2017-03

2016・3・8(火)新国立劇場 ヤナーチェク「イェヌーファ」(4日目)

     新国立劇場オペラパレス  6時30分

 ベルリン・ドイツオペラのプロダクションを持ってきたもの。
 クリストフ・ロイの演出とディルク・ベッカーの美術による極めてシンプルな舞台で、白色の閉鎖的な箱のような空間の中に繰り広げられる心理劇といった趣を呈する。

 背後の壁は時たま開け放たれ、外部世界との接触も描くが、物語は概して圧迫された閉鎖的空間の中で進んで行く。第2幕後半での吹雪も視覚的には行なわれず、そこでの激しい音楽はただコステルニチカ(ジェニファ・ラーモア)の心の内面の嵐=苦悩を象徴するのみになる。
 ラストシーン、困難を乗り越えて結ばれたイェヌーファ(ミヒャエラ・カウネ)とラツァ(ヴィル・ハルトマン)が手を取り合って出て行く開放された空間は、明るい野原ではなく、ただ暗い、何も見えない闇である。それは2人の行く手が決して明るくないことを暗示するかのようで、ここは実に印象的な幕切れであった。

 歌手陣は、今回は粒ぞろいで、優れていた。ブリヤ家の気位の高い女主人を歌い演じたハンナ・シュヴァルツの、鋭い歌唱でありながら、ただ権柄づくでない、どこかに温かみのある演技は見事だった。こういう人の存在が、音楽と舞台を引き締める大きな要因になるのだ。

 事実上の主役ともいうべき前出のコステルニチカ(教会のおばさん)にジェニファ・ラーモアを配したことも成功で、プライドは高いが非常に温かい人間味を感じさせるというこの演出の描き方を、この上もなく素晴らしく具現させていた。オペラの冒頭、彼女が殺人容疑で取り調べ室に送られて来たという設定で開始されるのだが、そこでの演技から早くも彼女の「考え深い、悩める義母」の性格が浮き彫りにされていたのではないだろうか。

 シュテヴァはジャンルカ・ザンピエーリで、遊び人というタイプに見えないのはちょっと問題かもしれないが、村の成金青年という感じはよく出ている。前述のハルトマンは、いかにも素朴で純情な村の青年というラツァの役柄をよく描き出した。
 かんじんのイェヌーファを歌い演じたカウネが、歌唱はいいのだが、演技がちょっと迫真力を欠くのが気になる。が、この人はバイロイトの「マイスタージンガー」のエーファでも大体こんな調子だったから、仕方がなかろう。

 脇役の日本人歌手たち━━萩原淳、志村文彦、与田朝子、針生美智子、鵜木絵里、小泉詠子、吉原圭子といった人々も、こういう東欧の民族色のあるオペラでは、嵌った歌唱を聴かせてくれる。ただ、芝居はちょっと力み返ってオーバーなところもあるけれど。

 トマーシュ・ハヌスの指揮する東京交響楽団が、今回は良い演奏をしてくれた。少し硬質ではあるものの、引き締まって量感もある快演である。
 この指揮者は、聴いたのは多分初めてだが、さすがお国柄というべきか。大きなパウゼを活用しつつ、ヤナーチェクの音楽のモダンな要素と、民謡調丸出しの要素とを巧みに対比させ、起伏の大きな演奏を形づくっていた。

 この上演に対し、ベルリン・ドイツオペラからの借り物を使っているようでは新国立劇場の名が廃れるとか何とか、怒号している人もいるようだ。が、新国立劇場だろうと二期会だろうと、ヨーロッパでのこういう良いプロダクションをわが国に紹介してみせるのに、何の不都合があろう? 今日では、良い舞台を世界の歌劇場で回し使いすることは、別に珍しいケースではないのだ。むしろ世界中で上演されるのが良いプロダクションの証なのである。
 もしこの「イェヌーファ」の舞台がつまらない出来であったならそのように罵ってもいいだろうが、良かったのなら、別に目くじら立てることもあるまい。それはそれとして賞賛すればいいだろう。オリジナルをもっと制作すべきだという問題は、それとは切り離して行うべき議論である。

コメント

イエヌーファ

冒頭で、黒い鞄を下げたコステルニチカが制服の係員に案内されて、椅子が一脚しかない白い部屋へ導かれてくる...取調室か、そこへ行く前の控室みたいな場所なのかわからないですが、ここで彼女は単に事の次第を回想するだけではなく、神/自分の良心に向き合うのだ、と見ていて思いました。シリアスで深い内容ですから安易な読み替えは通用しない。このようなシンプルな舞台装置こそが相応しいです。演出、美術、歌手、演奏すべて良くて、特にコステルニチカとブリヤ家の女主人の対照(実は似通った面もある)が聴いていて面白かったです。耳で聴いた印象ですが、ヤナーチェクの音楽はなかなか複雑な味わいがあります。わざと灰汁をきれいに取り除かずに、雑味を旨味に生かしたコクのある味と申しましょうか。

「娘」だったら誰でも、自分の母親に対してこう思ったことがあるはず。私は貴女の夫ではないし、貴女の息子でもないし、貴女自身の誤った選択によって陥ってしまった「こんなはずではなかった人生」のリベンジの手段でもない。少なくとも私はそうだった。だからコステルニチカには初めて会った気がしなかった。よく知っている。こういう人のことは。「あなたに賭けていた」。その類の台詞も殆ど耳タコ。

それでもコステルニチカのことは嫌いになれない。エゴイストというには優しすぎるし、偽善者というには正直すぎる。たとえオペラの中では描かれていなくても、飲んだくれの夫が遺していった先妻との娘を抱えてこつこつ働き、生活を立て直してきた人物であることが伝わってくる。

強く高潔な心根を持っているはずなのに、身の丈に合わない悪事に手を染めて罪の意識に怯える姿が、マクベス夫人に重なる。しかもコステルニチカは夫を王にしようとしたわけじゃない。誰からも後ろ指をさされることのない人生を、娘と自分に与えたかっただけ。もしかしたら彼女もかつては「イェヌーファさえいなければ」と思ったことがあったのかもしれない。だからラツァが躊躇った時、つい口走ってしまったのかもしれない。「子供はもう死んだ」。放たれた言葉は言霊になり、心の奥底にしまい込まれていた願望を絡めとる。三人の魔女の予言のように。

ラツァのシュテヴァへのコンプレックスがそう簡単に解消されるとは思わない。イェヌーファの頬に傷をつけた、その贖罪の気持ちが一生維持できるとも思えない。正直、ろくでなしのDV夫になる末路しか見えない。きっと何年か経った後、再びイェヌーファは「人生ってこんなものだとは思っていなかった」と呟くだろう。

でも、そうした悲観をヤナーチェクは許さない。これはファンタジー。あの音楽が鳴っている間だけは、より良い人生が彼らの上にもたらされますようにと祈らずにはいられなかった。そして劇場から一歩外に出た時、自分のリアルと再び対峙するための力のようなものを得ていることに気付く。観る意味のある舞台とは、そういうものだと思う。

失礼ですが、先生の文章だと、ロイの演出は新しいからよくて、フリードリヒのリングは古いからダメだという風に聞こえます。国立のオペラハウスなので、借り物はダメだと言う方のほうが、論旨が一貫してると思いますが。オケといい、プロダクションといい、およそ国立オペラの体をなしていないのに、根本的な改革がなされないのは、ジャーナリズムにも責任があると思います。

演出について

とてもよい演出でした。
こういう、世界の素晴らしいプロダクションは、どんどん持ってきて欲しい、と私も思いました。

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