2017-09

2015・6・17(水)野田秀樹演出「フィガロの結婚」~庭師は見た!~

     ミューザ川崎シンフォニーホール  6時30分

 井上道義の総監督&指揮、野田秀樹新演出のセミ・ステージ形式上演。5月から11月末まで全国10か所を巡演する。今日は、金沢・大阪(2回)・西宮(2回)・高松に続く5都市目、7回目の上演。

 配役と演奏は、ナターレ・デ・カロリス(アルマヴィーヴァ伯爵)、テオドラ・ゲオルギュー(伯爵夫人)、マルテン・エンゲルチェズ(ケルビーノ)、大山大輔(フィガ郎)、小林沙織(スザ女)、森山京子(マルチェ里奈)、森雅史(バルト郎)、牧川修一(走り男)、三浦大喜(狂っちゃ男)、コロン・えりか(バルバ里奈)、廣川三憲(庭師アントニ男)。東京交響楽団および新国立劇場合唱団。

 役名からもわかるように、話を少々ひねくってある。舞台を幕末の長崎に移し、最初の3人はヨーロッパ人で、あとは全員が日本人という設定。イタリア語と日本語が交錯するが、日本人は全員がイタリア語を話せることになっている(すごい)。
 「欧日混合」の設定は、先頃の「こうもり」などでも行われて成功した読み替え的な演出だが、今回のこれも、アイディアそのものは面白いと言えよう。

 ただ、私が拍子抜けしたのは、━━これはあくまでこちらが勝手に期待していたにすぎないのだが━━「庭師は見た!」というタイトルのことだ。
 「見た!」という言葉には、あの有名なTVドラマ「家政婦は見た!」(ミタの方ではない)と同じく、何か見てはいけない一家の秘密を覗き見る、というイメージが強いのではなかろうか。したがって私も、今回は庭師アントニオを中心人物に据え、その目から見た伯爵家の知られざる秘密を浮き彫りにし、このドラマをこれまでと全く違った角度から描くというような、一種の読み替え演出を期待してしまっていたのである。

 この、原作オペラではあまり冴えない人物を中心に持って来て、ドラマの解釈を変えるという演出には、先例もある。たとえば先年エクサン・プロヴァンス音楽祭で上演されたチェルニャコフ演出の「ドン・ジョヴァンニ」では、原作では昼行燈のようなドン・オッターヴィオが、実は権謀術数の黒幕的存在であり、すべては彼が仕組んだ筋書きで、最後は彼が騎士長の一家を乗っ取る、というドラマに仕立て、すこぶる面白い効果を出していたのだ。
 それゆえ、野田秀樹がやるからには、きっと何か変わったことを━━と楽しみにしていたのだが、何のことはない、今回の「庭師」は、ストーリーをただ進行させる役割を受け持つだけだった・・・・。

 まあ、これは前述のように、私の勝手な思い込みだったから仕方がない。
 だが、せっかく野田秀樹が演出するのであれば、もっと思い切った、日本のオペラ界をあっと言わせるような画期的な、新鮮な解釈を取り入れることはできなかったのかな、と思う。在日アルマヴィーヴァ伯爵家の「使用人たち」に日本人の格好をさせ、日本的な舞台構成を試みたことは悪くないが、これも特に目新しい手法というほどでもなかろう。
 「日本人」を活躍させるからには、「日本的なおもてなしの感覚」がラストシーンで西欧人たちを納得させる、という方向にでも持って行くのかな、と思ったが、そうでもなかった。

 辛うじて、伯爵と夫人が本当に仲直りをしたわけでもなかったらしい━━ということは汲み取れるラストシーンにはなっていたが、それもあまり明確ではない身振りに終っていた。結局、設定は凝っていたものの、そのわりに何ということはないドラマ展開だったのである。

 庭師役の廣川三憲は、要所に登場してセリフでストーリーを語る。演劇畑の人だが、歌も歌う。
 またレチタティーヴォ・セッコの一部も登場人物たちのセリフに置き換えられたり、省略されたりする。歌詞には日本語とイタリア語が混在するが、これは耳慣れぬものの、それほどの違和感はないだろう。すべて字幕付きである。
 今回のミューザ川崎での上演では、通常のステージの位置に大きな舞台を設え、背後を巨大な幕で覆い、オーケストラを客席の前方に配置していた。2階席正面(CA)で聴いた範囲では、音響のバランスはなかなかよく、セリフが反響して聞こえにくいということもなかった。

 歌手陣。
 ほとんど出ずっぱりで大熱演したスザンナ役の小林沙羅には、賛辞が贈られてしかるべきであろう。
 だが、その他の人々には疑問がある。伯爵役のデ・カロリスは、第3幕冒頭のアリアで気概のあるところを示したが、全体としては意外に冴えない。また、伯爵夫人の硬い高音と、ケルビーノ役のカウンターテナー(新機軸ではあるが)の不安定な声は、いずれもモーツァルトの柔らかく美しい管弦楽とのハーモニーを形づくるのに失敗していた。

 日本人歌手たちも、日本語での歌唱に「慣れない」ためでもなかろうが、意外に精彩に欠けるところがある。演技の面では、日本人グループだけは、比較的細かい芝居を見せていた。なお、歌手たちとは別に、踊ったりポーズを作ったりする「演劇アンサンブル」の存在が、なかなか良かった。

 井上道義の指揮するモーツァルトが、比較的テンポが遅めで、音楽にも重さを感じさせたのは予想外であった。彼のモーツァルトは、以前はもう少し洒落っ気を感じさせる、きびきびした演奏だったのでは? 
 しかも、東京交響楽団(コンサートマスターはグレブ・ニキティン)の演奏にも、何となくしまりがない。定期公演などの演奏会ではあれほど傑出した演奏を聴かせるこのオーケストラが、いったんオペラのピットに入ると、どうしてこんなに緩んだ演奏になるのか、理解しかねるところである。

 休憩1回を含み、終演は10時頃で、上演時間からいってもかなり長かったことは事実だが、もし演奏がもっと歯切れよく、引き締まったものであれば、実際に長さを感じさせずに済んだかもしれなかった。

コメント

フィガロはスザンナの声に気付いたけれども伯爵はロジーナの声を聞き分けることができない。謝っても許してもその事実は消えない。彼女の悲劇は1日では終わらずにこれからも続く。何度見ても心が凍る場面。だから今回の彼女のあの行動には納得できた。隙あらば大団円に収束したがるこの物語への反乱のように見えた。

全体的には、「野田秀樹」という名前からイメージしていたものよりかなり穏当な仕上がり。それでも言葉が強烈に立ち上がってくるのはさすが。課題があるとすればバランス。従来音楽が担ってきた領域のうち、かなりの部分が舞台上に受け渡されていると感じた。結果として音楽の存在感は希薄になり、傍観者か背景画のような位置付けになっていたと思う。無理を承知で言うならもっと小さい箱(新国中劇場クラス)で見直してみたいという気も。

東響はきれいな水のような音。定期での作り込まれた演奏とはまた違った趣の、肩の力が抜けた自然な発話は私には心地良かったです。思うところは色々あるものの最終的には好印象、楽しい舞台でした。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

http://concertdiary.blog118.fc2.com/tb.php/2189-de89493e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

«  | HOME |  »

Since
September 13, 2007

これまでの来訪者数

最近の記事

カテゴリー

全記事表示

全ての記事を表示する

RSSフィード

ブログ内検索

プロフィール

リンク

News   

雑誌 モーストリー・クラシック に連載中
「東条碩夫の音楽巡礼記」