2017-11

2017・1・14(土)秋山和慶指揮東京交響楽団

    サントリーホール  6時

 1月定期。メシアンの「忘れられた捧げもの」、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」、フローラン・シュミットの「サロメの悲劇」━━という、非常に意欲的なプログラムが組まれている。
 ジョナサン・ノットの音楽監督就任以来、東京響の定期での曲目編成には、こういう近・現代ものが極度に増えたような印象がある。かつてはアルブレヒト常任時代の読響、次いでアルミンク音楽監督時代の新日本フィルがこういった大胆路線で気を吐いていたものだが、今やそれは東京響に引き継がれたという感だ。
 今日のピアノ・ソロは小菅優、コンサートマスターは水谷晃。

 何を措いても、秋山和慶(桂冠指揮者)の指揮の巧いこと! 
 複雑で多彩な大管弦楽のパートを、見事に均整を保って微塵の隙もなく構築、明晰なサウンドを響かせる。正確過ぎて几帳面で面白味に不足する、という人もいるが━━私も彼のロマン派音楽においては同感な部分もあるが、このような近・現代のレパートリーに関しては、彼の指揮の鮮やかさに脱帽するほかはない。

 今日の演奏会でも、メシアンの作品は、あまりメシアンらしくない端整な佇まいを備えて演奏された。また、「パルジファル」とドビュッシーと、それに「惑星」の先取り?とが入り混じったようなフローラン・シュミットの「サロメの悲劇」は、たしかに端整さが勝ちすぎた演奏という印象はあったけれど、立派な構築であることに変わりはなかった。

 だが、今日のハイライトは何といっても、この2人の作曲家の作品を前後に置いて関連させた、矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」ではなかったろうか。小菅優のソロは闊達で素晴らしく、秋山と東京響の演奏も瑞々しく多彩で豊麗で、しかも純な清澄さにあふれていた。

 この曲、公開初演は1967年11月29日の東京文化会館、森正指揮のN響、中村紘子のソロによるもので、私はうろ覚えながら、どうもそれを現場で聴いたような記憶があるのだが━━当時のことだから、あまりピンとはこなかった。
 そもそも、あの頃聴いた日本のオーケストラ曲の多くは、おしなべて音が薄く、小奇麗ではあるが端整過ぎて冷たい、という印象だったのだ。当時録音されたレコードで聴いてもほぼ同じ感がするだろう。

 だがそれが不思議にも、今日のオケによるナマ演奏で改めて聴いてみると、驚くほど豊潤で多彩で、雄弁な音楽となって甦って来る。これは必ずしも私だけの感想ではないだろう。演奏スタイルの変遷か、オーケストラや指揮者のスタイルが変わったのか、などということまで考えてしまう。

 この矢代秋雄の「ピアノ協奏曲」も同様である。特にそのミステリアスな第2楽章が、恐ろしい緊迫感にあふれ、作曲者の言う通り、悪夢の中をさまようような不気味さで聴き手をぞっとさせることは、昔聞いた印象以上のものだ。この第2楽章ひとつ取ってみても、この曲が日本の作曲史における大エポックなのではなかったか、という気までして来る。
 先日の柴田南雄の作品集と同様、日本の先人作曲家たちの作品を見直すことは、私たちに大きな宝をもたらすことになりそうである。

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