2017-07

2016・1・11(月)ロームシアター京都プロデュース「フィデリオ」

    ロームシアター京都  5時

 リニューアル・オープンした「ロームシアター京都」は、平安神宮のすぐ近く、岡崎公園の西側に位置する。南側には「みやこめっせ」がある。地下鉄東西線の東山駅から歩いて10分以上かかる場所だ。

 天気晴朗、気候温暖とあって、周辺を少し探索してみようと、3時少し過ぎに現地に着く。ちょうど「みやこめっせ」での成人式が終ったばかりで、周辺はごった返していた。きょろきょろしながら歩いていたら、なんと今日の「フィデリオ」で悪役ドン・ピツァロを歌うはずの小森輝彦さんとばったり出会った。「おやどうも」と挨拶したものの、彼のカジュアルな服装を見て、もしかしてこちらが時間を間違えていたか、もう上演が終ってしまったのか、と、一瞬ぎょっとしたが・・・・。
 しかし彼が「今日のは悪くないと思いますよ」とにこやかに語っていたので、本番はやはりこれからだったか、と一安心。

 「ロームシアター京都」は、京都市内の他の多くの建物と同じように、「和」の雰囲気を建物の内外に滲ませている。東京モノにとっては、実に得がたい存在に感じられる。
 ホールの響きは「劇場的」で、残響はほとんどないが、オーケストラはさほどドライには聞こえない。ただし今日は、セミ・ステージ形式上演で、オーケストラはステージの上、かなり前面にまで拡げられて配置されていたので、ピットの中での演奏に関しては定かではない。
 私が今日聴いた席は2階席の最後列だが、ここは完全に「屋根」がかぶっている位置だ。オケの後方に組まれたやぐらの上を行き来しながら歌う歌手たちの声がやや遠いように聞こえたのはそのためかどうか。

 ベートーヴェンのオペラ「フィデリオ」、今日の演奏は、下野竜也指揮の京都市交響楽団と京響コーラス。
 ソリストは木下美穂子(レオノーレ/フィデリオ)、小原啓楼(夫フロレスタン)、小森輝彦(刑務所長ドン・ピツァロ)、黒田博(大臣ドン・フェルナンド)、久保和範(看守ロッコ)、石橋栄美(娘マルツェリーネ)、糸賀修平(門番ヤキーノ)。

 まず、下野竜也の指揮がいい。がっしりと構築され、ひたすら作品の高貴な理念を揺るぎなく表出するといった指揮だ。
 ある面、しなやかさに不足するという向きもあったが 厳しくシリアスな表情が劇的な力感を出した。そのアクセントとリズムの鋭い演奏は、特に第1幕のピツァロがロッコに囚人殺害を命じる場面で、それぞれの威嚇と衝撃を鮮やかに描き出し、最大の効果を発揮していた。この点、下野の劇的感覚も見事というべきだろう。
 また京都市響が、実に重心の豊かな、弾力性のあるシンフォニックな響きで応えていたのにも感心させられる。

 歌手陣もそろって好演だったが、今日私が聴いていた席からは、女声のほうがよく響いていたように思う。特に木下は、アリアで高音を楽々と響かせ、題名役としての責任を見事に果たした。これにヒロインとしての苦悩と希望の感情の交錯が巧く出ていれば完璧であったろう。
 石橋もまろやかな声を聴かせて好演。ロッコ役は、もう少し重厚な声質の方がアンサンブルを低音から支える点で好ましいのではなかったかと思うのだが。

 さて、今回の演出は、演劇の分野では名高い三浦基。これが注目の的であった。
 歌手たちをあちこちゆっくりと移動させつつも端然たる姿勢を保ったまま歌わせるという手法だが、これがセミ・ステージ形式の範疇に入るかどうかはともかくとしても、たしかに「悪くない」し、ベートーヴェンの音楽と、下野=京響の整然たる演奏のイメージとも完全に合致するといえるだろう。

 ステージの背景には、巨大な映像が投射される。この映像はかなり多用されており、たとえばピットの中で赤い僧服のようなものを纏った人間が蠢くのを上方から写した映像が投映されたり、また「レオノーレ」序曲第3番の前半では、霧や暗雲が激しい勢いで流れて行くような幻想的な映像が現われたりする。この照明(藤本隆行)と映像(小西小多郎)は、なかなか巧みであった。
 これらは、必ずしも納得できるものばかりではなかったけれども、映像利用の手法そのものは大きな可能性を生むだろう。オペラにおけるこのような実験(?)は、日本でももっと積極的に行われてしかるべきなのである。

 とはいうもののこの演出、全く承服できなかった部分も多々ある。
 まず、ピット内で慌ただしく動き続ける「赤い僧服」の人間の存在だ。スクリーン上の映像を見る限りでは、それらは一種の幻想を生むのだが、上階席から見るとその動きまくっている人間が直接目に入ってしまう。視覚的に煩わしいことこの上ない。どこか別の場所でやってもらいたかった。

 最大の問題は、上手側と下手側に位置した男女によるナレーションだ。
 第1幕では原作のセリフ部分を変形してこれらのナレーターが担当したが、客観的な語りと情緒的な表情のセリフとが混在して、中途半端の極みである。とりわけ女性が、アナ尻を甘ったるい声で、勿体ぶった表情で発音するのが、音楽の性格━━特に下野と京響の整然たる演奏とのギャップを感じさせ、苛々させられる。
 第1幕の最後に突然「キュウ・・・・ケイ、ニジュ・・・・ップン」などとやられては、場内失笑も当然だろう。

 第2幕は原曲の一部がメロドラマ形式だから、余計なナレーションは入らないだろうと思っていたら、何と、もっとひどくなった。日本語の言葉を解体する手法が、このオペラにおける音楽とドラマのスムースな流れを完全に破壊してしまった。特にもともと音楽と短いドイツ語のセリフで巧く接続されているはずの場面(第14~15番)で、夫を救った妻の想いが、甘ったるい表情の声に不自然な吐息を交えたりして、「解体された」煩わしい流れの言葉で延々と繰り返されたのは、全く以ってアンバランスとしか言いようがない。

 ナレーションを入れるアイディア自体には問題はないのだが、それはあくまでスタイルによるだろう。かつてザルツブルク音楽祭で上演された「レオノーレ」におけるように、音楽の良い流れをさらに引き立てるようなバランスの良いナレーションは、日本語でもできるはずではないか?

 ラストシーンでは、コーラスのメンバーが客席に向かって手を振りながら舞台奥の台上に集結して行くさまは、コロスと観客の一体化を意味するものかとも思われるが、別に目くじら立てるほどのものでもあるまい。
 ただし幕切れで、背景のスクリーンを下降させ、奥の裸の舞台を露わにするのは、意図はあったろうが、あまり意味はないだろう。上階席で観ていたわれわれが、露わになった照明器具のために、眩しくて目を開いていられなくなり、音楽の終りの印象がどこかへすっ飛んでしまったという、残念なことがあっただけの話である・・・・。

 というわけで、今回の演出にはあまり賛意を表すことは出来ないけれども、しかし、従来のオペラ上演のスタイルに一石を投じるための実験そのものは、もっと頻繁に行われてもいいだろう。
 昨年は横浜の神奈川県立音楽堂でのバロック・オペラ上演にその一つが試みられた。今回は、古都・京都で行われたということに、非常に興味深いものがある。
     モーストリー・クラシック4月号 公演Reviews

※「アナ尻」とはラジオ業界用語です。「アナウンス」の言葉の最後、結尾のことです。

コメント

スミマセン。「アナ尻」とは何ですか? どういう状況だったか、少しでもわかると嬉しいのですが。

雰囲気を潰す聴衆

最後の最後、強烈に汚い大声のフラブラがあって、かなり公演の余韻を殺がれました。
これと同じ様に、最近、「グレート!グレート!グレート!」とか「ナイスブラボー」とか、狂気とも思えるある種の奇声があります。ああいうのは本当に残念。
マナー悪い客を注意してもめるような事も最近あるようで、聴衆の内輪での自浄は難しくなって来ました。
本来は残念な事ですが、主催者やホールの方で聴衆を啓蒙・管理してもらう事が必要な時代となって来たと思います。

あのナレーターは

私もあのナレーターは良く思えませんでした。二人とも聞き取りにくいし、ベートーベンの音楽を聞くということを阻害するような、特に女性の語りは実に気持ち悪いものでした。残念です。

「キュウケイ」で

さすがに耐えられなくなって、失礼しました! 「京響+下野」には未練がありましたが・・・

この女性ナレーター、自己満足の極みですね。年配の女性にありがちのしつこさ・・・。   フラブラといえば忘れられないのが昨年3月、E=P・サロネン指揮フィルハーモニア管弦楽団のサントリーホール公演、このツアーでの唯一の演目「火の鳥」。聴かれた方は御存じだと思いますが曲の最後、猛烈なクレッシェンドからの鮮烈極まりない超絶的フォルテッシモ!そのあまりの凄さに拍手が起きなかったが(勿論、最後だけでなく全体として素晴らしかったからだが)、約5秒程経過した後、たった一人の客が絶叫した。まだ弦楽器の内部を響鳴する音が微かに残っていたというのに・・・皆で作り上げた奇跡的な時間は水泡と化した。指揮者は仕方なくタクトを下ろし拍手は始まった。もし、この絶叫が無かったらどこまで静寂状態が続いていただろう・・・と思うと惜しまれてならない。

東条先生にはお気の毒でしたが、幸い私は1階12列で聴きました。
下野竜也指揮の演奏会形式ということでしたので、東京から1泊で出かけたのですが、余りにも酷い演出以前の児戯と、舞台美術以前の落書き行為に怒りを覚えました。

歌手だけは、すべて下野竜也が自分で選定しただけに素晴らしかった。特にドイツオペラ初主演の木下美穂子は大成功でした。また京都市響も、さまざまな悪条件の中を妨害にメゲズ頑張っていました。

この崇高な理想を純粋な音楽によってベートーヴェンが書いた音楽は、やはり素晴らしく感動的です。1964年のベーム指揮ベルリンドイツオペラ公演@日生ホールがその典型でした。

無惨な演出の妨害を振り払ってそれを思い起こさせてくれたのが、第2幕で大臣が向かっていることを知らせるトランペットの響きから。そして「レオノーレ第3番」の力強く堂々たる演奏が、作品に込められたベートーヴェン&下野竜也の理想を高らかに宣言するものでした。

この第2幕後半だけ聴けただけでも、京都に下った価値はありました。

ホール音響についてはまだ開館したばかりですし、用途が演劇や多目的に設定されている以上、今後熟成してもコンサート専用ホールのようには行かないでしょう。

上記投稿者です

投稿者名を記載し忘れてしまいました。
たいへん失礼しました。

「本格的オペラやバレエが上演可能!」と謳うホールのオープニングですから、完全なオペラとして上演して欲しかった、というのが素直な感想です。現実、改築ですから、袖の広さは狭いままなので、結局びわ湖や芸文の規模は無理ですが。
三浦氏の演出にも期待がありました。しかし、おっしゃるように「流れ」が…実験的試み、これはどんどんやって欲しいのですが、今回のお客様は、「京都会館が新しくなったらしいから、行ってみようか」「一度はオペラ観てみよう」な方も多かったと思います。新しいホールの、お客様獲得につながったかどうかは「?」ですね。
マエストロの棒が降りるより前、初っ端の大声は二人隣でした。隣なら「しばいてた…」かも知れません。

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