2017-05

2016・6・11(土)広上淳一指揮 札幌交響楽団

     札幌コンサートホールkitara  2時

 札幌へ赴き、「本拠地Kitaraでの札響」を聴く。
 このオーケストラは、このホールで聴いた時がいちばん良い。ホールのアコースティックと一体になった響きに独特の色合いがある。これはわが国では、オーケストラ・アンサンブル金沢と二つだけの、稀有の例である。

 札響の現在の首席指揮者はマックス・ポンマーだが、今日は客演の広上淳一の指揮だ。 
 メインのプログラムは、ショスタコーヴィチの「交響曲第8番」。そして前半は、広上の盟友ボリス・ベルキンをソリストに迎えたシベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」だった。コンサートマスターは大平まゆみ。

 「8番」は、冒頭の低弦の響きからして艶やかで力があり、大交響曲の開始部にふさわしい劇的な力を感じさせる。だが札響は、少しも力まず無理をせず、楽々と余裕を持って音楽を展開させて行くという感であった。これは、オーケストラを「自然に演奏させて行く」という広上の指揮のたまものであろう。

 響きに明晰さが不足する瞬間も全くなかったわけではないし、全管弦楽が咆哮する個所では第1ヴァイオリン群にもう少しパワーが欲しいという気がするところもあったのは事実だが、それでも概して均衡の豊かな、まとまりのいい演奏だった。各パートのソロも、すこぶる快調だった。

 こうしたオーケストラの響きをつくり出して行く広上淳一の指揮は実に卓越したもので、まさにこれこそが、あの京都市響を国内屈指の演奏水準にまで高めた魔術的手腕なのであろう。
 では、その彼が札響から引き出したショスタコーヴィチの「8番」は、どんなものだったか? ふつう、この曲には、どこかに苦悩、絶望、絶叫、怒号とかいったような、悲劇的な要素を感じさせるところが多いものだが、この広上=札響の演奏では、そういう特徴は、むしろ薄い。

 もちろん、ショスタコーヴィチ特有の劇的な爆発の個所はそれにふさわしく、ホールを揺るがせるほどに激しいけれども、ただそこには、あまり暗い翳りは感じられないのだ。
 全曲大詰めの個所でも、苦悩や闘争に疲れた挙句の果てに辿り着いた白々とした虚しさといったものではなく、むしろ次第に浄化され、安息に達して終るというように、私には聞こえた(この終結は、実に美しい演奏だった)。

 ショスタコーヴィチの交響曲をどれもこれも悲劇の権化のように解釈する聴き手には、この演奏はどう感じられただろうか? 
 だがいずれにせよ、誕生してから既に70年以上も経たこの作品が、このように演奏されたとしても、それはむしろ作品の多様性を浮き彫りにした一例と受け取られてもいいだろう。
 激しいけれども、大仰には悲劇性を誇示しない、ヒステリックにならないショスタコーヴィチ像は、私には非常に興味深く、また好ましくもあった。

 シベリウスの「ヴァイオリン協奏曲」でも、広上=札響の自然な流れの演奏は好ましく保たれていた。だが音楽の陰翳は豊かである。ベルキンも、相変わらず個性的だが、昔の演奏よりは少し淡白な表情に変わって来たような気もしないでもない。
        ☞別稿 北海道新聞

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