7・4(金)旅行日記第1日
エクサン・プロヴァンス音楽祭「ジークフリート」
エクサン・プロヴァンス大劇場
シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイクのこの「指環」サイクルの演出には、本当にアイディアも工夫も見られない。第1幕の幕が上がった瞬間、相変わらずこの程度か、と落胆させられるような経験はそうそう無いものだが、今回はまさにそれだ。
「ラインの黄金」からずっと、ほとんどの幕で使用されてきている背景の大きな壁には、炎の映像がちらりほらり。その前でブリュンヒルデが階段の中段に置かれた椅子の上で寝ている。要するに「ワルキューレ」終幕場面を再現しているわけだが、これを第3幕の「目覚めの場」でなく、こんなところで見せてしまうというのは、如何なものか。
そもそも第1幕はミーメの仕事場であり、彼の関心事はファーフナーの洞窟にあるのであって、岩山にではないはず。演出家としてはここで奇を衒ったつもりだろうが、説得性は感じられぬ。
ブリュンヒルデが椅子とともにセリで沈むと、ミーメと鍛冶道具などが上がって来る。あとは何の変哲もない進行だ。
第2幕の舞台も同じような壁で、奥に樹木の茂みらしきものが一つ、洞窟は壁の割れ目からの光で象徴される。ファーフナーは剣に刺されたまま血まみれのスーツにネクタイ(「ラインの黄金」ではそういう姿だったっけか?)で現われ、またアルベリヒはミーメが殺されるまでずっと下手の一角で場面を見守っている。小鳥は上部からの吊りで盛んに飛び回る(姿かたちは、森の小鳥というより、カモメだ)。
ジークフリートが母を想う個所で、奥から「ジークリンデの亡霊」が現れるのがちょっと変った趣向だが、こんなのは大勢に影響はなく、ただの付け足しに過ぎぬ。
第3幕ではエルダがベッドに伏したまま最初から出ている。このベッドはのちにジークフリートとブリュンヒルデにより使われることになる。あとは例により壁の炎の映像。
ざっとこんな感じだ。
この舞台に、一体何か新しい発見があるだろうか?
もしこの上演が「セミ・ステージ形式」とでも銘打たれていれば、それにしては手が入っている、と賞賛されるかもしれない。が、音楽祭(来春のザルツブルク・イースターもだが)の舞台上演プロダクションとしては、どうにも貧弱な発想だ。この演出家を起用したのがラトルであるとすれば、彼自身にも大誤算を生んだという責任がある。
しかし、そのラトルとベルリン・フィルは、今回もまた音楽的には極めて並外れた力量を示した。特にワーグナーのオーケストレーションが大変貌を遂げた第3幕の音楽では、堂々たる風格と厚みのある響きと幻想的な壮大さが演奏に漲り、巨大なシンフォニーとしての音楽の魅力が余す所なく発揮される。「ワルキューレ」におけるようにライト・モティーフが一つ一つ強調されていなかったのは、多くのモティーフが渾然一体となって音楽の流れを創っているという性格のためでもある。
今回も昨年同様、G列(前方3列目)ほぼ中央という席の位置もあって、ベルリン・フィルの絶妙な音色が堪能できただけでなく、歌手の声もさほど消されずに楽しむことができた。演出が愚作であると知りつつもわざわざ出かけたのは、この音楽が聴きたかったためにほかならぬ。
ジークフリートのベン・ヘップナーは、最近かなり痩せたような気がする。顔つきも、昔と全然違う。これがヘップナー?という印象だ。そのせいでもあるまいが、最初は好調だった声が、第3幕のブリュンヒルデとの二重唱に入るところから突然パワーを失った。終りの方では声が一瞬ひっくり返る事態もあった。しかも終り近くには、それまで3方を囲っていた壁のうち左右の2つが引込んでしまうのだから、歌手にとっては反響版の大半を失うわけで、酷でもある。
ブリュンヒルデはカタリーナ・ダライマン、こちらは随分余裕のある体格になった。エヴァ・ヨハンソンのようなたっぷりした余裕のある声ではないけれど、ジークフリートの声を庇って最後を飾ったといえよう。
ミーメのブルクハルト・ウルリヒは声も演技も悪くないが、この役にしては長身だ。アルベリヒのデイル・デューシングは、今日はあまり声が伸びなかったようである。これに対しさすらい人のウィラード・ホワイトは快調。ファーフナーのアルフレッド・ライターもかなり底力のある声である。エルダのアンナ・ラーソンはもちろん手堅い。
以上、演技はいずれも特に際立ったところはないが、それは演出家の責任である。森の小鳥役のモイカ・エルドマンは、声が美しい。
→モーストリー・クラシック10月号「夏の音楽祭速報」(8月20日発売)
シュテファーヌ・ブラウンシュヴァイクのこの「指環」サイクルの演出には、本当にアイディアも工夫も見られない。第1幕の幕が上がった瞬間、相変わらずこの程度か、と落胆させられるような経験はそうそう無いものだが、今回はまさにそれだ。
「ラインの黄金」からずっと、ほとんどの幕で使用されてきている背景の大きな壁には、炎の映像がちらりほらり。その前でブリュンヒルデが階段の中段に置かれた椅子の上で寝ている。要するに「ワルキューレ」終幕場面を再現しているわけだが、これを第3幕の「目覚めの場」でなく、こんなところで見せてしまうというのは、如何なものか。
そもそも第1幕はミーメの仕事場であり、彼の関心事はファーフナーの洞窟にあるのであって、岩山にではないはず。演出家としてはここで奇を衒ったつもりだろうが、説得性は感じられぬ。
ブリュンヒルデが椅子とともにセリで沈むと、ミーメと鍛冶道具などが上がって来る。あとは何の変哲もない進行だ。
第2幕の舞台も同じような壁で、奥に樹木の茂みらしきものが一つ、洞窟は壁の割れ目からの光で象徴される。ファーフナーは剣に刺されたまま血まみれのスーツにネクタイ(「ラインの黄金」ではそういう姿だったっけか?)で現われ、またアルベリヒはミーメが殺されるまでずっと下手の一角で場面を見守っている。小鳥は上部からの吊りで盛んに飛び回る(姿かたちは、森の小鳥というより、カモメだ)。
ジークフリートが母を想う個所で、奥から「ジークリンデの亡霊」が現れるのがちょっと変った趣向だが、こんなのは大勢に影響はなく、ただの付け足しに過ぎぬ。
第3幕ではエルダがベッドに伏したまま最初から出ている。このベッドはのちにジークフリートとブリュンヒルデにより使われることになる。あとは例により壁の炎の映像。
ざっとこんな感じだ。
この舞台に、一体何か新しい発見があるだろうか?
もしこの上演が「セミ・ステージ形式」とでも銘打たれていれば、それにしては手が入っている、と賞賛されるかもしれない。が、音楽祭(来春のザルツブルク・イースターもだが)の舞台上演プロダクションとしては、どうにも貧弱な発想だ。この演出家を起用したのがラトルであるとすれば、彼自身にも大誤算を生んだという責任がある。
しかし、そのラトルとベルリン・フィルは、今回もまた音楽的には極めて並外れた力量を示した。特にワーグナーのオーケストレーションが大変貌を遂げた第3幕の音楽では、堂々たる風格と厚みのある響きと幻想的な壮大さが演奏に漲り、巨大なシンフォニーとしての音楽の魅力が余す所なく発揮される。「ワルキューレ」におけるようにライト・モティーフが一つ一つ強調されていなかったのは、多くのモティーフが渾然一体となって音楽の流れを創っているという性格のためでもある。
今回も昨年同様、G列(前方3列目)ほぼ中央という席の位置もあって、ベルリン・フィルの絶妙な音色が堪能できただけでなく、歌手の声もさほど消されずに楽しむことができた。演出が愚作であると知りつつもわざわざ出かけたのは、この音楽が聴きたかったためにほかならぬ。
ジークフリートのベン・ヘップナーは、最近かなり痩せたような気がする。顔つきも、昔と全然違う。これがヘップナー?という印象だ。そのせいでもあるまいが、最初は好調だった声が、第3幕のブリュンヒルデとの二重唱に入るところから突然パワーを失った。終りの方では声が一瞬ひっくり返る事態もあった。しかも終り近くには、それまで3方を囲っていた壁のうち左右の2つが引込んでしまうのだから、歌手にとっては反響版の大半を失うわけで、酷でもある。
ブリュンヒルデはカタリーナ・ダライマン、こちらは随分余裕のある体格になった。エヴァ・ヨハンソンのようなたっぷりした余裕のある声ではないけれど、ジークフリートの声を庇って最後を飾ったといえよう。
ミーメのブルクハルト・ウルリヒは声も演技も悪くないが、この役にしては長身だ。アルベリヒのデイル・デューシングは、今日はあまり声が伸びなかったようである。これに対しさすらい人のウィラード・ホワイトは快調。ファーフナーのアルフレッド・ライターもかなり底力のある声である。エルダのアンナ・ラーソンはもちろん手堅い。
以上、演技はいずれも特に際立ったところはないが、それは演出家の責任である。森の小鳥役のモイカ・エルドマンは、声が美しい。
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