2017-03

2015・11・22(日)信時潔:「海道東征」「海ゆかば」

     ザ・シンフォニーホール(大阪) 2時

 「戦後70年 信時潔没後50年」記念として、信時が1940年(昭和15年)に発表した、合唱と独唱と管弦楽のための大作「海道東征」が演奏された。主催は産経新聞社、共催は大阪フィルハーモニー協会。

 演奏は、北原幸男指揮の大阪フィル(ゲストコンサートマスターは辻井淳)と大阪フィル合唱団、大阪すみよし少年少女合唱団。ソロは幸田浩子、山田愛子、太田尚美、中鉢聡、田中純。
 併せて取り上げられたのが、近衛秀麿改訂によるベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」と、信時潔の「海ゆかば」である。

 前半に演奏された、近衛秀麿改訂によるベートーヴェンの「交響曲第5番《運命》」━━噂に高い「近衛版」で、ホルン6本、トランペット4本・・・・という具合に拡大された編成のオーケストレーション。原典スコアに指定のない個所でも、金管群やティンパニがやたら轟き、聴き慣れぬ厚ぼったくて重い音が盛んに響く。
 一種のゲームとして聞いていれば苦笑するだけで済むが、真面目に聴いていると、いったいベートーヴェンの管弦楽法のどこに不満があるというのだ、何の必要があって、何の権利があって、こんなにスコアを書き換えるのだ、と腹立たしくなる。マーラーがベートーヴェンやシューマンの交響曲に手を加えたのと同様、これは天下の愚行と申すべきものであろう。

 しかも、今日の演奏がまた、聞いたことのないほど平板で、起伏に乏しいものだったから、余計に苛々する。もしやこれは、「変な改訂楽譜をとにかくご紹介するだけはしておきますが、つまらないでしょ?」という、皮肉の演奏だったのかも。

 後半に、信時潔の作品2つ。
 「海道東征」をナマで聴いたことがなかった(2003年のオーケストラ・ニッポニカの演奏会は聞き逃した)私としては、本当に貴重な機会だった。

 これは、神武天皇の日向から大和までの「海道(=うみとつち)の東征を題材にした、北原白秋作詩による50分近い長さの「交声曲」で、1940年(昭和15年)11月26日に日比谷公会堂で初演されている。
 この年は「神武天皇即位」から数えての「皇紀2600年」とされていた年で、R・シュトラウスやイベールなどへの委嘱曲をはじめ、内外の作曲家による多くの奉祝曲が生まれたが、「海道東征」もその一つである。

 皇紀2600年といえば、「紀元はニセ~ンロッピャクネ~ン」という歌とか、同年に正式採用された戦闘機が「2600年」に因んで「零式戦闘機」(いわゆる「ゼロ戦」)と名づけられたこととか、提灯行列が賑やかだったとか、「祭は終った、さあ働かう!」という標語とか、当時の資料を読むと、国を挙げての華やかな祝典だったことが判る。したがって、なるほどその時代だからこそ、「古事記」「日本書紀」で語られる「建国神話」なるものをこういう形で音楽作品化する歴史感覚もあったのだ、ということも理解できる。
 それにしても、古代から存在したこの日本独特の神話伝説が、明治以降、軍国主義に利用される運命を辿ったのは不幸であった。それは、ワーグナーの作品の場合と共通するところもあるだろう━━。

 歌詞は非常に古式床しく、今日では全く耳慣れぬものだが、今日の演奏会では、合唱団とソリストたちの発音が明確で、かつ字幕がオルガン横の壁に投映されていたために、内容がすこぶる解り易かったのはありがたい。
 「大和は國のまほろば、たたなづく青垣山・・・・美し(うるわし)の大和や」(第2章)といった美しい言葉が連続する。これを聴くと、日本の神話には、山や河の美しさへの愛など、「自然」と結びつきの概念が如何に多いかということを再認識させられるだろう。
 もっとも第8章には「八紘一宇(あめのした一ついへ)とぞ」という日本書紀の記述を基にした歌詞も登場するが、これが軍国主義と、それを排斥する人々との両方により、如何に誤って解釈されるかにいたったかは、改めて言うまでもない。

 一方、音楽としても、たとえば「御船出」(第3章)におけるように、日本の多くの歌曲との密接な関連性を感じさせる叙情性にも事欠かない。演奏によってはもう少し起伏が大きく、良い意味で詠嘆的な壮大さも現われるはずだと思うが、とにかく美しい作品であったことはたしかである。
 なお、この作品については、都留文科大教授の新保祐司氏による著書「信時潔」(構想社)の中に、優れたエッセイがある。私も今日、会場で買って読んだが、大いに参考になった。

 だが、プログラムの最後を飾る「海ゆかば」の演奏は、失敗に終った。
 これは、プレトークを行なったその新保教授が、「《海ゆかば》はアンコールでもう一度演奏されるでしょうが、その時には客席の皆さんも一緒に、起立してお歌いください」と呼びかけていたため、高齢者の非常に多い客席には、それを思い違えて、アンコールでない本番の演奏の際にすでに立ち上がってしまった人が多く、結局ほぼ全員が起立して一緒に歌い始めてしまったからである。
 結局、「海ゆかば」は、同じことを2回やる羽目になり、この曲本来の美しい合唱とオーケストラによる演奏はついに全く聴けぬままに終ったのであった。

 なお、新保教授はプレトークの中で「今日の演奏会は、ただ美しい音楽を聴くためだけのものではなく、日本人としての意識を云々」と述べ、結論として「海ゆかば」での斉唱と起立を━━「この曲は座ったまま歌う曲ではないのですから」と、聴衆へ強制同様の形で呼びかけていたが、これはいかがなものか? 
 見方によっては、このコンサート自体が、ある史観の意識発揚イベントのごとき様相を呈してしまいかねないではないか。

 私も人並みに日本を愛しているし、日本人としての誇りをも持っているし、「古事記」や「日本書紀」も文学として読んで日本の建国神話をも心得ているし、「海ゆかば」が極めて立派な音楽作品であることをも認識しているつもりだ。
 しかし今日ここに来たのは、あくまで題材を客観的に見つめ、かつ日本の優れた音楽作品を聴くためだけのこと。こういう形で「共感」を強制され、押し付けられるのは真っ平である。

 前記の教授のスピーチからの私の引用は必ずしも正確なものではないかもしれないが、しかしわれわれが受け取った主旨は、ここに書いた通りだ。現にその「海ゆかば」での客席の反応は、かくの如しである。
 客席を埋めた多くの高齢者たちは嬉々として起立して歌っていた。そう、歌いたい人は、自らの意志で歌えばよい。もし何人かが自然発生的に歌に参加したのなら、私も驚いて、しかし微笑ましく見たかもしれない。だが2度目の演奏の際に、指揮者までがマイクを持って出て来て呼びかけるとは━━。私は起立せず、アンコールの時には、抗議の意味で席を立ってロビーへ出た。私の前の席に座っていた2人の女子学生も、これはとてもついて行けぬと思ったのだろう、私より一足先に、席を蹴って出て行ってしまった。

 主催者側のスタッフに、教授のスピーチのその部分は主催の新聞社の意向なのかと質問したところ、そのような呼びかけを依頼した覚えはない、ただ2日前(初日)の演奏会では、聴衆の一部が自発的に起立して歌に加わるという出来事があっただけだ、という説明であった。つまり、主催者側としては、想定外だったということであろう。
 とはいうものの、こういうことがあった以上、結果的にはやはりそれが主催新聞社の姿勢だったと解釈されても致し方ないかもしれない。同新聞社の普段の論調云々は別の話としても、だ。

 「海道東征」は、今月28日にも、東京藝大の奏楽堂で演奏されるという。だが演奏者も違い、組み合わせる曲目も全く異なり、解説者は片山杜秀さんだというから、今日のようなことにはならないだろう。

コメント

産経新聞社による政治的なメッセージを込めた会合だったようですね。
奇しくも当日は大阪府知事&市長選挙が行われた日でもあります。
その選挙結果と、この政治的会合が今後の日本の政治進路とシンクロするかのように思われて、想うところが多くあります。

音楽会というよりも政治的会合だったようですから、私も政治的な感想を述べた次第です。

近衛版は編成だけでも愚行だと思いますが マーラー版のシューマンは普通に聴くだけならちょっと風通しの良い演奏だな くらいで愚行とは言えないと思いますが?

少なくとも近衛のいかれた版は今回の再演という愚行以前には誰も取り上げていない一方でマーラー版シューマンは名だたる指揮者が真面目に録音しています。

>いったいベートーヴェンの管弦楽法のどこに不満があるというのだ、何の必要があって、何の権利があって、こんなにスコアを書き換えるのだ、と腹立たしくなる。マーラーがベートーヴェンやシューマンの交響曲に手を加えたのと同様、これは天下の愚行と申すべきものであろう。

近衛は常々「私の楽譜は下手なオケと(私みたいな)下手指揮者でもちゃんと鳴るように作ったんですよ」と言ってたそうです。
昔の日本のアマオケなんて今とは比べるのもばかばかしいほどの低レベルだったはずで、そういうへぼな連中がやっても音楽としてサマになるように過度に厚ぼったい響きにしたんでしょうね。しかもかつてはフルトヴェングラーだのワルターだのみたいなベートーヴェンが理想だったわけですからね。
今の上手いプロオケがそのままにやると時代錯誤の重厚すぎるオーケストレーションになってしまうんでしょうね。
そこら辺は指揮者の調整が必要だったのかも?
それとシューマンのシンフォニーも今の優秀なオケならなんの問題もなく演奏出来ますが、昔のオケではなかなか難しかったので作曲者でもあるマーラーとしては手を入れたくなったんじゃないか?と思うんですがね。
まあストコフスキーなんて二十世紀も後半になってもチャイコまで平気で自分流にアレンジしてやって位で、昔は編曲して演奏する事もシェフの独自の味付けみたいなもんで特段非難される様な事ではなかったんでしょう。

お邪魔します。私は、このての改訂、編曲モノにはかなり寛容なので多分面白く聴けたと思います。何せマーラー10番のバルシャイ版が気に入ってしまうくらいなので(アシュケナージがこれで演奏していて録音もあり)。最近でもヤノフスキ/ベルリン放送響がベートーヴェンの「英雄」を倍管で演奏していて嬉しく思いました。 [起立の強要の件] 私もこのような「皆さん、ご一緒に!」的なノリが大嫌いなので(hr響のページで起立について書いてますがそれとこれとは場合が違う)、しかも2度もやられた日にゃぁ私も椅子を蹴って退場したくなります。ほとんど全員が立ったのなら、立たないと逆にこっちが奇異な目で見られてしまって恥ずかしいので私なら仕方なく立ってしまったかもしれません。感服します。  政治的会合だったのなら東条さんのように純粋に音楽鑑賞が目的で遠路出かけた方にとっては非常に気の毒な事だと思います。

単なるハプニングでは

東条先生の記事をまず軽く一読、掲載直後のコメントを見て、政治的色合いを一瞬は感じましたが、記事に書かれた事実関係を何度も読み込み、自分がもしその場に居合わせたと想像した場合に、それは早計に過ぎないかという見方を得ました。
音楽以外のことで再三投稿し申し訳ありません。

本公演のプログラムは「海ゆかば」までの3曲で、アンコールの「海ゆかば」再演奏で観客の皆さんと合唱する、という段取りであった、と記事には書いてあります。

本来は演奏を聴くだけのはずであった3曲目で、一部の聴衆が、プレトークで皆さんでお歌いくださいといっていたところだと勘違いして歌い始めた(ここで起立云々に深い意味を考える必要はない、どんな歌でも歌うときは起立するのが自然だろう、普通の歌なら立つけど、「海ゆかば」のときは座って歌うんだ、という人はゼロだろう)のに、おいおいそういう段取りだったけ?という感じで、ずるずると歌の輪が広がった、まあいいか、という微笑ましい状況が起こった、と記事の内容から推測できる。
そのあとに指揮者がマイクで(本来の段取りである)観客の皆さんへの歌唱参加呼びかけがあった、とあるが、ここにもはたして特殊な意図があったかどうか。
イメージ的にかなりまじめな人っぽい北原幸男氏からすると、なんか妙な感じになっちゃったけど、段取り通りやるか、程度のことだったのでは。カーテンコールでの観客への呼びかけにマイクを使用するのは、観客には優しい行為です。声がよく通るコバケンさんならまだしも。

大阪フィルのホームページとそこに表示されるtweetを見ると、本公演は本来11月20日(金)の開催予定だったのが、速攻で売り切れたの受けて、22日(日)の本公演が追加公演として組まれたものである。(これも速攻で売り切れ) 新聞社の回答の件で2日前(初日)、とあるのは、当初予定の20日公演を指す。

20日公演の様子は大阪フィルtweetを読む限りにおいては、
本編最後の「海ゆかば」を(皆さんには)祈るように聴いていただいた後、「海ゆかば」を最後に一緒に歌いましょう!とマエストロが(マイクで)話すと、お客様は起立の上(起立に意味はない)、大合唱。その歌声が美しくて感動しました。
とある。新聞社の問い合わせ回答にある、聴衆の一部が自発的に起立して歌に加わる、というのは多分本編のほうで、そういう人もいたが、大多数は祈るように聴いていた、という状況と推測される。

結果的に、2公演ともに本編で歌う人が出た、多分追加公演のほうがその人数が多かった、と見られるが、新保先生のプレトークでの起立斉唱云々の件は、もしかしたら初日の状況を踏まえて、混乱が起きないようにあらかじめ段取りを伝えておきたい(ネタばらし)のが趣旨だったのではないか。でも結局同じようになっちゃった、といったところか。
当公演に集う人は、当初の日程公演が売り切れて、いったんあきらめた人が、追加公演あるで、チケット買えたよ、良かったヤン(違うか?)、と思っている方がかなりだと思う。それなりに高いポテンシャルを持った人たちが集結していることを留意する必要はあろう。

近衛版

今聴くと「天下の愚行」になるかも知れないですが、50年前近衛指揮で聴いた者にとっては、結構面白いものでした。19世紀ロマンティシズムの感覚なんでしょうね。私が聞いたのは、朝比奈隆が「楽譜に手をいれるのはどうか。」と言ったのに対して、「どんなオケでも鳴るようにしただけですよ。」と答えたというものです。

 こんにちは。同じ公演を聴いて記事を書いた者です↓。
 http://blog.livedoor.jp/asapykadan/archives/50362788.html

 前半の「運命」、編成云々をおっしゃる方が多いようですが、それ以前の問題として、あのオーケストラは全くやる気がなくてろくに練習もしていなかったのではないでしょうか。あの顔ぶれからして、おそらく正規の団員は殆ど乗っておらず若い女性のエキストラだらけ。個々の技量は十分でも、寄せ集めで曲への思い入れもないような人たちの集団だったら演奏が酷くなって当然ですよ。
 大阪フィルが本当に「近衛版運命を再現しよう!」とベストメンバーを揃えて真面目に取り組んだのだったら、「ちょっと管楽器がうるさいけどこんなのもありかな」くらいの演奏を聴かせてくれたはずです。

 実際、メインの「海道東征」もオーケストラの音はボヤけて冴えないものでした。昨年の熊本公演の「横浜シンフォニエッタ」や、11月28日の芸大学生オケは実に素晴らしく聴かせてくれたのに、偉い違いでしたよ。それでも大阪は合唱とソリストがまともだったのと字幕があったのとに助けられて、かろうじて退屈せずに聴けるものになってはいましたが。
 東条先生は大阪なんかではなく、6日後の藝大公演の方にお越しになればよかったのに。こちらも記事にしましたが↓、第4章で信時自筆楽譜の指定通りハープが使われ、実に素晴らしい演奏でした。http://blog.livedoor.jp/asapykadan/archives/50362790.html
 音楽評論家が真面目に論評すべきだったのは藝大公演の方ですよ。大阪は産経色の強い「信者向け」の公演で、聴衆も音楽に詳しい人はそんなに多くなかったようです。だからオーケストラもはなからやる気がなかったのでしょう。

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