2017-09

2016・9・7(水)ユジャ・ワン ピアノ・リサイタル

  サントリーホール  7時

 プログラム冊子には曲目変更を知らせる紙が挟んであったが、開演前の場内アナウンスで更なる変更が告げられ、しかもいざ本番になったら、予告なしに更に別の曲が追加される、という不思議なリサイタルになった。
 それでも文句は出ないようで。━━若い女性ピアニストなのに、何だかホロヴィッツかリヒテルか、といった神がかり的な雰囲気になって来た。まあ私としては、「ハンマークラヴィーア・ソナタ」さえ弾いてもらえればいいや、という心境だったのだったけれど。

 変更された最初のプログラム、シューマンの「クライスレリアーナ」は、無造作と思えるほど開放的な表情の、きらきらとした音で演奏が開始された。これは、古来語られて来たロマン派の詩人シューマンといったイメージ━━曖昧な表現には違いないが、そのニュアンスはだれにでも解るものだろう━━からは遠く離れて、驚くほど身近でリアルなイメージを感じさせる。
 一つ一つの音が真珠か宝石のごとく煌き、何の屈託もない若々しい躍動に充ちてはいるが、遅いテンポの個所での沈潜ぶりも目立つ。
 シューマンの音楽からこのような、全く異なった世界を見つけ出してみせる彼女の感性は、驚くべきものだ。欧州の伝統に囚われずに済む東洋人ピアニストならではの強みかもしれない。

 第1部の演奏曲目はこれしかアナウンスされなかったので、当初の発表プロ(スクリャービン、ショパン、グラナドス)より随分少ないなと訝っていたら、彼女は今度はタブレットの楽譜を持って出て来て、カプースチンの「変奏曲作品41」を弾き始めた。これはまさしく身も心も躍動するといった演奏で、ホール内はいっぺんに活気づく。

 だが私が今夜本当に心を打たれたのは、そのあとに演奏されたショパンの「バラード第1番」である。
 打って変わって翳りの濃い音色と、沈潜した表情で弾き始められたこのバラードは、鋭く引き締まっているが柔軟で、一つのフレーズから次のフレーズに移行する僅かの瞬間にさえ、「来たるべきもの」への強い期待を抱かせてしまうといった、強い集中力にあふれた演奏だったのである。こんなに若いピアニストなのに、こんなにも凄い音楽をつくり出すとは、何という人なのだろう?

 ただし、第2部での「ハンマークラヴィーア・ソナタ」は、こちらの期待が大きすぎたか、という感。明るく、すべての音符が透けて見えるような、開放感にあふれた音楽になっていて、それはそれで興味深かったが━━ベートーヴェンの音楽から隙のない構築性や巨人的な風格と緊迫性、強靭な意志力などの特性が完全に拭い去られてしまった時、そこに残るものは・・・・などと考えさせられたのである。

 あとはアンコール。シューベルト~リストの「糸を紡ぐグレートヒェン」が素晴らしく陰影に富んでいた。そのあとには、プロコフィエフの第7ソナタの「プレチピタート」、ホロヴィッツ編の「カルメン変奏曲」、ヴォロドス&サイ編の「トルコ行進曲」(モーツァルトの方)、カプースチンの「トッカティーナ」と、延々と続いたが、威勢のいい曲と演奏では途端にスタンディング・オヴェーションになる客席の沸騰振りに少々疲れ、最前のシューベルトやショパンの残像を失いたくなかったので、そこで失礼することにした。あとで聞けば、そのあとにラフマニノフやグルックの静かな曲を2曲演奏してくれていたそうだが・・・・。

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