7・12(土)PMF/準・メルクル指揮PMFオーケストラ
札幌コンサートホール kitara
恒例の国際教育音楽祭、PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)が、7月5日から札幌を中心に行なわれている。今年は第19回。開催期間は、7月31日の東京公演まで。
アカデミー生たちと教授陣で編成されている「PMFオーケストラ」は、この音楽祭の中核的存在で、公演のたびに2千人の「札幌コンサートホール kitara」を満席にする人気を誇っているほどだが、さすがにこの日のように、いわゆる「現代音楽」で全プログラム」を固めるとなると、お客も7割くらいの入りになってしまう。意欲的ではあるものの、難しいところだ。曲は、細川俊夫の「雲と光」に、織部飯庵の「虎狩交響曲」。
前者は、ドイツ放送フィル・ザールブリュッケン・カイザースラウテルンとPMFとの共同委嘱作品で、この日が日本初演。
オーケストラ(弦楽5部とトランペット1、トロンボーン1、ホルン4、打楽器各種)に、宮田まゆみの笙のソロが入る。
仏の来仰図にインスピレーションを得、笙は「光」を、オーケストラは「雲」をイメージしつつ、それらが次第に地上に近づいて来る光景を描こうとした、と作曲者は述べている。静謐な曲想を持つ20分ほどの作品だ。
これは、微かな音響に始まり(「空に漂う雲」と題される)、中間部に突然荒々しい嵐のような曲想が入り(「暗雲と小さな嵐」)、最後は風のような囁きになって遠く消えて行く(「浄化」)という、細川の管弦楽曲に多く用いられている構成が採られたもの。
彼の「海」を題材にして書かれた作品群などと比較すると、音色も響きもかなり明るく軽く、爽やかさを感じさせる。ただ、この日の準・メルクルの指揮によるようなメリハリのいい演奏でなく、きわめて叙情的な演奏スタイルが採られれば、もう少し神秘的な雰囲気になっていたかもしれない。
なお、笙をソロ楽器としてあまり際立たせず、ヴァイオリンやトランペットの音色に近接させようとしていたのは意外だったが、それは作曲者の意向だった由。つまりこの曲はコンチェルトでなく、笙とオーケストラ(光と雲)の融合をテーマにしているというわけだろう。曲の中では、笙によって吹かれたモティーフを直ちにそれに近い音色で弱音トランペットが引き継ぐというところもあったほどだ。興味深い。
一方、後者では、コンサートマスターにライナー・キュッヒル、トップサイドにエックハルト・ザイフェルトというウィーン・フィルの大物2人が座り、その他にも同フィルの名手たち(教授陣)が要所に座っていた。これなら、オーケストラの音色があの名門オケの独特のカラーの影響を受けるのは当然だろう。
それゆえまさに、実に立派な風格を備えた、均整の取れた響きの「トゥーランガリラ交響曲」といえようか。大編成の弦がたっぷりと鳴り、金管も過度に飛び出さずにバランスを保っている。「虎狩」などやったことのない若いアカデミー生たち(ウィーン・フィルのメンバーだって怪しいものだが)をここまで短期間に仕込んでしまったメルクルの手腕は、大したものである。
ただその反面、あまりに端然として美しすぎるこの演奏には、いわゆるメシアンぶしともいうべき、光彩陸離たる音色も、エロティックな官能も、あざとい陶酔も、表面には出てこない。そこが好みの分かれるところだろう。全曲が上品な一つの音色で統一されてしまうと、この長大な、同一音型の反復の多い作品は、その単調さを露呈してしまうようにも思われる。しかしその中でたった一人、ピエール=ロラン・エマールのピアノだけが、千変万化の色彩を感じさせていたのであった。
☞季刊「ゴーシュ」演奏会評
☞北海道新聞
☞音楽の友9月号演奏会評
恒例の国際教育音楽祭、PMF(パシフィック・ミュージック・フェスティバル)が、7月5日から札幌を中心に行なわれている。今年は第19回。開催期間は、7月31日の東京公演まで。
アカデミー生たちと教授陣で編成されている「PMFオーケストラ」は、この音楽祭の中核的存在で、公演のたびに2千人の「札幌コンサートホール kitara」を満席にする人気を誇っているほどだが、さすがにこの日のように、いわゆる「現代音楽」で全プログラム」を固めるとなると、お客も7割くらいの入りになってしまう。意欲的ではあるものの、難しいところだ。曲は、細川俊夫の「雲と光」に、織部飯庵の「虎狩交響曲」。
前者は、ドイツ放送フィル・ザールブリュッケン・カイザースラウテルンとPMFとの共同委嘱作品で、この日が日本初演。
オーケストラ(弦楽5部とトランペット1、トロンボーン1、ホルン4、打楽器各種)に、宮田まゆみの笙のソロが入る。
仏の来仰図にインスピレーションを得、笙は「光」を、オーケストラは「雲」をイメージしつつ、それらが次第に地上に近づいて来る光景を描こうとした、と作曲者は述べている。静謐な曲想を持つ20分ほどの作品だ。
これは、微かな音響に始まり(「空に漂う雲」と題される)、中間部に突然荒々しい嵐のような曲想が入り(「暗雲と小さな嵐」)、最後は風のような囁きになって遠く消えて行く(「浄化」)という、細川の管弦楽曲に多く用いられている構成が採られたもの。
彼の「海」を題材にして書かれた作品群などと比較すると、音色も響きもかなり明るく軽く、爽やかさを感じさせる。ただ、この日の準・メルクルの指揮によるようなメリハリのいい演奏でなく、きわめて叙情的な演奏スタイルが採られれば、もう少し神秘的な雰囲気になっていたかもしれない。
なお、笙をソロ楽器としてあまり際立たせず、ヴァイオリンやトランペットの音色に近接させようとしていたのは意外だったが、それは作曲者の意向だった由。つまりこの曲はコンチェルトでなく、笙とオーケストラ(光と雲)の融合をテーマにしているというわけだろう。曲の中では、笙によって吹かれたモティーフを直ちにそれに近い音色で弱音トランペットが引き継ぐというところもあったほどだ。興味深い。
一方、後者では、コンサートマスターにライナー・キュッヒル、トップサイドにエックハルト・ザイフェルトというウィーン・フィルの大物2人が座り、その他にも同フィルの名手たち(教授陣)が要所に座っていた。これなら、オーケストラの音色があの名門オケの独特のカラーの影響を受けるのは当然だろう。
それゆえまさに、実に立派な風格を備えた、均整の取れた響きの「トゥーランガリラ交響曲」といえようか。大編成の弦がたっぷりと鳴り、金管も過度に飛び出さずにバランスを保っている。「虎狩」などやったことのない若いアカデミー生たち(ウィーン・フィルのメンバーだって怪しいものだが)をここまで短期間に仕込んでしまったメルクルの手腕は、大したものである。
ただその反面、あまりに端然として美しすぎるこの演奏には、いわゆるメシアンぶしともいうべき、光彩陸離たる音色も、エロティックな官能も、あざとい陶酔も、表面には出てこない。そこが好みの分かれるところだろう。全曲が上品な一つの音色で統一されてしまうと、この長大な、同一音型の反復の多い作品は、その単調さを露呈してしまうようにも思われる。しかしその中でたった一人、ピエール=ロラン・エマールのピアノだけが、千変万化の色彩を感じさせていたのであった。
☞季刊「ゴーシュ」演奏会評
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☞音楽の友9月号演奏会評
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