォーは  叫ぶ  ものではないので興奮しすぎて汚い絶叫になっていたり、声が裏返ってしまっていたり、「ブウォウォーー!!」などとはっきり言えていないような場合、周囲は興醒めですね(その周囲も鼾をかいて寝ていたり、飲食したり、。その他諸々の雑音、雑念を発している輩ならね・・・・)。

一曲目の意味

オペラとコンサートとは若干意味合いは違うが、まあ一曲目はお通しとか突き出しの性格があると考えるのはごく普通の事。文献に当たればそのように考える音楽家らの考えも拾えるだろう。演奏会中継等でもよく言われている事。
お通しとか突き出しとかも料理の一品だ。これを手抜き料理のように考えてる人もいるのだろうか?それならそんな料理を出すような店には行かない事だ。
料理人(演奏家)にその意味合いを聞いてみるがいい。精一杯の演奏を常にする演奏家であっても、客前とリハーサルでやるのとは全く違うのは当たり前。メインディッシュに向けて、料理人は実際の客前で小手調べをして、高めていくのも必要なのだ。
凝り固まった思考は持ちたくない。一人身勝手な考えでもっての自己完結も…。
芸術を味わうには柔軟な思考や感性は必須だろう。

どちらが失礼か?

今どき、冒頭の序曲が“お通し”などと考えておられる方がいらっしゃるとは嘆かわしい。
オーケストラはその程度の意欲で前プロを組むのでしょうか。違うと思います。
(その程度のお考えしかできぬ方が、他人のことをとやかく言うのは、如何なものかと...)
一曲目でのブラヴォーも大いに結構と思います。良い演奏に感銘を受ければ、自然と声が出る場合もあります。

1曲目が「お通し」なら今日(ベルリン・コンツェルトハウス管)のように協奏曲から始まるコンサートの場合、ソリストはどのような意気込みで演奏に臨むのでしょうか? 知り合いじゃないので尋ねることは出来ないけれど、演奏を聴けば結果に全て表れるだろう (音だけではなく表情、態度でも推測することは出来るし)。ダメならもう行かなければいい。以前聴いた時は度胆を抜かれたが。

拍手声援の意味

関西の公演で一曲目のウィリアムテル序曲の後に立ち上がって、「ぐれっと、ぐれっと、ぐれっと」と大声で連呼するようなのを前に見ました。どうも「Great」と言いたいようです。掛け声で「Great」と言うのも全く意味不明。
周辺客の迷惑も考えない行為で呆れた記憶があります。
拍手とかブラボーとか、そもそも一体何の意味合いがあるのかを忘れ、ただ独善的にやってるのがこの頃少なくありません。
そういうマナーが解らない客がこの頃増えたように思います。情けない。

ジョナサン・ノットと東京交響楽団が、リゲティとパーセルを交互に休み無しに演奏したことがありました。その前には、リゲティ、バッハ、リヒャルト・シュトラウス、(EN ブラームス) と休み無しに演奏した後、ショスタコーヴィチというまさに一晩で人生の縮図と言ってもいいくらいの見事なコンサートがありました。 これもリゲティ、バッハは“お通し”ですか?絶対違うでしょ。 聴く側もそれに見合った覚悟、視聴態度が必要だと思います。

文献を当たればそりゃあるでしょう。でもそれはいつの時代の?話題は現在の音楽シーンについてでしょう?現代最先端の演奏家達はもっと進化しています。

訂正とお詫び

2回目のコメントでベルリン・コンツェルトハウス管の前プロを別の日と勘違いしていました。本当は「トリスタン」でした。私のコメントを読んでコンサートに足を運んだ人がいるとは思えないけど、間違った記述なので訂正してお詫び申し上げます。

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