2017-06

2015・6・13(土)テミルカーノフ指揮読響のショスタコーヴィチ10番

    東京芸術劇場  2時

 読売日本交響楽団の名誉指揮者に推されたユーリ・テミルカーノフ、今回の客演の最終公演はプロコフィエフの「ピアノ協奏曲第3番」とショスタコーヴィチの「交響曲第10番」。

 前半はプロコフィエフ。ソリストのデニス・マツーエフの爆演が壮烈を極めた。昔よりもさらに一段と凄みを増したかもしれない。この「3番」ではこのところ、やや透明気味のスタイルの演奏を聴くことが多かったから、こういう巨熊のような豪演に接すると、何か胸のすくような思いになる。
 テミルカーノフが指揮する読響もまた濃い演奏で、特にフィナーレの結尾めざして追い上げて行く個所では、ただリズムだけでたたみ込んで行くのではなく、管楽器群を強奏させ、一種の音響の坩堝をつくり出したが、これはすこぶる迫力充分であった。鮮やかなものである。

 最後の和音を猛然とたたきつけるが早いか立ち上がってしまったマツーエフ。巨躯で舞台を圧しつつ答礼し、あっという間にアンコールを2曲も弾く。シベリウスの「練習曲作品76の2」とスクリャービンの「練習曲作品8の12」。後者は、かのラザール・ベルマンをもしのぐ豪壮猛烈な演奏だった。ピアノが小さく見える。

 後半はショスタコーヴィチ。昨夜「8番」の豪演を聴いたばかりなのに、今日も「10番」の快演を聴くことができるとは、有り難いものだ。
 私としては、ショスタコーヴィチはとりわけご贔屓という作曲家ではないのだが、こういった重量感あふれるサウンドで演奏された時には、快く聴きつつ、彼の生涯や音楽についてさまざまな思いをめぐらすことができるというものである。

 それにしても、テミルカーノフが最小限の身振りでオーケストラを自在に制御して行くさまは、見事の一語に尽きる。第1楽章での大きな起伏、第2楽章での目まぐるしい突進。
 この第2楽章がスターリンの暴虐を表わすとか何とかいうヴォルコフ的な解釈はナンセンスだが、今日のテミルカーノフの指揮による激しい演奏を聴いていると、なるほどそういう「連想」も時にあり得るのかもしれないな、と一瞬思わされたほどである。

 ショスタコーヴィチ自身の私小説的な内容を持った後半2楽章も、緻密な構築による演奏だった。ただ欲を言えば、幕切れでティンパニだけでなく他の声部にも現われる「D-Es-C-H」(ドミトリー・ショスタコーヴィチの名のモノグラム)が、もう少し明確に浮き彫りにされれば・・・・と思ったのだが。

 読響(コンマスは小森谷巧)は、見事に「復活」していた。先日のマーラーの「3番」での不満は、これで完全に「帳消し」だ。アンコールは、この指揮者の十八番であるエルガーの「ニムロッド」。
 私の方も休憩時間にはなぜか体調がおかしくなり、貧血気味になっていたのだが、演奏を聴き終った頃にはすっきりと治っていた。

コメント

テミルカーノフと云う指揮者、サンクトペテルブルグフィルでロシアも含めて5回ほど聴いているがどうもつかみにくい指揮者である。聞いた後あまり印象が残りにくい、それに関西ではチャイコフスキーばかり。2006年ロシアでショスタコ5.6.13、ミケランジェロ組曲をきいたのだが。
彼は楽譜を半分横目で見ながらの指揮振りがどうも気になる。アンコールのエルガー「ニムロッド」だけはいつもの曲でこれは珍しく暗譜である。東京ではマーラーやショスタコ10番をやっているのがうらやましい。地盤沈下の関西でもかれの真価を聴きたいものだ。

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