2017-05

2016・10・16(日)マリインスキー・オペラ 「エフゲニー・オネーギン」

        東京文化会館大ホール  2時

 「ドン・カルロ」の演出のことはクソミソに言ってしまったけれど、こちらチャイコフスキーの「エフゲニー・オネーギン」でのアレクセイ・ステパニュクの演出の方は、なかなか良い。
 マリインスキーの同作品としては、2003年に持って来たプロダクション(レゼール&コーリエ演出)も面白かったが、まとまりという点では、どちらかといえば今回の方に分があるのではないかと思う。

 もちろん先鋭的なものではなく、演技にはある程度の様式的なスタイルも見られるものの、概して手堅くストレートに、しかも過不足のない手法で人間模様を描き出すといったタイプの演出である。
 第1幕大詰で、オネーギンから慇懃無礼に一蹴され、自分の書いた手紙を返されたタチヤーナがそれを口惜しそうに自ら破り捨てる動作には、夢見る少女が秘める激しいプライドと、のちに公爵夫人となる女性の強さが暗示されていただろう。
 また全曲の大詰では、逆の立場となったオネーギンが、背景に開いた幕の彼方に拡がる一面の「霧」の中へ絶望のうちによろめき去り、姿を消して行くという光景となっていたが、これも余韻を感じさせる手法である。

 なお第3幕前半のペテルブルクの舞踏会の場面では、客たちは豪華に着飾ってはいるものの、リアルな動きを一切せず、ただ影のように動いているだけ、という構図が採られていた。これは、ポクロフスキーが晩年に東京へも持って来た演出の「ペテルブルクの冷徹で非人間的な社交界を描き出す」コンセプトと一脈通じるものがあろう。舞台美術(アレクサンドル・オルロフ)も、基本的に簡素だが要を得ていた。

 主役歌手陣は、どちらかと言えば若い人が多いが、安定していたのではないか。
 エカテリーナ・ゴンチャロワ(タチヤーナ)は声も容姿も美しく、田舎娘時代と社交界の花形時代の演じ分けも成功していた。ロマン・ブルデンコ(エフゲニー・オネーギン)は堂々たる体格で、ニヒルな青年らしくない風貌と演技だが、しかしこれはこれで立派なものだった。

 ディミートリー・コルチャック(レンスキー)も有望株で、今春の新国立劇場での「ウェルテル」の題名役を歌った時にも声の伸びの良いのに感心したが、今夜の詩人役も素晴らしい。ただ、第2幕後半でのあの有名なアリアは、ちょっと抑え気味に━━絶望しているさまを強調して━━歌っていたのではないかしらん。

 エドワルド・ツァンガ(グレーミン公爵)は、「退役した老将軍」としては随分艶々した顔に見えるが、声は悪くない。ユリア・マトーチュキナ(オリガ)は目立たぬ存在に終始、エレーナ・ヴィトマン(乳母)が演技でちょっといい味を出し、アレクサンドル・トロフィモフ(家庭教師トリケ)は薄気味悪いメイクと演技と声で、出番は少ないものの特異な味を出していた。こういう脇役の存在は舞台では重要である。

 ゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団は、今回の日本でのオペラ公演では、総じて見事な出来を示していたと思う。
 オーケストラは━━ひところはかなり荒れていた時期もあったが━━ゲルギエフが育てた若手楽員が今や中核を為し、良いアンサンブルと音色を形づくっているようである。弦には、泡立ちクリームのような美しさが漂う瞬間もある。ましてロシアものと来れば、共感と愛情が作品に反映されるのも当然であろう。
 ゲルギエフのテンポはもともと遅い方だが、大詰のオネーギンとタチヤーナの二重唱でのテンポは、数年前にMETで指揮した時よりも、さらに遅くなっていた。
       ⇒モーストリー・クラシック新年号 公演Reviews

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