2017-10

2015・8・23(日)B・A・ツィンマーマンの「レクイエム」

      サントリーホール  6時

 サントリーホール恒例の「サマーフェスティバル」の2日目。上演されたのは、ベルント・アロイス・ツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」という大曲。
 大野和士の指揮、東京都交響楽団、新国立劇場合唱団、森川栄子(S)、大沼徹(Bs)、長谷川初範&塩田泰久(Nar)、スガダイロー・クインテット(Jazz Combo)が演奏。
 プレトークには、大野和士と、今回の制作プロデューサーの役割を果たした長木誠司が出演して約30分。そのあと休憩15分を挟んで、「レクイエム」(約62分)が演奏された。

 ジャズ・コンボを含めたオーケストラは通常の位置に並び、合唱は2階席の四方に分かれて配置され、それらのほとんどにはPAが使用される。エレクトロニクス担当には有馬純寿が当たっていたが、演奏者と同様、その役割は非常に大きいだろう。

 音楽はほぼ全曲にわたり轟々たる大音響の連続だが、最大の話題となっていたのは、そこに織り込まれたさまざまな素材によるコラージュだ。解説書には、その膨大なリストが載っている。音楽作品としては、たとえばベートーヴェンの「第9」、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」や「神々の黄昏」、ポール・マッカートニーの「ヘイ・ジュード」の断片などが容易く聴き取れるだろう。また言葉の素材としては、ヴィトゲンシュタインやマヤコフスキーの作品の一節、ヒトラーや毛沢東やドプチェク他の演説の断片などが、音源素材やナレーターにより再現される。

 これらは、会場のあちこちに置かれたスピーカーから混然として響きわたり、オーケストラや声楽と一体になって、われわれを音響の坩堝にたたき込む。「言葉」は、オルガンの前に設置された巨大なスクリーンに投映される日本語字幕で読むことができるが、それは4種類が同時に出ることもあり、また凝ったデザインまで施されているとあって、すべて判読するのは至難の業だ。1時間もこの複雑な字幕を見続けるのは、目のいい若い聴衆でないと無理だろう。
 それらの中心となって滔々と流れるのが、「レクイエム」のテキストであることは、言うまでもない。

 コラージュを加えた作品は、古今数々あるだろうが、この「レクイエム」は、その中でもおそらく、ずば抜けた規模を持つものだ。その巨大性、乱雑なように見えてがっちりした構築、そして恐るべき粘着した持続力━━こういうのを聴くと、やはりドイツ人でなくては創り得ない作品だな、という気がする。

 概して第2次世界大戦時から60年代にいたる精神史や政治史からの記録が轟々と流れていくこの「レクイエム」━━ツィンマーマンが、その鋭敏繊細な感受性で受け止めた歴史の重みだ。彼はこの曲で痛切に祈りつつも、その初演の翌年(1970年)には自ら命を絶ってしまった。悲痛な出来事である。
 祈りの歌ではあるものの、聴き方によっては無限の奥行を持つ魔窟に引き込まれる作品。心から感動するとまでは行かなかったが、壮大で凄まじいその気宇には感嘆させられる。企画者と、演奏者には賛辞を捧げたい。

 カーテンコールの中で、スガダイロー・クインテットが、おそらくは大野の誘いで、ほんの1分ほどだが、華やかな演奏を聴かせた。この音の、何とまあ美しかったこと! 私は、一瞬救われたような思いになったが、しかし、「レクイエム」に涙の出るほど感動した聴き手だったら、このコンボの演奏が始まる前に会場を出ていた方が正解だったかもしれぬ・・・・。

コメント

 先生の評論をいつも楽しく読ませて頂いております。このコンサートを聴いた者として,若干の感想を述べることをお許し下さい。

 演奏が始まると,最初に聞こえたのはオーケストラの音ではなく,客の背後のスピーカーから聞こえる電子音の低音である。それに呼応して様々な言葉がスピーカーやナレーターから語られ,独唱者の歌詞として歌われる。
 この言葉が大問題。使用される言語は,作曲者の母国語であるドイツ語の他に,ラテン語(合唱の歌詞),ギリシャ語,英語,フランス語,ハンガリー語,チェコ語,ロシア語,そして今日の公演では日本語も用いられた。これらの言葉は単一で語られるのではなく,同時に語られることも多い。つまりは,何を言っているのかさっぱり聴き取れないし,同時に語られるので,スクリーンの翻訳を目で追いかけても意味の理解が追いつかないのである。

 こうした,ある意味とんでもない言語・音響空間の中で,私は,「作曲者は,バベルの塔によって言葉が通じなくなった状態を再現しようとしたのではないか」と感じた(ちなみに,作曲者は敬虔なカソリック教徒であり,作品の最後のページには「O.A.M.D.G(全ては神の大いなる栄光のために,という意味)」と常に書き込まれていたという)。

 バベルの塔の話は,旧約聖書の創世記に登場するエピソードである。
 【人類は,天に届く程の,永遠に残る塔を作ろうと企てた。ところが,主は、人の子らが作ろうとしていた街と塔とを見ようとしてお下りになり、そして仰せられた、「なるほど、彼らは一つの民で、同じ言葉を話している。この業は彼らの行いの始まりだが、おそらくこのこともやり遂げられないこともあるまい。それなら、我々は下って、彼らの言葉を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できなくなるように」。主はそこから全ての地に人を散らされたので。彼らは街づくりを取りやめた。その為に、この街はバベルと名付けられた。主がそこで、全地の言葉を乱し、そこから人を全地に散らされたからである。】

 そして,語られ,歌われ,電子音響によって再生されるテクストの中には,言葉の機能を追求したヴィトゲンシュタインの言葉もあれば,全世界のキリスト教会の一致を訴えた法王ヨハネス23世の言葉,さらには人権の尊重を明記したドイツ基本法(=憲法)の条文もある。
 しかし,これに対し,一国の独裁者として戦争を指導した,スターリン,ヒトラー,ゲッペルス,毛沢東の言葉もある。つまり,言葉は,一つの国を指導できても,全世界を指導するようなものには至っていない,という象徴ではなかろうか。
 特に,ドイツ基本法の「人権は尊重されなければならない」という意味の条文がナレーターによって力強く日本語で語られた直後に,それを否定するかのような音楽と別のテクストが語られる,という場面では,ショックを受けた。

 この公演をプロデュースした長木誠司氏の解説には「言語の引用は,多数が同時に重ねられることも多いので,すべてを聞き取って意味を完璧に理解することは不可能である。ことばは「中心かつ不在」に近い」とある。ここまでは賛成である。
 しかし,長木氏の解説には,続けて「ただ,ここではそうした言語に関しても,音楽同様,部分を聞いて全体の意味を想像することが求められている。」とする点はいかがなものであろうか。作曲者は,「相手の用いる言語が相互に分からず,それがひいては,異なる国家間・異なる国家に所属する国民間相互に理解できないという焦燥感。それが戦争による悲惨な結果を招くという危機感」を表現したのではないか。そして,この問題は,創世記の時代にもあり,作曲者が活躍した第二次世界大戦前後の時代にもあり,現在(2015年)にもあり,そして,未来にも残された問題だ,ということを,作曲者は訴えたかったのではないか。作曲者は「相手が理解できない」という感覚をこの曲の中で聴き手に体感させたかったのではないか。

 この曲の最後は,合唱3部の「我らに平和を与えたまえ」というラテン語の歌詞が不協和音で叫ぶように歌われて終わる。通常のレクイエムでは「彼ら(=死者)に平和を与えたまえ」と,死者のあの世での平和を祈る歌詞なのに対し,ここでは,「我ら」と変えられている(プレトークによると,レクイエムではないミサ曲に用いられる歌詞であるとのこと)。

 「言葉でわかり合えない」という悲惨な現実がありながら,それでも,(若い詩人のように)言葉の力で平和を祈らざるを得ない,という作曲者の悲痛な叫びが伝わってくるような作品,そして演奏だった(特に,新国立劇場合唱団の合唱は,あいかわらず,パワフルだと思った)。

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