2017-09

2015・9・13(日)カンブルラン指揮読売日響「トリスタンとイゾルデ」

      サントリーホール  3時

 シルヴァン・カンブルラン指揮による読売日本交響楽団の新シーズン最大の呼びもの、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」演奏会形式ノーカット上演。
 配役と演奏は、エリン・ケイヴス(トリスタン)、レイチェル・ニコルズ(イゾルデ)、アッティラ・ユン(マルケ王)、クラウディア・マーンケ(ブランゲーネ)、石野繁生(クルヴェナール)、アンドレ・モルシュ(メーロト)、与儀巧(水夫、舵手、牧童)、新国立劇場合唱団。コンサートマスターは長原幸太。

 これは、やはり大変な音楽だ。
 久しぶりに涙してしまった。昔、フルトヴェングラーの全曲レコードが出た時にすぐ買い込み、毎日のように聴いてしびれるような感動を味わったこの曲だが、近年は舞台で観ても、ゴタゴタした演出に煩わされるあまり、「涙」から遠ざかっていた。
 だが今回は演奏会形式ゆえに、音楽だけに全神経を集中できる。音楽そのものが持つ底知れぬ魔力に、久しぶりに、身も心も引き込まれた次第であった。

 詩と音楽との完璧な結合に酔いしれたのも、ここしばらくなかったことである。これも、詩の内容とは全く無関係な光景が繰り広げられる昨今の舞台演出から解放されていたゆえだろう。
 それに、劇的展開の技術の、ワーグナーの何という巧さ。イゾルデの船が沖合に見えて来て、角笛がそれを告げる瞬間、そして船が危険な岩陰に姿を消し、トリスタンとクルヴェナールが不安のどん底に叩き落されたあと、再び安全を告げる角笛の音が高らかに響きはじめるといったあたり、ワーグナーは本当に巧みな「音楽演出」家だといった感慨を深くする。

 カンブルランのつくる音楽は、いかにもフランス人指揮者らしく、粘り気のない、すっきりしたワーグナーだ。物々しい「指環」と違って、精妙極まりない「トリスタン」の音楽の場合には、これはこれで説得性はあるだろう。
 ただし第1幕で、ワーグナーが粋を尽くしたモティーフの微細な絡みの、特に低音部のパート(「死の動機」など)が明確に浮かび上がって来ない恨みがあるのは、作品解釈の根元に関わる問題ではあるけれども。

 それにまた、ホルンを妙に不必要に強調させる時があるのは、納得が行かない。それは第2幕冒頭の狩のファンファーレの個所、第2幕最後のトリスタンとイゾルデのそれぞれの歌の一部の、計3か所である。特にイゾルデが歌う「dein Erbe mir zu zeigen」の部分など、楽譜にはppのドルチェと指示されているはずのホルンが異様に強く出るので、そこでの管弦楽の陰鬱で絶望的で深淵のような曲想を、何か落ち着かないものにしてしまう。

 なお今日は、第3幕の牧笛のイングリッシュ・ホルンおよび「ホルツトランペット」なるもの、および「警告」場面でのブランゲーネと、水夫と舵手と牧童役の歌手とは、それぞれオルガンの下に配置されていた。正面の席にいたわれわれにはいい距離感ではあったが、P席やLA、LB席の聴衆にはバランスの悪い音だったであろう。
 特に「ブランゲーネの警告」は、マーンケの明晰な歌唱もあって、「夢の中から響いて来るような」ものにならず、リアルなものになり過ぎていた。こういうところからも、カンブルランの解釈は、どうもあまり「哲学的」ではないように感じられる━━。

 また「ホルツトランペット」なるものの使用は、歌劇場上演での舞台外から響いて来る設定の場合には良いだろうが、このようによく響く演奏会用ホールでの場合には、同一舞台上で吹かれると音量が大きすぎて、演奏全体のバランスを壊す。(譜面通りの)イングリッシュ・ホルンだけで、音量的にも、劇的効果の上でも、充分だったろう。

 歌手陣が素晴らしかった。ケイヴスは咽喉が本調子でなかったのか、水を摂りながらの歌唱で何とか最後まで持って行った状態だったものの、当初予定のクリスティアーネ・イーヴェンの代役として登場したレイチェル・ニコルズ(アメリカの女優とは別人)が声も歌唱表現も役柄に合致して見事なイゾルデを聴かせ、文字通りトリスタンを「救済した」。この人、バッハのカンタータなども歌うソプラノだが、「愛の死」まで澄んだ声が少しも衰えなかったのは立派である。

 マルケ王役のアッティラ・ユンは、バイロイトで主役を張るだけあって、貫録の歌唱。「悩めるマルケ王」というより、裏切った2人に対し憤怒を顕わにするといった表現ながら、その骨太で重厚で強靭な声はさすがのものだ。
 一方、ハイ・バリトンのよく通る素晴らしい声で第3幕前半を緊迫感豊かに飾ったのが、クルヴェナールの石野繁生である。バイロイトでフリッカを歌ったクラウディア・マーンケの安定したブランゲーネも、申し分ない。残る2人も、しっかりと脇を固めた。このように脇役が万全の態勢を取っていると、演奏全体が引き締まるものである。

 読響の好演については、改めてつけ加えるまでもない。これまで何十回、百何十回聴いたかと思う「トリスタン」だが、とにかくワーグナーの音楽の凄さに改めて打ちのめされたのが、今日の演奏会だった。

コメント

この曲のオーケストラがここまで明晰かつ劇的に演奏されるのは初めての体験でした。ケイヴスはグールドあたりと比べるとその差は明らかですが、もっと酷いトリスタンも経験しているので、かなりの健闘でした。ニコルズは声の美しさ、声量、表現力は言うまでもなく、可憐さもあって素晴らしいイゾルデでした。代役でよくこれだけの人が見つかったものだと思います。この日は聴衆のマナーも良好でした。

「ホルツトランペット」には吃驚仰天しました。ホルツトランペットという名さえ知らずに、トランペットだと思っていました(それにしては鄙びた音色だと感じましたが)。ある方に教えてもらって、一つ勉強になりました。珍しい経験ができたと喜んでいます。

「届かぬ」憧れ?

ご無沙汰しております。今さらですが…。

かつてのバレンボイムや今夏バイロイトでのティーレマンのような汗の飛び散る粘膜系の官能性こそないが、素晴らしい演奏でした。新生「聖女系」イゾルデの誕生に立ち会えたのも収穫。
しかし、「何か」訴えてこない、傍観者的で叙事的なのです…。届きそうで届かない「憧れ」への何とも表現しがたい焦燥感にわれわれ聴き手を巻き込み、翻弄・幻惑し、諦観・虚脱させる演奏ではない。
毒素に満ちたこの曲に、「出口」=「救済」があっていいのでしょうか?

視覚的要素を排した演奏会形式の限界もあったのかもしれません…。

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