2017-08

2016・3・21(月)アンナ・ネトレプコ スペシャル・コンサート

     サントリーホール  6時

 テノールのユシフ・エイヴァゾフと、ヤデル・ビニャミーニ指揮の東京フィルが協演してのオペラ・コンサート。

 アンナ・ネトレプコがソロで歌ったのは、チレアの「アドリアーナ・ルクヴルール」から「私は神の卑しいしもべです」、ヴェルディの「トロヴァトーレ」から「穏やかな夜」、プッチーニの「蝶々夫人」から「ある晴れた日に」、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」から「亡くなった母が」、アンコールでのカールマンの「チャールダシュの女王」から「山こそ我が故郷」。

 一方、エイヴァゾフがソロで歌ったのが、チレアの「アルルの女」から「フェデリーコの嘆き」、「トロヴァトーレ」から「見よ、恐ろしい炎を」、プッチーニの「トスカ」から「星は光りぬ」、「アンドレア・シェニエ」から「5月の晴れた日のように」、アンコールでのプッチーニの「トゥーランドット」から「だれも寝てはならぬ」。

 そして、2人がデュオで歌ったのが、ヴェルディの「オテロ」から第1幕の2重唱「すでに夜も更けた」と、「アンドレア・シェニエ」から第3幕の2重唱、アンコールでのクルティスの「忘れな草」。

 さらに、オーケストラだけの演奏が、ヴェルディの「運命の力」序曲と「アッティラ」序曲、プッチーニの「マノン・レスコー」間奏曲。━━こういう、盛りだくさんのプログラムだった。

 ネトレプコは、本当に上手くなった。20年前の可憐な新人ソプラノの時代から取材かたがた聴いて来ている者にとっては、感無量のものがある。つい数年前までは気になっていた低音域の声も、ほぼ完璧になった。あの独特のまろやかな声の響きと表情、それに輝かしい存在感は、歌手としての最高の魅力である。

 ただし、絶賛してばかりもいられない。こうしてリサイタルの形でいろいろな役柄を聴き比べてみると、どうも、どのキャラクターも全て同じような歌唱の表現になってしまうのが気になる。豊麗さのみが目立って、やや単調な印象を免れないのだ。
 たとえば、アドリアーナやレオノーラ(「トロヴァトーレ」)は見事な表現だと思うが 蝶々夫人はあまりに滑らかすぎて苦悩の表情に不足するだろうし、マッダレーナ(「アンドレア・シェニエ」)にも、もう少し感情の襞の表現といったものが欲しい。

 とはいえ、昨年ザルツブルクでレオノーラを聴いた時には、舞台での演技があったためか、かなり感情の起伏の激しい、劇的な歌い方をしていたのは事実である。生来のオペラ女優たる彼女のことだから、舞台で芝居をしながら歌えば、他の役柄でももっと劇的で感情豊かな歌唱を聴かせるようになっているかもしれない。「山こそ我が故郷」での華やかなエンターテイナーぶりは、何ものにも替えがたい才能だ。

 共演のエイヴァゾフは、大スターのネトレプコに比べ、拍手も最初はちょっと薄くて損な役回りかという気もしたが、いざ歌い出すとこれがなかなかのもの。マンリーコでは高音を鮮やかに決めて大拍手を浴び、最後の「だれも寝てはならぬ」ではついに場内を熱狂させた。アンドレア・シェニエも、デル・モナコ的な英雄的詩人のタイプでなく、叙情的な詩人の役柄と解釈すれば、適役のうちに入るだろう。
 ただ、彼の声質と表情からすると、どうみても、英雄オテロのガラではない。それにしてもこのテノール役が付け足し的存在にならず、堂々ネトレプコと張り合うパワーを発揮していたことは幸いだった。

 なお「アンドレア・シェニエ」の最後で、2人の名を呼ぶ係の役を歌った狩野賢一は、たった2声だったが、結構力強い声を聴かせていた。
 東京フィルは好演。指揮のビニャミーニは、まだ経験が浅い人らしく、コンサート形式で歌とバランスを取ってオーケストラを鳴らす技術は、あまり上手くないようである。

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