2017-05

2016・6・6(月)クラウス・フローリアン・フォークト「美しき水車屋の娘」

      東京文化会館小ホール  7時

 ローエングリンを素晴らしく歌ったばかりの、クラウス・フローリアン・フォークトのリサイタルを聴く。
 ヨプスト・シュナイデラート(ピアノ)との協演で、シューベルトの「美しき水車屋の娘」と、アンコールにブラームスの「マゲローネのロマンス」からの第6曲と、「5つの歌曲」の第3曲が歌われた。ホールは超満員。さすがの人気だ。

 「美しき水車屋の娘」が、これほど爽やかな表情で歌われた例を私は知らない。彼の声の若々しさ、明るさ、爽快さが、主人公の若者の気負いにあふれた旅立ち、夢と憧れ、愛の情熱と苦悩を、たとえようもないほど美しく、闊達に描き出す。

 最終曲の「小川の子守歌」における彼の歌唱に表現されていたのは、恋を失った絶望感ではなく、むしろ一つの「美しい」体験を終え、これからさらに新しい旅に向かおうという若者の姿であろう。

 このミュラーの詩は、大半を主人公が一人称で歌っているのに、第19曲第2節では唐突に「小川」が歌い、第2曲(どこへ?)の最後の一節と終曲の「小川の子守歌」では「語り手」が主人公を見守りつつ歌う、という、あまり一貫性のない構成になっているので、演奏者には工夫が求められるところだろう。
 だが今回のフォークトは、主人公の若者に同化したような歌唱を中心としつつも、そのあたりの区別をさすがに心得て歌っていたようだ。
 私だけの受け取り方かもしれないが、「小川の子守歌」の途中から、彼の歌には、「こうして若者は、ある貴重な体験を経て、逞しく成長して行ったそうです。これが、その若者の物語でした」とでもいったような、バラード的な語り手の雰囲気が、驚くほどはっきりと現れて来ていたのである。

コメント

美しい水車屋の娘

こんにちは。興味深く拝見しました。フォークトの美声では若者の絶望ではなく、新しい旅立ちという印象をお受けになるのもわかります。しかし、旅といっても、この世からあの世への旅立ちでしょう-終曲のピアノは弔いの鐘のようにもきこえます。第19曲は小川と若者の対話になっていますが、このときもう彼は完全に自分の世界に入ってしまい、自然としか対話できなくなっているのだと私は思っています。終曲で小川が子守唄を歌っているのは、すでに彼がこの世から旅立ち、川底に沈んでいるからです。小川はこの世の苦しみから解き放たれた彼を受け入れて、「さすらう者よ、疲れた者よ、おまえは家にいる」と歌い、さらに「おやすみ、おやすみ、すべてが目覚めるまで(復活の日が来るまで)」と慰めのようにやさしくささやき、「天空は彼方、なんと遠くはるかに」と締めくくられます。シューベルトはすばらしい。何度きいても心に沁みる歌曲ですね。

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